「 2017年06月13日 」一覧

第1422話 2017/06/11

『古田史学会報』140号のご案内

 『古田史学会報』140号が発行されましたので、ご紹介します。本号には天文学者の谷川清隆さんからご寄稿いただきました。
 『日本書紀』の天文関連記事の史料批判により、古代日本に二つの権力集団が存在したとする論稿です。これまでも天文学という視点から古田説を支持する研究を発表されてきた谷川さんの論稿は読者にもご満足いただけるものと思います。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が谷川稿を過不足無く解説されていますので、以下に転載します。

【転載】
《谷川清隆博士の紹介》
 谷川氏は現役の天文学者です。
 その天文学者の目で見た古代史研究論文に感銘を受け、無理を言って今回寄稿願いました。
 日本書紀には、漢文の正確性からα群・β群があって、巻によって著者が異なると言う森博達氏の研究が有名ですが、谷川氏はその天文観測記事より、単に著者が違うのではなく、書かれた団体・組織が異なることを発見されたわけです。
 森氏の言うβ群は天群の人々(九州王朝ととっていただくと分かり易い)によって書かれた、α群は地群の人々(近畿天皇家)によって書かれたとなります。
 過去古田説は、谷本茂氏の『周髀算経』からの数学的アプローチによって、又メガース博士の南米における縄文土器発見によって、その都度新しい実証・論証ツールを得てきました。ここに谷川氏によって又強力なツールを得たわけです。(服部静尚)

『古田史学会報』140号の内容
○七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと 国立天文台 谷川清隆
○谷川清隆博士の紹介 八尾市 服部静尚
○6月18日(日)井上信正氏「大宰府都城について」講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○前畑土塁と水城の編年研究概要 京都市 古賀達也
○「白鳳年号」は誰の年号か -「古田史学」は一体何処へ行く 松山市 合田洋一
○高麗尺やめませんか 八尾市 服部静尚
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上) 川西市 正木 裕
○西村俊一先生を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第1421話 2017/06/13

前期難波宮の難波宮説と味経宮説

 「洛中洛外日記」1418話(2017/06/09)「前期難波宮は『難波宮』と呼ばれていた」で、前期難波宮(考古学的遺跡名称)が7世紀当時に「難波宮」と呼ばれていたとする、わたしの考えを説明しました。他方、正木裕さんの「味経宮(あじふのみや)」とする説も有力としました。また、前期難波宮「味経宮」説をわたしの説であるかのごとく扱い、わたしを論難する方にたいして、前期難波宮「味経宮」説は正木さんが発表されたものであり、そのプライオリティーを尊重して、「正木説」として批判されるべきと指摘しました。
 この同一の宮殿に二つの名称があったかもしれないという問題について、もう少し詳しく説明したいと思います。わたしは正木説の発表を受けて、「難波宮」は広域地名(難波)を冠した宮殿名、「味経宮」は小領域地名(味経)を冠した呼称と考え、7世紀当時、併用されていたのではないかと考えました。はるか遠くの九州では広域地名の「難波宮」と呼んだほうがよくわかり、現地の難波では宮殿がある具体的小領域名を冠した「味経宮」と呼ばれていたのではないでしょうか。
 他方、近畿天皇家の孝徳の宮殿は『日本書紀』では「難波長柄豊碕宮」と、大領域(難波)+中領域(長柄)+小領域(豊碕)を冠した呼称(表記)となっています。これは、難波には複数の宮殿が併存していたため、小領域地名まで具体的に冠しないと孝徳の宮殿と特定できないために、このような長ったらしい宮殿名表記とせざるを得なかったと思われます。
 九州王朝説の立場から見ると、孝徳には大領域地名だけの「難波宮」という名称を自らの宮殿に採用できなかったということになります。九州王朝から王朝交替後(701年以後)の聖武天皇の宮殿(後期難波宮)を一貫して「難波宮」(『続日本紀』)と呼んでいることとは対照的です。難波における代表的な最も巨大な宮殿こそ「難波宮」の呼称が自他ともに許されたのです。『日本書紀』孝徳紀には「難波宮」表記もありますから、その場合は九州王朝の副都である「前期難波宮」を指している可能性があり、この点、個別に検証が必要です。
 「洛中洛外日記」1418話を読まれた正木さんから、正木説の詳細な説明メールをいただきました。それによると、「味経宮(あじふのみや)」は建設中(完成まで)の名称、完成後は「難波宮」と呼ばれたと正木さんは考えられているとのことです。その理由として、「難波」にはすでに小郡宮・大郡宮・長柄宮などがあり、これらと区別するためには「より小域の地名」を冠する必要があったからとされました。そして、完成後はその圧倒的な規模から「難波宮」というだけで前期難波宮を指すことが明白になったとあります。この視点はわたしと同様であり、より具体的なご指摘です。
 さらに、史料的にも「味経宮」とあるのは「遷宮」までで、完成後も「味経宮」と呼ばれていたとは述べていないとされました。正木さんの論稿「前期難波宮の築造準備について」(『古田史学会報』124号)で「味経宮」に触れた部分は以下の通りで、「完成間近」では「難波宮(味経宮)」、入城は「新宮(難波宮)」と書き分けられています。

 「そうして、十二月の晦に、全面完成間近な難波宮(味経宮)において、新宮の無事を祈念するための大法要を執り行ったのち、新宮(難波宮)に入城し新年の賀を受け、白雉改元に向けた諸準備をおこなったことになる。」

 従って正木説は“「難波宮」と「味経宮」は完成前と完成後の時間帯により呼称(表記)が変化した同一の宮殿(前期難波宮)”という説であることがわかりました。わたしは正木説を不正確に理解していたわけで、このことを本稿にて明確にし、誤解していたことをお詫びしたいと思います。いずれにしましても、前期難波宮「味経宮」説のプライオリティーは正木さんにあり、これからは「正木説」として評価・批判されるべきであることを再度指摘しておきます。