2013年10月一覧

第616話 2013/10/27

文字史料による「評」論(7)

 文字史料による「評」論と題して、史料事実や史料根拠を明示しながら、九州王朝の「評制」についての考察を続けてきました。その最後として、『日本書紀』の中に見える「評」について触れたいと思います。
 『日本書紀』は「評」を「郡」に書き換えた「郡制」史料ですが、例外のような「評」の記事があります。継体二四年(530)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背の評に迎へ討つ。背の評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 この記事について、古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、336頁)において、次のように説明されています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 さらに、「評」の縁源について次のように指摘されています。

 「『宋書』百官志によると、秦以来、『廷尉』に『正・監・評』の官があり、軍事と刑獄を兼ねた。魏・晋以来は、『廷尉 評』ではなく、ストレートに『評』といったという。すなわち、楽浪郡や帯方郡には、この『評』があって、中国の朝鮮半島支配の原点となっていたようであ る。」

 この解説から、「評制」は中国の軍事と刑獄を兼ねた行政制度に縁源があったことがわかります。このことを九州王朝(倭 国)は当然知っていたはずですから、7世紀中頃に自らの支配領域に「評制」を施行したとき、その主たる目的は中国に倣って「軍事と刑獄を兼ねた行政制度」 確立であったと考えても大過ないのではないでしょうか。すなわち、7世紀中頃の朝鮮半島での、唐・新羅対倭国・百済の軍事的緊張関係の高まりから、「評 制」を全国に施行(天下立評)したものと思われます。さらに主戦場となる朝鮮半島や朝鮮海峡から離れた摂津難波に副都(前期難波宮)を造営したのです。まさに「難波朝廷天下立評」(『皇太神宮儀式帳』)です。
 このように、「軍事行政」としての「評」設立とその「評制」の施行拠点であり主戦場から遠く離れた摂津難波への副都(難波朝廷)造営は密接な政治的意図で繋がっていたのです。


第615話 2013/10/24

日本海側の「悪王子」「鬼」伝承

 今週初めからの出張で、富山県高岡市・魚津市、新潟県長岡市・五泉市と周り、ようやく東京に着きました。今、八重洲のブリジストン美術館のティールーム・ジョルジェットでランチをとっています。このお店のミックスサンドとダージリンティーのセット(1200円、30食限定)はおすすめです。壁には長谷川路可(はせがわ・るか 1897-1967)のフレスコ画4点が展示されており、そのやわらかな色調には心が癒されます。ここはわたしのお気に入りのお店です。

 高岡市では少し空き時間ができましたので、お城の中にある市立博物館に行ってきました。古くて地味な博物館でしたが、入館料は無料で受付のご婦人はとても上品で親切な方でした。当地の歴史研究会が発行した会誌などを閲覧しましたが、そこに連載されていた「悪王子」伝説の研究論文には興味をひかれました。
 昔々、高岡市の二上山に住む悪王子に、毎年、越中の乙女を大勢人身御供として差し出していたという伝説に関する研究で、「悪王子」を祭る神社や伝説が各地にあることなどが紹介されていました。京都にも「悪王子」を祭る神社があるとのことで、わたしはそのことを知りませんでした。
 また別の記事によれば、日本海側には各地に「鬼」に関する伝承があり、「鬼」サミットなどが開催されていることも知りました。これら「悪王子」や「鬼」 の伝承が、『赤渕神社縁起』の「鬼神」「悪鬼」と関係があるのかどうか興味がわきました。有名な秋田の「なまはげ」なんかも「鬼」伝承の一つでしょうか。 すでに「鬼」に関する研究は数多くなされていますから、「鬼」を「蝦夷」とする先行説があるのか、京都に帰ったら調べてみようと思います。

 外はまだ雨です。これから東京で仕事をした後、名古屋に向かい、夕方から代理店と商談です。今夜は名古屋で宿泊し、明日は岐阜県養老町に向かいます。台風の影響で新幹線が遅れないことを祈っています。


