2015年03月一覧

第888話 2015/03/04

5月30日、

久留米大学で講演します

 一昨年に続いて久留米大学での公開講座で講演することになりました。今回与えられたテーマは「多元的王朝論の展開」というもので、これから内容を考えます。初めてお聞きいただく方にも、わかりやすく面白い内容にしたいと思います。お近くの方は、是非ご参加ください。

テーマ 「多元的王朝論の展開」
日 時 5月30日(土)午後2時〜
会 場 久留米大学御井キャンパス 500号館51A教室
受講料 2160円


第887話 2015/03/03

九州王朝の「曲水の宴」

 今日はおひな祭りで、毎年の3月3日になるとご近所のMさんから手作りのちらし寿司がお裾分けされます。美味しいだけでなく、見た目もきれいなちらし寿司で、毎年楽しみにしています。M家のお嬢さんと我が家の娘が同い年ということもあり、二人が赤ちゃんの頃からのおつきあいです。両家とも娘のお見合い相手探しなどが共通の話題となっている近年です。
 古代史研究で3月3日といえば、「曲水の宴」の日として有名です。特に古田史学では九州王朝の宮廷行事として古田先生が以前から注目されていたテーマでもあります。『日本書紀』では顕宗天皇元年(485)三月条の「曲水の宴」の記事が初見で、同2年さらに3年の三月条に見えますが、それ以後は見えず、『続日本紀』の文武天皇5年(701)になってようやく現れます。この顕宗紀の記事が歴史事実がどうか、あるいは九州王朝史書からの盗用の可能性もあり、701年のONライン(九州王朝から近畿天皇家への王朝交代)以後になって近畿天皇家の行事として散見されることから、ONラインより以前は「曲水の宴」は九州王朝のみに許された宮廷行事だったのではないでしょうか。
 ちなみに、「曲水の宴」遺構は久留米市の「筑後国府」跡から出土しており、7世紀以前の九州王朝により催されていた「曲水の宴」の考古学的痕跡です。
 なお、太宰府天満宮では「曲水の宴」が毎年催されており、今年は3月1日に開催されました。九州王朝の故地にふさわしい行事です。


第886話 2015/03/02

弥生時代の近畿の国と王墓

 「洛中洛外日記」885話で、「これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的」と記しましたが、今回は弥生時代における近畿(関西)の「国」について、少し触れてみたいと思います。
 弥生時代は銅矛文明圏と銅鐸文明圏の二大青銅器文明圏に分けられていることは有名ですが、厳密にはそれらが重なったり、それ以外にも細かな分類や時代的変遷もあります。最新の古田説では倭国と対立していた狗奴国(こうぬ・こうの)は関西の銅鐸文明圏とされており、基本的な理解としては最も有力な仮説だと思います。
 銅矛圏の弥生墳丘墓としては吉野ヶ里遺跡が有名ですが、銅鐸圏の弥生墳丘墓としては大阪市平野区の加美遺跡が注目されます。同遺跡は1984年に発見された弥生時代中期後葉(紀元前1世紀)の、周濠を持つ大型墳丘墓です(南北26m、東西15m、高さ3m)。弥生時代の墳丘墓としては河内平野最大です。そこからは23基の木棺が発見されており、銅釧(どうくしろ)を腕に着けた被葬者(女性、二体)も含まれていました。この他にも水銀朱やガラス製勾玉・丸玉(1号木棺、女性)も出土しています。
 北部九州の弥生墳丘墓とは明らかに出土物の様相が異なっていることがわかります。吉野ヶ里遺跡などでは甕棺が主流で、副葬品も三種の神器と称される銅鏡や矛・剣、そして管玉・勾玉ですが、加美遺跡では木棺であり、銅製品は銅釧だけで、鏡や矛などは出土していません。河内が狗奴国内であれば、邪馬壹国を中心とする倭国と対立していた狗奴国には銅鐸を副葬する習慣はなかったようです。
 これからの古代史学は近畿を狗奴国とする視点で研究する必要があります。近畿地方から何か出土するたびに「邪馬台国か」などという非学問的な説明や報道はいいかげんにやめるべきです。古田史学の出現により、日本の古代史学は新たな「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の時代に入ったのですから。