2018年04月一覧

第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。

 


第1648話 2018/04/12

発見された後期難波宮の大規模区画と官衙群

 前期難波宮には律令官制に対応した東西の官衙遺構が発見されています。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究によれば、律令官制を支える中央官僚は八千名に及ぶとの試算が示されています。他方、前期難波宮の上部に造営された聖武天皇の後期難波宮には前期難波宮のような大規模官衙遺構の発見がありませんでした。
 ところが、大阪文化財研究所発行『葦火』185号(2017年4月)に高橋工さんの「後期難波宮西方で官衙地区を初めて発見」という報告が掲載されていることに気づきましたので紹介します。
 発見された遺構は難波宮史跡公園の西、大阪医療センター内に位置し、後期難波宮の五間門区画の塀と官衙(役所)建物群が見つかりました。8世紀の土器が出土しており、後期難波宮の遺構と見て問題ありません。しかも南北の規模は約200m、東西は100m以上あることもわかりました。これは内裏をも凌駕する規模をもっていた可能性もあるとされています。
 今回の調査区は「五間門区画」と呼ばれているもので、後期難波宮大極殿の西方にあり、東面に2棟の五間門を持つ、掘立柱塀を巡らせた一画です。五間門は宮殿の正門などに採用される格式の高い門とされ、この区画を天皇や上皇の御在所とする説もあるそうです。その南側からは堀立柱建物群も発見されており、これらは官衙の一部と見られています。このことから「五間門区画」の南方に官衙群が展開していたと推定されています。
 後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇によって造営が始められ、天平16年(744)に一時的に皇都として定められましたが、遷都期間が短かったこともあり、実際に都の機能を有していたか不明でした。しかし今回の発見により、政治を行う機能が備わっていたことが証明されたと思われます。このことは多元史観・九州王朝説にとっても無関係ではありません。今後、七世紀における九州王朝の都城を論じる場合、宮殿だけではなく、律令官制の中央官僚群が政務に就いていた大型官衙遺構の出土が不可欠となったからです。
 たとえば、7世紀における律令官制による全国統治が可能な官衙遺構を持つ王都は、太宰府(倭京)、前期難波宮(難波京)、近江大津宮(近江京)、藤原宮(藤原京)が知られています。7世紀において、これら以外の地に九州王朝(倭国)の王都があったとする場合は、宮殿・官衙遺構の明示を一元史観論者から求められることでしょう。この一元史観論者からの指摘や批判に答えられるような理論構築がわたしたち古田学派の研究者には必要です。先月発行した『発見された倭京 太宰府都城と官道』もそうした取り組みの一環なのです。


第1647話 2018/04/11

後期難波宮の基幹排水路と谷の整地

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』188号(2018年1月)に高橋工さんによる「後期難波宮の石組 基幹排水路を発見」という発掘調査報告が掲載されており、その中に興味深い記事がありましので、ご紹介します。
 今回発見されたのは後期難波宮の東側に南北に伸びる基幹排水路で、前期難波宮造営時に埋め立てられた谷の整地層(厚さ2.4m以上)の上に造られた石組溝として出土しました。この溝について、次のように説明されています。

 「これらの溝は、宮殿の雨水や廃水を集めて流した基幹的な排水溝とみてよいでしょう。排水溝に集まった水は、地形にそって南へ流れ、調査地付近で暗渠となって、整地層の下から埋められていない谷へ排出されたものと考えられます。」

 そして、わたしが最も注目したのは次の指摘です。

 「整地層の分布から、宮殿の中枢部に近い谷の北部のみを埋め立て、調査区より南側は谷が埋め立てられずに残っていたとみられます。また、整地層のすぐ北側には、朱雀門から東へ延び、宮の南を画する塀があるはずです。塀のすぐ外側は谷が埋め立てられていなかったことになり、大規模な土木工事である整地が、必要最小限の範囲で行われたことを示しているとみてよいでしょう。」

