「邪馬台国」畿内説の論理(2)
安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)からご説明いただいた、次の「邪馬台国」畿内説支持の考古学者の論理のうち、わたしが賛成できるのは④だけですが、最も強力な論点①について、もう少し詳しく説明します。
①3世紀中頃の箸墓古墳などの初期前方後円墳が畿内で発生しており、このことは日本列島内で最大級の王権がこの地に存在したことを示している。(考古学的実証)
②当時の列島内の代表的権力者は、文献では「邪馬台国」である。(文献史学的実証)
③したがって畿内の王権に対応する文献的痕跡は「邪馬台国」である。すなわち、畿内説は文献と考古学とが対応して成立している。(考古学〔出土事実〕と史料〔伝承〕が一致。すなわち「シュリーマンの法則」が成立)
④ただし学問の性格上、考古学だけでは畿内の王権が誰であったかは判明しない。
①の主張はただ単に箸墓古墳の被葬者を卑弥呼か壹与とするにとどまらず、畿内で発生した前方後円墳が全国に伝播したと理解し、この現象を大和朝廷による全国支配の痕跡と見なす一元史観の考古学的根拠とされています。特に河内の巨大前方後円墳の出現こそ、大和朝廷が日本列島の代表王朝であったとする根拠とされていることは、「九州王朝説に刺さった三本の矢」でも指摘してきたところです。
この論理性によれは、仮に「邪馬台国」が北部九州にあったと、文献史学の成果(倭人伝の史料批判)を根拠に考古学者たちが認めたとしても、畿内で誕生した「大和朝廷」の祖先たちが巨大前方後円墳を造営し、後に全国制覇したとする一元史観は成立します。列島内最大規模で多数の前方後円墳が大和や河内に厳然と存在するという考古学的事実とそれに基づく「戦後実証史学」が強固な「岩盤規制」となって、わたしたち古田学派の前に立ちはだかっているという現実は認めざるを得ないのです。(つづく)