2017年03月一覧

第1360話 2017/03/26

井上信正さんの問題提起

 井上信正さんは太宰府条坊と大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の遺構中心軸がずれていることを発見され、従来は共に8世紀初頭に造営されたと考えられていた条坊都市とその北側に位置する大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は異なる「尺」単位で区画設計されており、条坊都市の方が先に成立したとされました。すなわち、条坊都市は藤原京と同時期の7世紀末、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は従来説通り8世紀初頭の成立とされたのです。
 その暦年との対比は同意できませんが、条坊都市が先に成立していたとする発見は画期的なものと、わたしは高く評価してきました。そしてその優れた洞察力は前畑土塁や水城などの太宰府防衛遺構についても発揮されています。「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された井上さんの「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論と紹介しましたが、その中でわたしが最も驚いたのが次の問題提起でした。

 「中国系都城での『羅城』は条坊(京城)を囲む城壁を指すが、7〜9世紀の東アジアには、条坊のさらに外側に全周巡らす版築土塁の構築例は無い。また仮に百済系都城に系譜をもつ『羅城』だったとしても、この中にもうける『居住空間』をこれほど広大な空間で構想した理由・必要性と、後の『居住空間』となる大宰府条坊はそれに比してあまりに狭く、大宰府の拡充に反して街域が縮小された理由も説明されなくてはならない。」(41頁)

 この井上さんの問題提起は次のようなことです。

1.水城や大野城・基肄城・前畑土塁などの版築土塁(羅城)で条坊の外側を囲まれた太宰府のような都城は、7〜9世紀の東アジアには構築例が無い。
2.これら版築土塁等よりも後に造営される太宰府条坊都市の規模よりもはるかに広範囲を囲む理由や必要性が従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
3.8世紀初頭、大宝律令下による地方組織である大宰府(政庁Ⅱ期)が造営されているのに、街域(条坊都市の規模)が縮小していることが従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
4.こうした問題を説明しなければならない。

 こうした井上さんの指摘と問題提起は重要です。すなわち、大和朝廷一元史観では太宰府条坊都市とそれを防衛する巨大施設(水城・大野城・基肄城・土塁)が東アジアに例を見ない様式と規模であることを説明できないとされています。考古学者として鋭く、かつ正直な問題提起です。
 ところがこれらの問題や疑問に答えられるのが九州王朝説なのです。倭国の都城として国内随一の規模を有すのは当然ですし、唐や新羅との戦いに備えて、太宰府都城を防衛する巨大施設が存在する理由も明白です。他方、701年の王朝交代以後は権力の移動により街域が縮小することも不思議ではありません。このように、井上さんの疑問や問題提起に九州王朝説であれば説明可能となるのです。


第1359話 2017/03/26

前畑土塁は「羅城」「関」「遮断城」?

 「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録されている井上信正さん(太宰府市教育委員会)の「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論でした。
 中でも前畑土塁の性格について、中国や朝鮮の羅城や城郭との比較により、太宰府防衛のための「水城・前畑土塁は羅城と捉えるよりむしろ『関』に連なる遮断城とみた方がよいのではないか。」との指摘は興味深いものでした。その根拠は、「羅城」は条坊都市を囲んだ城壁を意味するとのことで、水城・前畑土塁は太宰府条坊都市よりもはるかに広大な領域を囲んでいることから、「羅城」との表現は適当ではないとされました。また、水城や前畑土塁には古代官道が通過していることから「関」の役割も果たしており、さらに和歌に「水城の関」と表現された例もあり、「『関』に連なる遮断城」とする井上さんの見解に説得力を感じました。
 井上論文では前畑土塁の築造年代についても次のように推定されています。

 「出土品から時期判定ができないのは残念だが、その構築方法を観察すると、扶余羅城・水城と比べて退化(あるいは手抜き)しているように見え、後出する可能性もあろう。」(41頁)

 ここでの「構築方法」とは土塁基盤(地山)と版築土塁の間に黒褐色粘土を挟む工法のことで、水城や前畑土塁に共通したものです。こうした視点から、井上さんは前畑土塁の築造時期を水城と同時期かそれよりも遅れる可能性を指摘されています。したがって、先に紹介した放射性炭素年代測定や「筑紫地震(679年)」の痕跡とあわせて判断すると、7世紀後半で679年以前の築造とする理解が有力と思われるのです。(つづく)

