「 2017年05月 」一覧

第1388話 2017/05/09

『二中歴』研究の思い出(1)

 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の出版記念講演会を東京・大阪・福岡で開催するにあたり、講演内容の検討を進めているのですが、『二中歴』の九州年号細注などによる九州王朝史の復元研究について紹介しようかと考えています。
 数ある九州年号群史料のうち、『二中歴』が最も史料価値が高いことを古田先生から教えていただいたのですが、それは学問の方法を深く理解する上でもとても役立ちました。古田先生が『二中歴』の史料価値に注目された理由は、成立年代が早い、近畿天皇家の年代記とは無関係に成立していること、その細注に記紀には見えない貴重な記事が残されていることなどでした。このことについては『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』に収録した拙稿「九州年号の史料批判 『二中歴』九州年号原型論と学問の方法」に詳述しましたので、ご参照ください。
 細注記事の分析については同じく正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『二中歴』細注が明らかにる九州王朝(倭国)の歴史」がわかりやすくまとめられていますので、ご覧ください。
 『二中歴』九州年号細注については、古田先生が早くから注目されており、次のように紹介されています。(つづく)

『失われた九州王朝』ーー天皇家以前の古代史(ミネルヴァ書房)
   2010年2月刊行 古代史コレクション2

補章 九州王朝の検証

二中歴

 本書中の力説点の一つ、九州年号の問題についても、新たな局面が出現した。『二中歴』問題である。
 本書では「善記(善化)〜大長(大化)」の間、六世紀前半(「善記元年」は、五二二年)から七世紀末(「大長三年」は七〇〇年)までを、九州年号の時間帯とした。ところが、「九州年号」を伝える最古の文献『二中歴』のみは、右とは異なる年号群を記していた。
 「継体元年(五一七)〜大化六年(七〇〇)」の百八十四年間、三十一年号がこれである。検討の結果、わたしはこの形をもって原型本とせざるをえない、との判断に達した。なぜなら、この文献『二中歴』の成立は、堀河天皇の康和元年(一〇九九)、平安時代の中葉末、他の諸種の「南北朝・室町期・江戸時代の写本群」より、はるかに早い時期の成立なのである。次に、他の多くの「異年号」「古代年号」「九州年号」群が「近畿天皇家の『天皇名』と共に掲載されて、年表ないし年譜化されている」のに対し、この『二中歴』は、近畿天皇家の天皇名とは別個に、切りはなされた形の“独立型”である。この点も、見のがせない。なぜなら、前者の場合、「継体天皇十一年〔五一七〕」が「継体(九州年号)元年」となるため、いかにも“形が悪く”なってしまう。だから「継体(九州年号)何年」の形が“切り捨て”られた。そういう可能性が大なのである。三つめに、『二中歴』の方は、十八個の項目に、近畿天皇家側の文書に見られぬ、独自の文面がある。たとえば、

 鏡当四年、辛丑、新羅人来り、筑紫従(よ)り播磨に至り、之を焼く。

のように。現地(播磨)側伝承とも一致しているようである。以上のように、現在の写本状況からは、『二中歴』を「原型」として判断せざるをえないのである。


第1387話 2017/05/07

服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を

 『日本書紀』等の暦年記事を「是」として土器の相対編年とリンクさせて成立している、いわば一元史観による土器編年である飛鳥編年が、考古学界では不動の通念となっています。それに代わる九州王朝説・多元史観に基づく新たな太宰府土器編年を構築するべく、わたしは鋭意検討を進めています。
 他方、古田学派の中には未だ一元史観に基づく飛鳥編年により、前期難波宮の造営年代を660年以降と見なす論者もおられます。学問研究ですから様々な意見があってもかまわないのですが、飛鳥編年の根拠が脆弱で、基礎データにも誤りがあるとする論文が古田学派内から既に発表されていますので、改めてご紹介しておきたいと思います。
 それは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)です。服部さんは金属工学がご専門で、データ解析処理なども得意とされています。同論文では飛鳥編年の根拠とされた須恵器の外径の測定値が誤っていることや、サンプル母集団の問題点などが具体的に指摘されています。あわせて『日本書紀』の暦年記事の年代の問題点も古田説など多元史観に基づいて批判もされています。
 同論文に先立ち、服部さんはその研究報告を「古田史学の会・関西例会」でも発表されていました。しかしその後、それに対する賛否も意見もないまま、飛鳥編年を「是」とする意見が出されています。自説への批判を求めた、facebookに寄せられた服部さんのメッセージの一部を転載します。前期難波宮造営時期を660年以降とする論者からの真摯なご批判を期待しています。

