「 2015年10月 」一覧

第1085話 2015/10/30

古田先生の絶筆、徴兵検査と「赤紙」の狭間で

 夜、帰宅すると、友好団体の「多元的古代研究会」の会報「多元」No.130号が届いていました。友好団体間で行っている機関紙交流用に送っていただいたものです。
 今号は一面に古田先生の遺影と訃報が掲載され、2頁目には古田先生による「遺稿・真実と虚偽2」が掲載されていました。半頁ほどの短いものでしたが、末尾には「二〇一五、一〇月十二日脱稿」と執筆日が付されており、先生が亡くなられた14日の二日前の日付であることから、これは先生の絶筆ではないでしょうか。字数が少ないことから、すでにこの日には体調がすぐれなかったのかもしれません。心が痛みます。
 しかし、短文ではありますが、その内容は現在の日本国がおかれた状況を危惧した、古田先生の心の奥底からの訴えであり、後生にのこされた「遺言」のような気がしてなりません。
 その前半は、義兄(井上嘉亀氏)から聞かれた、満州に取り残された日本人婦女子に対するソ連兵の組織的集団強姦事件の話であり、後半は徴兵を目前にした旧制広島高校での生徒たちの会話(何のために死ぬのか。死ねるのか。)です。いずれのお話も、わたしは何度も先生からお聞きしたことがあり、先生としては死ぬ前にどうしてもこれだけは何度でも伝えておきたかったことに違いありません。「多元」から後半部分を引用させていただきます。

 日本はすでに負けることを知っていた。戦時中だ。一晩中、旧制広島高校で議論した。
 「わたしたちはどうしたらいい?」
 「今、アメリカが、極東から沖縄まで、唯一独立国である日本国を、植民地にしようとしている。」
 「その日本国を植民地にするために、狙っているのがアメリカだ。」
 「しかし、わたしたちが“アジアのために”戦って負けたら、次は必ず〈アジアが独立する〉ときが来る。」
 「そのために“戦う”のなら、〈戦う意味がある〉のではないか。」
 夜を徹して、議論した。それが結論だった。
  〔二〇一五年一〇月十二日脱稿〕

 おそらくこのとき、古田青年は徴兵検査を終え、「赤紙」(徴収礼状)が来るのを待っていた時期と思います。というのも、わたしは古田先生から次のようなお話を聞いたことがあるからです。

 「わたしは徴兵検査を受けて、『赤紙』が来る前に敗戦を迎えた最後の世代でした。東北大学に進むので、徴兵延期の特例が認められていたのですが、それを潔しとできなかったので、徴兵延期申請をせずに徴兵検査を受けました。帝国大学生なら徴兵延期のうえ、下士官として兵役につくこともできましたが、わたしはそれを選ばずに、二等兵として兵役につく覚悟でした。」

 古田先生らしい、不正を嫌う実直なお人柄がよくうかがわれるお話でした。今回の「多元」の絶筆を読み、この先生のお話を思い出しましたので、ここに紹介させていただきます。


第1084話 2015/10/29

「邪馬壹国」説、

昭和44年「読売新聞」が紹介

 「洛中洛外日記」1078話で、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評「批判と研究」(『週間読売』昭和47年1月)が池田大作氏により発表されたことを紹介しました。『「邪馬台国」はなかった』の元となった最初の論文、すなわち古田先生の「邪馬壹国」説が最初に発表されたのは東京大学の『史学雑誌』で、昭和44年、古田先生が43歳のときです。それは「邪馬壹国」という論文で、その年の日本古代史分野では最も優れた論文と高く評価されました。
 その「邪馬壹国」説を最初に紹介した読売新聞の記事を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけて下さり、その記事を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が活字データにしていただきましたので、ご紹介します。
 今、読んでみてもかなり正確な内容の記事です。当時の新聞記者の優秀さがうかがわれます。現在のように記者クラブなどで政府や官邸から流される発表をそのまま記事にする記者とは大違いです。それと同時に、この記事はある程度の学力(北畠親房や新井白石の業績を知っている)がないと深く理解できません。当時の新聞読者(国民)の学問レベルも新聞記者と同様に高かったように思われます。
 正木さんからのメールには次のような的確な感想が付されており、こちらもご紹介します。