《ご案内》6月18日(日)、井上信正さんをお招きして「古田史学の会」大阪講演会を開催します。参加費無料。井上さんの御講演を関西でお聞きできる貴重な機会です。
 会場:エル大阪(大阪市中央区北浜)
 日時:6月18日(日)13:20〜16:00 (16:00〜17:00 会員総会)
 懇親会(夕食会):17:30〜(当日、参加受付)


第1358話 2017/03/25

前畑遺跡土塁に地震の痕跡

 「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」によれば、出土した炭片の放射性炭素年代測定値から、土塁の築造時期は「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末〜古墳時代3〜4世紀)よりも新しいということがわかるのですが、他の収録論文によれば推定築造年代の下限もわかるようです。
 同資料集に収録された松田順一郎さん(史跡鴻池新田会所管理事務局)の「前畑遺跡の土塁盛土にみられる変形構造」に、この土塁には地震による変形の痕跡があることを次のように紹介されています。

 「土塁上部東西両肩部の破壊にかかわるせん断面、土塊の移動と、初生の薄層積みおよび土塊積み盛土構造の層理・葉理の変形は、多方向で繰り返す応力によって発達しており、部分的には液状化をともなうと考えられるので、過去の地震動で生じた可能性が高い。」

 そして強度が震度6以上と推定されることから、その地震は「筑紫地震(679年)」とされ、当土塁が築造されたのは679年以前とされました。

 「本地域においてそのような強度で発生した古代の地震として679年の「筑紫地震」の記録がある。その後にはとくに強い地震の記録はなく、土塁の構築年代はそれ以前と考えられる。」

 先の放射性炭素年代測定値と「筑紫地震」の痕跡により、土塁の造営年代を4世紀頃から679年の間にまで絞り込むことができたのでした。(つづく)


第1357話 2017/03/24

前畑遺跡筑紫土塁の炭片の年代

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)よりいただいた「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」(西海道古代官衙研究会編、2017年1月22日)に前畑遺跡筑紫土塁の盛土から出土した炭片の炭素同位体比年代測定値が掲載されていました。
 同誌に収録されている「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」(筑紫野市教育委員会 小鹿野亮、海出淳平、柳智子)によれば、「土塁の基盤および土塁を構成する盛土堆積物より出土した炭片」3点の放射性炭素年代測定の結果(補正値)として、「試料こ」cal BC0-cal AD89(弥生時代後期)、「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末〜古墳時代3〜4世紀)、「試料き」cal BC696-540(弥生時代前期)と紹介されています。
 紀元前7世紀から紀元4世紀までのかなり年代に差があります。これらの測定値から、土塁築造にあたり使用した土に古い時代の炭片が含まれていたことがわかります。従って、放射性炭素年代測定の結果がそのまま土塁の築造年代を意味しないことをご理解いただけると思います。この炭片の測定値から論理的に言えることは、土塁の築造時期は「試料い」calAD238-354(弥生時代終末〜古墳時代3〜4世紀)よりも新しいということであり、築造年代はそれ以外の根拠(出土土器編年など)に依らねばなりません。
 「理科学的年代測定値」をそのまま測定サンプルを採取した遺物・遺構の成立年代とすることは科学的ではないのです。(つづく)


