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第242話 2010/01/31

太宰府と前期難波宮

フレーム版 古賀達也の洛中洛外日記へリンクしました。

 2月27日、東京で講演しました(多元的古代研究会主催・文京区民センター)。「太宰府と前期難波宮 ーー九州年号と考古学による九州王朝 史復原の研究」というテーマで、7世紀段階の九州王朝研究の成果をまとめた内容です。更には関西例会で報告された各氏の説も紹介させていただきます。これを期に、関西と関東の研究交流が進むことを願っています。
 講演内容の項目は次の通りです。関東の皆さんのご参加をお待ちしております。

太宰府と前期難波宮
九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究
2010/02/27
古賀達也
1.白雉改元と前期難波宮
  1).大和朝廷王宮編年の矛盾
  2).『日本書紀』白雉改元記事の2年移動 652年→650年
  3).史料と考古学の一致 「天下立評」「律令体制」と7世紀中頃の「朝堂院」
2.九州年号と遷都遷宮
【資料】正木 裕 九州王朝の改元と『書紀』等の遷都遷宮関連記事の対応
      2009/11/21 古田史学の会・関西例会
3.前期難波宮の土器
【資料】寺井 誠 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
     『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会
4.前期難波宮と藤原宮木簡
【資料】田中 卓 「古事記における国名とその表記」
     『古典籍と資料 田中卓著作集10』国書刊行会 平成5年
5.太宰府条坊と政庁
【資料】井上信正 「大宰府条坊区画の成立」
     『考古学ジャーナル』No.588 平成21年7月号
6.九州王朝王宮・王都の変遷
  古賀旧説:太宰府政庁第II期(条坊都市・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)
  古賀新説:太宰府条坊(通古賀王城宮・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)→太宰府政庁第II期(条坊拡張)
7.「白雉二年九月吉日」奉納面の発見(西条市丹原町福岡八幡神社蔵)
  【資料】大下隆司 「白雉二年銘奉納面」について 
     2009/08/15 古田史学の会・関西例会
8.九州王朝王族の探索
【資料】西村秀己 「橘諸兄・考」 2009/12/19 古田史学の会・関西例会


第241話 2010/01/23

謡曲と九州王朝

 新年最初の関西例会では、正木さんから能楽・謡曲の中に九州王朝の痕跡が見えることなどが報告されました。謡曲と九州王朝の関係については、新庄智恵子さんによる先駆的な研究(『謡曲のなかの九州王朝』新泉社刊、2004年)がありますが、新庄さん同様に能楽・謡曲に詳しい正木さんから、より周密な研究報告が関西例会でなされてきました。
 特に今回の発表で驚いたのが、謡曲「白楽天」に見える国名表記で、「日本」と「和国」が混在しており、「和国」の部分が見事な七五調となっており、明らかに別史料からの転用と思われることでした。おそらく「和国」とは九州王朝「倭国」が原形で、この部分は九州王朝歌謡に淵源するものではないでしょうか。
 謡曲と九州王朝、あるいは古典文学と九州王朝の研究は、九州王朝歌謡・九州王朝文学の復原という可能性をうかがわせ、楽しみな研究分野です。正木さんの今後の研究成果に期待したいところです。

 1月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 伊予水軍・他(豊中市・木村賢司)

2). 県・県主について(豊中市・木村賢司)