《正木さんからのメール》
 茂山さんから昭和44年の古田先生の史学雑誌への発表をとりあげた読売新聞の記事を頂きました。記事を添付しましたが、見にくいので記事起ししました。 東大榎、京大上田、松本清張という「巨頭」がこぞって大きく評価しており、いかに大きな衝撃だったかがわかります。
 今日の「古田無視」の状況がどのような経過でもたらされたのか、その理由・背景に何があったのか、学問的にも大きな研究課題になろうかと思います。
 正木拝

《昭和四十四年十一月十二日読売新聞》

(大見出し)邪馬臺ヤマタイ国ではなく邪馬壹ヤマイチ国
 後漢書こそ三国志を誤記

(中見出し)古代史の根源に波紋
(*魏志倭人伝と後漢書の写真、古田先生の写真を掲載)

(リード)三世紀の日本にあったのは、邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国だったーヤマタイの発音からヤマトを想定したわが国の古代史の序章を白紙に戻させるような研究論文が、この秋、突然、学術専門誌に発表され、歴史学会に大きな波紋を投じている。
 京都の市立洛陽工業高校古田武彦教諭(四三)が五年間を費やした労作。これまで三国志の魏志倭人伝(当時の日本の情勢が書かれている)に出てくる邪馬壹国の「壹」は「臺」の書き誤りというのが定説になっていたが、古田教諭は「壹が正しく、臺の誤記ではない」という結論に達したという。ヤマタイ国について独自の推理を展開してきた松本清張氏は「大きな盲点をつかれた」と”古田研究”を高く評価しており、学会でも「もう一度出発点に戻らなければ」と古代史の”再点検”をうながす声が起こっている。

(小見出し)近畿、九州論争根拠を失う

(記事)これまでヤマタイ国の根拠とされてきたのは、五世紀の中国の史書、後漢書に出てくる「邪馬臺国」で、それ以後の史書も後漢書にならって同じ表記をしており、三世紀に書かれた三国志の「邪馬壹国」の方が書き誤りとされてきた。
 古田教諭の研究は、史学会代表者榎一雄東大教授の推薦で、同会の機関紙「史学雑誌」最近号に「研究ノート」として発表された。
 そのポイントは、女王ヒミコが統治する国についての最古の文献である三国志には「邪馬壹国」とあり、北畠親房、新井白石から今日にいたるまで「これは臺の誤記」という説がうのみにされてきたが、科学的に検討すると「壹」と「臺」の書き間違いは考えられないーというもの。
 三国志の「邪馬壹国」と、後漢書の「邪馬臺国」とを比較、検討した結果、文献上、字形上、発音上、次のような点が明らかであるとしている。
 ①三国志の文中には合計八十六個の「壹」の字が使われている。しかし、一つとして混同は認められない。一方、後漢書は、三国志の文面をもとにしながら「女子の多い国」などと才気走った修飾があちこちに見られ、誤記の可能性はむしろ後漢書の方こそ強い。②三国志が書かれた三世紀当時の「臺」の字には「天子の宮殿」という意味がある。また邪、馬、奴などはいずれも蔑称(べっしょう)で邪馬という蔑称の下に「臺」の字を使うはずがない③後漢書の「邪馬臺国」には、唐時代の学者李賢(七世紀)の注として「案ずるに今の名、邪馬惟(ヤマイ)の音の訛(なまり)なり」とあり、唐代になっても邪馬惟だったと思われる④仮に一歩譲って「邪馬臺国」が存在したとしても、発音は濁った「ダイ」であって「台(タイ)」にはならず、これを「ヤマト」と類推するには飛躍がありすぎる。
 つまりヤマタイ国は、それこそ”まぼろし”だったというわけで、八世紀の古事記、日本書紀に初めて現れる大和朝廷をヤマタイ国と結びつける従来の古代史は、それ以前の糸をぷっつりと断ち切られることになるし、発音からきた福岡県山門(やまと)郡説も、根拠を失ってしまう。
 これまでの学会は、ヤマタイ国近畿説、北九州説に分かれながらも、ヤマタイ国の存在そのものは疑わなかったが、その根源にいきなりメスを当てられたかっこう。いまのところ「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、大きな波紋を投ずるものと思って推薦した」(東大榎教授)「三国志自体の信ぴょう性という問題は残る。しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京都大上田正昭助教授)など、専門学者の反応はさまざまだが、それぞれ大きなショックを受けたことは間違いなさそうだ。

