2016年10月一覧

第1294話 2016/10/31

10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 10月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/10/02 古代史講演会2件のご案内
2016/10/08 湊哲夫『飛鳥の古代史』を読書中
2016/10/09 作業仮説「倭京論」の論理構造
2016/10/14 「邪馬壹国研究会・松本」が発足
2016/10/25 『季刊唯物論研究』誌からの執筆依頼


第1293話 2016/10/30

『続日本紀』の年号認識(3)

 『続日本紀』の中で最も注目されてきた年号記事が次の「聖武天皇の詔報」です。

 「詔し報へて曰く、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ」『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

 聖武天皇が治部省からの問い合わせに対して応えた詔勅に九州年号(倭国年号)の「白鳳」「朱雀」が現れており、古田先生はこの記事を九州年号実在の史料根拠の一つとされたことは有名です(古田武彦『失われた九州王朝』参照)。
 この詔報には二つの重要なテーマが含まれています。一つは、神亀元年(724)当時の聖武天皇の「発言」に前王朝の九州年号(倭国年号)がなぜ使用されているのかということ。二つ目は『続日本紀』編纂時(797年成立)において、『日本書紀』では存在を隠している前王朝(倭国)の年号が用いられている聖武天皇の詔報を、なぜ『続日本紀』に収録したのかというテーマです。
 一つ目の疑問については次のように考えることができます。すなわち大和朝廷の聖武天皇にとって、自らの王朝の最初の年号「大宝」以後の年次特定については自らの年号を用いて著すことが可能ですが、700年以前の九州王朝の時代の年次特定の方法は干支を用いるか、九州年号(倭国年号)を用いるか、『日本書紀』の紀年(○○天皇の即位何年)を用いるしかありません。
 本件のように白鳳時代(661〜685年)は神亀元年(724)よりも干支一巡以前の白鳳元年等も含まれており、干支で表記した場合、一巡前と同じ干支が神亀元年の直前にも存在することとなり、干支表記だとどちらの年かが判断できません。ですから干支表記は不都合となります。
 次に『日本書紀』紀年の使用も本件のような僧侶の「名簿」のような行政記録文書に関する場合は適切ではありません。というのも、700年以前の戸籍や「名簿」のような行政記録文書は九州王朝の時代ですから九州年号で記録されていたはずです。従って、本件の詔報のように行政記録の不備欠損に対する治部省の資料も700年以前は九州年号表記となっていたと考えられますから、聖武天皇の返答も九州年号を使用せざるを得ないのです。そもそも、治部省からの質問に「白鳳以来朱雀以前」の資料が不備欠損しているのでいかがしましょうかと、九州年号を使用して問い合わせていたと考えられます。そうでなければ、聖武天皇が「白鳳以来朱雀以前」とわざわざ九州年号により年代を限定して返答する必要がないからです。
 このように、聖武天皇の詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」は、大和朝廷が700年以前の年次特定を行う際に九州年号を使用していたという理解が可能となるのです。なお、二つ目の疑問についてはまだよくわかりません。何が何でも『続日本紀』に収録しなければならないような重要な記事とも思われないからです。引き続き検討します。(つづく)


第1292話 2016/10/29

『続日本紀』の年号認識(2)

 「建元」は一つの王朝にとって最初の年号制定を意味しますから、1回だけです。それ以降は「改元」が繰り返されるのですが、大和朝廷(近畿天皇家)にとっての「建元」は『日本書紀』にはなく、『続日本紀』に記された次の「大宝建元」記事だけです。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、大宝元年三月条(701)

 これ以後は現代の「平成」まで改元が繰り返されるのですが、『続日本紀』の「大宝建元」に続く、「慶雲」「和銅」「霊亀」「養老」の「改元」記事(詔勅)は次の通りです。

 「五月甲午(10日)、備前国、神馬を献る。西楼の上に慶雲を見る。詔して天下に大赦し、改元して慶雲元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、慶雲元年五月条(704)

 「和銅元年春正月乙巳(11日)、武蔵国秩父郡、和銅を献る。詔して曰く、(中略)故、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号と定め賜う。(後略)」『続日本紀』元明天皇、和銅元年正月条(708)

