「 2005年06月 」一覧

第7話 2005/06/28

祇園祭と船越

 わたしは勤務先へ自転車で通っている「チャリ通族」です。夏場は暑くて大変ですが、それでも祇園祭が近づくとウキウキしてきます。と言うのも、自宅の上京区から会社のある南区までの道に、山鉾が立つからです。いつもは油小路通を走りますが、その間、山鉾が二つ立ちます。別の道、例えば室町通や新町通を利用すると、更に多くの鉾を見ることができます。祭の一週間ほど前から組立が始まり、三日ほど前には飾り付けも終わり、ほぼ完成します。こうした組立の様子やお囃子の練習などを朝夕の通勤時に見ることができるのですから、京都ならではのうらやましい自転車通勤かもしれません。
 この祇園祭の山鉾ですが、その淵源は古代まで遡るのではないか。山鉾や博多山笠の「山」は邪馬壹国のヤマと何か関係はないか、と以前から思っていたのですが、山鉾は古代の「船越」の様子を表現したものとする説が、最近出されました。
 ホームページ「有明海・諫早湾干拓リポートIII」に掲載された古川清久さんの論文「船越」に次のように述べられています。
 「全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で“船越”を行なっていた時代からの伝承ではないか」※「古田史学会報」No.  68に転載。
 そう言えば、松本市の須々岐水神社のお祭り「お船祭り」では、「お船」と呼ばれる山車が繰り出されますが、これなど「船越」そのもの。古川さんの新説は意外と正解かもしれませんね。


第6話 2005/06/24

中嶋嶺雄さんと古田先生

 一昨年、松本市へ講演に呼んでいただいた時、前日に市内を案内していただけることになりました。そこで私は松本深志高校の見学を希望し、古い校舎の中まで案内していただきました。同校は戦後間もなく古田先生が教鞭を執られた学校です。青年教師、古田先生と最年長の教え子とでは3歳しか歳が違わなかったそうです。 私が訪れた時、ちょうど松本深志高校では学園祭「とんぼ祭」が近づいており、生徒さんたちが教室で準備に追われていました。
 このとんぼ祭で思い出されるのが、教え子のお一人である中嶋嶺雄さん(大学セミナーハウス理事長・国際教養大学学長・東京外国語大学前学長)による次の回想です。

「とんぼ祭といえば高校2年の時の社会科学研究会の展示を思い出す。1954年のこと、風潮として高校生の社研といってもみんなマルクス・ボーイ。ソ連を礼賛し、人類の救済はモスクワから来るといった観の展示がしてあった。 そこへ国語と日本史担当の古田武彦先生が入ってきて、『この展示はおかしい。ソ連の社会主義がそんなにバラ色かどうかはスターリンの死後、銃殺されたベリアの事件でも明らかではないか』と問いかけたのである。生徒たちは古田先生のプチ・ブル性を激しく批判した。すると先生は床に車座になって、理路整然と生徒たちと語りはじめた。

 今日では日本古代史の権威になられた先生の立派な姿は、後の大学紛争に身を置かねばならなかった時、どこかで思い出を重ねていたように思う。」 古田先生は青年の頃から熱血漢だったんだと、思わず納得してしまうエピソードではないでしょうか。


第5話 2005/06/23

銅鐸と『邪馬台国』

 来る7月10日(日)、わたしは長野県松本市で講演します。「古田史学の会・まつもと」からの招請によるもので、演題は「神々の亡命地・信州─古代文明の衝突と興亡─」です。当地には松本深志高校時代の古田先生の教え子さん達が大勢おられ、いつも以上に緊張してしまう所です。「教え子」といっても、皆さん私よりも大先輩で、そんな大先輩を前に講演するのですから、恐縮至極。
 今回の講演でも、「信州についても触れて欲しい」との要請があったので、現在、信州の古代史について猛勉強中です。主には古代神話や説話と銅鐸出土分布との関連についてお話しさせていただく予定です。そこで今回改めて銅鐸について勉強したのですが、大和(奈良県)は全銅鐸文明期間において一度も銅鐸の中心分布に位置したことがないのですね。この事実は良く知られていますが、考えてみるとこれは「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)論争にとって決定的な考古学的事実ではないでしょうか。近畿・東海などにおける弥生時代を代表する遺物「銅鐸」の出土が多くない大和に倭国の中心国家が存在したとは、人間の平明な理性では、ちょっと言えないと思います。「邪馬台国」畿内説の人達はこれをどう説明できるのでしょうか。他人ごとながら思わず同情してしまいました。
 もちろん、「共同体の祭器銅鐸が統一国家の出現により捨てられた」等々、様々な「屁理屈」(失礼)がこねられているわけですが、だったら統一国家のシンボルとして、弥生時代の大和から、他地域を圧倒するような遺物が出土しているのか、という質問にはどう答えられるのでしょうか。わたしは、この疑問を松本での講演会で話してみようと考えています。大先輩達の胸を借りて、銅鐸分布が示す古代の真実に挑戦です。