(小見出し)説得力十分だ

(記事)松本清張氏の話「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」


第1083話 2015/10/28

蓮如生誕600年に思う

 本年は蓮如生誕600年とのことです(1415〜1499)。大谷大学博物館では特別展「生誕600年 蓮如」が開催中です。蓮如は本願寺第八代で本願寺中興の祖として有名ですが、わたしたち古田学派にとっては古田先生の蓮如筆跡研究がよく知られているところです。特に『歎異抄』蓮如本の「流罪記録」の研究は親鸞研究の最高峰です。
 蓮如生誕600年にあたり、古田先生のある言葉が思い出されました。「古田史学の会」を創立して間もない頃だったと記憶していますが、先生のご自宅にうかがったとき、京都の法蔵館から蓮如全集の創刊にあたり、古田先生に原稿執筆依頼が来たとのことで、「時代も変わったなあ」としみじみと述懐されたのです。このときの先生のお気持ちは、わたしにはよくわかりました。それは次のような事件が法蔵館と先生にはあったからです。
 それは古田先生の名著『親鸞思想 -その史料批判-』(冨山房、昭和50年5月25日発行)発刊にかかわる事件です。同書は当初、法蔵館から出版される予定で、出版広告まで出されていたにもかかわらず、法蔵館からは出版されなかったのです。このときのいきさつを同書「自序」に次のように記されています。

  自序
 親鸞の研究はわたしにおいて、一切の学問研究のみなもとである。わたしはその中で、史料に対して研究者のとるべき姿勢を知り、史学の方法論の根本を学びえたのである。
(中略)この一書は誕生の前から数奇な運命を経験した。かつて京都の某書肆(法蔵館のこと。古賀注)から発刊することとなり、出版広告まで出されたにもかかわらず、突然、ある夕、その書肆の一室に招かれ、特定の論文類の削除を強引に求められたのである。当然、その理由をただしたけれども、言を左右にした末、ついに「本山に弓をむけることはできぬ。」この一言をうるに至った。
 わたしの学問の根本の立場は“いかなる権威にも節を屈せぬ”という、その一点にしかない。それは、親鸞自身の生き方からわたしの学びえた、抜きさしならぬ根源であった。それゆえわたしは、たとえこのため、永久に出版の機を失おうとも、これと妥協する道を有せず、ついにこの書肆と袂を別つ決意をしたのである。思えば、この苦き経験は、原親鸞に根ざし、後代の権威主義に決してなじまざる本書にとっては、最大の光栄である、というほかない。--わたしはそのように思いきめたのであった。(後略)」

 このような経緯で袂を別った法蔵館から、古田先生に執筆依頼が来る時代になったのですから、先生も感無量だったのではないでしょうか。先生に続く古田学派の研究者には、この自序に示された学問の根本精神も受け継いでいただきたいと願っています。ちなみに後年、冨山房から出版できたのは家永三郎さんのお力添えによるものでした。
 この『親鸞思想』をわたしは古田先生からいただきました。当時は古代史しか研究していませんでしたから、思想史もこれで勉強するようにとの先生のお心遣いだったと受け止めています。そのいただいた本には先生による次の一文が記されていましたので、ここに初めてご紹介します。

「人間(じんかん)好遇、生涯探求
 古賀達也様
     御机下
  いつもすばらしい御研究やはげましに
  導かれています。今後ともお導き下さい。
     一九九六年五月十五日
            古田武彦」

 過分のお言葉をいただき、この本も家宝の一つとなりました。なお、古田先生が法蔵館から依頼され、書かれた論稿は次のものと思われます。まだわたしは読んでいませんので、蓮如生誕600年の今年中には読んでみたいと思っています。
 法蔵館『蓮如大系3』(1996年11月発行)「蓮如筆蹟の年代別研究」古田武彦


第1082話 2015/10/25

桂米團治さんのブログに古田先生の訃報

 KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に古田先生と出演させていただいたことなどがご縁となり、桂米團治師匠には何かとお気遣いいただいています。その米團治師匠のオフィシャルブログに古田先生の訃報が掲載されています。これも有り難いことです。米團治師匠のご了解をいただきましたので、転載紹介させていただきます。