【服部さんのメッセージの転載】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田寺下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)


第1386話 2017/05/07

都府楼は都督府か大宰府か

 都督府についてはこれまで何度も論じてきましたが、基礎的ですが未解決で重要な問題について指摘しておきたいと思います。
 「洛中洛外日記」第1382話「倭の五王」の都城はどこか(1)において、「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)というような説明をしましたが、実はこれも結構複雑な問題が残されているのです。現在、大宰府政庁跡を「都府楼跡」と呼んでいますが、おそらくこれは菅原道真の「不出門」によるものと思われます。次の漢詩です。

不出門 菅原道真

一従謫落在柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行
(原典:『菅家後集』)

〔訳文〕
一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより
万死兢兢たり 跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わずか)に瓦の色を看
観音寺は只鐘の声を聴く
中懐好し 孤雲を逐(お)ひて去り
外物は相逢ひて満月迎ふ
此の地 身検繋(けんけい)無しと雖も
何為(なんす)れぞ寸歩も門を出でて行かん

 近畿天皇家が「都督」を任命していたことは『二中歴』都督歴に見えますから、この「都府楼」が「都督府」のことと理解することは穏当です。ただし、『養老律令』などでは「都督」「都督府」ではなく「大宰」「大宰府」とされており、正式名称は後者です。従って、『二中歴』や道真は、古くは九州王朝時代の伝統を反映して「都府楼」と表現したものと思われます。
 ここまではご理解いただけると思いますが、実はここにやっかいな問題があるのです。それは地名との非対応問題です。現在の政庁跡(都府楼跡・都督府跡)は旧・観世音寺村に属し、太宰府村ではないのです。太宰府村は現在の太宰府天満宮がある場所で、大宰政庁跡とは位置が異なるのです。もし、8世紀以降に近畿天皇家が任命した「大宰」「都督」が政庁跡に居していたのなら、そここそ「太宰府村」であるべきでしょう。しかし、現実は旧・観世音寺村に属し、字地名としては「大裏(内裏)」「紫宸殿」があり、天子の居所にふさわしい地名なのです。「大宰」「都督」は天子が任命する官職名であり、その官舎は太宰府村の方にあってしかるべきなのですが、政庁跡(都府楼)は旧・観世音寺村にあるのです。
 この一見矛盾した地名との齟齬は、おそらく「大宰府」「都督府」が九州王朝と近畿天皇家の両方に多元的に、歴史的には重層して存在していたことによるものと推察しています。ですから、古田学派の研究者はこの複雑な構造に十分留意して立論しなければなりません。わたし自身もまだ研究考察の途中ですので、断定できるような結論は持っていません。これからの研究の進展を待ちたいと思います。


第1385話 2017/05/06

九州年号の空白木簡の疑問

 ずっと気になっていて未だ解決できない問題があります。それは700年以前の干支木簡に九州年号が記されていないという問題です。701年(大宝元年)以降の紀年木簡には基本的に大和朝廷の年号が記されているのですが、九州王朝の時代の木簡にはなぜか九州年号が記されていません。この疑問をずっと抱いているのですが、解決のための良いアイデアがでないのです。学問研究ですから、わからないことが多いのは当たり前なのですが、九州王朝と大和朝廷の関係から考えても、この現象は不思議なことなのです。
 大和朝廷の「大宝律令」(逸文による復元)や『養老律令』には次のように年次記載には年号を用いよと明確に規定しています。

 「凡公文応記年者、皆用年号。」(おおよそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用いよ。)『養老律令』儀制令

