「 2017年06月24日 」一覧

第1433話 2017/06/24

井上信正さんへの三つの質問(5)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)との二つ目の応答は次のようなものでした。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

〔回答2〕右郭12条8坊整地層からの出土土器にはレジュメにある渦巻き状の文様を持つものがあり、これは藤原京から出土する土器の特徴であることから、大宰府条坊と藤原京は同時期と見なしてよい。

 この質疑応答は太宰府条坊都市の造営年代を考古学的土器編年により大枠を押さえることをテーマとしたものです。考古学者の井上さんが最も得意とする分野であり、文献史学のわたしは教えを請うというスタンスで臨みました。
 質問1の観世音寺の創建年代とは異なり、土器の相対編年によるため、数十年幅という年代の大枠しか押さえられないのですが、太宰府条坊の造営年代において、井上説(7世紀末頃)とわたしの説(7世紀初頭頃)では70年近くの開きがありますから、どちらの説がより妥当かという程度の優劣を比較するのには、土器の相対編年による考察は有効です。しかも条坊都市という広範囲の土器の様相の比較ですから、個別の遺跡よりも比較資料が多く、この点でも検証がやりやすいと思われます。
 一例をあげれば、前期難波宮と藤原京の整地層出土土器の比較なども、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かという検討において有効でした。出土干支木簡により天武の時代に造営開始されたことが明らかな藤原京整地層の主要出土須恵器は坏Bであり、坏G・Hを整地層からの主要出土須恵器とする前期難波宮とはその土器様式の様相が明確に異なっています。この考古学上の実証的事実によっても、前期難波宮の造営時期は天武期よりも早く、孝徳期の造営説が有利であることがわかるのです。
 このような、いわば「ビッグデータ」を比較することにより、太宰府条坊造営時期に関する井上説とわたしの説の比較検証が可能と思われるのです。今回の質疑応答では井上さんが指摘されたように、右郭12条8坊整地層の出土土器からは7世紀末頃とする判断が穏当であり、わたしが見ても自説の7世紀初頭とは思えませんでした。もちろん、レジュメの資料は出土土器の一部と思われますから、より正確に判断するには調査報告書を精査する必要がありますが、それでも大きくは変わらないと思います。
 しかしながら、太宰府条坊は7世紀初頭から末頃までの長期間にわたって増設された可能性があり、整地層出土土器の年代も場所によって異なるのではないかという問題があり、一カ所の出土土器だけでは決められないのです。この点、条坊造営時の初期政庁は右郭の王城神社がある「通古賀」にあったと井上さんは考えられており、その根拠の一つはその地域から7世紀に遡る古い土器が出土することです。
 また、太宰府条坊都市から土器が多く出土するのは政庁・官衙付近と「通古賀」付近の2地域とのことで、中でも「通古賀」からは古い土器が出土するとのこと。この事実は、太宰府条坊が同時期に全てが造営されたわけではなく、まず「通古賀」付近が造営され、その後に順次拡張されたのではないかと考えられるのです。
 この可能性から、太宰府条坊造営時期を土器から判断する場合、条坊の場所ごとの比較検証が必要とわたしは考えています。こうしたテーマはやはり考古学者のお力添えが必要です。これからも井上さんから学んでいきたいと願っています。(つづく)


第1432話 2017/06/24

井上信正さんへの三つの質問(4)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つの質問の二つ目は次のようなものでした。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

 これに対する井上さんの返答は次のようなものでした。

〔回答2〕右郭12条8坊整地層からの出土土器にはレジュメにある渦巻き状の文様を持つものがあり、これは藤原京から出土する土器の特徴であることから、大宰府条坊と藤原京は同時期と見なしてよい。

 この井上さんの返答は考古学者ならではの知見によるもので、わたしも貴重な指摘と思いました。九州王朝の首都太宰府条坊都市と大和朝廷の王都となる藤原京との関係性がうかがわれる知見だからです。もちろんまだ具体的な関係のあり方はわかりませんが、土器だけではなく瓦も両都市間の関係をうかがわせる出土物が知られています。たとえば観世音寺の創建瓦老司Ⅰ式と藤原宮出土瓦との類似性も指摘されています。従って、両者が無関係に造営されたとは考えにくいのです。
 他方、太宰府条坊都市造営時期や造営過程については多くの不鮮明で難しい問題があります。それは太宰府条坊は7世紀初頭から末頃までの長期間にわたって増設された可能性があり、従って整地層出土土器の年代も場所によって異なるのではないかという疑問をわたしは抱いているからです。このことについても井上さんと意見交換しました。(つづく)


第1431話 2017/06/24

井上信正さんへの三つの質問(3)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つの質問のうち、一つ目の応答は次のようでした。

〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。

〔回答1〕観世音寺の位置(南北中心軸)は政庁Ⅱ期の中心軸から小尺でちょうど東へ2000尺の位置にあることから、小尺が採用された8世紀初頭となる。出土土器も7世紀に遡る古いものは出土していない。

 講演会後の懇親会でも観世音寺の創建年代について、井上さんと真摯な意見交換を続けました。わたしは複数の九州年号史料に白鳳10年(670)の観世音寺創建記事があることや、創建瓦の老司Ⅰ式が従来の編年では7世紀後半頃とされていること以外にも、国宝の銅鐘が7世紀末頃のものとされていること、本尊の阿弥陀如来像は百済から贈られたものと伝承されていることから、これも百済滅亡の660年以前にもたらされたと考えられ、その場合、井上説では50年近くどこかに置かれていたこととなり、これも不自然であると指摘しました。
 もちろん井上さんもこうしたことはよくご存じで、その上で観世音寺から7世紀に遡る土器が出土していないことを不思議に思っておられるようでした。この点については、わたしも納得できていません。機会を得て、同調査報告書を精査したいと考えています。
 「小尺」(30cm弱)の採用時期については、近畿天皇家一元史観に立てば『続日本紀』の記述などに基づき8世紀初頭とする井上説は理解できますし、九州王朝説に立つわたしには『続日本紀』の記述を無批判に「是」とすることはできませんので、これはお互いの依って立つ歴史観の差から来ています。したがって、この問題については、倭国における「小尺」採用時期を示す遺構や遺物の有無などの検証が、互いの説の優劣を検討する有効な論点となるでしょう。(つづく)