「五代目 桂米團治ブログ」より転載

2015.10.16 《古田武彦さん、逝去》
 10月14日(水)、歴史学者の古田武彦さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
 常に文献に偏見なく向き合い、独自の解釈で古代史学界に“喝”を入れた先生──。
 私はただただ古田武彦著書の一愛読者だったのですが、今年、ひょんなことからKBS京都ラジオの私の番組へ古田武彦さんをお招きすることが叶ったのです。
 かなりのご高齢で、もう講演活動もされておられない状況である中、無理を承知で打診してみたところ、「出ます!」というご快諾の返事をいただきました。
 8月29日(土)、ご長男の光河さんに付き添われてスタジオ入りした先生は、明瞭なお声で私のインタビューに応じて下さいました。
 お弟子さんの古賀達也さんも加わっての古代史談義は、なんと二時間以上続いたのです!
 私が少しでも論理に合わないことを言えば賺さず「いや、それは違う」と質され、どんな質問にも丁寧に答えて下さいました。
 逆に、私の話す内容に賛同された時など、スタジオに響き渡るような声で「その通り!」と絶叫されました(*^o^)/
 「これからはどんな研究をなさりたいですか」との私の問いかけに対しては、「やるだけのことはやりました。もう思い残すことはありません。あとは弟子たちが頑張ってくれるでしょう」との返答。
 9月に入り、その模様が三週にわたり紹介されましたが、それが古田武彦さんの最後の放送となりました。
 先生の遺志は必ずや「古田史学の会」の皆さんが受け継いで下さることでしょう。
 勇気と感動を与えて下さり、本当に本当にありがとうございました!    ご冥福をお祈り致します。


第1081話 2015/10/24

古田先生から娘への贈り物

 古田先生からいただいた「宝物」の一つに、娘への贈り物があります。1992年11月に「市民の古代研究会」主催の全国研究集会を京都御所の西にある私学会館で開催したとき、当時3歳の娘を連れて先生にご挨拶しました。そのとき、新泉社から発行されたばかりの古田先生の著書『すべての日本国民に捧ぐ 古代史--日本国の真実』にサインをお願いしたところ、次の一文を記していただきました。

 「古賀小百合様
  いつもひとりで歴史の真実を求めて来た者です。わたしのいなくなった二十一世紀、あなたのいのちを見守っています。おしあわせに。
   一九九二.十一月二十九日 京都 私学会館にて
              古田武彦」

 このときの全国研究集会は「市民の古代研究会」の総力を挙げて取り組んだ一大イベントでした。当時、わたしは同会事務局長でしたので、成功させるために会場や宿泊施設の手配などを一手に引き受けていました。「市民の古代研究会」の会員数や影響力が最も華やかな一瞬でした。
 しかし理事会内部は一部理事による「古田離れ」がまさに開始される直前の時期でした。この二年後の1994年、「市民の古代研究会」は古田支持の少数派理事と反古田の多数派理事とで分裂に至り、わたしは水野孝夫さん(古田史学の会・前代表)らと共に「古田史学の会」を創立しました。このようなとき、娘にいただいた古田先生のサイン本は我が家の家宝となりました。


第1080話 2015/10/23

古田先生からいただいた宝物

 わたしが31歳のとき、古田先生に初めてお会いしたのですが、先生からはいくつかの「宝物」をいただきました。今回はその中の一つをご紹介します。
 それは2000年5月26日にいただいた、古田先生の自筆原稿「村岡典嗣論 -時代に抗する学問-」です。古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣先生を学問的に乗り越えるべく執筆された記念碑的論稿と言ってもよいでしょう。同論文は『古田史学会報』38号(2000年6月)に掲載されましたが、その自筆原稿をわたしにくださったのです。それには次の一文が付されていました。

 「この『村岡典嗣論』わたしにとって記念すべき論稿です。お手もとに御恵存賜らば終生の幸いと存じます。
  二〇〇〇 五月二十六日  古田武彦 拝
 古賀達也様」

 古田先生ご逝去により、『古代に真実を求めて』19集を追悼号としますが、この古田先生自らが「記念すべき論稿」として託された自筆原稿を巻頭写真に掲載し、同論稿を再録したいと思い、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)に検討を要請しました。この自筆原稿をいただいてから15年も経つのかと思うと、感無量です。もう一度、しっかりと読み直したいと思います。


