「 2013年07月 」一覧

第575話 2013/07/28

白雉改元「小郡宮」説

 わたしはこれまで、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、その時期は九州年号の白雉元年(652)であることを論証してきました。そのキーポイントは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)の白雉改元記事は、九州年号の白雉元年二月(652)に行われた 行事の白雉年号ごと二年ずらしての盗用であることを明らかにしたことです(宮殿完成記事は652年九月条)。
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤 海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。

 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書 紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測 されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117~118頁)

 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。
 そして、『日本書紀』に記されている三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「白雉」のみがその改元の様子が詳細に記されていることから、近畿天皇家が改元儀式に参列し、その様子を見ることができたからこそ、『日本書紀』に記すことができたと思われます。そうすると、孝徳の宮殿と改元の儀式が行われた九州王朝の宮殿は参列可能な程度の近くにあったことになります。この点も、前期難波宮九州王朝副都説でしかうまく説明できない『日本書紀』の史料事実なのです。


第574話 2013/07/27

へんてこな大極殿、エビノコ郭

 吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)の89頁に掲載されている 飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3-B期)の平面図には、いびつな台形の宮殿区画(内郭)の南東に、東西に長い建造物「エビノコ郭」が記されています。このエビノコ 郭も内郭と同様に周囲が塀で囲まれており、その中に飛鳥宮では最大規模の建造物があります。
 このエビノコ郭を『日本書紀』天武紀に見える「大極殿」とする見方が有力となっているようですが、このエビノコ郭を囲む塀も、よく見ると長方形ではなく、内郭と同様に台形です。しかも、その塀の西側部分に門があり、南側には門は発見されていません。
 大極殿の「大極」とは北極星を中心とする星座を意味するとされ、宇宙の中心であり、大極殿も王朝の中心権力者の宮殿にふさわしいものであるはずです。と ころが飛鳥宮のエビノコ郭は飛鳥宮の南東に位置し、しかも南側ではなく、西側に門があるというとてもへんてこな宮殿なのです。しかも平面図は台形です。先 行して造営された前期難波宮や大津宮は宮殿の南側に正門があり、「天子南面」の思想性に基づいているのに、飛鳥宮のこんなへんてこな宮殿が大極殿とはとても思われません。
 このように飛鳥宮やエビノコ郭が日本列島の代表王朝の宮殿としてふさわしくないことは、「一目瞭然」なのです。既に難波には大規模で見事な朝堂院を持つ 前期難波宮があり、天智の時代には同様に立派に大津宮(壬申の乱で焼失)があったにもかかわらず、斉明や天武・持統らの飛鳥宮はやはり見劣りがするので す。こうした宮殿様式の比較からも、前期難波宮九州王朝副都説が有力仮説であることをご理解いただけるのではないでしょうか。


第573話 2013/07/25

いびつな宮殿、飛鳥宮

 今日は初めて福井県鯖江市に宿泊しました。鯖江駅前の案内板には「近松門左衛門の町」と表記されており、鯖江市と近松がどのような関係にあるのか興味を持ちました。京都に帰ったら調べてみようと思います。
 長時間の移動を伴う出張の際には、本を一冊かばんに入れておくのですが、今回の出張のお供は吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・ 渤海』(吉川弘文館、2011年)です。古代都城の変遷や、中国の影響などわかりやすく解説された好著でした。もちろん著者は近畿天皇家一元史観に立って いますので、日本の都城として太宰府などは触れられていませんし、前期難波宮ももちろん孝徳天皇の難波長柄豊碕宮として取り扱われています。そうした「学問的限界」はありますが、参考にはなります。皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書を読んで改めて感じたテーマがあります。同書89頁に掲載されている飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3−B期)の平面図にそれは示されています。数年前に既に 古田史学の会関西例会でも発表したのですが、天武天皇や持統天皇の宮殿と見なされている飛鳥浄御原宮を平面図で見ると、その形が長方形や正方形ではなく、 いびつな台形なのです。
 天武天皇よりも以前に、大規模で見事な左右対称の朝堂や内裏を持つ前期難波宮や大津宮が造営されているのに、その後の飛鳥浄御原宮は平面形がいびつな台形で、建造物の配置も左右対称ではありません。もしこれらの宮殿が同一王朝のものとしたら、この「落差」をどのように説明できるのでしょうか。
 この宮殿の様式の落差は、同一王朝内のものではなく、前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの仮説と整合することがご理解いただけるものと思います。 また、わたしは九州王朝の「近江遷都(白鳳元年)」という仮説も発表していますが、この仮説とも整合する考古学的事実なのです。
 このように前期難波宮九州王朝副都説は文献的史料根拠だけではなく、考古学的事実という根拠も持っているのです。


