2016年08月一覧

第1252話 2016/08/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(14)

わたしが、九州王朝と摂津難波とは歴史的に関係が深いのではないかと気づいたのには、前期難波宮九州王朝副都説(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年4月)とは無関係に、次のような研究経緯があったからです。
2008年6月15日の「古田史学の会」関西例会で、わたしは「近江朝廷の正体 -壬申の乱の『符』-」という研究を発表しました。その目的は、2004年に『古田史学会報』61号で「九州王朝の近江遷都 -『海東諸国記』の史料批判-」という論文で、九州王朝が白鳳元年(661)に近江に遷都したとする仮説を発表したのですが、その仮説を傍証することでした。
『日本書紀』の「壬申の乱」の記事中に、近江朝廷側から「符(おしてふみ)」という上位者から下位者へ出す「命令書」が吉備や筑紫に発行されていることから、近江朝廷には筑紫や吉備よりも上位者がいたことになり、九州王朝説の立場からすれば、近江朝廷に九州王朝の有力者(筑紫や吉備よりも上位者)がいたことになり、この「符」という史料事実は九州王朝の近江遷都の傍証となり得るという研究発表でした。
その史料調査のとき、『日本書紀』中には「壬申の乱」以外には崇峻紀のみに「符」が現れることを知ったのです。それは「蘇我・物部戦争」の後に、河内で抵抗した捕鳥部萬(よろず)の遺骸を八つに斬れという何とも残酷な命令を「朝廷」が河内国司に出すという一連の記事中に「符」が現れます。先の近江朝廷の「符」が九州王朝からのものとすれば、この崇峻紀に見える「符」も九州王朝からのものとするのが、論理的一貫性と考えられ、いわゆる「蘇我・物部」戦争は九州王朝の命令により行われたのではないかと考えていました。
こうした研究経緯により、6世紀末頃に九州王朝は難波を制圧し、後に自らの直轄支配領域として天王寺を造営(倭京2年、619年)するに至ったと理解しました。そうした歴史的背景のもとに前期難波宮が副都として白雉元年(652)に造営されたものと思われます。このわたしの理解を強力に裏付ける衝撃的な論文が発表されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)です。(つづく)


第1251話 2016/08/12

『二中歴』国会図書館本の旧蔵者

 『二中歴』国会図書館本(小杉榲邨氏影写本)の旧蔵者が著名な蒐集家の大島雅太郎氏だったことがわかりました。昭和12年の尊経閣文庫『二中歴』出版の解説によると「大島雅太郎氏蔵小杉榲邨博士自筆本」と紹介されています。その頃までは大島氏が所蔵しており、戦後の財閥解体により散逸したようです。国会図書館本に押されている丸印が大島氏と関係するものかどうかは、まだ不明です。知られている大島氏の蔵書印とは異なるようです。
 下記はウィキペディアの「大島雅太郎」の解説です(一部修正しました)。

 大島 雅太郎【おおしま まさたろう、新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年/明治元年1月1日) – 1948年(昭和23年)6月9日】は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。
 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。


第1250話 2016/08/11

NHK文化センター神戸で谷本さんが講演

  古代中国の算術書『周髀算経』に短里が使用されていたことを明らかにされた谷本茂さん(古田史学の会・会員)が、NHK文化センター神戸教室(078-360-6198)の夏の特別講座で、次の講演をされます。
 古事記の「国生み」「天孫降臨」「神武東征」神話などを、兵庫県の古代遺物の出土状況を踏まえて、新たな視点で見直されるとのことですので、ご案内します。

【テーマ】「兵庫県からみた古事記の世界〜銅剣・銅鐸文化と神話の謎をさぐる〜」
【日時】8月31日(水)10:30〜12:00
【会場】NHK文化センター神戸教室(JR神戸駅南口出てすぐ。高速神戸駅徒歩4分)


第1249話 2016/08/10

大阪府立狭山池博物館見学と講演のご案内済み

 大阪府立狭山池博物館見学と講演のご案内です。中国から出土した三角縁神獣鏡を実地調査された西川寿勝さんから、詳細な調査報告をしていただきます。とても貴重な内容ですので、わたしも楽しみにしています。

○日時 9月3日(土) 14時〜16時30分
  ①14時〜15時 博物館展示解説
 ②15時〜16時30分 講演
  演題 「洛陽発見の三角縁神獣鏡について」
  講師 西川寿勝氏(大阪府立狭山池博物館学芸員)
  (於:博物館会議室)

○場所 大阪府立狭山池博物館
    大阪狭山市池尻中2丁目(南海高野線大阪狭山市駅、西に徒歩5分)

※人数限定のため希望者は事前に正木事務局長まで申し込んでください。メール Babdc106@jttk.zaq.ne.jp
「古田史学の会・関西」ハイキング参加者はコースに入っているので申し込み不要です。


