2016年12月一覧

第1315話 2016/12/31

2016年の回顧「研究」編

 2016年最後の今日、この一年間の『古田史学会報』に発表された研究の回顧にあたり、特に印象に残った優れた論文をピックアップしてみました。下記の通りです。
 いずれも多元史観・古田史学にふさわしいものです。中でも正木さんの九州王朝系「近江王朝」という新概念は、7世紀末における九州王朝から大和朝廷への王朝交代の実像を考えるうえで重要な仮説となる可能性があります。その可能性について論究したものが「番外編」に取り上げた拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷」ですが、両論稿をあわせて読んでいただければ正木説が秘めている王朝交代に迫る諸問題と「解」が浮かび上がることと思います。
 服部さんの二つの論稿は、律令官制に必要な都や官衙の規模を具体的に示されたものと、河内の巨大前方後円墳が近畿天皇家のものではない可能性を示唆されたもので、いずれも考古学への多元史観適用の試みです。今後の発展が期待されるテーマです。
 西村さんの論稿は、古代官道(南海道)の不自然な変遷が、九州王朝から大和朝廷へのONライン(701年)で発生した権力所在地の変更によるものであることを明らかにされたものです。この視点は他の官道の研究でも有効と思われます。
谷本さんの『隋書』などの中国史書に基づく官職名についての研究は、従来の古田説の部分修正をも迫るものです。
 2017年も古田史学・多元史観を発展させる研究発表と会報への投稿をお待ちしています。それでは皆様、良いお年をお迎えください。

○「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕(133号)
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚 (137号)
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己(136号)
○隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂(134号)

〔番外〕
○九州王朝を継承した近江朝廷
-正木新説の展開と考察- 京都市 古賀達也(134号)


第1314話 2016/12/30

「戦後型皇国史観」に抗する学問

 藤田友治さん(故人、旧・市民の古代研究会々長)が参加されていた『唯物論研究』編集部からの依頼原稿をこの年末に集中して書き上げました。市民の日本古代史研究の「中間総括」を特集したいとのことで、「古田史学の会」代表のわたしにも執筆を依頼されたようです。
 今日が原稿の締切日で、最後のチェックを行っています。論文の項目と最終章「古田学派の運命と使命」の一部を転載しました。ご参考まで。

「戦後型皇国史観」に抗する学問
-古田学派の運命と使命-
一.日本古代史学の宿痾
二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇
三.邪馬壹国説の登場
四.九州王朝説の登場
五.市民運動と古田史学
六,学界からの無視と「古田外し」
七.「古田史学の会」の創立と発展
八.古田学派の運命と使命
(前略)
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。(中略)
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
(二〇一六年十二月三十日記)


第1313話 2016/12/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」の出典

 古田先生が亡くなられて1年を過ぎました。亡師孤独の道をわたしたち古田学派は必死になって歩んだ一年だったように思います。これからも様々な迫害や困難が待ち受けていると思いますが、臆することなく前進する覚悟です。
 わたしが古田先生の門を叩いてから30年の月日が流れました。その間、先生から多くのことを学びましたが、今でも印象深く覚えている言葉の一つに「学問は実証よりも論証を重んじる」があります。古田史学や学問にとって神髄ともいえる言葉で、古田先生から何度も聞いたものです。この言葉の持つ意味については、『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に「学問は実証よりも論証を重んじる」という拙稿を掲載しましたので、ぜひご覧ください。
 この言葉は古田先生の恩師村岡典嗣先生の言葉とうかがっています。そのことにふれた古田先生自らの文章が『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)に収録された「日本の生きた歴史(十八)」に次のようにありますのでご紹介します。

「第一 『論証と実証』論

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
  『実証より論証の方が重要です。』
と。けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 『広島滞在』の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで『亡師孤独』の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
助手の梅沢伊勢三さんも、『そう言っておられましたよ』と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その『真意』については、『判りません』とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