第614話 2013/10/22

『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」

 正木裕さんが『日本書紀』天武紀持統紀の記事に34年前の記事が移動挿入され ているという「34年遡上」説を関西例会などで発表されたとき、34年前の記事なのか本来その年の記事なのかの判断に恣意性が入り、論証は困難ではないかと、わたしや西村秀己さんから度々批判がなされ、論争が続きました。そうした数年にわたる学問的試練を経て、正木さんの「34年遡上」説は検証され淘汰され、今日に至っています。関西例会参加者には、よくご存じのことかと思います。
 しかしそれでもなお「34年遡上」説の中には半信半疑のテーマもありました。たとえば『古田史学会報』85号(2008年4月)で発表された「常色の宗教改革」 という仮説です。九州年号の常色元年(647)、九州王朝により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そしてその「常色の宗教改革」の詔勅が34年後の天武十年(681)に「神宮修理の詔勅」として『日本書紀』に記されているとされたのです。次の詔勅です。

 「天武十年(681)の春正月(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。」

 この記事について、正木さんは次のように指摘されています。
 「この記事は本来三四年遡上した常色元年の『神社改革の詔勅』であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。」正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号(2008年4月)

 この正木説に対して、そうかもしれないが本当にそうだと断言してもよいのかと、わたしはずっと半信半疑でした。ところが、今回知った天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』に次の記事があることに気づき、わたしは驚愕しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘した通り、天武十年正月条の「宮 を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応しているのです。時期(常色年間)だけではなく、「修理」という言葉も一致しています。しかも『赤渕神社縁 起』では九州年号の「常色三年」の出来事として記録されていますから、九州王朝による「神宮修理」の詔勅(常色元年の詔勅)が出されていたことの史料根拠となります。『赤渕神社縁起』により、正木さんの「34年遡上」説の一例としての「常色の宗教改革」が史料根拠を持つ有力説であることが判明したのです。 「34年遡上」説、おそるべしです。
 この他にも『赤渕神社縁起』には重要な記事が記されていますが、引き続き検討して報告したいと思います。


第613話 2013/10/20

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)戦闘」に記された「鬼神」「悪魔」「悪鬼」が新羅でなければ、その正体は何だったのでしょうか。このことを検討・考察してみました。
 まず『日本書紀』を読みなおしてみました。すると常色元年に相当する孝徳紀大化三年(647)七月条に「渟足(ぬたり)柵を造りて、柵戸を置く。」とい う記事が見え、翌大化四年是歳条には「磐舟柵を造りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く。」とあります。岩波文庫『日本書紀』の注によれば、渟足(ぬたり)柵は新潟県新潟市沼垂、磐舟柵は新潟県村上市岩船のことと説明されています。これらの記事から、常色元年頃に倭国と蝦夷国は緊張関係にあったことがうかがえます。「柵」を造り「柵戸」(柵を防衛する屯田兵)を新潟に配置しているのですから、現実的な蝦夷国からの脅威にさらされていたと思われます。
 他方、同じ『日本書紀』孝徳紀大化三年(647)七月条には新羅から金春秋の来倭記事がありますし、翌年の是歳条には「新羅、使を遣して貢調(みつぎた てまつ)る。」とあり、両者の関係は親密です。こうした『日本書紀』の史料事実から考えてみますと、『赤渕神社縁起』の「常色元年戦闘」伝承で表米宿禰が戦った「鬼」とは、新羅ではなく蝦夷ではないでしょうか。斉明紀になると倭国による「蝦夷討伐」記事が現れますが、おそらく倭国からの侵略・攻撃だけではなく、蝦夷国からの倭国への攻撃・侵略もあったはずです。そうでなければ新潟に「柵」が造られたりはしないでしょう。こうした理解が正しければ、『赤渕神社縁起』に見える「常色元年戦闘」伝承こそ、蝦夷国による丹後への侵入と交戦の貴重な現地伝承だったことになります。
 以上、史料批判と分析から導き出された仮説ですが、是非とも現地を訪問し、より詳しい調査を行いたいと思います。また、丹後以外にも日本海側に蝦夷国との交戦伝承が残っている可能性もありそうです。今後の楽しみな研究テーマです。


