「近江令」の史料根拠と正木説
「近江令」については一元史観内でも、存在説・非存在説がありますが、存在説の史料根拠は『藤氏家伝』に見える「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668)に律令を編纂した」という記事と、『弘仁格式』序に見える「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷の令』である」という記事です。いずれも後代史料であり、より成立年代が近江朝の時代に近い『日本書紀』に「近江令」記事が見えないということが、非存在説の根拠となっています。いずれの主張もそれなりの根拠があり、論争に決着が付かないのも頷けるところです。
ところが、この史料状況を正木説(天智・大友による九州王朝系「近江朝」)という視点から見ますと、『日本書紀』の編纂方針として九州王朝の存在を隠す、あるいは盗用し近畿天皇家のこととするという姿勢ですから、近江朝年号の「中元」「果安」は隠し、「近江令」も隠したと考え、だから『日本書紀』には記されていないという理由付けを、言って言えないこともありません。他方、「近江令」は実在したのだから、後代史料には「22巻」などと具体的な記事が表れるようになったと考えることもできそうです。
ただこの場合、それならなぜ九州年号の「大化」「白雉」「朱鳥」が『日本書紀』に記されているのかという説明が別途必要となります。いずれにしても、この問題の説明は一筋縄ではいかないようです。(つづく)