 このように前期難波宮造営時に、上町台地に入り組んでいる急峻な谷を平地にまで埋め立てているものの、それは必要最小限だったようです。逆から言えば、宮殿造営に必要であれば大きな谷も埋め立てたということを意味します。次のような記述もあります。
 「調査区はこの谷を東西方向に横断していたので、谷の幅が約40mであることがわかりました。谷の中は、約3.5m掘っても底が出なかったので、それ以上の深さです。
 これほど急峻な谷は、難波宮を造営する際には障害となったはずです。実際、この谷は2.4m以上の厚さをもつ整地層で埋め立てられ、平地として造成されていました。」

 前期難波宮朱雀門の南側に谷が入り込んでいることを根拠に、難波京には朱雀大路が無かったとする見解があったのですが、今回の調査で、宮殿のすぐ側で平地にまで埋め立てた整地層が発見されたことにより、難波京造営にあたり、朱雀大路にかかる谷も埋め立てられたと考えてもよいと思われます。難波宮は発掘調査のたびに新発見が続き、前期難波宮九州王朝副都説を提唱するわたしとしては目が離せません。


第1646話 2018/04/10

縄文神話と縄文土器のフィロロギー

 『古田史学会報』145号で発表された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」は「古田史学の会」関西例会での発表を論文化したものです。大原さんの発表を聞いたとき、わたしはその学問の方法と縄文神話という未知の領域に挑んだ画期的な研究に驚きました。そして同時に脳裏に浮かんだもう一つの論文がありました。
 古田武彦「村岡典嗣論 時代に抗する学問」(『古田史学会報』38号、2000年6月)です。『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店、2016年)にも収録した、古田先生にとっての記念碑的論文です(自筆原稿を古田先生から記念にいただきました。古賀家の家宝としています。自筆原稿の写真も『古田武彦は死なず』に掲載)。
 その中で村岡典嗣先生の論文「日本思想史の研究方法について」を紹介された部分があります。村岡先生がドイツのアウグスト・ベエクのフィロロギーを日本思想史として取り入れられたのですが、その思想史という学問について古田先生は次のように紹介されました。

「第一に、思想史は、『ある意味において文化史に属する』こと。
 第二に、外来の思想を摂取し、その構成要素としつゝも、その間に、何等かの『日本的なもの』を発展して来たところ、そこに思想史の目標をおかねばならぬこと。
 第三に、外国における日本思想史学の先蹤として、第十八世紀の末から第十九世紀へかけて、ドイツの学界において学問的に成立した学問として『フィロロギイ』が存在すること。
 第四に、その代表者たるアウグスト・ベエクがのべている『人間の精神から産出されたもの、則ち認識されたものの認識』という定義がこの学問の本質をしめしている。
 第五に、ただし『思想史の主な研究対象といへば、いふまでもなく文献である。』
 第六、宣長が上古、中古の古典、即ち古事記や源氏物語などの研究によつて実行したところは、十分な意味で、『フィロロギイと一致』する。」

 そして、古田先生はこの村岡先生が取り扱われた学問領域について、次のように「批判」されています。

 「以上の論述の中には、今日の問題意識から見れば、矛盾とは言えないけれど、若干の問題点を含んでいると思われる。
 その一は、縄文時代における『人間の認識』だ。右の論文の記せられた昭和初期(発表は九年)に比すれば、近年における縄文遺跡の発掘には刮目させられる。三内丸山遺跡はもとより、わたしが調査報告した足摺岬(高知県)の巨石遺構に至るまで、当時の『認識範囲』をはるかに超えている。おびただしい土器群と共に、これらが『人間の認識』に入ること疑いがない。先述のベエクの定義によれば、これらも当然『フィロロギイ』の対象である。彼が古代ギリシヤの建築・体育・音楽等をもその研究対象としている点からも、この点はうかがえよう。
 確かに、縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」

 この最後の部分にある「縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」という指摘を思い出したのです。
 古田先生が待望されていた縄文世界の真相に肉薄する「その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文」が大原論文であり、わたしたち古田学派の中から生まれた研究と言っても過言ではないと思います。古田先生が生きておられたら、大原さんの研究を高く評価されたことでしょう。