第4話 2005/06/18

古田先生の福音書研究

原初的宗教の資料批判 ーートマス福音書と大乗仏教『古代に真実を求めて』第八集

 前話で古田先生が「トマスの福音書」研究のためにコプト語を勉強されていることをご紹介しました。日本古代史や親鸞研究で著名な古田先生が、なぜ急にイエスや福音書研究を始められたのか不思議に思われる人もあるかもしれません。実は、古田先生にとって福音書研究は50年来の課題だったのです。
 1954年、古田先生は「親鸞の歴史的個性の比較史学的考察─対権力者観におけるイエスとの対照─」という論文を書いておられます。それには親鸞とイエスの原初的宗教姓について比較論及し、「社会的背景の著しい差異にもかかわらぬ、いわば『革命的民主的』性格の共有が見られねばならぬ。それぞれの社会的条件の差異に応じたさまざまの曲解や偏曲、さらには衣を新たにした権力者の聖化がそれらの原初的宗教姓を変容せしめてゆくであろうけれども。」と結ばれています。
 そして、1975年に書かれたこの論文の〈補記〉には次のように記されています。
「今のわたしにとってこの論文は『方法上の不満』を蔵している。ここで『ギリシャ語原文』として引用したものは、たかだか活字化されたギリシヤ語本テキスト(ドイツ、シュトットガルト)版にすぎぬ。けれども方法上は当然、本源の最初の古写本にさかのぼり、その紙質や原筆跡の科学的検証がきびしく行われねばならぬ。それによって、右のテキストの信憑性を検証しうるであろう。さらに、イエス伝自体の内包する原資料群の根本的な追跡も、あるいは可能となりうるであろう。」
 と方法上の不満を示され、次のように真情を吐露されています。
「けれども、日本の片隅に住む一介の研究者たるわたしにとって、それはとうてい不可能であった。そこでその可能な場として『親鸞研究の領域』がわたしの眼前に大きく映じてきたのである。」
 1954年といえば、古田先生28才の時。海外になど簡単には行けなかった時代です。青年の日の学問的情熱を今もって燃やし続け、コプト語を若い大学生と机を並べて学ばれている古田先生の姿に、わたしは驚愕せずにはいられないのです。
 なお、「親鸞の歴史的個性の比較史学的考察─対権力者観におけるイエスとの対照─」は『親鸞思想』(冨山房刊。後に明石書店より復刻)に収録されています。