 「九月庚辰(2日)、禅を受けて、大極殿に即位す。詔して曰く、(中略)其れ和銅八年を改元して霊亀元年とす。」『続日本紀』元正天皇、霊亀元年九月条(714)

 「癸丑(17日)、天皇、軒に臨みて、詔して曰く(中略)天下に大赦して、霊亀三年を改元し養老元年とすべし、とのたまう。」『続日本紀』元正天皇、養老元年十一月条(716)

 この様に『続日本紀』において、「建元」と「改元」は明確に使い分けられています。この時代は大和朝廷が九州王朝に代わって列島の代表王朝になり、『古事記』や『日本書紀』編纂の時代ですから、当然、九州王朝の歴史的実在は自らも周囲の豪族たちも知悉していたはずです。この『続日本紀』における「建元」と「改元」の表記使い分けについて、大和朝廷一元史観の学者は全く説明できていませんし、特に古田先生の九州王朝説(九州年号説)が発表されてからは意識的に避けているようにも見えます。
 上記の「建元」「改元」記事で注目すべきは、「改元」記事は天皇の詔勅を記載しており、同時代の最高権力者による「発言」が『続日本紀』に採用されているのですが、大和朝廷にとって最も重要な「大宝建元」記事は「詔勅」の転載ではないことです。「大宝建元」の詔勅を文武天皇は出さなかったのでしょうか。それ以後は「改元」の詔勅を採用しているにもかかわらず、『続日本紀』では最も重要な「大宝建元」の詔勅がカットされているのです。『続日本紀』中では最初の年号制定である「大宝建元」の詔勅が出されなかったとは考えられません。
 それではなぜ『続日本紀』編者は「大宝建元」の詔勅をカットしたのでしょうか。恐らく文武天皇による「大宝建元」の詔勅には、九州王朝に代わって大和朝廷が列島の代表王朝になったことを高らかに宣言し、それまで国内で使用されていた九州年号(倭国年号)の無効と、自ら「建元」した「大宝」が正当な年号であることを国内配下の豪族たちに宣言した文言が「大宝建元」の詔勅にはあったはずです。ですから、その詔勅をそのまま『続日本紀』に転載したら、『日本書紀』が隠した九州王朝(倭国)の存在を認めてしまうことになるため、「大宝建元」の詔勅を転載できなかったと考えられるのです。
 ちなみに、701年に「大宝建元」したとき、九州年号の「大化・白雉・朱鳥」を盗用した『日本書紀』はまだ成立していません(成立は720年)。自らの史書に九州王朝や九州年号をどのように取り扱うかという編纂方針が確立する前に、「大宝建元」の詔勅が発布されたのではないでしょうか。
 『続日本紀』に「大宝建元」の詔勅が記されていないという史料事実について、古田先生の九州王朝説(九州年号説)ではこうした理解や説明が可能ですが、旧来の大和朝廷一元史観では、やはり説明不可能なのです。(つづく)


第1291話 2016/10/28

『続日本紀』の年号認識(1)

 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」のタイトルを持つ『古代に真実を求めて』20集の編集作業も本格的な段階に入りました。九州年号(倭国年号)特集号で、古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)以後の九州年号研究の最先端論文と、多くのコラム記事などにより構成された、読んで面白い一冊となりそうです。
 そこで改めて九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したとき、大和朝廷の年号認識がどのようなものであったのかを精査するため、『続日本紀』編者の年号認識について考えてみることにしました。『続日本紀』の成立は797年ですから、九州王朝が滅び、大和朝廷が列島の代表者になって約百年後です。その頃の近畿天皇家の歴史官僚の年号認識に迫ってみます。
 『日本書紀』には九州年号(倭国年号)の大化・白雉・朱鳥が盗用されていますが、『続日本紀』に一番最初に記されている年号が「白雉」です。文武天皇四年(700)三月条の道照和尚崩伝に見える次の記事です。