第1248話 2016/08/08

信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」

 信州に多数分布する「高良社」や、熊本県天草市と長野県岡谷市に分布する「十五社神社」など、信州と九州に密接な関係があることに強い関心を持ってきました。たとえば「十五社神社」に関しては「洛中洛外日記」でも取り上げてきました。下記の通りです。

第422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」

第483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」

第484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布

 この両地方の関係について、その淵源が古代にまで遡るのか、九州王朝によるものかなどわからないことばかりでしたが、「評」系図としても有名な「異本阿蘇氏系図」を精査再検討していたところ、両者の関係が古代に遡るとする痕跡を見いだしましたので、概要のみご紹介します。
 『田中卓著作集』に収録されている「異本阿蘇氏系図」によると、「神武天皇」から始まる同系図は、その子孫の阿蘇氏(阿蘇国造・阿蘇評督など)の系譜を中心にして、途中から枝分かれした「金刺氏」(科野国造・諏訪評督など)や「多氏」などの系譜が付記(途中で接ぎ木)された様相を示しています。従って、阿蘇氏内に伝来した阿蘇氏系譜部分は比較的「精緻」と思われることに対して、「金刺氏」系譜部分は遠く離れた「信州の分家」からもたらされた系図を、後世になって阿蘇氏自らの系図に付記したものと考えられ、史料的な信頼性は劣ると考えざるを得ません。この点については、「系図の史料批判の方法」として別の機会に詳述する予定です。
 阿蘇氏や金刺氏・諏訪氏の系図は各種あるようで、どれが最も古代の真実を伝えているのかは慎重に検討しなればなりませんが、「異本阿蘇氏系図」の編者にとっては、信州の金刺氏(後の諏訪氏)は継躰天皇の時代以前に阿蘇氏から分かれて信州に至ったと主張、あるいは理解していることとなります。もちろんこうした「理解」が真実かどうかは他の史料や考古学的事実を検討しなければなりませんが、信州と九州の関係が古代に遡ることの傍証になるかもしれません。
 「異本阿蘇氏系図」の「金刺氏系譜」部分でもう一つ注目されたのが、「諏訪評督」の注を持つ「倉足」の兄弟とされる「乙穎」の細注に見える次の記事です。

「一名神子、又云、熊古」

 「神子」の別称を「熊古」(「くまこ」か)とするものですが、「神」を「くま」と訓むことは筑後地方に見られます。たとえば「神代」と書いて「くましろ」と当地では読みます。ちなみに「神代家」は高良玉垂命の後裔氏族の一つです。この「神(くま)」という訓みは九州王朝の地(筑後地方・他)に淵源を持っているようですので、「異本阿蘇氏系図」に見えるこの「熊古」記事は諏訪氏と九州との関係をうかがわせるのです。
 この信州と九州とを繋ぐ「異本阿蘇氏系図」の史料批判や研究はこれからの課題ですが、多元史観・九州王朝説により新たな展開が期待されます。

〔後注〕信州と九州の関係について研究されている長野県上田市の吉村八洲男さんと、最近、知り合いになりました。共同研究により、更に研究が進展するものと楽しみにしています。


第1247話 2016/08/06

『二中歴』国会図書館本の書写者と「影写」

 『二中歴』国会図書館本が明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の蔵書であったらしいことをつきとめたのですが、その書写も小杉榲邨氏によるものであることがわかりました。
 「洛中洛外日記」第1242話「『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料」を読まれた齋藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、「国会図書館本の書写は収蔵している古典籍資料室に尋ねたところ、第1冊の最後に書かれている明治10年に東京の小杉さんが書写したと思うと言っていました」とのご連絡をいただきました。わたしは問題の「年代歴」が収録されている第2冊ばかりを集中して読んでいましたので、第1冊末尾に書かれた小杉氏自らによる書写の経緯を記した「奥書」を、迂闊にも見落としていました。
 その「奥書」の冒頭には次のように、小杉氏が前田尊経閣本を書写したことが明記されていました。

 「二中歴十三帖 従四位菅原利嗣君〔舊加賀候前田家〕曽ノ秘蔵シ給フ所ノ古寫本ナリ 今茲明治十年六七月間タマタマ被閲スルコトヲ得テ頓ニ筆ヲ起シテ影寫神速ニ功成了」(後略)
 ※〔〕内は二行細注。一部現代字に改めました。