第1645話 2018/04/10

『古田史学会報』145号のご案内

 『古田史学会報』145号が発行されましたので、ご紹介します。
今号も常連組から手堅い論稿が発表されました。『古代に真実を求めて』22集の特集テーマ「多元史観で読み解く古代伝承」(仮称)をも射程に入れた正木さんの論稿が一面を飾りました。関西例会や久留米大学で発表されたものを論文化されたもので、大好評だったテーマです。

 大山崎町の大原さんの論稿は、会報デビューされた前号に続いて連続で採用されたもの。「関西例会」での発表を投稿していただいたのですが、縄文神話という仮説を縄文土器を根拠に提起するという、驚愕の論文です。まさに古代史学の新たな領域を切り拓いた記念碑的論文ではないでしょうか。この点については別途詳述します。

 皆川さんは会報デビューです。「古田史学の会・四国」での講演会や旅行の報告をしていただきました。各地の活動報告は優先的に掲載しますので、よろしくお願いします。
今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』145号の内容
○よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) 川西市 正木裕
○『隋書』における「行路記事」の存在について 札幌市 阿部周一
○十七条憲法とは何か 八尾市 服部静尚
○律令制の都「前期難波宮」 京都市 古賀達也
○松山での『和田家文書』講演と「越智国」探訪 松山市 皆川恵子
○縄文にいたイザナギ・イザナミ 乙訓郡大山崎町 大原重雄
○会誌刊行(『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』)のお知らせ
○二〇一八年度会費納入のお願い
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第1644話 2018/04/08

百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)

 観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦を根拠に、観世音寺に先だって建立された「仮設寺院」に観世音寺の本尊となる百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたとする作業仮説(思いつき)に至りましたが、それではその「仮設寺院」は何と呼ばれていたのでしょうか。また、百済系単弁瓦の編年において、一元史観の通説では7世紀後半から7世紀末とされているのですが、この問題について更に深く考えてみました。
 まず寺院名ですが、素人判断では阿弥陀如来像を本尊とするのであれば観世音寺では不自然な気がします。観世音寺であれば観世音菩薩像を本尊にしてほしいところです。しかしながら観世音寺の本尊が阿弥陀如来像であったことは文献に見えており、疑えません。したがって、現時点では「仮設寺院」の名称は不詳とせざるをえません。
 次に「仮設寺院」の創建年代ですが、わたしの説に対応させるのであれば、創建観世音寺が白鳳10年(670)ですから、「仮設寺院」は百済系単弁瓦の編年から7世紀前半頃となるのですが、実は本テーマを執筆していてもう一つの可能性にも言及する必要があることに気づきました。それは通説の編年観に立った場合、観世音寺寺域に先在した百済系単弁瓦の「仮設寺院」が、『二中歴』や『勝山記』などに白鳳10年に創建されたとある「観世音寺」ではなかったかという可能性です。もしそうであれば、いわゆる天智により発願された観世音寺はその「仮設寺院」を取り壊して、同じ場所に造営された創建観世音寺(完成は8世紀前半とする)ということになります。これですと、通説の編年と矛盾無く整合します。
 この問題の鍵は百済系単弁瓦が九州王朝(倭国)で7世紀後半まで採用されたのか否かというテーマとも関連しており、引き続き検討を続けたいと思います。


第1643話 2018/04/07

九州王朝「北陸道」の問答

 『発見された倭京』で九州王朝の「東山道」15国を比定し、古代官道が太宰府を起点に展開されているとした西村秀己さんの論理的仮説を実証的に検証された山田春廣さんが、ブログにおいて太宰府起点の「東山道」「東海道」そして「北陸道」の地図を発表されています。山田さんは「妄想」と謙遜されていますが、そういうことはなく、なかなか優れた仮説(地図)と思います。
 その山田さんのブログ上で「北陸道」について、わたしと問答(学問的対話)を続けていますが、面白い展開を見せつつありますので、「洛中洛外日記」に転載させていただきました。皆さんも是非「問答」にご参加下さい。

【わたしからの質問】
山田様
 貴ブログの「北陸道」地図をわたしのfacebookに転載させていただきました。なかなかよい仮説(地図)と思いました。「北陸道」については次の疑問を抱いているのですが、山田さんのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