 「初め、孝徳天皇の白雉四年、使に従いて唐に入る。」『続日本紀』文武四年三月条

 孝徳天皇白雉四年(653)に道照が唐に渡った記事ですが、このことは『日本書紀』白雉四年五月条に記されています。その記事を『続日本紀』でも採用したものです。すなわち、「白雉」を孝徳天皇の年号とする立場に立った記述です。
 ところが翌年の文武天皇五年(701)の三月に「大宝建元」記事が現れます。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』大宝元年三月条

 「建元」とは王朝にとって初めて年号を制定することで、それ以降の年号変更は全て「改元」です。『日本書紀』の「白雉」年号を記載した翌年に「大宝建元」と表記することの矛盾に『続日本紀』編者が気づかないはずがありません。(つづく)


第1290話 2016/10/27

「御舟入」の淵源

 三笠宮殿下が薨去され、「昭和」や「戦後」が歴史となりつつあり、感慨深いものがあります。ご葬儀に関する報道で「御舟入(おふないり)」という言葉が用いられ、「納棺」のことと説明されていました。皇室では納棺のことを「御舟入」と称されていることに、この言葉は古代にまで遡るものではないかと思いました。
 『隋書』「イ妥国伝」によれば古代日本の葬儀の風習として、ご遺体を船に乗せて運ぶという次のような記述があります。

 「死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。」『隋書』「イ妥国伝」

 この葬儀の記事に続いて有名な阿蘇山の記事が見えます。

「阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。」

 九州王朝や北部九州におけるご遺体を舟に乗せるという風習を淵源とするのが、皇室における「御舟入」という言葉ではないでしょうか。「舟形石棺」や肥後北部に分布する石穴墓に見られるご遺体を安置する部分にある舟のような文様の彫り込みも、この風習に淵源するように思われます。
 「御舟入」という皇室用語に、九州王朝(倭国)と皇室(大和朝廷の末裔)の関係を感じるのですが、いかがでしょうか。


第1289話 2016/10/26

「九州古代史の会」11月と新春例会のご案内

 今年から交流を始めました「九州古代史の会(木村寧海代表)」11月例会と新春例会のご案内をいただきましたので、ご紹介します。
 11月例会では「古田史学の会」会員でもある中村通敏さんが講演されます。新春講演会では木村寧海代表と当地の高名な考古学者、井上信正さん(太宰府市文化財課主任主査)の講演です。井上さんのご講演には、スケジュールが許せば参加したいと思っています。概要は下記の通りです。詳細は「九州古代史の会」ホームページをご参照ください。

 九州古代の会 11月例会のご案内

日時 11月6日(日) 午後1:30
場所 早良市民センター 視聴覚室
   福岡市早良区百道2-2-1 電話 092-831-2321
テーマ
(1)タリシヒコ考「タリシヒコの謎に挑んだ人たち」
  講師 会員 中村通敏氏
(2)隋書イ妥国伝を読む
  講師 事務局長 前田和子氏
会費 「九州古代史の会」会員:無料 一般:500円

※12月例会 休会

新春講演会 1月15日(日)1:30
場所 ももち文化センター 第一研修室
テーマ
(1)百人一首の謎
  講師 代表 木村寧海氏
(2)太宰府古代都市と迎賓施設
  講師 太宰府市文化財課 主任主査 井上信正氏
※新年会 同日17:30〜 天神平和楼 4000円


第1288話 2016/10/25

大阪狭山池博物館特別展

     「河内の開発と渡来人」

 先日、「古田史学の会」で訪問見学と洛陽出土三角縁神獣鏡の講演会(西川寿勝さん)を開催した大阪府立狭山池博物館から、特別展のご案内とポスターが届きました。お世話になったお礼も込めてご紹介いたします。同博物館は安藤忠雄さんの設計で、それだけでも一見の価値があります。難点としてはやや入り口の場所がわかりにくいところですが。以下、同館ホームページからの転載です。