 そして最後に「九月廿?五日」「於東京駿臺僑居小杉榲邨 識」と、日付と所在地が記されています(?の部分の字は「又」のようにも見えます)。「僑居」とは「仮住まい」のことですので、明治10年に東京の駿河台に小杉氏は住んでいたことがわかります。
 以上から、国会図書館本の書写者が小杉榲邨氏であることが判明したのですが、わたしはこの「奥書」に見える「影寫」という表記に注目しました。「影写」とは、書写するときに底本の上に薄く丈夫な紙を置き、下の字を透かし写す書写方法のことで、「透写」とも呼ばれています。国会図書館本は「影写」技法を用いて前田尊経閣本を書写していたのです。
 このことを知り、わたしはずっと疑問に思っていた謎がようやく解けました。というのも、国会図書館本を初めて見たとき、わたしは前田尊経閣本と思ったのです。特に「年代歴」部分は幾度となく精査しましたから、その筆跡や文字の配置が前田尊経閣本にそっくりだったからです。しかし、全体の雰囲気や細部が異なり、やはり別物だと気づいたのですが、それにしてもなぜこんなにそっくりなのだろうかと不思議に思っていたのです。
 通常、写本は原本の内容を写すのですから、筆跡は書写者のものであり、原本とは異なるのが当然と考えていましたし、実際、これまでの古文書研究に於いて、原本と写本とでは筆跡や文字配置が異なるものばかり目にしてきたからです。
 小杉氏による「奥書」の「影寫」の二字を見て、この疑問が氷解しました。文献史学の醍醐味の一つは原本や写本調査にあります。活字本による研究とは異なり、その時代の筆者の息づかいまでが感じられるのですから。「奥書」の存在を教えていただいた齋藤さんに心より御礼申し上げます。なお、わたしのFacebookに同「奥書」を掲載していますので、ご覧ください。


第1246話 2016/08/05

長野県南部の「筑紫神社」

 「洛中洛外日記」第1240話「長野県内の「高良社」の考察(2)」を読まれた読者の方から、長野県南部の下伊那郡泰阜(やすおか)村に筑紫神社が鎮座しており、御祭神が高良玉垂命であることを教えていただきました。次のようです。

信濃国 伊那郷里に、「筑紫神社」が存在します。御祭神は、高良玉垂命 です。
長野県下伊那郡泰阜村字宮ノ後3199番
地図 https://goo.gl/maps/v7u5HuvdqcU2
因みに発見したときのブログです。
「伊那谷に 筑紫神社 があった!」
http://utukusinom.exblog.jp/12466291/

 地図を見ますと、かなり山奥のようです。しかも、現地では同神社に関する伝承が伝わっていないようで、「高良社」ではなく「筑紫神社」と称されていることも気になります。
 九州の高良信仰は在地性の強い信仰圏を有し、その神社は筑後地方に濃密分布しています。ですから、「筑後神社」というのならよくわかりますが、「筑紫神社」ではちょっと違和感があるのです。九州(筑紫)から勧請された神様を祀るので筑紫神社と銘々されたのか、あるいは九州が筑前と筑後の分国前(6世紀末以前)に信州にもたらされたため筑紫神社とされたのか、興味があるところです。
 こうした現地の情報が集まるのも、インターネットの利点です。ご連絡いただき、ありがとうございました。


第1245話 2016/08/05

「論証と実証」論の古田論文

 7月の「古田史学の会」関西例会での大下隆司さんからの「学問は実証よりも論証を重んじる」に関する発表を受けて、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)も8月の関西例会で同問題について報告されることになりました。
 わたしはこの「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉は学問の金言と理解していますが、古田先生から直接詳しい説明をお聞きしたことはありませんでした。ところが、「古田史学の会」会員で多元的「国分寺」研究サークルの肥沼さんが同サークルのホームページに、古田先生による解説文を転載されました。古田先生の「学問的遺言」とも言うべきものですので、ここに転載させていただき、ご紹介いたします(転載にあたり、若干の編集を行いました)。

多元的「国分寺」研究ホームページより転載

2016年7月29日 (金)
「論証と実証」論(古田論文を収録!)

 もしかしたら,「学問は実証より論証を重んじる」について,以下のところに書いていないでしょうか?「新古代学の扉」サイトを眺めていて,そう思いました。筑紫舞のことが載っている『よみがえる九州王朝』の復刻版で,ミネルヴァ書房のものです。
 以下,古田武彦著『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)より

日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論

          一

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

          二

 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 一例をあげましょう。
 三国志の魏志倭人伝には,直接「南米」そのものをしめす文面はありません。その点、狭い意味での「実証」では、「南米問題」は出てこないのです。
 しかし、倭人伝には次の文面があります。

①「(侏儒国)その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
②「(裸国・黒歯国)あり。またその南東にあり。船行一年にして至るべし」

 わたしが『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、倭人伝は、「短里」(七十五〜九十メートル。七十五メートルに近い)で記されているという立場からすれば、

