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第1404話 2017/05/22

前期難波宮副都説反対論者への問い(7)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」の提唱以来、様々な種類のご批判をいただいたのですが、学問的に意味不明の「批判」もあり、まともに反論してもよいものかどうか迷ったこともありました。たとえば前期難波宮がある上町台地付近には「難波津」はなかったという「批判」がありました。前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無が何の関係があるのだろうかと、批判の意味や因果関係の理解に苦しんだものです。ちょっと考えただけでも次のような疑問が浮かんだからです。

1.前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無の因果関係が不明。

2.古代の上町台地は三方を海(瀬戸内海)や川、湖(河内湖)に囲まれており、記紀や『万葉集』の記述、考古学的出土物からも海運の盛んな地であったことは明白。そこに「港」が無いはずがない。

3.記紀や『続日本紀』『万葉集』など主要古代史料に当地が古くから「難波」と呼ばれていることが記されている。それらすべてが「嘘」とする論証や実証など見たことも聞いたこともない。

4.7世紀の当地(摂津難波)には「難波」あるいは「難波津」という地名はなかった、などという証明は不可能。それこそ「悪魔の証明」である。一体どのような実証的方法で「なかった」ことを証明されたのでしょうか。

5.『養老律令』でも当地には特別な地方組織「攝津職(せっつしき)」が置かれており、史料上では天武期には既に攝津職が置かれていたと見られている。攝津職とは港(津)を司る職掌であり、後には「摂津国」という国名になる。このことからも7世紀の当地が摂津職が置かれるほどの重要な港湾都市であったことは明らか。

 以上のような極めて常識的な判断や推論が可能なため、「難波津はなかった」という「批判」に答える必要もないと考えていました。しかしながら、学問的に意味不明な「批判」にも真摯に答えるのが学問研究のあり方と思い直し、本稿を執筆することにしました。もっとも、前期難波宮九州王朝副都説の当否とは因果関係のない応答であることには変わりありません。
 なお付言しますと、記紀などに見える「難波」を全て北部九州とする論者があります。わたしも各地に「難波」という地名が古代において存在した可能性を支持しています。しかし、その場合でも記紀や『万葉集』に匹敵する古代史料の提示が必要でしょう。自説の史料根拠(実証)はなくてもよいが、摂津難波説に対しては記紀や『万葉集』などを史料根拠として認めないというのでは、真摯な学問論争とは言えませんから。(つづく)