平成28年度特別展河内の開発と渡来人 -蔀屋北遺跡の世界-

期間:2016年10月8日(土)〜12月4日(日)
会場:特別展示室
展示概要:
  狭山池の築造には半島渡来人による土木技術が数多く取り入れられていることが知られます。近年、河内に定着した初期の渡来人の痕跡が発掘成果によって確かめられつつあります。今回、四条畷市蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)の渡来系遺物などを取り上げ、狭山池築造前の渡来人の動向を展示・公開します。
入場料:無料
主催:大阪府立狭山池博物館・大阪狭山市立郷土資料館
共催:四条畷市教育委員会
協力:古代の馬研究会
後援:南海電気鉄道株式会社・泉北高速鉄道株式会社

歴史学セミナー: 午後2時〜4時 会場‥2階ホール 定員‥126名(先着順)

第1回:2016年10月16日(日)
「蔀屋北遺跡の発掘成果」岡田賢 氏(大阪府教育庁文化財保護課)
「河内の開発と渡来人」西川寿勝(本館学芸員)

第2回:2016年11月5日(土)
「五〜六世紀の河内湖周辺の開発」田中清美 氏(帝塚山学院大学講師)
「五〜六世紀の北河内の集落動向」野島稔 氏(四条畷市立歴史民俗資料館館長)

第3回:2016年11月20日(日)
「河内馬飼と大和馬飼」平林章仁 氏(龍谷大学教授)

対談「追検証 古代の王権と馬飼」平林章仁 氏・工楽善通(本館館長)
古代の馬研究会シンポジウム:
日時:2016年10月29日(土)午後1時〜4時30分
会場:2階ホール
定員:126名(先着順)
発表者:丸山真史 氏(東海大学)・諫早直人 氏(奈良文化財研究所)・菊池大樹 氏(京都大学人文科学研究所)
討論会参加者:丸山真史 氏・諫早直人 氏・菊池大樹 氏・青柳泰介 氏(奈良県立橿原考古学研究所)・覚張隆史 氏(金沢大学)・積山洋 氏(大阪文化財研究所)・大庭重信 氏(大阪文化財研究所)・宮崎泰史(本館学芸員)
本館学芸員による展示解説:
とき:会期中の毎週日曜日 午前11時から30分間程度
ところ:特別展示室


第1287話 2016/10/22

江浦洋さん講演「大坂の陣を掘る」

 昨日は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)主宰セッション「誰も知らなかった古代史 第9回」を聴講しました。今回のカタリストは考古学者の江浦洋さん(大阪文化財センター次長)で、テーマは「大坂の陣を掘る」。豊臣時代の大坂城三の丸の堀の発掘調査での数々の成果を説明していただきました。
 堀の底に障子状の段差(堀障子)を設け、防衛力を強化していることや、出土木簡に記された戦国武将(菅平右衛門)の数奇な運命など興味は尽きませんでした。またNHKの大河ドラマの舞台となっている「真田丸」(大坂城の南東にあった防衛施設)をNHKが発掘を予定していることなども教えていただきました。
 質疑応答では、わたしは次の質問をしました。回答とともに記します。

(質問)難波宮よりもその北の大坂城の位置が標高が高いとされているが。
(回答)その通りです。ですから宮殿の北側にも何らかの施設があったとする意見もあります。
(質問)大坂城築城の前は摂津石山本願寺がありましたが、「石山」という地名から石が多いのですか。
(回答)当地には石は多くありません。埴輪などが出土していることから古墳の石室の石があったため、「石山」と呼ばれていたとする説もあります。

 このような回答があることは予想していましたが、わたしにはどうしても理解できない問題があって、再確認するために江浦さんに質問したのでした。それは次の疑問です。

1.上町台地北端に宮殿(前期難波宮)を造営するのに、なぜ最高地の場所(大阪城の位置)に造営しなかったのか。宮殿の北側の高地は宮殿防衛上からも重要な場所となる。

2.古墳の石室があったぐらいで「石山」という地名は大げさであり、古墳があった地を「石山」と呼ばれた例をわたしは知らない。

 このような疑問を抱いているのですが、わたしは次のような作業仮説(思いつき)を考えています。
 前期難波宮や難波京を造営した九州王朝は、それ以前に太宰府条坊都市を造営し、その北側には首都防衛のための大野城を築城しています。したがって、前期難波宮造営でも同様に北側の「高地」に石塁で囲まれた防衛施設を築城し、前期難波宮や難波京が攻められたとき、避難施設として使用する目的を持っていたのではないでしょうか。そして後に、この石塁で囲まれた「高地」が「石山」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。この作業仮説は証明が困難ですが、上記の疑問に答えることができる「思いつき」ではないでしょうか。
 なお、江浦さんには来年1月22日(日)の「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)で講演していただきます。前期難波宮発掘の成果を語っていただけます。とても楽しみにしています。