第1356話 2017/03/18

九州王朝の大尺と小尺

 本日の「古田史学の会」関西例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された古代の「高麗尺」はなかったとするテーマで、九州王朝「尺」についてわたしとの質疑応答が続きました。その討論を経て、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用したとの見解に収斂しました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)があげられます。しかしながら、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が「不明」で、引き続き、検討することになりました。この点については、6月の「古田史学の会」会員総会記念講演会の講師・井上信正さん(太宰府市教育委員会)にもお聞きしようと思います。
 前期難波宮の条坊単位も北朝尺(30cm弱)によっているようですので、九州王朝は7世紀初頭から前期難波宮造営の7世紀中頃までは北朝尺で、大宰府政庁・観世音寺の新条坊エリア造営の670年(白鳳10年)頃にはそれとはやや異なった「尺」を用いたと考えられます。大宝律令の大尺と小尺は九州王朝が採用していた北朝尺と南朝尺を反映したものではないでしょうか。服部さんの発表と討論によって、九州王朝「尺」に対する認識が深まりました。
 3月例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
①「東山道十五国」の比定 -山田春廣説の紹介-(高松市・西村秀己)
②高麗尺やめませんか(八尾市・服部静尚)
③師木の波延から追う神武帝と国号日本の原姿(大阪市・西井健一郎)
④6〜7世紀の王墓と継躰天皇陵(神戸市・谷本茂)
⑤晋書の西南夷とは(茨木市・満田正賢)
⑥「帝王本紀」・「帝紀」について(東大阪市・萩野秀公)
⑦『神功紀』が語る「八十梟帥討伐譚は邇邇芸命らの肥前討伐譚からの盗用」(川西市・正木裕)
⑧全盛期の九州王朝を担った筑後勢力 -筑後は倭国の首府だった-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 2/25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7/08 久留米大学で古賀が講演予定・2/22NHKカルチャーセンターで谷本氏が講義・2/23「古代史セッション」(森ノ宮)で笠谷和比古氏(日本国際日本文化センター名誉教授)が講演・筑紫野市「前畑遺跡筑紫土塁」保存の署名協力要請・『唯物論研究』138号発刊と内容説明・『古田史学会報』投稿要請・西村竣一氏(東京学芸大学元教授・日本国際教育学会元会長)の訃報・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会5〜7月会場変更の件(ドーンセンター)・3/27「古代史セッション」(森ノ宮)で正木氏が講演予定・今月の新入会員情報・『多元』に古賀論稿が掲載・その他

○服部編集長から『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』発刊の報告。(出版記念講演会を東京・福岡などで開催を企画中)


第1354話 2017/03/16

敷粗朶の出土状況と水城造営年代

 『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ 平成13・14年』によると、敷粗朶が検出された水城遺構について次のような説明がなされています。
 敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたことが従来の発掘調査により知られていました(3層の敷粗朶を発見)。ところが平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたものです。また、以前に発見されていた敷粗朶は水城土塁と平行方向に敷かれていましたが、今回のものは直角方向に敷かれていました。その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層が、400年もかけて築造されたものとは思えない出土状況です。単純計算では約4mm/年の築造ペースとなりますが、これはありえないでしょう。
 敷粗朶層最上層からサンプリングされた粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値660年を重視すると、敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は7世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智3年(664)とする記事と矛盾しないことになります。このことは、水城を白村江戦以前のかなり早い時期から長期間を要して造営されたと考えてきた従来の九州王朝説からすると意外ですが、引き続き検討したいと思います。(つづく)


第1355話 2017/03/17

敷粗朶のサンプリング条件と信頼性

 水城造営年代の判断材料の一つとなる敷粗朶とその炭素同位体比年代測定値について、さらに深く検討してみましょう。『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』によると、地表から2m下位に敷粗朶最上層があり、以下、11層の敷粗朶が発見されました。その統一された工法や1.5mの厚さに11層あることなどから、恐らく短期間に造営されたと考えざるを得ない遺構状況を示していることは既に指摘した通りです。
 粗朶の測定サンプルは3点で、その内の1点は地表から発掘を続けて最初に発見された敷粗朶最上層からのサンプルで、「GL-2m」とネーミングされています。測定の中央値が660年とされたものです。最上層敷粗朶面の写真も開示されており、確実に最上層の粗朶と断定できるサンプリング条件であり、サンプルの信頼性も高いものです。
 その他の2点について、内倉稿では「中層430年±」と「最下層240年±」と表記されているのですが、調査報告書では「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」とネーミングされており、「坪堀」という狭い範囲での発掘で、しかも位置が異なります。層位についてもどちらが深いのか具体的な説明もなく、相対的な深度もよくわかりませんでした。考古学の専門家であればわかるのかもしれませんので、この点、引き続き調査します。ただ、最上層の粗朶とは発掘方法(サンプリング方法)が異なることは間違いないようです。このことが、サンプルの信頼性に差をもたらしているかもしれません。
 いずれにしましても、短期間に築造された敷粗朶層からの3サンプルの測定がこれほど異なっているのですから、そのサンプルや測定結果の信頼性が疑われるのも当然です。特に敷粗朶最上層の「GL-2m」とは発掘方法が異なる「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」のサンプルに問題があるのではないかとする判断は妥当なものです。従って、本来なら測定結果からサンプルに疑義が生じた時点で、他のサンプル(合計32サンプルが採取されています)の測定を実施すべきです。もし、わたしの勤務先の製品検定において、これほどの不自然な測定値が出たら、再測定やサンプル数を増やしての追加測定を行うよう指示したでしょう。ですから、調査報告書に「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」(142頁)と記されていることはよく理解できます。当時は予算的な問題があったのかもしれませんが、九州歴史資料館が再度これらの粗朶サンプルの測定を実施されることを希望します。(つづく)