(その一)「侏儒国」は足摺岬(高知県)近辺である。
(その二)「裸国・黒歯国」は南米のエクアドル近辺である。

 という、二つの命題に至らざるをえません。右の(その一)は「黒潮と日本列島の接点」であり、(その二)は「黒潮とフンボルト大寒流の接点」と対応しているのです。

 幸いに、わたしの「論証」は、“裏付け”られました。

(α)マラウージョ(一九八〇年)・フェレイラ(一九八三、八八年)の論文によって、化石ならびにミイラを通して日本列島側との交流が報告された(『「邪馬台国」はなかった』「補章 二十余年の応答」。ミネルヴァ書房版では三六六ページ)。

 さらに、

(β)南米の「インディオ」のウィルスと遺伝子が日本列島(太平洋側)の住民と「同一型」であることが証明された(田島和雄氏)。
(γ)南米の地名中の「スペイン語・ポルトガル語以外の地名」に「原初日本語」の存在が「発見」された(「トリ」「ハタ」「マナビ」等)。さらに有名な南米最大の湖「チチカカ湖」は、「チ(神の古名)」と「カ(神聖な水)」のダブリ言語(日本語では、チチブ山脈など)であり、「太陽の神の作りたもうた神聖な湖」(「アイマラ語」インカ語以前の諸言語)の意義であることが判明した(藤沢徹氏の報告による)。

 ここでも、日本語と南米の「原初語(地名)」がまさに“共通”していたのです。
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは、「論証」、この二文字だったようです。


第1244話 2016/08/02

「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が主催されている「誰も知らなかった古代史」セッションをご案内します。身近でフレンドリーな催しですから、初心者にもわかりやく、とても楽しい企画です。ご参加をお勧めします。

○第8回 9月23日(金)18時30分〜20時
「本当の邪馬「台」国」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

(場所)森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩5分)の2階「まちライブラリー」。定員30名(参加費ドリンク代500円)。
※参加申し込みはメール babdc106@jttk.zaq.ne.jp まで。

○第7回 8月26日(金)18時30分〜20時
「こわくてゆかいな漢字」
【カタリスト】張莉さん(大阪教育大学特任准教授)

(場所)森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩5分)の2階「まちライブラリー」。定員30名(参加費ドリンク代500円)。
※参加申し込みはメール babdc106@jttk.zaq.ne.jp まで。


第1243話 2016/08/01

『二中歴』国会図書館本の履歴

 「年代歴」末尾の「不記年号」問題に決着をつけた『二中歴』国会図書館本でしたが、その成立年代や書写者が不明でした。何とかその履歴を知りたいと思い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている同写本の画像を拡大熟視したところ、「杉園蔵」と読める蔵書印があることに気づきました。
 杉園(すぎぞの)さんという蔵書家のお名前に全く心当たりがなかったため、インターネット検索で調べたところ、杉園(すぎぞの)さんではなく、明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の号、「杉園(さんえん)」のことのようなのです。ネット検索によれば次のようにありました。

「天保5年12月30日生まれ。阿波徳島藩主蜂須賀氏の陪臣。江戸で古典などをまなび、尊攘運動にくわわる。維新後は文部省で「古事類苑」を編集し、明治15年東京大学講師、32年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝国博物館にも勤務し、美術品の調査や保存にあたる。明治43年3月29日死去。77歳。号は杉園(さんえん)。編著に「阿波国徴古雑抄」など。」

 文部省で「古事類苑」を編集されたり、帝国博物館では美術品の調査や保存に関わられたとのことてす。前田尊経閣文庫本の虫喰まで書き写すという国会図書館本『二中歴』の書写方法は、他の一般的な写本とは異なっており、「学術的原型模写」のための書写とすれば、よく理解できます。こうしたことから帝国博物館で美術品の調査や保存に関わっていた小杉榲邨であれば、国会図書館本を所持していたとしても不思議ではありません。ですから「杉園蔵」という蔵書印は『二中歴』国会図書館本の出所が小杉榲邨蔵書であることを示し、学術的模写の痕跡から、おそらくは明治時代に作成されたものと推測できます。
 以上のような『二中歴』国会図書館本の履歴が正しければ、前田尊経閣本の「不記」の虫喰や欠損は明治末年頃から更に進んだことになります。わたしの数少ない経験から考えても、虫喰が進んだ古本の取り扱いはとても難しく、虫喰でボロボロになった部分の破損が書写などの取り扱い時に更に進むことは避けられません。もしかすると国会図書館本作成(模写作業)時に、前田尊経閣本の劣化が更に進んだのかもしれません。そのため、後世になって「不記」論争が発生してしまったようです。
 なお、学問的に真の問題はここから始まります。31個の九州年号を列記した直後の文書になぜ「不記年号」などと史料事実に反しているような記述がなされたのかという問題です。この「不記年号」問題の本質はここにあります。このことに対するわたしの見解(回答)については拙論「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月。ミネルヴァ書房『「九州年号」の研究』に収録)に示しましたのでご参照ください。
 今回の新史料発見について、8月20日(土)の「古田史学の会」関西例会にて発表予定です。