「蝦夷国」を考究する(10)
―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―
考古学の分野から蝦夷国を見たとき、多賀城とともに最も注目されるのが郡山遺跡(仙台市)です。旧名取郡域に相当する仙台市南部から出土した同遺跡は、七世紀中頃から八世紀初頭までの短期間存続したとみられ、古いⅠ期官衙と七世紀末に立て替えられたⅡ期官衙と寺院に分けられます。文献には見えないことから、その性格については名取柵・名取郡衙・陸奥国衙など諸説あるようです。
Ⅰ期の遺構は官舎や倉庫とそれを囲む塀などからなっており、外郭は不明とのこと。その建物の向きは真北から30度ほど東偏しています。Ⅱ期官衙はほぼ正方形地割で南北正方位にあわせて立てられています。その南には寺院跡があり、官衙と寺院がセットになっているという、東北地方の柵の一般的傾向と同じです。しかし、外郭は直径30cmほどのクリ材の約6,000本の丸太を隙間無く一列に立て並べた塀で、地上7~8mの高さであったと推定されています(注①)。
この郡山遺跡をわたしが注目した理由は次の点です。
(1)七世紀中頃から八世紀初頭の遺跡であり、九州王朝の時代に遡るものである。
(2)その時代での東北地方の他の柵よりも規模が大きく、蝦夷国を代表する官衙にふさわしい。
(3)それにもかかわらず、大和朝廷側の史書『日本書紀』や『続日本紀』に記されていない遺跡である。蝦夷国の存在を『日本書紀』『続日本紀』が隠していることに対応している。
(4)九州王朝から大和朝廷への王朝交代の直前にあたる七世紀末頃に、Ⅰ期官衙は正方位のⅡ期官衙に建て替えられ、高さ7~8mの頑強な丸太塀に囲まれている。すなわち、何らかの必要が発生し、防衛力を強化したと考えられる。このことは、八世紀に入ると蝦夷国が大和朝廷の東山道軍・東海道軍の侵攻(注②)を受けていることと無関係ではないように思われる。
(5)Ⅱ期官衙の南に寺院が併設されている。多量の瓦片や「学生寺」と書かれた木簡が当遺跡から出土している。出土した寺院様式は観世音寺式(注③)とされており、九州王朝との主従関係をうかがわせる。
以上のような理由から、わたしは郡山遺跡は蝦夷国衙ではないかと考えています。なかでも、(5)で指摘した寺院様式が観世音寺式であることは示唆的です。というのも、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(注④)によれば、古代における「鎮護国家の観世音寺式伽藍配置」の寺院が日本列島に12箇所発見されており、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっているとされています。九州王朝の都城である大宰府政庁・観世音寺と同様に、郡山遺跡も蝦夷国における「鎮護国家の伽藍配置」(注⑤)寺院を持つ国衙だったのではないでしょうか。(つづく)
(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②多賀城碑には、神龜元年(724年)に「按察使兼鎭守將軍」の大野朝臣東人が多賀城(多賀柵)を置き、天平寶字六年(762年)には「東海東山節度使」「按察使兼鎭守將軍」の藤原朝獦が修造したとある。
③回廊内に金堂(西側)と五重塔(東側)が東西に並ぶ様式。
④貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
⑤「鎮護国家の伽藍配置」について、次の拙稿があるので参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1178話(2016/05/01)〝観世音寺式寺院の意義に新説か〟
古賀達也「洛中洛外日記」1179話(2016/05/03)〝観世音寺の創建年と瓦の相対編年〟
古賀達也「洛中洛外日記」1182話(2016/05/05)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)〟
古賀達也「洛中洛外日記」1186話(2016/05/13)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)〟