第1353話 2017/03/15

敷粗朶による水城の造営年代

 水城造営年代の根拠となる炭素同位体比年代測定値には先に紹介した木樋以外に、基底部補強に使用された敷粗朶があり、九州歴史資料館が測定しています。
 内倉さんの『多元』掲載論稿にもその測定値が紹介されていますが、出典文献が明示されていませんので、わたしが調査したところ、『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(九州歴史資料館、二〇〇三年)の「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」と「9 水城第三五次調査(出土粗朶 年代測定)」にサンプリングの状況や方法とともに詳しく記されていました。
 内倉稿によると、水城から出土した敷粗朶の年代測定値として最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年と紹介され、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠の一つとされているようです。しかし、内倉稿にはこれら敷粗朶の出土位相やサンプリング条件などが記されていませんし、どの調査報告書によるのか出典も不明でした。従って、内倉稿だけを読むと、水城築造に当たり使用された敷粗朶の年代測定値から、水城は3世紀頃から延々と築造され、400年程かけて7世紀中頃に完成したと思ってしまいそうです。当初、わたしも内倉稿により、そのように理解していました。(つづく)


第1352話 2017/03/12

炭素同位体比年代測定による水城の造営年代

 太宰府条坊の造営年代を判断する上で、同時期に築造されたと思われる水城について検討してみます。幸いに水城からは炭素同位体比年代測定データが存在します。一つは水城基底部の敷粗朶(三層)、もう一つは基底部に埋設された木樋です。
 構造物としての水城は、土塁、濠、導水管として埋設された木樋、東西に置かれた門やそこを通過する官道、中央を貫流する御笠川などで構成されます。土塁は上下に分かれ、上層は版築工法によるものです。下部の基底部の積土の単位は厚く、最下層付近には軟弱な地盤に対する積土の基礎強化を目的とした、枝葉を敷き詰めた敷粗朶工法がみられます。
 濠は、土塁の博多側の外濠、太宰府側の内濠とからなり、外濠は土塁に平行する形で幅約六〇m。内濠は土塁と平行する形で一部確認されていますが、全体の規模は不明です。
 この内濠から取水して外濠へ水を流し込むため、木樋が基底部に埋設されています。土塁幅と同じく約八〇mにわたる大規模なもので、複数発見されています。板材を繋ぎ合わせるための加工方法や、大型の鉄製カスガイを使用するなど高度な建築技術がみられます。
 水城の東西には門が置かれ、官道が敷設されていたことが分かっています。水城の中央を流れる御笠川については、貯水、あるいは交通機能を持っていたと考えられています。
 わたしが注目するのが基底部に埋設された木樋です。内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房、二〇〇〇年)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、西暦四三〇年±三〇年とのこと。この測定は一九七四年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると五四〇年ごろになりそうだ。」(一九三頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注)で補正したところ、約五四五年頃となりましたので、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代が五四〇年頃ということがわかります。水城の木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですが、伐採年は五四〇年より数十年新しい可能性を有しています。少なく見積もってもこの木樋に使用した木材の伐採年は六世紀後半となるでしょう。そうすると六世紀後半の木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その後に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は六世紀後半から七世紀初頭以降となります。
 こうした木樋の炭素同位体比年代測定値から判断すると、水城は七世紀前半に造営された太宰府条坊都市防衛のため同時期に築造されたと考えて問題ありません。この場合、太宰府条坊都市造営を七世紀前半とするわたしの理解と整合します。(つづく)