第1079話 2015/10/21

『新唐書』日本国伝の新理解

 先日の「古田史学の会」関西例会で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から『新唐書』日本伝についての研究が発表されました。そのときの討論を経て、興味深いことに気づきましたのでご紹介します。
 ご存じのように『旧唐書』(945年成立)には倭国伝(九州王朝)と日本国伝(大和朝廷)とが併記されており、多元史観・九州王朝説を直接的に証明する史料として古田史学では重視されてきました。その後に編纂された『新唐書』(1060年成立)では日本伝のみであり大和朝廷のみの記述となっていることから、大和朝廷一元史観の学界では「同じ国である倭国と日本国を別国として表記した『旧唐書』は信頼性が劣る」とされ、日本伝に統一した『新唐書』こそ正しいとして重視する姿勢をとってきました。
 しかし、今回の服部さんの研究報告に触発され、『新唐書』を改めて読んでみると、『新唐書』編者は九州王朝と大和朝廷両国の存在を認識しており、その内の日本伝のみを記述していた可能性があることがわかりました。日本伝は日本側史料や歴代中国正史を参考にしてその歴史を記述しているのですが、具体的には『後漢書』の倭(委)奴国の時代から記述し、天御中主や神武頃からは「自らいう」として日本側の情報によっており、それまでは「筑紫城」に居住し、神武のときに「天皇」を名乗り「大和州」へ移ったとしています。いわゆる「神武東征」を史実として採用しています。
 他方、その日本国の歴史には「志賀島の金印」も「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」も一切登場しません。意図的に避けていると思われるのです。歴代中国史書に登場する倭国の有名人や金印授与などの歴史的事件が見事にカットされているのです。これらを偶然とすることは考えにくく、やはりその主体が異なると『新唐書』編者は認識していたのではないでしょうか。
 そうした九州王朝の有名人や重要事件がカットされた日本伝なのですが、不思議な記述がありました。それは「目多利思比孤」です。『隋書』イ妥国伝の「阿毎多利思北孤」と関係することは一目瞭然なのですが、「目」の意味が不明でしたし、九州王朝の多利思北(比)孤がなぜ近畿天皇家の歴代の天皇と並んで記されているのかが不審とされてきました。

 「(前略)次用明、次目多利思比孤、直隋開皇末年始與中国通、次崇峻(後略)」(『新唐書』日本伝)

 「目多利思比孤」は用明(585〜587年)と崇峻(587〜592年)の間の在位とされていますが、こうした人物は『日本書紀』などには当然見えません。従って、『新唐書』編者は別の情報に基づいて上記記事を書いたと思われます。ここで注目されるのが、古田先生が指摘されたように「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事です。『新唐書』日本伝では隋の開皇年間(581〜600年)の末に初めて日本国は中国(隋)と国交開始したと記しているのです。ですから、日本伝に「志賀島の金印」や「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」などの古くからの国交記事が全く記されていないことと整合しています。
 『隋書』イ妥国伝によれば開皇20年に多利思北孤は遣隋使を派遣しています。先の記事はこの遣隋使記事と年代が一致しています。しかし『隋書』によれば倭国(イ妥国)は古くから中国と交流していることが記されていますから、『新唐書』の編者は日本伝の日本国と『隋書』のイ妥国(倭国)は別国と認識していたと考えざるを得ないのです。
 それではこの「目多利思比孤」とは何者でしょうか。古田先生によれば「目」は代理を意味する「目代」(代理人)などと同類の「称号」ではないかとされ、おそらく多利思北孤が派遣した遣隋使に同行した近畿天皇家の使者を「目・多利思比孤」、すなわち多利思北(比)孤の代理人(目)として『新唐書』に記したのではないでしょうか。
 歴史事実がどのようなものであったか、その詳細はまだわかりませんが、『新唐書』編者の認識は、九州王朝の天子・多利思北孤の「目(代理)」として「目多利思比孤」という人物を近畿天皇家(日本国)の代表者として用明と崇峻の間に記録したと考えざるを得ません。
 以上のように、『新唐書』日本伝は多元史観・九州王朝説に立って読んだとき、初めてその成立過程が理解可能となります。近畿天皇家一元史観では「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という一文を全く説明できないのです。

掲載 歴史ビッグバン 古田武彦
(『新・古代学』第3集 1998年 新泉社)


第1078話 2015/10/20

池田大作氏の書評「批判と研究」

 古田先生が生前に親交をもたれていた各界の人士にご連絡をとっていますが、ご返信も届きはじめました。17日には創価学会名誉会長の池田大作氏から、知人を介して次の御伝言をいただきましたのでご紹介します。

