2017年05月10日一覧

第1390話 2017/05/10

『二中歴』研究の思い出(3)

 古田先生が『二中歴』や九州年号細注記事の重要性を指摘されてから、各地の古田学派の研究者が調査研究を始めました。そうした中、神奈川県の冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から興味深い報告がよせられました。それは『二中歴』九州年号「教到」の細注にある「舞遊始」についてです。
 「教到」(531〜535年)年間に「舞遊が始まる」という記事で、意味は単純明瞭なのですが、舞遊が6世紀に始まったなどとは到底信じられません。おそらく、日本列島での舞遊の始まりは旧石器・縄文時代まで遡るのではないでしょうか。ですから、この「教到」の細注記事は不可解なものとして、取り扱いに困っていました。
 ところが冨川さんは、なんと本居宣長の『玉勝間』に、教到六年丙辰歳(536年)に駿河国宇戸ノ濱に天人が天下って歌舞し、このことが「東遊の始まり」となったとする『體源抄』の記事が紹介されていることを発見されたのです。すなわち、『二中歴』の細注記事「舞遊始」とは「東遊」の起源記事だったのでした。
 しかも「教到六年丙辰歳」という表現は、この記事の信憑性を高めました。というのも、『二中歴』などの九州年号群史料では「教到六年丙辰歳(536年)」は改元されて「僧聴元年丙辰」と表記されているのですが、この記事から「教到六年丙辰歳」の途中に「僧聴」に改元されたことがわかります。すなわち、後から九州年号史料の年号を参考にして作成された記事ではなく、改元前の同時代に記録された「教到六年丙辰歳」記事を『體源抄』に採用したと考えられるのです。このことを拙稿「本居宣長『玉勝間』の九州年号 -「年代歴」細注の比較史料-」(『古田史学会報』64号。2004年10月。『「九州年号」の研究』に転載)に詳述しましたので、ご参照ください。(つづく)


第1389話 2017/05/10

『二中歴』研究の思い出(2)

 『二中歴』九州年号細注記事で古田先生が注目されたのは、「鏡當」(581〜584)の「鏡当四年、辛丑、新羅人来り、筑紫従(よ)り播磨に至り、之を焼く。」以外にも、「朱鳥」(686〜694)の細注「仟陌町収始又方始」がありました。
 ある講演会で、この「仟陌町収」を「船舶徴収」ではないかとのアイデアを示されたことがありました。その根拠として、「朱鳥」の直前の「朱雀」細注にある「兵乱海賊始起又安居始行」の「兵乱海賊始起」でした。兵乱海賊が発生したため、翌「朱鳥」年間に九州王朝は海賊退治のため船舶を徴収したのではないかというアイデアでした。このように、古田先生は『二中歴』九州年号細注の記事の分析をとても重要視されていました。
 その後、「仟陌町収始又方始」について、より詳しい記事が『海東諸国紀』にあることに気づき、拙稿「九州王朝の近江遷都 『海東諸国紀』の史料批判」にて報告しました。『海東諸国紀』には「朱鳥八年(693年)」に相当する持統七年の記事に次のように記されています。

 「〔用朱鳥〕七年癸巳定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町」※〔〕内は細注
 (古賀訳)町・段を定む。中人歩して両足相距つるを一歩となし、方六十五歩を一段となし、十段を一町となす。

 この『海東諸国紀』の記事により、『二中歴』細注記事の内容が距離と面積単位制定に関する記事であったことがわかりました。その後、この記事を条里制施行を記したものとする見解が水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から発表されました。その水野さんの論稿「条里制の開始時期」は古田先生が編集された『なかった -真実の歴史学-』創刊号(ミネルヴァ書房も2006年)に収録されましたが、古田先生が『二中歴』細注記事に関心を示し続けておられたことがわかります。さらに正木さんは「方始」部分を藤原京条坊の造営記事ではないかとされました(「『二中歴』細注が明らかにる九州王朝(倭国)の歴史」)。
 なお、『海東諸国紀』九州年号部分の版本を『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』末尾に収録しましたので、研究などにご利用ください。(つづく)