第572話 2013/07/21

九州王朝の采女制度

 今日は参議院議員選挙の投票日です。わたしは朝に投票を済ませました。投票所の京極小学校は湯川秀樹さんの出身校で、娘 の母校でもあります。投票所では著名な狂言師の茂山千五郎さんを久しぶりにお見かけしました。茂山さんのご自宅屋上にはいつも阪神タイガースの旗が掲げら れており、ご近所でも有名です。
 なお、今回の投票では、わたしは原発問題を主な判断基準にして政党や候補者を選びました。この選挙を通じて、よりよい日本になればと願うばかりです。
 昨日の関西例会には、高松市在住の会員、寺崎さんが初参加されました。また、遠くは多摩市から参加されている齋藤さんからは、「采女」について研究報告 がなされました。近畿天皇家の采女制度は、九州王朝で先行して行われていたとする仮説です。わたしの記憶では、「采女」については古田学派内でもほとんど 研究されてこなかったテーマではないかと思います。これからの展開が期待されます。7月例会の発表は次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
1). 「安帝の鎖」高句麗好太王vs倭王讃(木津川市・竹村順弘)
2). 貴倭国と邪馬たい国(木津川市・竹村順弘)
3). 古代日本の実名敬避俗について(八尾市・服部静尚)
4). 巨大古墳についての一考察(八尾市・服部静尚)
5). 「別」の探求-天孫降臨以前の九州-(姫路市・野田利郎)
6). 采女について(多摩市・齋藤政利)
7). 『粘土に書かれた歴史』を読んで(京都市・岡下秀男)
8). 「常色律令」-『書紀』天武紀の「位冠・律令・法式・礼儀」記事について-(川西市・正木裕)
9). 倭人伝を尊重した末廬国・伊都国・奴国・不彌国の比定(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・ミネルヴァ書房からの古田書籍発刊・八王子セミナーの案内・行基建立の四十九院・文字より数字が先に発明された・『先代旧事本紀大成経』の国生み神話の小豆島・その他


第571話 2013/07/13

桂米團治さんのブログ拝見

 今日、久しぶりに時間ができましたので、ネット検索をしていましたら、落語家の桂米團治さんがブログで、わたしの「天王 寺と四天王寺」(「洛中洛外日記」第250話)に記した、寺名は「四天王寺」なのに地名はなぜ「天王寺」なのかという考察を紹介され、「なるほど!と思い ました」と賛意を表されていることを知りました(2013.02.23)。
 ご存じのように、桂米團治さんは高名な落語家桂米朝さん(人間国宝)のご子息で、関西落語界のホープと目されている方です。氏の公式サイトによれば、趣 味はピアノ演奏などとともに「古代史の研究」とありますから、もしかすると古田説や九州王朝説のこともご存じかもしれませんね。
 わたしたち「古田史学の会」のホームページが社会のいろいろな分野で活躍されている人々からも注目されていることは、大変喜ばしいことです。これからも頑張って、紹介していただけるような「洛中洛外日記」を記していきたいと決意を新たにしました。