(注)『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)所収「二一表」


第1351話 2017/03/11

太宰府都城の造営年代

 太宰府都城の年代を論じる場合、現在の研究水準からすれば、条坊都市、その北部の政庁や観世音寺、水城、大野城、基肄城などを個別に年代を判断しなければなりません。「都城」というからには、それら全てを含みますから、学術論文であれば丁寧に分けて論じる必要があることは言うまでもないでしょう。
 わたしは太宰府条坊都市部分の成立を七世紀前半(倭京元年〔六一八〕が有力候補)、北部エリアの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺などを七世紀後半(白鳳十年〔六七〇〕頃)の成立と考えていますが、残念ながらそれらの遺構から出土した木材等の炭素同位体年代比測定のデータの存在を知りません。まだ測定されていないのかもしれません。
 大野城については出土した柱の炭素同位体比年代測定がなされており、650年頃とする測定値が発表されています(西日本新聞 2012年11月 23日)。このことから、大野城は大宰府政庁Ⅱ期と同時期に造営されたと考えることができそうです。その規模と城内に点在する倉庫遺構の存在から、大野城は太宰府政庁の北の守りと条坊都市住民の為の逃げ城の性格を有しているようです。
 他方、博多湾方面からの敵の侵入から太宰府を防衛する為の水城は条坊都市とほぼ同時期の造営と考えていますので、水城の造営年代を炭素同位体比年代測定値を参考に検討してみることにします。(つづく)


第1350話 2017/03/10

炭素同位体比年代測定値の性格

 友好団体「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.138に掲載された内倉武久さんの「太宰府都城は五世紀中ころには完成していた」を興味深く拝見しました。内倉さんが太宰府都城の成立を五世紀中頃とされた根拠は炭素同位体比年代測定(14C)データという「実証」でした。よい機会ですので、古代史研究に使用する際の炭素同位体比年代測定値の性格について整理しておきたいと思います。
 古代遺跡や遺物の年代判定において、従来の土器や瓦の相対編年に対して、理化学的年代測定が科学技術の進歩とともにますます重視されるようになりました。炭素同位体比年代測定もその一つですが、絶対年代の判断材料になるという長所と同時に留意すべき弱点も持っています。従ってこの弱点や限界を正確に理解しておかないと、誤判断が避けられません。
 わたしの本業は化学ですが、勤務先の品質保証部で製品検定などにも携わってきた経験もあります。そのとき、機器分析や化学分析において様々な弱点や欠点に配慮しながら品質評価をしてきました。中でも、必要とされる評価基準に機器の精度や管理は適切なのか、測定するサンプルは製品全体を正しく代表しているのか、母集団に対してサンプル数は妥当なのか、分析担当者の技能は十分なのか、その技能水準の判定は確かかなど、実に多くの項目や課題をクリアしなければなりませんでした。その上で出された分析値を信用してよいのかどうかを勘と経験を交えて判断するのですから、理化学的分析能力と職人芸の両方が必要でした。理科学的分析と「勘と経験」では矛盾するようですが、機械による測定値を無条件に信用してはならないということは、同じような仕事の経験をお持ちの方であればご理解いただけるのではないでしょうか。
 理化学的年代測定全般を含め、特に炭素同位体比年代測定も同様で、それで出された年代をそのままサンプルやサンプル採取した遺物・遺跡の年代と判断することは危険です。ちょっと考えただけでも次のような問題をはらんでいるからです。

