2015年03月08日一覧

第892話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「朔」

「洛中洛外日記」891話で、野中寺の弥勒菩薩像銘文冒頭の「丙寅年四月大※八日癸卯開記」の「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする麻木脩平さん新説を紹介したのですが、東野治之さんの論稿「天皇号の成立年代について」(『正倉院文書と木簡の研究』塙書房、昭和52年)によれば、薮田嘉一郎氏が同銘文を「丙寅年四月大朔八日癸卯開記」と既に読まれていたことが紹介されていました。薮田さんも「旧」を「朔」の省画とされていたとのことですので、薮田さんの論文(「上代金石文雑考」『考古学雑誌』33-7)を読んでみたいと思います。

 東野さんは「旧」と読んでおられるのですが、その結果、当銘文の成立は「新暦(麟徳暦=儀鳳暦)」と「旧暦(元嘉暦)」が併用された持統四年十一月以降、あるいは元嘉暦が廃され儀鳳暦が専用されるようになった文武元年以降とされました。すなわち、新旧両暦の併用時期、あるいは儀鳳暦に切り替えられた直後でなければ「旧」暦であることを明示する必要はないとされたのです。

 このように、問題の一字を「旧」とするのか「朔」とするのかで、銘文の成立時期に影響するのです。東野さんの根拠とされた新旧両暦併用や新暦専用の時期については、『日本書紀』や『続日本紀』の記事を根拠とされているのですから、近畿天皇家一元史観内部の論争としては「有効」な見解ですが、多元史観・九州王朝説の立場からすれば、『日本書紀』の記事にこだわる必要はありません。

 なお、元嘉暦では丙寅(666)の四月八日の日付干支は癸卯で、儀鳳暦では日付干支は甲辰となりますから、同銘文は元嘉暦で記されていることがわかります。従って、同銘文が丙寅年(666)成立とする場合は、それは元嘉暦使用の時期ですから、「旧」という字は意味不明です。やはり「朔」と読むのが自然な理解と思われます。

わたしはこの銘文は丙寅年に成立したと考えるのが穏当と思います。なぜなら東野さんのように約30年も後に、「丙寅」の年の記事を彫る必然性がありませんから。『日本書紀』持統四年の新旧暦併用記事との齟齬は、九州王朝説の立場からすれば解決できると思われますので、古田学派による解明が期待されるのです。


第891話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「旧」

 「天皇」の称号がいつ頃から使用されていたかの研究や論争で、必ずのように取り上げられる金石文に野中寺の弥勒菩薩像銘文があります。大阪府羽曳野市にある古刹、野中寺(やちゅうじ、別称は中之太子)は伝承では聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとされています。この野中寺の秘仏とされているのが重要文化財に指定されている銅造弥勒菩薩半跏思惟像で、その台座下部に彫られた銘文にある「中宮天皇」が天皇号の使用時期や、あるいは誰のこととするのかで、今も論争が続いています。もちろん古田学派でも何人もの研究者が取り上げてきました。わたしも関西例会や「洛中洛外日記」327話で触れたことがあります。

 今回、取り上げたいのは「中宮天皇」ではなく、銘文の成立時期を記した冒頭の次の部分です。

 「丙寅年四月大※八日癸卯開記」

 丙寅年は666年で天智5年、九州年号の白鳳6年に相当し、この年次については定説となっており、異論はほとんどありません。ところが「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする新説があるのですが(それ以外の説もあります)、多くの論者は「旧」と読んで持論を展開されています。すなわち、当時使用されていた「新暦(麟徳暦)」ではなく、「旧暦(元嘉暦)」で銘文を記したことを明示するために「旧」と記されたと理解されてきました。
しかし、「旧」ではなく、「朔」の略字であるとする説が出され、この新説にわたしは早くから注目してきました。この新説は麻木脩平さん(「野中寺弥勒菩薩半跏像の制作時期と台座銘文」『仏教芸術』256号、2001年5月、「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず-東野治之氏の反論に応える-」『仏教芸術』264号、2002年9月)によるもので、その主たる根拠は、今では「旧」は「舊」の「略字(別字)」ですが、その当時は「旧」という「略字」は使用されていないというものです。

 大変説得力のある仮説と思いました。たしかに同銘文の「旧」とされてきた字の「日」の部分は「月」に近い字形ですから、「朔」の略字とする麻木説は魅力的です。今後、この銘文に関する研究では、この「旧」なのか「朔」なのかという課題についても検討が進むことを期待したいと思います。(つづく)