第612話 2013/10/19

薩摩半島の高良一族

 本日の関西例会では、中国曲阜市在住の会員青木さんの研究論文を竹村さんが代読されたり、武雄市の会員古川さんらの調査報告を正木さんが紹介されるなど、ちょっとかわった試みがなされました。関西例会に参加しにくい遠方の会員の研究などが代理報告されることにより、多くの知見や研究成果が共有でき、よい取り組みだと思います。
 特に古川さんの調査は、薩摩半島(南九州市など)に「高良神社」(御祭神は玉垂命・他)が分布しており、宮司は高良一族ということで、久留米市の高良大社の研究を永く続けてきたわたしも知らなかったことでした。薩摩の「高良神社」の創建は和銅年間にまで遡るとのことで、ちょうど九州王朝滅亡の時期でもあり、とても興味深い伝承です。「古田史学の会」でも現地調査を行おうと正木さんから提案がありました。是非、実現させたいものです。
 10月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 続7世紀の日本の記述の問題(中国曲阜市・青木英利、代読:竹村順弘)
2). 縄文海進と倭人渡来(木津川市・竹村順弘)
3). 駆逐される東夷(木津川市・竹村順弘)
4). 高句麗と倭人(木津川市・竹村順弘)
5). 『日本書紀』持統紀に見える「蝦夷男女二百一十三人」について(明石市・不二井伸平)
6). 日本書紀に遣隋使はなかった(八尾市・服部静尚)
7). 古川清久氏らによる南九州市河辺町の「高良一族」調査(川西市・正木裕)
8). 図と写真に見る瓊瓊杵降臨地と室見川の銘板の「臨地性」について(川西市・正木裕)
9). 「倭人」と「盟」についての若干の資料紹介(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・岩永芳明さんから「腰岳の黒曜石」寄贈・古田武彦研究自伝『真実に悔いなし』発刊・『古代に真実を求めて』16集再校中・持統崩御の34年遡り説・その他


第611話 2013/10/18

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事ですが、実は次のような表現となっています。

「(常色元年二月)十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」「新羅退治」「常色元年九月三日、怱平悪鬼」(「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年(647)の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年(828)の 『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(720年成立の『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な 「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。
 それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。検討と考察を続けてみましょう。(つづく)


第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)


第609話 2013/10/16

『古田史学会報』118号の紹介

 『古田史学会報』118号が発行されましたのでご案内します。今回も古田先生から原稿をいただきました。117号掲載の西村稿への批判ですが、古田先生の学問の方法についての解説なども記されています。
 正木稿は倭人伝里程記事が実地踏査によるとして、精緻な検証がなされ、古田説の正しさを再確認されています。阿部稿では関西例会でも度々話題となってい る「廣瀬」「龍田」が仏教儀式に関係したものとする新解釈が提示されています。なかなか面白い仮説です。服部稿は関西例会で発表された仮説で、史料に見える「荒」に注目された好論です。西村稿は、近畿天皇家の初期の天皇は師木県主だったとするものです。不二井さんからは書評が寄せられ、その著者は古田ファンとのこと。いずれも優れた論稿で、好論満載の会報となりました。

〔『古田史学会報』118号の内容〕
○古田史学の真実 — 西村論稿批判  古田武彦
○「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の行程について  川西市 正木 裕
○「廣瀬」「龍田」記事について
  — 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において  札幌市 阿部周一
○難波と近江の出土土器の考察  京都市 古賀達也
○荒振神・荒神・荒についての一考察  八尾市 服部静尚
○書評『朱鳥翔けよ』高松康  明石市 不二井伸平
○「欠史八代」の実相  高松市 西村秀己
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○新東方史学会(H19~25)会計報告
○『古代に真実を求めて』第16集発行予定の報告と第17集の原稿募集
○編集後記


第608話 2013/10/13

『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰

 「洛中洛外日記」第607話で紹介しました、森茂夫さんから送られてきた「赤渕神社文書」写真の中に『多遅摩国造日下部宿禰家譜』がありました。「群書類従」の『日下部系図』には「表米宿禰」は孝徳天皇の子供、あるいは孫とされ、 『赤渕神社縁起』にも孝徳天皇の皇子と記されています。ところが赤渕神社蔵の『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では開化天皇の末裔とされています。
 具体的には、家譜冒頭に「稚倭根子日子大毘毘命」(開化天皇)が記され、続いて「日子座王」「山代之大筒木真若王」「迦禰米雷王」「息長宿禰王」「大多牟坂王」とあり、その10代後に「赤渕足尼」が記されています。この「赤渕足尼」は「表米宿禰」とともに赤渕神社の御祭神として祭られています。「赤渕足尼」の4代後が「表米宿禰」とされています。このように『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では、「表米」は孝徳天皇の皇子ではなく、開化天皇・日子座王・息長 宿禰王・大多牟坂王、そして赤渕足尼らを先祖としています。この系図がどこまで信頼できるのかは不明ですが、ともに赤渕神社の祭神とされている「赤渕足尼」の子孫と見るのが穏当のように思われます。
 それではなぜ『赤渕神社縁起』では孝徳天皇の皇子とされているのかが新たな問題となります。『赤渕神社縁起』も『多遅摩国造日下部宿禰家譜』も赤渕神社にある文書ですから、とても不思議です。なお、今回紹介しました「家譜」の人物名は写真版から古賀が判読したもので、不鮮明な文字を誤読しているかもしれ ません。その場合はご容赦ください。(つづく)