1.測定年代値は幅を持っており、たとえば西暦500年±50年のような表記がなされます。従って、年輪年代測定や年輪セルロース酸素同位体比測定のようにピンポイントで暦年を特定できません。
2.酸素同位体比については新たな補正値が報告されており、その補正が適切になされているか確認しなければなりません。
3.サンプルが木材の場合、年輪の最内層と最外層では年輪の数だけ年代幅があります。従って、木材のどの部分からサンプリングしたのかが明示されていない測定データは要注意です。木材が大きければそれだけサンプリング箇所の年代と伐採年との年代差発生の原因となります。
4.その点、米(炭化米)のような一年草は年代幅がなく、比較的年代判定に有利です。水城築造に使用された敷粗朶のような小枝の場合も年輪の数が少ないので、これも比較的年代判定に有利です。
5.炭化木材のように年輪の外側から焼失した炭からのサンプリングの場合、当然のこととして伐採年よりも焼けた年輪の数だけ古く測定値が出ます。したがって、炭による測定値はそのまま遺物・遺跡の年代とするのは危険です。
6.古代においては木材の再利用や、廃材の再利用は一般的に行われます。従って、測定値が伐採年か再利用時なのかの判断が必要です。その判断ができない場合は遺跡の年代判定に炭素同位体比年代測定値を採用してはいけません。
7.以上の問題点をクリアできても、その測定値から論理的に言えることは、そのサンプルの遺物・遺跡は測定値よりも「古くならない」ということであり、測定値の年代は参考値にとどまるという論理的性格を有しています。
8.従って、炭素同位体比年代測定は遺物・遺跡の年代判定の参考にはできるが、その他の年代判断方法(年輪年代や土器編年など)による総合的判断を加え、より適切な年代判定を行う必要があります。

 以上のことは極めて単純で常識的なことですから、理系の人間でなくてもご理解いただけるものと思います。
 また、最先端の理化学的分析結果であれば信頼できるとされた時代もありましたが、足利事件のように当時としては最先端のDNA鑑定結果(実証)を採用した判決によって悲劇的な冤罪事件が発生した経験もあり、現在では最先端技術はそれだけ未完成部分が多い不安定な技術と理解されるようになりました。他方、「和歌山毒物カレー事件」では最先端科学装置スプリング8による砒素の分析結果を根拠に有罪判決が出されましたが、その分析値に対する判断が誤っているとする京都大学の学者による指摘もなされるようになりました。(つづく)


第1349話 2017/03/08

井氷鹿の井戸は久留米市久保遺跡

 3月4日、久留米市で奈良大学生の日野さん、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)と夕食をご一緒しました。犬塚さんからは多くのことを教えていただいているのですが、今回も神武東征説話に関する貴重な情報を教えていただきました。
 「洛中洛外日記」1117話の「吉野河尻の井戸と威光理神(井氷鹿)」で紹介しましたが、『古事記』神武記に見える吉野の河尻で井戸から井氷鹿が出現するのですが、川が近くにあれば井戸など不要なはずなのです。ところが犬塚さんのお話では、佐賀や筑後の有明海付近の弥生時代の遺跡からは井戸が数多く見つかっているとのことで、その理由は、干満の差が大きい有明海付近では塩水が逆流することから、川からは安定して真水を得られないため、近くに川があるにもかかわらず真水を得るために井戸が掘られているとのことでした。
 このことは、『古事記』に見える「吉野の河尻」とは奈良県吉野川の上流付近(「河尻」ではない)ではなく、吉野ヶ里付近から有明海に流れ込んだ嘉瀬川下流域(河尻)付近の伝承とするわたしの説(神武東遷記事中の「天神御子」説話は天孫降臨説話「肥前侵略譚」からの転用)を支持するものでした。
 その後も犬塚さんは久留米市の遺跡調査を続けられ、久留米市三瀦に隣接する城島の久保遺跡(筑後川左岸)が弥生時代の遺跡としては最も井戸が多い遺跡であることをつきとめられました。神武東征説話に転用された井氷鹿説話の舞台の有力候補として久保遺跡をあげられたのです。
 さらに犬塚さんは神武記では井氷鹿が井戸から現れることに注目され、狭い井戸からどうやって這い上がってきたのだろうかと考えられました。ところが久保遺跡の井戸遺構からは井戸の方への階段状の通路が発見されており、その階段からであれば神武記の記述のように、井戸から井氷鹿が現れることが可能とのことなのです。とても面白い着眼点ではないでしょうか。また、井氷鹿には尻尾があると記されていますから、これが何を意味しているのかも解明できるかもしれません。
 こうして犬塚さんとの宴(地酒を飲みながら古代史談義)は夜遅くまで続きました。