参考
古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想


第3話 2005/06/16

マリアの秘密

 近年、古田先生はナグ・ハマディ文書にある「トマスの福音書」研究に打ち込んでおられます。古代エジプト語のコプト語をマスターするために、某大学のコプト語講座を受講されているほどだから、その取り組み方や尋常ではありません。来年、80才になられるというのに、学問的情熱は衰えを知らない。本当に頭が下がります。
 そんな先生の影響で、「古田史学の会」関西例会でもイエスやキリスト教をテーマとする発表が増えてきました。中でも、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人・向日市在住)が発表された「『マリア』の史料批判」(『古代に真実を求めて』8集所収。2005年、明石書店刊。初出「古田史学会報」62号)は歴史に残る秀逸な論文ではないでしょうか。
 新約聖書には聖母マリアを筆頭にイエスの周辺にマリアの名前を持つ女性が数人います。これまでは、マリアという名前は日本の花子さんなどと同様にありふれた名前だから、イエスの周辺にも多くいる、と説明されてきました。しかし、それは本当でしょうか。当時マリアはそれほどありふれた名前だったのでしょうか。ここに西村さんは疑問を抱かれました。そして、ありふれた名前かどうかを調べるために、なんと旧約聖書に出てくる全ての女性の名前を抜き出されたのです。
 その結果、旧約聖書中の女性126名の内、マリア(ミリアム)はたった一人だけ。マリアは決してありふれた名前ではなかったのです。それではなぜイエスの周りにだけ多くのマリア(4〜5名)が集まったのか。その秘密は論文をお読み下さい。
 わたしが最も感心したのは、西村さんの結論だけではなく、旧約聖書の中の女性名を全て調べるという「方法」でした。古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で、『三国志』の中の「壹」と「臺」の字を全て抜き出された、あの「方法」を髣髴とさせます。これこそ、古田学派の面目躍如。お見事、と言うほかありません。

マリアの史料批判(古田史学会報No.62 2004年6月1日)

原初的宗教の資料批判――トマス福音書と大乗仏教 古田武彦
(『古代に真実を求めて』第八集)


第2話 2005/06/13

和田家文書に使用された美濃紙追跡調査

 昨日は大阪で「古田史学の会」の会員総会と、それに先だって講演会を開催しました。遠くは九州や四国、山陰、関東からもお越し頂き、ありがとうございました。
 講演会では、竹内強さん(古田史学の会会員・岐阜市在住)の「和田家文書に使用された美濃紙追跡調査」がスリリングで圧巻でした。和田家文書に使用された美濃紙に押印された紙問屋の屋号や商標を手掛かりに、岐阜市内の紙問屋街の全戸調査を行ったり、紙の史料館や図書館での調査など、何度も壁に突き当たりながらも、ついにその紙が明治30年から40年の間に製造販売されたことを突き止められたくだりは、思わず拍手喝采したくなるほど興奮しました。
 九年前、わたしが和田家文書調査のため北海道松前町を訪れ、当地の歴史研究者永田富智氏(北海道史編纂委員)に聞き取り調査を行ったとき、永田氏は昭和46年に『東日流外三郡誌』二百〜三百冊を見たと証言され、使用されていた紙は明治の末頃に流行りだした機械織りの和紙とのことでした。この永田証言と今回の竹内さんの調査結果とが見事に一致したのです
永田証言は「古田史学会報」16号と『新・古代学』第4集に掲載しています)。
 「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季)を実践された竹内さんの見事な調査報告でした。

他の証言は古田史学会報 をご覧ください。
「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて
  「 平 成 ・ 諸 翁 聞 取 帳 」 東  北 ・ 北 海 道 巡 脚 編 も参照。
 当事者の発言はー津軽を論ず ーを御参照ください.


第1話 2005/06/11

「井真成(いのまなり)異見」

 古田史学の会事務局長の古賀達也です。いつも本会のホームページ「新・古代学の扉」を御覧いただき、有り難うございます。皆様のご愛顧に感謝しまして、新コーナー「古賀事務局長の洛中洛外日記」を連載することにしました。古田史学の会や古田学派内部のホットな話題、古田武彦先生の近況などを書き込んでいきます。ご期待下さい。
 第一話は最近何かと話題になっている「井真成(いのまなり)」についてです。中国で発見された墓誌により「井」さんが遣唐使として中国に渡り、当地で没したことが明らかになったのですが、藤井さんとか○井さんとかが日本名の候補として上げられているようです。他方、「井」という姓が日本に存在することから、文字通り「井(せい)」さんではないかという異見も出されています。古田先生もこの「井」という姓に注目されています。
 電話帳で調べた結果では、熊本県に圧倒的に濃密分布しています。中でも産山村・南小国町・一ノ宮町が濃密です。この分布事実は九州王朝説の立場からも大変注目されるところです。なお、井真成墓誌の読解について古田先生が新説を口頭発表されています(2005年5月22日、東京)。いずれ活字化されると思います。乞うご期待。
 「井」姓の分布表を掲載