 荷札木簡は公文書とは言えませんが、九州王朝も同様の律令を持っていたと思われますので、700年以前の木簡には干支が書かれるだけで九州年号がないのは不思議です。
 今回は、もう一つのわたしの疑問を紹介します。それは前期難波宮出土の「戊申年」(648)木簡と、芦屋市出土の「元壬子年」(652)木簡についての謎です。
 最初に不思議に感じたのが「元壬子年」木簡でした。この木簡については既に論文(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)などで発表していますが、九州年号の「白雉元年壬子」の木簡で、「白雉」が記されていないタイプです。というのも、この木簡の「元壬子年」の文字の上部にかなりのスペースがあり、意図的に空けたとしか思えないほどなのです。従って、後から「白雉」を書き入れる予定だったのか、あるいはあえて「白雉」を書かずに九州年号のスペース分を空けたのではないかと考えたりしました。すなわち、年号を神聖なものとして木簡に書くということがはばかられたとする理解です。もちろん根拠はなく、推定(思いつき)に過ぎません。
 次に気づいたのが「戊申年」木簡です。この木簡は「戊申年」という文字を書いた後、空いたスペースを文字の練習に使用したと思われる「習字木簡」と考えられています。すなわち、本来の形としては「元壬子年」木簡同様に、九州年号(常色二年)が記入されるべき上部を空けているのです。
 この二例だけですが、「九州年号空白木簡」とも称すべき木簡があるのです。しかしなぜ空白とされたのかはよくわかりません。どなたか良いアイデア(作業仮説)があれば、ご呈示ください。


第1384話 2017/05/06

飛鳥編年と難波編年の原点と論争

 このところ太宰府や北部九州の土器編年の勉強を続けていますが、それらが飛鳥編年に準拠しており、同編年の影響力の大きさを改めて感じています。
 飛鳥編年の方法論と原点は、畿内の遺跡から出土した土器の相対編年を『日本書紀』の記事の暦年とリンクするというものです。それを基点に藤原京から出土した干支木簡などで追認されています。特に七世紀については須恵器の詳細な様式編年がなされており、土器により正確な暦年特定が可能と断定する論者もいます。すなわち、『日本書紀』の暦年記事は正しいとする立場(一元史観)です。
 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を提起した後、難波編年について集中して勉強しました。特に大阪歴博の考古学者からは何度もご教示いただき、難波編年が文献(『日本書紀』孝徳紀、『二中歴』年代歴)との整合性もとれており、当初思っていた以上に正確であるとの印象を抱いたものです。その過程で、難波編年と飛鳥編年の考古学者間で激しい論争が続けられていることを知ったのです。
 それは前期難波宮整地層から極少数出土した須恵器(坏B)を根拠に、前期難波宮は天武期に造営された『日本書紀』に記録されていない宮殿であると、飛鳥編年に立つ研究者から批判が出され、それに対して難波編年に立つ研究者が出土事実(整地層や前期難波宮造営期の主要土器〔坏H、G〕、戊申年木簡〔648年〕の出土、前期難波宮水利施設からの出土木材の年輪年代〔634年〕、前期難波宮外周木柵の年輪セルロース酸素同位体比測定〔583年、612年〕など)を根拠に反論するという論争です。
 この論争経緯と内容を知ったとき、飛鳥編年により難波編年を批判する論者のご都合主義に驚きました。『日本書紀』の暦年記事を「是」として自らの飛鳥編年の正当性を主張しながら、前期難波宮整地層から自説に不都合な土器が出土したら、『日本書紀』孝徳紀の難波宮造営(652年)記事は誤りとするのです。理不尽(ダブルスタンダード)と言うほかありません。
 こうした理不尽な批判に対して、難波宮発掘を担当した考古学者は、『日本書紀』孝徳紀の記事を根拠に反論するのではなく、考古学者らしく出土事実と理化学的年代測定で反論を続けました。“孝徳紀の記事は間違っている”とする批判者に対して、“孝徳紀の記事は正しい”という反論では学問論争の体をなしませんから、考古学的事実の提示をもって反論するという大阪歴博等の考古学者の対応は真っ当なものです。ですから、わたしは彼らの方法や主張こそが学問的だと思いました。
 この論争はまだ水面下で続いているようですが、ほとんどの考古学者は大阪歴博が示した難波編年(前期難波宮の造営を7世紀中頃とする)を支持しているとのことです。もちろん、学問は多数決ではありませんが、この論争はどう贔屓目にみても難波編年がより正しいと言わざるを得ないのです。もし、難波編年が間違っているといいはりたいのなら、干支木簡でも年輪年代でも何でもいいですから、前期難波宮整地層や造営期の地層から明確に天武期とわかる遺物が出土したことを事実でもって示す必要があるでしょう。さらに指摘するなら、自らの飛鳥編年の根拠とした『日本書紀』の暦年記事は正しいが、孝徳紀の難波宮造営記事は誤りとする史料批判の根拠も示していただきたいものです。
 最後に、前期難波宮整地層出土の須恵器坏Bについてですが、大阪歴博の考古学者からお聞きした見解では当該須恵器は坏Bの原初的なタイプで、7世紀前半のものとみて問題ないとのことでした。報告書にもそのように記されていたと記憶しています。本年1月に開催した「古田史学の会・新春講演会」でも、講師の江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)におたずねしたところ、同須恵器は通常の坏Bよりも大型で、いわゆる坏Bとは見なせないとのご返答でした。坏Bについては大宰府政庁Ⅰ期からも出土しており、太宰府編年とも深く関わっていますので、只今、猛勉強中です。


