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第1070話 2015/10/07

『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

  『泰澄和尚傳』(金沢文庫本)によれば、道照が北陸修行時の「持統天皇(朱鳥)七年壬辰(692年)」に11歳の泰澄と出会い、神童と評したとあります。道照は宇治橋を「創造」した高僧として、『続日本紀』文武4年三月条(700)にその「傳」が記されています。
 それによれば道照の生年は舒明元年(629年、九州年号の仁王7年)となり、没年は文武4年(700年、九州年号の大化6年)72歳とあり、北陸で泰澄少年に出会ったのは道照64歳のときとなります。当時の寿命としては高齢であり、はたしてこの年齢で北陸まで修行に行けたのだろうかという疑問もないわけではありませんが、古代も現代も健康年齢には個人差がありますから、学問的には当否を判断できません。
 『続日本紀』には道照が宇治橋を「創造」したと記されています。ところが有名な金石文「宇治橋断碑」や『扶桑略記』『帝王編年記』などには、「大化二年丙午(646)」に道登が造ったと記されており、かねてから議論の対象となってきました。とりわけ「宇治橋断碑」については古田学派内でも20年以上も前に中村幸雄さんや藤田友治さんら(共に故人)が諸説を発表されてきましたが、その後はあまり論議検討の対象にはなりませんでした。今回、「泰澄和尚傳」で道照の名前に再会し、当時の論争風景を懐かしく思い起こしました。
 そこで、その後進展した現在の古田史学・多元史観の学問水準からみて、この宇治橋創建年二説について少しばかり整理考察してみたくなりました。結論など全く出ていませんが、次のように論点整理を試み、皆さんのご批判ご検討の材料にしていただければと思います。

 1.「宇治橋断碑」などにある「大化二年丙午」は『日本書紀』の大化年号(645〜649年、元年干支は乙巳)によっており、それは九州年号の大化(695〜703年、元年干支は乙未)の盗用であり、従って「大化二年丙午(646)」という年号が記された「宇治橋断碑」などは『日本書紀』成立(720年)以後に造られたものである。
 2.『続日本紀』の記事は文武4年条(700年)だが、『続日本紀』の最終的成立は延暦16年(797年)なので、8世紀末頃の近畿天皇家の公式の見解では宇治橋を創建したのは道照であり、その時期は早くても遣唐使から帰国した「白雉4年」以後(斉明7年説が有力)とされる。
 3.また、「大化二年」では道照18歳のときであり、宇治橋「創造」のような大事業を行えるとは考えにくいとする意見も根強くある。
 4.「宇治橋断碑」などの「大化二年丙午(646年)」は九州年号の「大化二年丙申(696年)」とする本来の伝承を『日本書紀』の大化により干支を書き換えられたものとすれば、「大化二年丙申(696年)」は、道照の晩年(68歳)の事業となり、やや高齢に過ぎると思われるが、健康年齢の個人差を考慮すれば不可能とまでは言えない。もちろん道照自身が橋を建築するわけでもないので。
 5.他方、道登は『日本書紀』の大化元年・白雉元年条などに有力な僧侶として登場しており、その約50年後ではたとえ健在であったとしても道照以上に高齢となり、宇治橋「創造」事業の中心人物とはなりにくいように思われる。
 6.宇治橋そのものに焦点を当てると、『日本書紀』の天武元年条(672年)に「宇治橋」という記事が見え、その頃には宇治橋は存在していたこととなり、九州年号の大化2年(696年)「創造」説とは整合しない。

 以上のように今のところ考えているのですが、結論としては、まだよくわからないという状況です。勘違いや別の有力な視点もあると思いますので、引き続き検討したいと思います。