第570話 2013/07/10

九州年号史料「伊予三島縁起」

 わたしが大三島の大山祇神社を訪れたかった理由の一つに、九州年号史料として 著名な同神社の縁起「伊予三島縁起」を実見したかったからでした。わたしが持っている「伊予三島縁起」は五来重編『修験道史料集(2)西日本編』所収の活 字版ですので、是非とも実物か写真版で九州年号部分を確認したかったのです。残念ながら宝物館には「伊予三島縁起」は展示されておらず、販売されていた書 籍にも「伊予三島縁起」は掲載されていませんでした。
 「伊予三島縁起」の九州年号史料としての性格が、四国地方にある他の九州年号史料とはかなり異なっており、このことが以前から気にかかっていました。と いうのも、四国地方の他の九州年号史料に見える九州年号は、「白雉」や「白鳳」といった『日本書紀』『続日本紀』などの近畿天皇家の文献にも現れるものが 多く、そのため本来の九州年号史料ではなく、それら近畿天皇家史料からの転用の可能性を完全には否定できないのです。この点、「伊予三島縁起」に見える九 州年号は、「端政」「金光」「願転(転願)」「常色」「白雉」「白鳳」「大(天)長」などで、これらは『日本書紀』や『続日本紀』などからは転用のしよう がない九州年号であり、「番匠初、常色二年」など九州王朝系史料からの引用と思われる貴重な記事も含まれており、その史料性格は格段に優れているのです。
 こうした理由から、わたしはどうしても「伊予三島縁起」原本を見たかったのです。『修験道史料集』に掲載されている「伊予三島縁起」の解題には、原本は大山祇神社にあり、善本は内閣文庫にあると記されています。引き続き調査してみたいと思います。


第569話 2013/07/09

伊予大三島の大山祇神社参詣

 7月6日(土)に松山市にて「王朝交替の古代史-7世紀の九州王朝」というテーマで講演しました。「古田史学の会・四 国」の主催によるものです。大和朝廷の養老律令や宮殿の規模・様式変遷、飛鳥出土木簡などを通じて、九州王朝から大和朝廷への権力交替期についての持論や 作業仮説(思いつき)を発表しました。幸い、「わかりやすかった」「また来てほしい」とお褒めの言葉もいただきました。「古田史学の会・四国」の皆さん、 ありがとうございます。
 講演会終了後の「四国の会」の会員総会では、会員や例会参加者を増やす方法について真剣に議論されていたのがとても印象的でした。懇親会でも熱心な質疑 応答が続き、わたし自身も啓発されました。高松市から参加された西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)を交えての論議もまた楽しいものでした。
 翌日の日曜日には合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会事務局長)のご厚意により、一度行ってみたかった大三島の大山祇神社を西村さんもご 一緒に三人で訪問しました。最初に社務所に寄り、『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)を進呈しました。宝物館は圧巻で、源義経奉納 の鎧(国宝)など重要文化財や国宝が多数展示してありました。国宝館には斉明天皇奉納と伝えられている大型の「禽獣葡萄鏡」がありました。「唐鏡」と説明 されていましたが、その大きさなどから国産のように思われました。
 大山祇神社の他にも、合田さんの案内で「しまなみ海道」の大島にある村上水軍の記念館なども見学できました。合田さんには何から何までお世話いただき、本当にありがとうございました。


第568話 2013/06/29

「i-siteなんば」で古田武彦トークセッション済み

 本日、大阪府立大学なんばキャンパス「i-siteなんば」で 古田先生のトークセッションを開催しました。ライブラリーの古田武彦著作コーナーを見ていただいた後、別室で著作にかかわる思い出などを二時間にわたり、 お話ししていただきました。メールやホームページだけでの案内でしたが、遠くは神奈川県や三重県から来られた方もありました。終了後も近くのレストランで 1時間以上にわたり質問に答えていただきました。
 古田先生の送迎で、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)の自家用車で向日市のご自宅から会場まで往復したのですが、車中でもお話を聞かせていただき、良い機会を得ることができました。
 また、「i-siteなんば」の古田武彦コーナーの蔵書リストが正木裕さんにより作成されましたので、当ホームページでも紹介するはこびです。同コーナーが古田ファンに末永くご利用いただけることを期待しています。