2015年06月一覧

第967話 2015/06/02

鞠智城と前期難波宮の「八角堂」比較

今回の久留米大学や和水町での講演会では大きな学問的収穫に恵まれました。なんといっても鞠智城を見学できたことは幸いでした。訪問当日、温故創生館は休館日だったにもかかわらず、木村龍生さんのご案内と解説によりとても勉強になりました。
たとえばわたしが最も関心を持っていた鞠智城の「八角堂(鼓楼)」について多くの知見を得ることができました。なかでも前期難波宮の「八角堂」との違いがよくわかり、共に九州王朝による造営と思われるのですが、その性格的違いの理由を改めて考えさせられました。
特に木村さんからの、前期難波宮の方には芯柱が無いという指摘は衝撃的で、遺跡の図面をよく見比べればわかることなのですが、指摘されるまでわたしは気づきませんでした。そして実際に鼓楼の内部に入ってみると、1階は柱だらけの印象で、内部に何かを保管したり、儀礼を行うというスペースはありません。ですから、鞠智城の場合は「八角堂」というような表現は適切ではなかったのです。「堂」であれば内部に一定のスペースが必要ですから。
この点、規模も大きく、芯柱も無い前期難波宮の場合は「八角堂」「八角殿」という表現が妥当です。こうした差異から、両者は「八角」という点では共通していますが、その使用目的や性格は異なると思われました。このことに気づいたのも、今回の成果の一つでした。
もう一つの相違点は、共に1対2棟の「八角堂」なのですが、前期難波宮は東西対称に同じ規模で並び、南北方向は正確に北を向いています。ところが鞠智城は南北に並び、南北軸は北とは無関係ですし、それぞれ大きさや柱の数も異なります。なお、同じ場所に新旧の「八角堂(鼓楼)」が立てられた痕跡があり、鞠智城の「八角堂」は新旧2対の計4棟あったことが明らかとなっています。そのうち1棟だけは礎石造りで、他の3棟は堀立柱構造です。
このように、鞠智城の「八角堂(鼓楼)」の向きがが磁北とずれていることは、その性格を理解する上で留意すべき点と思われます。この差異も、前期難波宮と鞠智城の「八角堂」の目的や性格が異なることを指し示しているように思われるのです。

(後記)本稿に対して西村秀己さんより、「一階が柱だらけ、ということで何のための建物かというイメージがつかみにくい。」という感想をいただきました。この通りで、わたしにもまだイメージが掴めていません。これからの課題です。


第966話 2015/06/01

鞠智城を初訪問

京都に帰る新幹線の車中で書いています。前垣さんと高木先生のご案内で鞠智城を見学してきました。主任学芸員の木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)から懇切丁寧な説明と同遺跡を案内していただきました。しかも特別に「八角堂(鼓楼)」の内部も入らせていただきました。感謝感激です。矢継ぎ早のわたしからの質問に対しても的確に答えていただき、若くてとても博学な研究者でした。
わたしからの主な質問と、木村さんのお答えは次のような内容でした。簡潔に記します。

(問)鞠智城の訓みは「キクチ」と「ククチ」とではどちらが適切か。
(答)『和名抄』の郡名の訓みでは「ククチ」とあり、これが史料根拠としては最も古い。

(問)鞠智城の編年は須恵器に依っているのか。
(答)須恵器と土師器に依った。

(問)貯木場から出土した木材の年輪年代測定は実施したのか。
(答)していない。(予算的に困難のようであった)

(問)出土した仏像を百済系とされているが、その根拠は何か。
(答)全体の形式から百済系と判断された。ただし韓国の学者には、仏像が筒状のものを持っているが、百済の仏像には見られないので、百済系ではないという意見の人もいる。百済系仏像は中国南朝の影響を受けており、「宝珠」を持つのが普通とのこと。

(問)仏像の出土状況はどのようなものだったか。故意に廃棄されたのか、それとも何らかの理由で放置されたのか。
(答)発掘当事者の意見としては、周囲の土が固められたようだったので、故意の埋納の可能性もあるとのこと。