3). 謡曲と九州王朝2(川西市・正木裕)
 謡曲「白楽天」中の「住吉(の神)」について、本来は摂津住吉(の神)ではなく筑紫博多湾岸の「住吉(の神)」である事、また、謡曲「岩船」中の「如意宝珠」伝来の伝承は九州王朝のもので、舞台の「住吉」も博多湾岸である事を示した。
1.「白楽天」は、唐太子の賓客とされる白楽天が日本に渡るが、住吉神に唐土に吹き戻される能。渡った先は「筑紫の海」で、舞台は「松浦潟」の海上。そこに「西の海、檍が原の波間より、住吉の神」が現われ出るのであり、これは一義的に筑紫の事と考えるべき。この点、福岡には住吉神社が多数存在し、中でも姪浜住吉神社は、古田氏が伊邪那岐の禊場所とされる「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」の「小戸」付近にあった(現在は少し内陸部に移転)もので、「檍が原の波間より」の句に一致する。
 また「高砂」では住吉神を神松とし、「生の松」を名所と謡うが、姪浜住吉神社は「生の松原」に隣接し、神功皇后の植えたという「逆松(生松)」も同松原に存在した。博多区の住吉神社や福岡城にも神松の伝承があり、大宰府が舞台の謡曲「老松」も神松が主役等、博多湾岸には神松伝承が集中する。
 「白楽天」の住吉神は筑紫住吉の神で、曲の句(檍が原)と国産み神話が一致する事や神松伝承から、その由来は摂津住吉より遥かに古く、本来の住吉の神は筑紫の神だったと考える。

2.「岩船」の舞台は「摂津国住吉の浦」。しかし曲中天の探女が「如意宝珠」を帝に捧げる為に来たとあるが、如意宝珠は『隋書イ妥国伝』に「如意宝珠有り。其の色青く、大なること鶏卵の如し。夜則ち光有り、魚の眼精也と云ふ。」と阿蘇山と並び記される通りイ妥国=九州王朝の象徴である。
 また、帝は住吉に高麗・唐土と貿易を始める為市を設けると言い、曲中に「運ぶ宝や高麗百済。唐土舟も西の海」とあるが、『隋書』で「新羅、百濟皆イ妥を大国で珍物多しとし、敬仰し常に通使往来す」とされ、『魏志倭人伝』で、対海国(対馬)では「船に乗り南北の市に糴(交易)す」と、九州北岸と半島の「市」間の活発な交易を記す通り、高麗百済との交易拠点も「イ妥国=九州」だった。
 また、「西の海。檍が原の波間より。現はれ出でし住吉の。」と住吉神が謡われ、住吉の松も「宮柱」と讃えられるのは「白楽天」同様である事からも、この住吉も筑紫と考えられる。
 なお宇佐八幡宮文書中に、「筑紫の教到四年(五三四)」に天竺摩訶陀国より如意珠が渡来したとあり(古賀氏の発見・洛中洛外日記第一七四話)、これも岩船の原典が筑紫で、相当古い事を示すものだ。
 また、現在姪浜住吉神社に、豊漁や航海安全を祈願し、木製の玉を激しく奪い合う「玉競(たませせり)祭」が伝わるが、これは住吉の如意宝珠伝承とも関連するものではないか。

4). 「薬猟」の虚構(川西市・正木裕)
 『書紀』推古紀等には「五月五日の薬猟」が五回記述される。この内、推古十九年記事の薬猟における額田部比羅夫連等の先導や装束の記述部分は、その直前の推古十八年の新羅・任那使人の歓送迎記事からの盗用である事、薬猟は『書紀』の記述の様な煌びやかなものでも、重要な行事でもなかったことを「万葉三千八百八十五番歌」や、隋使歓迎記事等での額田部比羅夫の役割から明らかにした。
また薬猟記事に日の干支が無いのは、推古十八年十月の記事を盗用すれば推古十九年五月五日の干支と合わないことが主たる原因であり、この記事が『書紀』編纂において、干支の調整を済ませてからの盗用であることを示すものと考えられる。盗用の動機について、古田氏が指摘する「白村江直前の猟における九州王朝の大王の不慮の死」を隠すためではないか、との仮説を提示した。

4). 倭人伝の地名比定とその領域(豊中市・大下隆司)

5). 魏志は「漢音」で読むべきだ(富田林市・内倉武久)

5). 巨大古墳の環境破壊に伴う九州王朝の関西進出(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・初詣、矢田坐久志玉比古神社・他(奈良市・水野孝夫)