 今のわたしから見ると、これは『大切な言葉』です。ここで先生が『実証』と呼んでおられたのは『これこれの文献に、こう書いてあるから』という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して『論証』の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき“必然の帰結”です。
(中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは『論証』、この二文字だったようです。」

 このように古田先生は、わたしが何度もお聞きした「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉についてはっきりと自著にも残されています。もしこの言葉が古田先生の著書には書かれていないという方がおられれば、それは事実とは異なります。


第1312話 2016/12/22

上賀茂神社の「白馬節会」

 今朝、京都駅に向かう京都市バスの中で、京都市交通局が発行しているリーフレット「おふたいむ」を読みました。2017年新年号で表紙には上賀茂神社の社殿風景が掲載され、同神社の新年の神事「白馬節会」の紹介記事がありました。そこには次のように記されていました。

 「1月中は多彩な行事が予定されており、元日から5日までの天候のよい日には、10時から15時頃まで神馬「神山号」が登場。7日の10時からは白馬奏覧神事(はくばそうらんしんじ)が行なわれる。これは年始に白馬を見ると一年の邪気が祓われるという宮中行事『白馬節会(あおうまのせちえ)』にちなんだものだ。」

 「白馬節会」と書いて「あおうまのせちえ」と訓むのですが、これは古代から行われている伝統行事です。「白馬節会」という言葉は古代史研究においてときおり古典で目にしており、「白馬」と書いて「あおうま」と訓むことに興味をひかれていました。その理由には諸説あるようで、わたしにも当否はわかりませんが、わたしの専門分野である染料化学や染色化学では、偶然のことかもしれませんが思い当たる節があります。
 テキスタイル業界では白い衣服をより白く見せる技術として蛍光増白剤を用いたり、黄ばみをごまかすために反対色の青色染料で薄く染色するという裏技があります。人間の目では黄色よりも青色の方が白っぽく感じるという性質を利用したものです。そこで古代でも濃度によっては「青」を「白」と感じていたのかもしれず、そのため「白馬」を「あおうま」と呼んだのではないかと考えています。もちろん史料根拠を見つけたわけではありませんので、今のところ思いつき(作業仮説)に過ぎません。
 色彩に関する日本語には不思議な表現が少なくありません。たとえば「緑の黒髪」という表現。これでは髪の色が「緑」なのか「黒」なのかはっきりしない表現です。「青息吐息」もそうです。青い色した「息」など見たことがありません。寒い日に吐く息は「白」だと思うのですが、先の「白馬節会」と同様に「白」を「あお」とする表現です。日本語は不思議ですね。


第1311話 2016/12/17

東大入試問題「古代」編に解答例

 「洛中洛外日記」1307話「東大入試問題『古代』編に注目」で紹介した次の問題に対する同書の解答例を転載します。

【問題】
 次の文章を読み、左記の設問に答えよ。

 西暦六六〇年百済が唐・新羅の連合軍の侵攻によって滅亡したとき、百済の将鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め、あわせて、日本に送られて来ていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで翌六六二年には、百済軍に物資を送るとともに、みずからも戦いの準備をととのえた。六六三年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み、百済と連携して唐・新羅連合軍に立ち向かい、白村江の決戦で大敗するまで、軍事支援をやめなかった。

 設問
 このとき日本の朝廷は、なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。次の年表を参考にしながら、国際的環境と国内的事情に留意して5行(一五〇字)以内で説明せよ。

六一二 隋、高句麗に出兵する(→六一四)。
六一八 隋滅び、唐起こる。
六二四 唐、武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王、唐から爵号を受ける。
六三七 唐、貞観律令を公布する。
六四〇 唐、西域の高昌国を滅ぼす。
六四五 唐・新羅の軍、高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
六四八 唐と新羅の軍事同盟成立する。
六六〇 唐・新羅の連合軍、百済を滅ぼす。
六六三 白村江の戦い。
六六八 唐・新羅の連合軍、高句麗を滅ぼす。
(1992年度の東大入試に出題)