1.他は「海道」「山道」なのに、なぜここだけ「北陸道」と命名したのか。あるいは、九州王朝は別の名称だったのでしょうか。「北海道」が別ルートとしてありますから、仕方なく「北陸道」と命名したのでしょうか。

2.筑前から東山道の山口県部分を飛び越えて、山陰ルートに向かいますが、やや不自然のような気がします。

 以上、ご教示ください。なお、この疑問は山田説を否定するという趣旨のものではありませんので、ご理解ください。

【山田さんからの応答】
 まず、「「九州王朝の北陸道」十二國」は西村さまの「五畿七道の謎」に沿って東・西・南・北海道を比定し、そこに私が比定した「東山道十五國」を重ねると、残りが「北陸道」だという理屈だけで想定したものですので、「東山道十五國」の比定も含めて批判されて然るべきものと考えています。ですから、古代官道の諸国について私の想定図とは異なる比定があってしかるべきと思っております。
 倭国(九州王朝)の古代官道については、西村仮説「五畿七道の謎」(「九州王朝(倭国)の首都大宰府」「太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道」)のガイドラインに沿ってさえいれば、もっと様々な比定がなされてしかるべきで、それによってさらに議論が深められていくものと考えております。
 さて、古賀さまがご疑問に思われたことがらについて、私なりに考えてみました(根拠は示せませんので妄想ということです)。

1.「北陸道」という命名は確かに不審です。海に面している(実際も海路が主ではないかと思う)のに「陸」というのが納得できないところです。よって、これは「北海道」ではなかったかと考えています(西村さまとは少し異なる考えになりますが)。
 「北海道」は倭の五王時代にあった壱岐・対馬・金海(きむへ、南朝鮮)へ向かう海道であったわけですが、倭国(九州王朝)が朝鮮半島の版図を失い、海峡国家でなくなって以降の時代に、何時の時代かわかりませんが、博多湾を出て令制では「山陰道」と呼ばれている諸国沿いの海路が「北海道」と改称され、さらに「北陸道」と改称されたのではないかと妄想しています。

2.上記の妄想から、「北陸道」が「北海道」を改称した「海路」ということであれば、長門(山口県)を飛び越えて行くのもありと考えます。また、別の考え方として、「北陸道」が長門国の北部を通っている(長門を二道が通る)ということも考えられます。しかし、「官道」を「軍管区」と考えると、一国を二分するというのは不自然ですので、「北陸道」は「陸路」ではなく「海路」だった(後の時代に「北海道」を「北陸道」と改称した)という考えの方に今の段階では魅力を感じています。

 古賀さまのご疑問にお答えできたとは思いませんが、とりあえず考え(妄想)を述べさせていただきました。


第1642話 2018/04/06

百済伝来阿弥陀如来像の流転(5)

 下原幸裕「〔発掘調査速報〕大野城跡クロガネ岩城門出土の軒丸瓦」(『都府楼』46号、古都太宰府保存協会。2014年)によれば、観世音寺寺域からの出土した百済系単弁軒丸瓦は、新旧あわせて42片あり、その編年を7世紀後半とされています。太宰府では観世音寺寺域に集中出土していることから、創建観世音寺以前に観世音寺と関連した伽藍があったと推定され、それを「仮設建物か」と次のように解説されています。

 「ところで、既に述べたように020A型式は観世音寺の発掘調査でも一定量出土していて、文様的にも後出すると考えられる020B型式も観世音寺のみで出土している。他の単弁瓦を含まず、観世音寺の寺域という局所的な出土は、政庁周辺の単弁瓦の在り方とは異質で、政庁Ⅰ期段階の官衙関連施設の一部が観世音寺周辺にも存在したというより、観世音寺そのものに関わる建物(本格的な伽藍完成までの仮設建物か)に用いられた可能性が高いのではないか。」(60頁)

