九州王朝説に突き刺さった三本の矢(9)
わたしが「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する、前期難波宮九州王朝副都説を唱えて大和朝廷一元論との「他流試合」に挑み、古田学派の中では「古田先生と異なる意見を述べるのはけしからん」という「批判」を浴びながら孤軍奮闘していたとき、「古田史学の会」関西例会でわたしの説を支持する研究が発表され始めました。
まず最初に紹介するのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による九州年号史料『伊予三島縁起』に記されている「番匠の初め」記事の「発見」です。九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には九州年号の端政・金光・常色・白雉・大長などが用いられており、その内容から九州王朝系史料であることは疑えません。記事中には九州王朝の事績とみられるものが少なくありませんが、正木さんは次の記事に注目されました。
「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」
「孝徳天皇のとき、番匠がはじまる。常色二年戊申(648)に日本国を御巡礼される。
という記事です。この「番匠」とは『広辞苑』によれば、「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工(もく)寮で労務に服した木工。」とあります。『日本書紀』孝徳紀には見えない記事ですから、九州王朝が常色二年(648)頃に各地から番匠を集め、大規模な土木工事を行った記事と考えられます。前期難波宮の完成が九州年号の白雉元年(652)ですから、まさに常色二年(648)はその四年前に当たり、前期難波宮造営のための番匠として時期的に見事に一致します。九州年号で記された『伊予三島縁起』中の記事ですから、まさに九州王朝が前期難波宮を造営したとする、わたしの前期難波宮九州王朝副都説を支持する記事だったのです。『伊予三島縁起』を九州年号研究のため、わたしはこれまで何度も読んでいたのですが、この「番匠」記事の意味に気づきませんでした。
正木さんの見解では、常色二年に九州王朝の天子(正木説によれば伊勢王)が前期難波宮造営のための筑紫の番匠を伴って、更に評制施行のために天下を巡行し、その途中に伊予に寄ったものとされました。前期難波宮から出土した「戊申年木簡」も、常色二年戊申の天下巡行と関係があるのではないかと、正木さんは考えておられます。わたしも両者の「戊申(648年)」は偶然の一致とは思えません。なお、この正木さんの研究は「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号、2008年4月8日。「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に収録)として発表されていますので、是非ご参照ください。とても刺激的な論文で、「番匠」問題以外にも重要な仮説や発見が記されています。(つづく)