 【解答例】
 7世紀には隋・唐が中国を統一し、律令を完成させて国域の拡大を進めた。こうして国際的緊張が高まると、朝庭は百済の復興を支援して朝鮮半島での拠点の確保に努めた。また、国内でも改新の詔で掲げた目標が豪族の反発で進まない状況に、中央集権国家の建設を進めたい朝庭は、軍事動員により権力の集中を図ろうとした。

 著者によるこの解答例や同書解説を読むと、東大がこのレベルの解答を150字以内で過不足なく書ける学生を求めていることがわかります。恥ずかしながら、わたしが受験生の年齢の時、到底このような解答は書けなかったでしょう。なお解答例に見られるよう、古代も現代も国家が軍事動員(戦争)を行う理由が、国際環境と国内事情の双方にあることがわかります。
解答例の「朝庭」を「九州王朝」とすれば、それなりに優れた解答と思われますが、「大化改新詔」を『日本書紀』の記述通り7世紀中頃と理解していることは、古代史学界の大勢の見解(通説)を反映したものと思われます。しかし現在の古田学派の研究状況からすると、『日本書紀』孝徳紀に記された「改新詔」は九州年号の大化期(695〜703年)に公布されたものと九州年号「常色」の改新詔が混在しているとする正木裕説が有力ですから、この点は解答例の認識とは異なります。
 最後に同書の解答例を援用しながら九州王朝説による解答例をわたしなりに考えてみました。次の通りですが、もっと優れた解答例があると思いますので、皆さんも考えてみられてはいかがでしょうか。

【九州王朝説による解答例】
 7世紀には隋・唐が中国を統一し、国域の拡大(侵略)を進めた。こうして国際的緊張が高まると、倭国(九州王朝)は自国防衛と同盟国百済復興のため朝鮮半島に大軍を派兵した。国内では評制など中央集権国家の建設を進め、首都太宰府の防備を固め副都難波京を造営し、唐や新羅からの侵略に備えた。


第1310話 2016/12/17

『倭人伝』「陸行一月」の計算方法

 本日の「古田史学の会」関西例会はバラエティーに富み、かつ質疑も濃密なものでした。一年を締めくくるにふさわしい内容で、とても勉強になりました。
 満田さんは例会デビューでした。厳しい批判が出されましたがめげることなく引き続き発表を続けられるとのこと。谷本さんからは『日本書紀』応神紀などの年代が信用できないことを詳細に説明されました。その中で、わたしが25年前に書いた論文中の年代判断の甘さも指摘され、冷や汗ものでしたが、久しぶりに読み直した自分の若い頃の論文に懐かしさを覚えました。
 正木さんからは「倭人伝」行程記事の「陸行一月」を陳寿がどのような基準で計算したのかについての研究報告がなされました。『初學記』や『太平御覧』に引用された「漢律」の規定によれば、使者が遠国に派遣される場合、5日働いて1日休む「五日得一休」であることを明らかにされました。その規定に基づいて「倭人伝」の里程を計算すると、どんぴしゃりで30日「陸行一月」になるのです。正木さんの中国古典調査力にはいつも驚かされるのですが、今回も見事な論証でした。『古田史学会報』での発表が待ち遠しいものです。
 12月例会の発表は次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
①古事記の中の「倭」と「夜麻登」(八尾市・服部静尚)
②魏志倭人伝の中にある卑弥呼の都(茨木市・満田正賢)
③神功皇后・応神天皇の年代をめぐって(神戸市・谷本茂)
④「四天王寺」、略称「天王寺」(京都市・岡下英男)
⑤「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(下)(吹田市・茂山憲史)
⑥文武天皇は「軽天皇」(相模原市・冨川ケイ子)
⑦住吉神は九州王朝の軍神であった。そして、当麻寺は九州王朝の官寺(奈良市・原幸子)
⑧太宰府を囲む「巨大土塁」と『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城(川西市・正木裕)
⑨『魏志倭人伝』の陸行一月について -陳寿は極めて厳密な史官だった-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転完了(2階)・千歳市の「まちライブラリー」で「古田史学コーナー」設置と12.23「植本祭」で講演(古田史学の会・北海道 今井俊圀さん「邪馬台国はなかった!?〜古代史の謎〜」)・11.26和水町で古代史講演会の報告・11.27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の報告(久留米大学福岡サテライト)・2016.11.14東京ダイワハウスで服部静尚さんが講演・12.24東京古田会例会で冨川ケイ子さん講演「河内戦争」・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・「他流試合」の勧め・12.03史跡巡りハイキングの実施報告・その他