 


第1286話 2016/10/15

難波京朱雀大路延長線上の「字南門」地名

 本日の「古田史学の会」関西例会でも初参加の方からの自己紹介で始まり、興味深い報告が続きました。中でも谷本さんの難波京条坊や地名に関する報告は刺激的なものでした。
 谷本さんの報告によれば、難波宮を中心とする朱雀大路の南限(四天王寺よりも東南)に「南門」という字地名が明治期の地図に記されており、難波京の南限の門と推定できるとのこと。しかもその位置が現在の推定条坊ラインの中間に位置することから、考古学者により推定されている条坊ラインが間違っているのではないかとされました。その根拠として、推定条坊ラインの西限が上町台地の西側の谷の下に位置しており、そこは条坊の外としか考えられないと指摘されました。
 この谷本さんからの指摘を聞いて、わたしは現在推定されている一辺約265mの条坊ラインは二分割して、従来条坊間道路と見られていた条坊中間の道路遺構を条坊道路そのものと見なしてはどうかというアイデアを述べました。そう考えると、今回の谷本報告で明らかとなった四天王寺東南にある字地名「南門」の位置が条坊の中間ではなく、難波京域南限の「南門」として、ちょうど最南端条坊と朱雀門の交差点に相当する位置となります。そして西端の推定条坊ラインが上町台地の下部の谷町筋から、条坊半分だけ東へずれることができ、京域として妥当な位置となります。
 このアイデアはまだ思いつきにすぎませんが、列島最古の条坊都市で九州王朝の都があった太宰府条坊の一辺が約90mであることから考えても、難波京条坊の一辺を従来の約265mからその半分の約130mとする方が、九州王朝の条坊の時代変化(時代とともに拡大する)として穏当のように思われるのです。この件、引き続き検討します。
 10月例会の発表は次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
①安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した九州年号(八尾市・服部静尚)
②ロドリゲスの見た日本-地理と歴史-、その限界(八尾市・服部静尚)
③記紀の真実Ⅴ 推古紀が告げる近畿朝の真相(大阪市・西井健一郎)
④難波古地図偽作説の再検討(神戸市・谷本茂)
⑤「洛陽で発見された三角縁神獣鏡」雑感(京都市・岡下英男)
⑥九州王朝による九州一円の平定史(1)(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・11/26和水町で古代講演会・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・愛媛大学の細川隆雄先生(鯨の研究家)との懇談・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・その他


第1285話 2016/10/13

『古田史学会報』136号のご案内

 『古田史学会報』136号が発行されましたので、ご紹介します。
 本号には九州王朝都城論に関する基本的で重要な論稿が掲載されました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「古代の都城 -宮域に官僚約八千人-」です。7世紀における律令制度に基づく全国支配に必要な宮域(王宮・官衙)の規模を、『養老律令』に記載された中央官僚定員数や平安京や前期難波宮の宮域を図示し、八千人にも及ぶ官僚を収容できることが必要条件であると指摘されました。
 この服部さんの指摘により、今後、律令時代の九州王朝の都城候補を論ずるときは、これだけの規模の王宮・官衙遺構の考古学的出度事実の提示が不可欠となったのです。この規模の都城遺構を提示できないいかなる仮説も成立しません。ちなみに、この規模を有す7世紀における王都は太宰府と前期難波宮(難波京)、そして藤原宮(新益京)だけです。近江大津宮は王宮の規模は巨大ですが、周囲の都市化が進んでいるためか官衙遺構や条坊都市は未発見です。
 わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」と「『肥後の翁』と多利思北孤」を発表しました。九州王朝の兄弟統治の一例として、筑後の多利思北孤と鞠智城にいた「肥後の翁」を兄弟の天子とする仮説です。
 西村秀己さん(『古田史学会報』編集部)は古代官道南海道の変化が、九州王朝から大和朝廷への王朝交代に基づくことを報告されました。とても面白いテーマです。
 上田市の吉村八洲男さんは『古田史学会報』初登場です。古代信濃国の多元史観による研究です。このテーマは「多元的古代研究会」や「東京古田会」では活発に論議されています。「古田史学の会」でも関心が深まることが期待されます。
 136号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』136号の内容
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○「肥後の翁」と多利思北孤 -筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解- 京都市 古賀達也
○「シナノ」古代と多元史観 上田市 吉村八洲男
○九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案②
 九州王朝(銅矛国家群)と銅鐸国家群の抗争  古田史学の会・事務局長 正木裕
○〔書評〕張莉著『こわくてゆかいな漢字』 奈良市 出野正
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1284話 2016/10/08

