前期難波宮「内裏」の新説
『大阪歴史博物館研究紀要 第14号』(平成28年3月)に収録されている佐藤隆さんの論文「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」を読みました。前期難波宮九州王朝副都説を唱えているわたしにとって、前期難波宮遺跡の北側にある大阪城の場所には前期難波宮時代に何があったのだろうかという疑問を永く持ち続けていましたので、強い関心を持って読みました。
大阪城一帯が特別史跡に指定されているため、その下層の発掘調査はほとんど報告がなく、この佐藤論文は貴重です。須恵器杯Bの編年など、興味深い問題も記されているのですが、わたしがもっとも驚いたのが、現在の大阪城南部の本丸および二の丸から大手門に至る地域から、7世紀中頃の土器が出土したことなどを根拠に、その付近に前期難波宮の「内裏」があったのではないかとの新説を出されていることでした。掲載された図面によれば、その「内裏推定域」の位置は前期難波宮の北東にあたり、前期難波宮の中心軸からは200〜300mほど東にずれているのです。
わたしは何となく、古代王都においては朝堂院の真北に内裏は位置すると考えていたのですが、今回の佐藤説に触れて、このような考え方もあるのだと驚いたのです。もちろん、それは佐藤さんの推定に過ぎませんが、わたしはあることを思い出しました。それは太宰府政庁2期の内裏(字、大裏)についてです。
太宰府政庁の北側の遺構の規模は小さく、その後背地もそれほど広くないことから、本当にこんな狭い場所で九州王朝の天子(薩夜麻)は生活していたのだろうかと疑問視する声もあったからです(伊東義彰さんの意見)。ところが、太宰府政庁の北西に位置する「政庁後背地区」にも遺跡があり、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されています。それで、ここに内裏があったのではないかと考えていましたので、九州王朝王都にも朝堂院の真北に内裏が無いケースがあったことになり、前期難波宮の内裏も同様に朝堂院からずれていても問題ないと考えることができるのです(「洛中洛外日記」第982話 2015/06/16 大宰府政庁遺構の字地名「大裏」 をご参照ください)。
佐藤さんの前期難波宮「内裏推定域」説が妥当かどうかは、今後の考古学的調査を待たなければなりませんが、広さやその位置が上町台地最高所であることなどから考えると、有力説ではないかと思えるのです。