第1309話 2016/12/12

『古田史学会報』137号のご案内

 本年最後となる『古田史学会報』137号が発行されましたので、ご紹介します。
一面には正木裕さんの、ニニギたち「日向三代」の陵墓や出身地を糸島博多湾岸とする古田説を「記紀」や地名・現地伝承などに基づいて具体的に考証した論稿が掲載されています。古田史学では有名なテーマですが、ここまで実証的に深められた論稿は珍しいと思います。

 服部静尚さんも快調に好論を発表されています。今号の論稿は河内の巨大前方後円墳は近畿天皇家の陵墓ではないとするものです。わたしが「九州王朝説に刺さった三本の矢」と表現した九州王朝説では説明できなかった三つの考古学的事実に対する一つの「回答」となるものです。更なる検証が期待されます。
わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(後編)」を発表しました。九州王朝が難波を直轄支配領域にした経緯について述べました。

 137号に掲載された論稿・記事は次の通りです。来年1月22日に開催する新春古代史講演会(大阪府立大学なんばサテライト)のご案内もあります。ぜひ、ご参加ください。

『古田史学会報』137号の内容
○筑紫なる「日向三代」の陵墓を探る 川西市 正木 裕
○新春古代史講演会(1月22日)のご案内
○九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) 京都市 古賀達也
○盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚
○神功の出自 千歳市 今井敏圀
○トラベルレポート 熊野三山へのチョイ巡り行 東大阪市 萩野秀公
○「壹」から始める古田史学Ⅷ 倭国通史私案③
九州王朝の九州平定-筑後から九州一円に 古田史学の会・事務局長 正木裕
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○お知らせ 古田史学の会論集編集中 西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1308話 2016/12/10

「古田史学の会」新春講演会のご案内済み

 来年1月22日(日)に「古田史学の会」新春講演会を開催します。正木事務局長によるご案内がfacebookに掲載されていますので、以下転載します。科学と考古学の最先端研究の講演がなされます。皆さんのご参加をお待ちしています。

【以下転載】
 新春1月22日(日)13時30分より、大阪府立大学なんばサテライト(I-siteなんば)の2階カンファレンスルームで新春古代史講演会を開催します。
参加費は1000円、当日受付です。
 演者は、大阪府文化財センター次長の江浦洋氏、総合地球環境学研究所教授の中塚武氏で、最新の前期難波宮の発掘成果と、遺跡出土木材の新しい年代測定法である「年輪セルロース酸素同位体比による測定法」を紹介します。
江浦洋氏は長年大阪府の遺跡発掘に携わってきた考古学者、中塚武氏は常に新たな分野にチャレンジしている気鋭の科学者です。
 考古学と科学、文献史学の「三位一体」で、古代の新しい歴史が浮かび上がることと思います。ぜひご参加ください。

講演会案内チラシPDF

◆I-siteなんばの住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
アクセスは、南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分。地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分、または地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分。


第1307話 2016/12/10

東大入試問題「古代」編に注目

 先日、新幹線車内で読もうと京都駅の売店で『東大のディープな日本史【古代・中世編】』(相澤理著)を買いました。同書冒頭に紹介されている古代史の入試問題が注目されたので購入したものです。それは次の問題です。