第607話 2013/10/12

実見、『赤渕神社縁起』(活字本)

 「洛中洛外日記」第604話で、『赤渕神社縁起』を実見したいと書き、「浦島太郎」の御子孫も日下部氏を名乗っていたことを改めて紹介したのですが、なんとその御子孫の森茂夫さん(京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたもの)の写真ファイルが送られてきました。森さんも九州年号が記されている史料として『赤渕神社縁起』に注目され、現地でこの縁起の活字本を写真撮影されたとのこと。わたしの「洛中洛外日記」でのお願いが、こうも早く実現でき感謝感激しています。森さん、ありがとうございます。
 その写真によれば『赤渕神社縁起』は複数あり、最も古いものは天長五年に成立したものの写本で、再写が繰り返されています。より古い『赤渕神社縁起』写本(赤渕神社縁起1)には九州年号の常色元年(647)、常色三年(649)、朱雀元年(684)が記されていますが、再写の過程で、それら九州年号を不審として、表米の没年「朱雀元年甲申三月十五日」が『日本書紀』に見える「朱鳥元年丙戌三月十五日」(686)に書き換えられている現象も見られました (赤渕神社縁起2)。
 このような史料状況てすので、どの史料が最も史実を伝えているのかを判断する作業、すなわち史料批判がまず必要です。しかも、天長五年成立の『赤渕神社縁起』も、既に改変されている可能性が高く、記事の内容ごとの個別の史料批判も必要と思われ、かなり困難な作業になりそうです。これから少しずつ、その史料批判の成果を報告していきたいと思います。まずはしっかりと読み込んでいきます。(つづく)


第606話 2013/10/06

「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 「洛中洛外日記」第604話で紹介しました「表米宿禰」伝承について、追跡調査をしましたので御報告します。
 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことなので、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記します)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。
 「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。( )内は古賀による注です。

「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(684、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」

 九州年号の「朱雀」が使用されていることが注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(647)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時。」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(648、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(648、常色二年)に養父評の評督に任命されたことか記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、 表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(653、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(659、白雉 八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(683、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

648(常色二年)養父評の評督に就任。
653(白雉二年)長男の都牟自が養父評助督に就任。
659(白雉八年)長男の都牟自が評督に転任。
662頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
683(白鳳二十三年)長男の都牟自没。
684(朱雀元年)表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(1533)まで続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による7世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木説に よれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。まさに現地伝承恐るべし、です。


第605話 2013/10/05

文字史料による「評」論(6)

 「評制」開始時期を7世紀中頃とする史料根拠として、『皇太神宮儀式帳』をはじめ様々な史料を紹介してきましたが、いずれも後代史料でした。従って、文献史学の学問の方法として、これら後代史料の記述が真実かどうかを同時代金石文などで検証する作業が必要です。もし同時代金石文が7世紀中頃よりも早い時期の「評制」の存在を示していた場合は、当然のこととして同時代金石文が優先されます。もちろん、その金石文の史料批判も行われる必要があります。その金石文が同時代ではない、あるいは「偽造・偽刻」「後代追刻」というケースも可能性としてはあるからです。
 そうした史料批判を前提として、現存最古の「評制」が示された金石文として、法隆寺から献納された観音菩薩立像台座銘(東京国立博物館蔵)が著名です。そこには冒頭に次の文字が記されています。

 「辛亥年七月十日記 笠評君名左古臣」

 「辛亥年」とは651年(九州年号の常色五年)にあたるとされています。菩薩像の様式や特徴がこの時代のものであることから、651年の「辛亥年」とされているのです。わたしも、この菩薩像を東博の法隆寺館で何度か見たことがあり、他の仏像との比較からも651年の「辛亥年」として問題ないと思います。
 現存最古の「評制」同時代金石文の紀年が「辛亥年」(651)であり、後代史料に見える7世紀中頃の「評制」開始記事と矛盾していません。このように、 文字史料と金石文の一致は、「評制」開始を7世紀中頃とする見解をますます確かなものとしているのです。(つづく)