古代山城サミット西条大会が開催

 愛媛県松山市の合田洋一さん(「古田史学の会・四国」事務局長、全国世話人)から『第6回 古代山城サミット西条大会資料集』が送られてきました。本年9月30日・10月1日、愛媛県西条市で開催された古代山城サミットの資料集です。最近の『季刊考古学』も「天智紀の山城」が特集されていましたから、ちよっとした古代山城ブーム到来かもしれませんね。わたしも、近年、熊本県の鞠智城の研究を始めましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も大野城山城の研究で成果をあげられています。偶然のタイミングの一致でしょうが、興味深いものです。
 同資料集は一元史観による遺跡解説に終始していますが、古代山城を有す全国の30自治体による写真付きでご当地の山城紹介記事が収録されており、史料価値も高いものです。送っていただいた合田さんに感謝申し上げます。「古田史学の会」としても『古代に真実を求めて』で「九州王朝の都城」特集を組んでみたくなりましたが、いかがでしょうか。


第1283話 2016/10/06

「倭京」の多元的考察

 九州年号「倭京」(618〜622年)は太宰府を九州王朝の都としたことによる年号であり、九州王朝(倭国)は自らの都(京)を「倭京」と称していたと考えていますが、『日本書紀』にも「倭京」が散見します。ところが、『日本書紀』の「倭京」はなぜか孝徳紀・天智紀・天武紀上の653〜672年の間にのみ現れるという不思議な分布状況を示しています。次の通りです。

○『日本書紀』に見える「倭京・倭都・古都」
①653年  (白雉4年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②654年1月(白雉5年正月条) 夜、鼠倭の都に向きて遷る。
③654年12月(白雉5年12月条) 老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」という。
④667年8月(天智6年8月条) 皇太子、倭京に幸す。
⑤672年5月(天武元年5月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
⑥672年6月(天武元年6月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑦672年7月(天武元年7月条) (前略)時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京は是れ本の営の処なり。固く守るべし」ともうす。
⑧672年7月(天武元年7月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑨672年9月(天武元年9月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 これら『日本書紀』に現れる「倭京」について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)から、壬申の乱に見える「倭京」は前期難波宮・難波京のことではないかとするコメントがわたしのfacebookに寄せられました。その理由は、当時の「倭」とは九州王朝のことであり、「倭京」は九州王朝の副都(西村説では首都)である前期難波宮のことと理解すべきというものです。このコメントに対して、わたしは当初半信半疑でしたが、『日本書紀』の「倭京」記事を再検討してみると、作業仮説としては一理あると思うようになりました。その理由は次の通りです。

1.『日本書紀』に「倭京」記事が現れるのは前期難波宮の時代(652年創建〜686年焼失)に限定されている。通説のように奈良県明日香村にあった近畿天皇家の王都であれば、推古天皇や持統天皇の時代にも「倭京」は現れてもよいはずだが、そうではない。
2.壬申の乱では「倭京」の争奪戦が記されているが、当時の最大規模の宮殿前期難波宮が全く登場せず、従来から疑問視されていた。しかし、「倭京」が前期難波宮・難波京のことであれば、大友軍(近江朝)や天武軍が争奪戦を行った理由がより明確となる。