次の文章を読み、左記の設問に答えよ。

 西暦六六〇年百済が唐・新羅の連合軍の侵攻によって滅亡したとき、百済の将鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め、あわせて、日本に送られて来ていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで翌六六二年には、百済軍に物資を送るとともに、みずからも戦いの準備をととのえた。六六三年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み、百済と連携して唐・新羅連合軍に立ち向かい、白村江の決戦で大敗するまで、軍事支援をやめなかった。

設問
 このとき日本の朝廷は、なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。次の年表を参考にしながら、国際的環境と国内的事情に留意して5行(一五〇字)以内で説明せよ。

六一二 隋、高句麗に出兵する(→六一四)。
六一八 隋滅び、唐起こる。
六二四 唐、武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王、唐から爵号を受ける。
六三七 唐、貞観律令を公布する。
六四〇 唐、西域の高昌国を滅ぼす。
六四五 唐・新羅の軍、高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
六四八 唐と新羅の軍事同盟成立する。
六六〇 唐・新羅の連合軍、百済を滅ぼす。
六六三 白村江の戦い。
六六八 唐・新羅の連合軍、高句麗を滅ぼす。

 この問題は1992年度の東大入試に出題されたもので、わたしはこの中の「日本の朝廷」という表現に注目しました。通常であれば大和朝廷一元史観により「大和朝廷」とされるところですが、「日本の朝廷」という表現であれば、古田史学・九州王朝説にとっても穏当な設問として受け取れるのです。この問題を作成した人がそこまで考えて「日本の朝廷」という表現としたのかどうかはわかりませんが、さすがは東大の入試問題だと、妙に感心しました。
 1992年といえば、古田先生の九州王朝説が発表され学界に激震を与えて20年近く経ち、それに太刀打ちできず古田説無視を始めた頃ですから、入試問題も九州王朝説の存在を意識したうえで作られたものかもしれません。
 このような問題が高校生に出されたのですから、東大は、歴史の丸暗記ではなく自分で歴史事件の背景や事情を考えることができる学生を募集していることがわかります。一元史観の牙城として東大は表面的には微動だにしていません。しかし、インターネット時代の現代において、いつまで古田説無視が通用するでしょうか。(つづく)


第1306話 2016/12/04

現地説明会資料に「大宰府都城」の表記

 筑紫野市前畑遺跡で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会資料が、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきましたので、解説部分を下記に転載します。
 この解説で驚くべき表現が使用されています。なんと「大宰府都城(とじょう)」と記されているのです。さらに「東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡」と説明されています。筑紫野市教育委員会による、太宰府を「都城」とするこの表記はほとんど九州王朝説による解説といえます。九州王朝の故地では、考古学的出土事実が当地の考古学者を確実に九州王朝説へと誘っているかのようです。
 さらに土塁の造営を「7世紀後半」と認定し、「大宰府防衛の羅城」と理解されていますが、実はこの理解は大和朝廷一元史観に決定的な一撃を与える論理性を有しています。すなわち、この土塁が防衛すべき「大宰府政庁Ⅱ期」の宮殿も7世紀後半には存在していたことが前提となった防衛施設だからです。従来の8世紀初頭という「大宰府政庁Ⅱ期」の編年が数十年遡るわけですが、ことはこれだけでは終わりません。「大宰府政庁Ⅱ期」よりも太宰府条坊都市の成立が早いという井上信正説がここでも頭をもたげてくるのです。
 井上信正説に従えば、「大宰府政庁Ⅱ期」が7世紀後半成立となることにより、太宰府条坊都市は7世紀前半まで遡り、難波京(652年前期難波宮造営)や藤原京(694年遷都)よりも太宰府がわが国最古の条坊都市となってしまうのです。もちろん九州王朝説に立てば当然の結論です。
 犬塚さんが現地説明会で、この土塁(羅城)が守るべき太宰府の創建時期について質問されたそうですが、筑紫野市教育委員会の担当者が回答できなかったのにはこのような「事情」があったからです。地元の考古学者が井上信正説や九州王朝説を知らないはずがなく、大和朝廷一元史観を否定してしまう今回の発見に、彼らも本当に困っていることと思います。