(問)「八角堂(鼓楼)」は前期難波宮の八角堂と比較してどのような差があるか。
(答)前期難波宮よりもやや小さい。前期難波宮にはない芯柱を持っている。

(問)「八角堂(鼓楼)」の一つは礎石造りとのことだが、瓦葺きか板葺きか。
(答)その付近から瓦は出土していないので、板葺きと思われる。復元された鼓楼が瓦葺きなのは、耐候性やメンテナンスなどのことを考えてのこと。数十トンの瓦の重量を支えるため、地下7mまで掘り下げて基礎を造った。

(問)瓦を造った窯の場所はどこか。
(答)不明。

(問)周囲の土塁の高さはどのくらいだったのか。土塁の上に柵はあったのか。
(答)土塁の高さは約3m程度と思われる。上部は削られていたので、柵の有無は不明。土塁の前面と後面は版築のための柵が設けられている。

(問)建造物の柱は残っていないのか。
(答)抜き取られていて残っていない。瓦なども他に持ち出されて再利用された可能性が指摘されている。

(問)製鉄や鋳物工房跡はないのか。
(答)鉄製遺物と小さなフイゴが出土しており、小規模な金属加工が行われていた可能性はある。

(問)貨幣は出土しているか。
(答)していない。

(問)近くに古代道路の「車路」が通っているが、鞠智城からの距離はどのくらいで、西海道とどちらが古いと考えられるか。
(答)1kmほど離れている。西海道よりも「車路」の方が古いと考えている。もともとの官道は「車路」で、8世紀に肥後国府ができてから西海道が造営されたと考えている。

(問)鞠智城の性格はどのようなものと考えられているか。
(答)様々な説が出されており、論争中。たとえば、大宰府や肥後国府への兵站基地、官庁的性格、倉庫的性格、対隼人戦の基地など。

(問)鞠智城への見学者はどのくらいか。
(答)年間10万人ほど。春と秋が多い。夏は暑く、冬は積雪の心配があって来場者は減る。

この他にもたくさんの質疑応答を行いました。貴重な報告集などもいただき、何度もお礼を述べて鞠智城を後にしました。京都に帰ったら、しっかりと勉強したいと思います。
帰りの新幹線の時間まで余裕がありましたので、高木先生の案内で山鹿市の横穴装飾墳を見学しました。壁面に五弦の琴を持った人物が掘られた墓もあり、とても興味深いものでした。お世話になった皆さん、本当にありがとうございました。
ここまで書いたら、ちょうど京都駅に到着しました。


第965話 2015/06/01

九州王朝の兄弟統治と「兄弟」年号

今朝は菊池市のホテルにいます。鞠智城を見学するため、菊池市内のホテルを予約していただきました。昨日の菊水史談会(石山仁明会長)主催の和水町中央公民会での講演会には約100名の参加者があり、盛況でした。主催者の説明によると和水町外からの参加者も多く、インターネットを見て参加された人も少なくなかったそうです。2時間ほど講演しましたが、皆さん最後まで熱心に聴講され、持ち込んだ『盗まれた「聖徳太子」伝承』も完売しました。ありがとうございました。
講演終了後は菊水史談会の皆さんと懇親会があり、夕食をご一緒しながら、時間の都合で講演では話せなかった新「発見」について追加発表させていただきました。
今回の講演のキーワードは「兄弟統治」「二人の天子」です。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、イ妥国は夜は兄、昼は弟が統治するという兄弟統治という体制でした。九州年号にも「兄弟」(558年)があり、この「兄弟統治」との関係をうかがわせます。そして、天子(兄か弟)が筑紫(久留米)の多利思北孤であり、もう一人の天子(弟か兄)は筑紫舞に見える「肥後の翁」ではないかとする作業仮説が考察の出発点でした。
昨日、早く着いた新玉名駅で観光案内パンフレットを読んでいますと、熊本市の案内に「市内最古の神社」として健軍神社が紹介されていました。「最古」とあるだけで具体的年代は書かれていないので、スマホで調べてみると、ウィキペディアには「欽明19年(558年)」の創建とされていました。この創建年こそ九州年号の「兄弟元年」に相当するのですが、神社創建と改元には関係があるのではないかと考えています。「兄弟統治」を記念して、九州年号は「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないでしょうか。これから調査したいと思います。

もうすぐ菊水史談会事務局長の前垣芳郎さんと考古学者の高木正文先生がホテルまで迎えに来られます。両氏の御案内で鞠智城を初訪問します。とても楽しみです。