試みに、連携として正木氏の例会報告を掲載致します。通常は4).のように四〇〇字以内で収録の予定。


第240話 2010/01/11

2010年も古代に真実を求めて

 明けましておめでとうございます。2010年も古代に真実を求めて頑張りたいと思います。
 昨日は古田先生をお迎えして「古田史学の会・新年賀詞交換会」を大阪で開催しました。古田史学の会・仙台の青田さんや古田史学の会・東海の竹内さん林さん、古田史学の会・四国の合田さん等、各地から多数の会員にお越し頂き、旧交を温めました。古田先生も変わらずお元気で約3時間にわたり熱弁をふるわれました。これからも先生のご長寿と研究の発展を祈念し、古田史学の会としても総力をあげて支援していきたいと考えています。
 2009年の関西例会で発表された研究において、7世紀の九州王朝史復原や大和朝廷との権力交代の実態について、激しい論争を通じて検討が深められたように思われます。昨年12月の関西例会においても、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人・会計)からの、大和朝廷で左大臣まで上り詰めた橘諸兄が九州王朝王族の子孫だったという発表は衝撃的でした。その論証の詳細は『古田史学会報』96号に掲載されますので、ご参照下さい。
 もしこの西村説が正しければ、九州王朝の有力者が少なからず大和朝廷の高級官僚になっていたことが推察され、王朝交代の実態が禅譲なのか放伐なのかという、古田学派内での永年の論争テーマの解決に寄与できるかもしれません。いずれにしても、2010年の関西例会での研究の深化を予感させる仮説です。
 12月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 京都「泉屋博古館」を見学・他(豊中市・木村賢司)

2). 橘諸兄・考(向日市・西村秀己)

3). 古田武彦・第6回古代史セミナー報告(豊中市・大下隆司)

4). 天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)
 天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。
 一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。
 そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。
 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか

5). ホンマかいな?奈良の邪馬台国(木津川市・竹村順弘)

6). おシャカさんはなぜ死んだか(生駒市・五十嵐修)

7). 能楽と九州王朝(川西市・正木裕)
 十四世紀に観阿弥・世阿弥が大成した能楽の中に、九州王朝の芸能が取り込まれている事を謡曲「綾鼓」や「芦刈」より検証した。
 1.「綾鼓」は、世阿弥の書から古伝もとづく作品とされているが、斉明の「忌み殿」であるはずの筑紫朝倉木の丸殿に皇居があり、臣下・女御がいたとするなどの不自然さが見られる。
 一方、木の丸殿の北「麻底良山」には、古田武彦氏が九州王朝の天子筑紫君薩夜麻とされる「明日香皇子」が祀られ、南には古賀氏が九州王朝の天子とされる「天の長者」が造った「天の一朝堀」(『書紀』では斉明が「狂心の渠」を造ったとある)、東には「久喜宮」「杷木神護石」がある等から「綾鼓」は筑紫を舞台とした演芸を、原典を生かして世阿弥が再構成したものと考えられる。
 2.「芦刈」も、古い能をもとにして世阿弥が今の形に作ったと考えられているが、シテ(主人公)が活躍する「日下」は内陸部の「河内」に属し、難波の浦の景色は望めないのに、曲では「摂津」難波が舞台とされ海辺の秀でた情景がテーマとなる等、曲の内容と場所に矛盾がある。
 一方で、博多湾岸には草香(草香江)があり海浜の情景描写に適合し、曲中の聞かせ所・見せ所の「笠の段」に謡われ・舞われる「笠尽くし」も摂津難波では「笠」の意味が不明だが、博多湾近郊には御笠、御笠川、御笠山などの「笠」地名と謂れ・伝承が集中する。同じく「笠の段」中の「田蓑島」も、博多湾岸の草香江付近には「田島」「蓑島」が存在する。 「笠の段」は「博多湾岸」の名所を歌ったものとして極めて自然であり、筑紫を舞台とした原曲を分解しその一部を取り込み、舞台・場所や人物を変え世阿弥が再構成したものと考えられる。
 以上「綾鼓」や「芦刈」の原典は九州王朝の曲・演芸であり、これを中世に観阿弥・世阿弥らが再構成したもので、こうした手法は他の能楽「老松・檜垣・布刈・高砂・難波・竜田・磐船他」にも見られると考えられる。

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)

2010.1.16 試みに、正木氏の例会報告を掲載。