【現地説明会資料から転載】
    平成28年 12月3日(土曜日)・4日(日曜日)
    筑紫野市教育委員会 文化情報発信課
新発見太宰府を守る土塁
前畑遺跡第13次発掘調査 現地説明会

1.発見された土塁(どるい)
 筑紫駅西口土地区画整理事業に伴い実施している前畑遺跡の発掘調査では、弥生時代前期〜中期の集落、古墳時代後期の集落と古墳群、窯跡、中世の館跡、近世墓などが発見され、遺跡が長期間にわたって形成されてきたことがわかりました。
 今回の丘陵部での調査では、7世紀に造られたと考えられる長さ500メートル規模の土塁が、尾根線上で発見されました。

2.土塁の構造
 土塁は大きく上下2層から成り、上層の外に土壌(どじよう:模式図紫部分)を被せた構造です。上層は層状に種類の異なる土を積み重ねた「版築」(はんちく:模式図緑部分)と呼ばれる工法で造られています。このような工法は特別史跡の水城跡(みずきあと)や大野城跡(おおのじょうあと)の土塁の土壌にも類似しており、7世紀後半に相次いで築造された古代遺跡に共通した要素と言えます。
 ただ、すでに知られている水城や小水城、とうれぎ土塁、関屋(せきや)土塁といった7世紀の土塁は、丘陵と丘陵の間の谷を繋ぎ、敵の侵入を遮断する目的で作られた城壁としての機能が想定されています。
 今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川から特別史跡基難城跡(きいじょうあと)に至るルート上に構築されたもので、丘陵尾根上に長く緩やかに構築された、中国の万里の長城のような土塁となっています。
 また、土塁の東側は切り立った斜面になっており、西側はテラス状の平坦面を形成しています。これは東側から攻めてくる敵を想定した構造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する意図を持って築かれたと考えられます。

3,前畑遺跡で発見された土塁の歴史的な背景
 このように都市を防御するために城壁(土塁や石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれていました。
 日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見された古代百済の首都・涸批(サビ)を守る扶余羅城(プヨナソン、全長8.4Km)があります。扶余羅城は、北と東の谷や丘陵上に土塁を構築し、西を流れる錦江(白馬江)を取り込んで羅城としています。自然の濠ともいうべき、河川をうまく利用して羅城を築いていることになります。
 日本書紀によれば、660年に滅んだ百済の遺臣達によって、この筑紫の地に664年に水城、665年には大野城と基難城が築造されており、脊振山系や宝満山系などの山並みの自然地形を取り込んだ形で大宰府にも羅城があったのではと長く議論されてきました。前畑遺跡の土塁は丘陵尾根上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると、低地から宝満川へ至ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代の東アジア最大となる全長約51Kmにおよぶ大宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってきました。

4.土塁の評価
 前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡です。
 このような巨大な都市が建設されるのを契機に、「日本」の国号や「天皇」といった用語が史料に現れ、「律令(りつりょう)」という法治国家の制度が整備され、現在の日本の原形としての古代国家が成立しました。前畑遺跡から見る景色は日本のあけぼのを感じる特別な眺望といえるのではないでしょう。


第1305話 2016/12/04

太宰府防衛土塁の現地説明会報告

 筑紫野市で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会が12月3日に開催されたそうで、参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から報告メールと写真が送られてきました。写真はわたしのfacebookに掲載していますので是非ご覧ください。犬塚さんのご了解をいただきましたので、メールを転載します。

【以下、メールから転載】
本日筑紫野市で発見された土塁の現地説明会がありました。
天候にも恵まれ多くの見学者や報道機関が集まり関心の高さが窺えます
筑紫野市教委の担当者も、これほど反響があるとは思わなかったとのことです。
さて、説明は別添資料に沿って行われましたので読んでいただければと思いますが、
資料にない説明及び質問に答えた部分については以下のとおりです。
 