 以上のように、従来説では説明できなかった問題をうまく解決できることから、「倭京」=前期難波宮・難波京説は作業仮説として検討に値するのではないでしょうか。
 九州王朝では倭京元年に造営した太宰府条坊都市を「倭京」と呼んでいたのであれば、副都の前期難波宮・難波京もある時期に「倭京」と称されていた可能性があります。その史料的痕跡が『日本書紀』の孝徳紀・天智紀・天武紀上だけに現れた「倭京」ではなかったてしょうか。引き続き、精査検討したいと思います。


第1282話 2016/10/05

済み『邪馬壹国の歴史学』出版記念

      ・福岡講演会のご案内済み

 昨年10月に亡くなられた古田先生追悼の書ともいうべき『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房、古田史学の会編)ですが、その出版記念講演会等を大阪・東京で開催してきました。その最後として、福岡市で講演会を開催します。内容は下記の通りです。会場は交通の便がよい久留米大学の福岡サテライト(福岡市天神)をお借りすることができました。
 日頃、お会いすることが難しい九州地区の会員や読者、古田武彦ファンの皆様との親睦も兼ねたいと願っています。講演会終了後は講師と希望者による懇親会(夕食会)も企画中です。多くの皆様のご出席をお願い申しあげます。

『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の内容

【日程】11月27(日)

【テーマ・講師】
①13時30分〜14時45分
 「『魏志倭人伝』と邪馬壹(台)国」
 正木裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)
②15時〜16時15分 
「日本最古の条坊都市 大宰府から難波京へ」
 古賀達也(古田史学の会・代表)
③16時15分〜16時45分
 質疑応答

【会場】久留米大学福岡サテライト
(福岡市中央区天神一丁目四番二号 エルガーラオフィス六階。西鉄「福岡天神駅」から徒歩で5分程度。JR博多駅からタクシーで10分)
【参加費】1000円(資料代)。
【主催】古田史学の会


第1281話 2016/10/04

小杉榲邨と喜田貞吉師弟

 『二中歴』国会図書館本の書写者、小杉榲邨(こすぎ すぎむら)氏については「洛中洛外日記」で紹介してきましたが、法隆寺再建・非再建論争で有名な喜田貞吉氏の東京帝国大学時代の恩師が小杉氏で、両氏は同郷(徳島県)だったことを知りました。
 吉川弘文館から発行されている『本郷』(2016.9 No.125)に掲載された千田稔さん(歴史地理学)の「『論争』の流儀 -喜田貞吉のこと-」を読みました。冒頭は次のような書き出しで、うなづけました。

 「学術研究は、つねに論争がつきまとう。健全なことである。いや健全でなければならない。ところが往々にして、喧嘩めいた様相がただよう。「正しい」「誤っている」という対立からもたらされる感情が研究の論理とは、別のところ刺激するからであろう。その点から見れば、研究上の論争は、まことに人間性をひきずっているとも言える。論敵から向けられた言葉の鋭さに、たじろぐこともある。」

 そして、法隆寺再建・非再建論争に喜田氏が関わったいきさつについて次のように紹介されています。

 「さて、法隆寺再建・非再建の論争のことである。喜田にとって法隆寺には関心がなかったが、明治三八年三月の中ごろ、東京帝国大学時代の恩師小杉榲邨(一八三四-一九一〇)先生を訪問したときに論争を知る。(中略)その場で、喜田ははじめて、再建・非再建について議論があることを知るのだが、喜田は、論点も吟味することなく、再建論の立場にあって、自説が否定されつつある恩師を、なんとか救いあげることに立ち上がるのである。研究者としては、信じがたい胆気である。(中略)喜田は、再建論について有利な論証ができるという自信はなかったが、水掛け論程度になら、引き戻せるであろうと、即日、筆を執って、『史学雑誌』と『歴史地理』に反論を発表する。」

 喜田貞吉氏といえば日本古代史学の大先達であり、古田先生の著作にもしばしば紹介される研究者です。わたしも喜田氏の著作や論文を少なからず読みましたが、法隆寺再建・非再建論争に関わった動機が、恩師への応援だったことに、氏のお人柄を初めて知ることができました。
 執筆者の千田稔さんは最後を次のように締めくくられています。