第1383話 2017/05/05

「倭の五王」の都城はどこか(2)

 「倭の五王」の都は筑後にあったのではないかと、わたしは考えているのですが、まだ克服すべき課題があります。
 「洛中洛外日記」第1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」において、『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』に収録されている石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」を紹介しました。そこで指摘された牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数が一気に急増している考古学的事実は、太宰府条坊都市造営時期の7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡としました。
 この理解が正しければ、同様に「倭の五王」時代(五世紀)の王都に土器を供給するため、大量の窯跡群が筑後から出土しなければなりません。ところが石木稿に掲載されている「第1表 西海道北部の須恵器窯跡群変遷表」によると、筑後の須恵器窯跡群は八女窯跡群(上妻郡)が最も古く、その始まりを六世紀中期からとされているのです。このデータが正しければちょうど筑紫君磐井の時代の頃からとなりますから、九州年号を建元した磐井の頃の九州王朝の都がこの地域にあったことはうかがえますが、「倭の五王」時代の窯跡群の記載がないのは不思議です。まだ未発見か、この表に掲載されていないだけなのかもしれませんが、六〜七世紀以降に太宰府に土器を供給した牛頸窯跡群の存在や変遷とは異なり、筑後の王都に対応する窯跡群が見あたらないのは、わたしの説の弱点と言えそうです。この点に引き続き留意し、調査研究を進めたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)


第1381話 2017/05/03

『伊豫史談』に合田洋一さんが寄稿

 「古田史学の会・四国」事務局長の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)から伊予史談会の機関誌『伊豫史談』385号が送られてきました。同号には合田さんの論稿「越知氏の出自 -『オチ』元は『コチ』だった-」が掲載されています。
 四国の古代越知国(今治市など)の訓みは元々は「コチ」だったとする作業仮説です。当地の朝倉上には「コチ神社」(祭神はコチの命)があることなどを紹介されています。中でも驚いたのが、同地は出雲系の神社・祭神が多いのですが、「ありがとう」を意味する方言の「だんだん」が出雲地方と伊予地方で共通して存在するということです。NHKの連ドラにより出雲地方の方言「だんだん」は知っていましたが、四国の伊予地方にもあるとは知りませんでした。
 どのような経緯で「コチ」が「オチ」になったのかは、更なる調査検証が必要と思われましたが、今後の展開が楽しみな論稿でした。古田学派の論客が各地で活躍されており、頼もしい限りです。


第1380話 2017/05/01

4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 4月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/04/01 『九州倭国通信』No.185のご紹介
2017/04/08 古田先生の土器編年の方法
2017/04/12 緊急配信!「関西例会」の会場について
2017/04/21 輸出繊維会館で講演しました
2017/04/30 年号表記された天皇「天長聖主」