●土塁の西側(内側)のテラス状になった部分は兵士が移動する道路として使用されていた。烽火がうまくいかなかった場合兵士がこの道路を走って連絡に行ったと思われる。
 
●大宰府羅城推定図にある外郭線が阿志岐山城と繋がっていないのは、阿志岐山城が西側(大宰府側)に向いて築かれていることから、羅城の外城として築かれた可能性が考えられるためである。
 
●この土塁と阿志岐山城の間を流れる宝満川も外郭線としていたと考えられるが、これは扶余羅城が錦江を外郭線としていたのと同じである。
 
●この土塁からは北に大野城や阿志岐山城、西に基肄城がよく見える位置にある。当時は水城も見えたと思われる。軍事上このようなロケーションは非常に重要である。
 
●このような羅城を造るためには、相当な人員とそれを支える住居、食糧補給等が必要だが、どのような体制で造られたか不明。
 
●この土塁が造られた時期が7世紀とする直接の根拠はないが、7世紀と判断した根拠は三つある。
 一つは、土塁のテラス状の道路が8世紀に使用されていたことと土塁の下にある古墳時代の遺跡が6世紀のものであることがわかっており、その間に当該土塁があること。
次に、この土塁は版築という工法で造られており、7世紀に造られた水城などの工法と同じであること。
 最後に、7世紀の東アジアが、このような防御施設が必要とされるような状況にあったこと。
 これらのことから7世紀と判断した。
 
 このような大規模な「大宰府羅城」が造られたとすれば、守るべき太宰府はいつごろできたのかと質問したのですが、はっきりした答えはありませんでした。「白村江の敗戦後に水城だけでも短期間ででできたとは思えない。」とのことでしたので、羅城全体となるとかなりの期間が必要ですが、その前に太宰府が存在する必要があるとするとどのような説明ができるのでしょうか。
 説明資料に太宰府が描かれていないのはそのためでしょうか。
 
 以上現地説明会の報告です。
 
犬塚幹夫


第1304話 2016/12/04

漢風諡号「孝徳」の出典

 『東京古田会ニュース』に『二中歴』関連研究の投稿原稿執筆のため、『二中歴』影印本を読み直したのですが、孔安国による「古文孝経序」が収録されていることに気づきました。孔安国は孔子十一世の子孫(前漢時代の学者。『孔子家語』の作者)とされる人物です。『古文孝経』には孔安国による「序」が付されていますが、その「古文孝経序」が『二中歴』「産所歴」冒頭の「読書」に収録されています。
 『二中歴』所収「古文孝経序」はわたしのfacebookに掲載していますのでご覧ください。その「古文孝経序」に「大化」と「孝徳」という文言があり、『日本書紀』孝徳紀に見える九州年号「大化」と、後に追号された漢風諡号「孝徳」と関係があるのではないかと思いました。「古文孝経序」の当該部分は次の通りです。

「上有明王則大化滂流充塞六合」(上に明王あれば則大化滂流し、六合に充塞す。)
「夫孝徳之本也」(それ孝は徳の本なり。)

 「古文孝経序」や『孝経』の内容や意味については触れませんが、もしこの「大化」「孝徳」の文字が『日本書紀』と偶然の一致でなければ、『日本書紀』に追記された漢風諡号を作成したとされる淡海三船(722〜785)は孔安国の「古文孝経序」を読んでいたことになります。そうであれば、淡海三船は『日本書紀』の「孝徳紀」に見える「大化」という年号と「古文孝経序」に見える「大化」を意識して、漢風諡号も「古文孝経序」にある「孝徳」を選んだということになります。
 以上、わたしの思いつきに過ぎませんが、『日本書紀』の漢風諡号の成立経緯や出典を考える上で、ヒントになるかもしれません。なお、この思いつきについて先行説があるかもしれません。ご存じの方はご教示ください。