 「ご生前の御功績をしのび、仏法者として懇ろに追善させていただきました。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」(池田大作)

 古田先生と池田大作氏との交流は『「邪馬台国」はなかった』の発刊時にまで遡ります。同書は昭和46年11月に発行されています。わたしが古田先生からお聞きしたことですが、『「邪馬台国」はなかった』の書評を最初に発表されたのが池田大作氏で、それ以来、古田先生の著作が刊行されると贈呈し、そのたびに読書感想を交えた丁重なお礼状や池田氏の著作が届くという間柄になられたとのこと。先生のご自宅で池田氏のサイン入りの写真集なども見せていただいたことがあります。
 池田大作氏の書評は昭和47年1月15日の『週間読売』に掲載された「批判と研究」というものです。それは次のような文で始まります。

 「最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。」

 そして古田先生の邪馬壹国説を正確に要領よく紹介され、九州説の東大と近畿説の京大との学閥問題にも触れられます。さらには古田史学・フィロロギーの方法論と同一の考え方を示され、最後を次のように締めくくられています。

 「『批判』はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ『批判』にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも『批判の眼』が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから--。」

 この池田氏の「批判と研究」は学問的にも大変優れた内容です。この書評は『きのうきょう』(聖教文庫81、聖教新聞社、1976年)に収録されています。
 わたしがこの書評の存在を古田先生からお聞きしたのは、「古田史学の会」創立後ですから、今から15年ほど前のことと思います。そのとき先生はうれしそうなお顔で次のように言われました。

 「池田さんとお会いしたことはないのですが、是非、会ってみたいという気持ちと、このまま書簡と書籍を交換するだけの間柄を大切にしたいという気持ちの両方があります。」

 こうして、古田先生は池田大作氏とはお会いされることはないまま逝かれました。


第1077話 2015/10/17

悲しみと励ましの関西例会

本日の関西例会はいつもとは少し異なり、重苦しい雰囲気が感じられました。というよりも落ち込んでいるわたしを皆さんにおもんばかっていただいたためでした。
 お昼休みに開催した「古田史学の会」役員会では古田先生のご逝去により、「偲ぶ会」の検討や『古代に真実を求めて』追悼特集について打ち合わせを行いました。午後の部の冒頭では参加者全員で黙祷しました。
 例会後の懇親会には桂米團治さんが駆けつけていただきました。米團治さんはは住吉での落語会を終えた後、懇親会に参加していただいたものです。 有り難いことです。今日は姫路市で落語会とのことでした。これからの米朝一門を立派に牽引されていかれることでしょう。皆さんに励まされた一日でした。
 10月例会の発表は次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
①本朝皇胤紹運録の中の九州年号(八尾市・服部静尚)
②新唐書日本伝の史料批判(八尾市・服部静尚)
③「副葬」は「廃棄」である(京都市・岡下英男)
④仮説、「イ妥国伝」(姫路市・野田利郎)
⑤盗まれた九州王朝の「難波宮」と「吉野宮」の歌(川西市・正木裕)
⑥「ニギハヤヒの位置付け」及び「神武の東征はなかった」の補足(東大阪市・萩野秀公)
⑦六国史の「皇祖母」(高松市・西村秀己)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10月14日22時13分、西京区の桂病院にてご逝去)・史跡ハイキング(関大博物館・他)・「最勝会」の研究・高橋崇『藤原氏物語 栄華の謎を解く』・水野孝夫「泰澄と法蓮」会報74号・その他


第1076話 2015/10/15

古田武彦先生ご逝去の報告

 古田武彦先生が昨日ご逝去されました(享年89歳。10月14日午後10時13分、搬送先の桂病院にて)。謹んで皆様にご報告申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 なお、古田先生の御遺命により、葬儀は執り行われず、ご親族によるお別れがなされます。「古田史学の会」としましては、友誼団体ともご相談の上、「お別れ会」(仮称)を執り行います。日時・会場など詳細が決まりましたら改めてご報告申し上げます。
 また、「九州年号特集」を予定していました『古代に真実を求めて』19集(来春発行)は「古田武彦先生追悼号」に変更させていただきます。
 先生の御遺志と学問、古田史学・多元史観をこれからも継承発展させることをお誓い申し上げます。

 平成27年(2015)10月15日
         古田史学の会 代表 古賀達也

古田武彦研究年譜を掲載