 「恩師を守るために異論に立ち向かうというような人情を現代の研究者がなくしつつあることに気付かせる。(中略)私は、再建論でよしとするが、それにしても、現法隆寺の施主については、複雑な人脈をたどらなければならないであろう。」

 8世紀初頭の和銅年間に法隆寺は再建されたとする見解が通説となっていますが、それでは金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像などが6世紀末から7世紀初頭のものであることの説明が困難です。やはり現法隆寺は7世紀初頭頃の九州王朝の寺院を8世紀初頭に移築したとする移築説が最有力です。そして、千田さんのいう「複雑な人脈」とは、九州王朝(倭国)から大和朝廷への王朝交代のことなのです。
 この『本郷』No.125は他にも面白い記事が掲載されており、大型書店で無料でいただけますので、お勧めです。


第1280話 2016/10/02

「誰も知らなかった古代史」のご案内

○第10回
11月23日(金)18時30分〜20時
「本当の海幸・山幸」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)

(場所)森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩五分)の二階「まちライブラリー」。
  定員30名(参加費ドリンク代500円)。

○申し込みは正木さんまでお葉書か電話・ファックス・メールで。
〒666-0115兵庫県川西市向陽台1-2-116
古田史学の会事務局長 正木裕
℡090-4909-8158
Email:babdc106@jttk.zaq.ne.jp

 

 

 

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が主宰されている「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内です。10月は江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)がカタリストとのことで、わたしも聴講したいと願っています。当日の出張が関西方面になればいいのですが。江浦さんには来年1月開催します「古田史学の会」主催の新春古代史講演会(大阪府立大学難波サテライト・i-siteなんば)でご講演していただくことにもなっています。そちらも楽しみにしています。

「誰も知らなかった古代史」セッション
 第9回、第10回のご案内

○第9回済み

10月21日(金)18時30分〜20時
「大坂の陣を掘る」
【カタリスト】江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)

 


第1279話 2016/10/01

9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 9月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/09/09 『多元』No,135のご紹介
2016/09/11 地球研の中塚武教授を訪問
2016/09/18 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
2016/09/27 『東京古田会ニュース』No.170を読む


第1278話 2016/10/01

水城防衛技術の小論争

 「古田史学の会」の研究仲間との間で水城の防衛方法についてのちょっとした論争(意見交換)をメールで行っています。もちろん、わたしも勉強中のテーマですので、まだ結論には至っていませんが、とてもよい学問的刺激を受けています。
 その論争テーマとは、水城は博多方面から押し寄せる敵軍に対して、事前に御笠川をせき止め、太宰府側に溜めた水を一気に放流し、せん滅する防衛施設であるという意見が出され、それに対して、そのような御笠川をせき止めたり、水圧に抗して一気に放流するような土木技術が当時にあったとは思えないという意見のやりとりです。
 わたしは後者の立場ですが、いつ攻めてくるかわからない敵のために御笠川をせき止めて太宰府を水浸しにするよりも、土手を高くするなり、堅固な防塁を増やしたほうがより簡単で効果的と思っています。
 そんな論争もあって、大野城市のホームページを見ると、そうした議論は以前からあり、現在では決着がついているとする解説がありましたので、転載します。歴史学的にも土木工学的にも面白いテーマだと思いませんか。

【大野城市HPから転載】
  『日本書紀』に「大堤を築き水を貯えしむ」と書かれている水城跡ですが、水をどのように貯えていたのでしょうか。
  このことについては古くから議論があり、中でも水城跡の中央部を流れる御笠川をせき止めて太宰府市側(土塁の内側)にダム状に水を貯め、博多湾側(土塁の外側)から敵が攻めて来た場合、堤を切って水を流し敵を押し流すという説が有力でした。
  ところが、昭和50年から52年にかけて九州歴史資料館が行った発掘調査によって、太宰府市側にあった内濠から水を取り、木樋を通して博多湾側の外濠に貯めるという仕組みが明らかになり、土塁と外濠で敵を防ぐという水城の構造が確認されました。