第1348話 2017/03/07

石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味を引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。


第1347話 2017/03/04

続・和歌山の神武(鎮西将軍)

 昨日から奈良大学生の日野さん(古田史学の会・会員)と筑前・筑後の史跡調査旅行を続けています。昨日は水城・大宰府政庁跡・観世音寺・大野城山城を見学しました。今日は高良大社・高良山神籠石・大善寺玉垂宮・岩戸山古墳・瀬高のこうやの宮を見学しました。
 わたしが運転するクルマでの会話で、「洛中洛外日記」で紹介した「和歌山の神武(鎮西将軍)」について日野さんから次のような疑問が出されました。鎮西将軍とは神武のことではなく、数次にわたる九州王朝からの東征軍の将軍の一人ではないかという疑問です。『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」の次の記事が神武とほ別の東征軍の将軍ではないかと指摘されたのです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 実はわたしも気になっている部分でした。『日本書紀』成立以後であれば「鎮西将軍」などという名前ではなく神武の伝承としてそのまま伝えればよいのに、何故「鎮西将軍」などという表記で伝承したのかが不明でした。通常、古代の伝承は権威付けのため大和の天皇と結びつけて修飾・改変されることが多いのですが、この和歌山での伝承は敢えて神武と結びつけることなく「鎮西将軍」という表現で伝承されており、そうした理由があるはずです。そのような問題意識を持っていたので、日野さんのご指摘にはうなづけるものがありました。
 この和歌山の「鎮西将軍」伝承については、日野さんのご意見も考慮して引き続き検討したいと思います。


第1346話 2017/03/02

和歌山の神武(鎮西将軍)

 久しぶりの和歌山出張ということもあり、和歌山市の古代史で多元史観により考察すべきテーマがないか、ちょっとだけ調査してみました。すると、面白い伝承(史料)の存在に気づきましたのでご紹介します。
 『延喜式』神名帳にも記された当地の古い神社に「朝椋神社」(あさくらのじんじゃ)があるのですが、『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」に次のような記事があるとのことです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 ちなみに、和歌山県立図書館所蔵『紀州名勝志』写本には「朝椋神社伝」は記載されていませんでした。どの写本にあるのか調査中です。
 いつの頃かどこの人かは知らないが、上古に「鎮西将軍」という人物が攻めてきて最も武勲があったので、この神社を建造したという不思議な記録です。何らかの当地の伝承が記されたものと思われますが、「鎮西将軍」とは「九州の軍団の長」を意味しますから、この地にそのような人物が戦功をあげたというのであれば、その第一候補はやはり神武ではないでしょうか。というよりも、それ以外の人物や伝承をわたしは知りません。
 記紀によれば神武兄弟は河内湾に突入するものの敗北し、兄の五瀬命は戦死します。神武は兄を和歌山の竃山に埋葬し、紀伊半島南端から上陸し、紀伊半島を山越えして奈良に侵入したと記載されていますから、和歌山市付近まで来たことになります。その後の神武の記事は天孫降臨時のニニギ等の伝承が盗用されているとわたしは考えていますから、神武がどのルートを通って大和に進入したのかは不明です。しかし、兄の亡骸を竃山に埋葬できたのですから、和歌山市近辺は制圧していた可能性が高いように思われます。敵地に兄を埋葬し、その地を離れたとは考えにくいからです。
 そうすると神武こそ当地で戦功をあげた「鎮西将軍」として伝承されるにふさわしい人物だと思われるのですが、いかがでしょうか。もしこの理解が正しければ、神武が大和に侵入するルートとして紀ノ川沿いを遡行したと考えてみたいところです。いずれにしましても、現段階では調査を始めたばかりですので、間違っているかもしれませんが、興味深い伝承ですので、ご紹介することにしました。

《補筆》本稿に先行する出色の論文があります。義本満さんの「紀ノ川の神武」(『『市民の古代』』第3集、1981年)です。神武は和歌山で戦い、紀ノ川を遡行して大和に突入したとする先行説です。「古田史学の会」HPに掲載されていますので、是非、ご一読下さい。