 この下原さんの推定が正しかった場合、この百済系単弁軒丸瓦を用いた「本格的な伽藍完成までの仮設建物」は何のために建てられたのでしょうか。わざわざ瓦葺きで造営された建造物ですから、大切な物の長期「保管」を前提としたと考えざるを得ません。そうしますと、観世音寺の本尊とされた百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたのではないでしょうか。恐らく百済系瓦が用いられたのも偶然ではなく、百済伝来仏を安置するのにふさわしい瓦が選ばれたと考えることもできそうです。もちろん、これは一つの作業仮説に過ぎませんが、他に有力な安置寺院やその伝承が見あたらないことから、他の適切な仮説を提起できません。
 それでは百済伝来阿弥陀如来像が「本格的な伽藍完成までの仮設建物」に安置されたのはいつ頃でしょうか。状況証拠からの推測でしかありませんが、上限は九州王朝が太宰府遷都した倭京元年(618)、下限は百済が滅亡した660年とできますから、大枠としては7世紀前半頃としてよいと思います。
 ちなみに、7世紀前半は九州王朝仏教に浄土信仰・阿弥陀如来信仰の痕跡が色濃く残っている時代です。たとえば、九州王朝の天子多利思北孤の崩御により造られた法隆寺釈迦三尊像光背銘には「浄土」などの用語が見えますし、その太子の利歌彌多弗利の時代には、「聖徳太子」と善光寺如来との往復書簡「命長七年文書」(「命長」は九州年号、七年は646年)の存在が知られています。

 「       御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上」
 『善光寺縁起集註』(天明五年〔一七八五〕成立)※「命長七年文書」については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2012年)所収の拙稿「九州王朝仏教史の研究」をご参照下さい。

 このように九州王朝(倭国)で阿弥陀如来信仰が興隆したときに、百済から阿弥陀如来像が伝来したと考えることに無理はありません。(つづく)


第1641話 2018/04/05

百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)

 創建観世音寺の金堂跡から出土した基壇の瓦積について説明します。小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代」(『観世音寺 考察編』九州歴史資料館、2007年)には次のように記されています。

 「第3節 金堂
 調査の結果、44次数に及ぶ発掘調査をとおして、今回、初めて創建期と考えられる瓦積基壇を検出した。また、創建期から明治期に及ぶⅤ期の基壇変遷が明らかとなるなど大きな成果が得られた。(中略)
 ここで注目されるのが、瓦積基壇の基壇化粧として用いられた格子目叩打痕平瓦片である。この平瓦片は偏行忍冬唐草紋軒平瓦(瓦形式541A)の凸面に叩打された格子目と同一であり、偏行忍冬唐草紋軒平瓦は観世音寺南面築地推定地にあたる第122次調査の井戸SE3680から老司Ⅰ式軒丸瓦・軒平瓦とともに出土しており、井戸SE3680出土の土器年代から8世紀前半頃と考えられる。近年、観世音寺の創建年代を考察した小田富士雄によれば、偏行忍冬唐草紋軒平瓦の年代を観世音寺Ⅱ期(和銅2年・709〜和銅4年・711)に比定することができるとしている。」(3頁)

 このように創建観世音寺の金堂基壇出土瓦を老司Ⅰ式(複弁蓮華紋の瓦当を持つ)の時代としており、通説ではそれを8世紀前半頃とし、わたしは7世紀後半頃としているわけです。今回のテーマである百済伝来阿弥陀如来像はこの創建金堂に安置されたのですが、通説では少なくとも百済滅亡の660年から710年頃の約半世紀以上の間、どこか別の場所に置かれていたことになり、わたしの説の場合は少なくとも10年以上どこかに安置されていたことになります。(つづく)


第1640話 2018/04/04

百済伝来阿弥陀如来像の流転(3)

 百済から伝来した創建観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は白鳳十年(670)の観世音寺完成までどこに安置されていたのでしょうか。百済滅亡が660年ですから、それ以前に伝来したことと思われますから、短くても10年以上はどこかに安置されていたと考えざるを得ないのですが、そのような伝承を持つ寺院などの存在は知られていません。わたしが観世音寺創建白鳳十年説に至ったとき、この問題が脳裏をよぎりました。しかし、よい解決案を見い出せずにきました。
 そのような中、九州歴史資料館で赤司さんからいただいた下原幸裕「〔発掘調査速報〕大野城跡クロガネ岩城門出土の軒丸瓦」(『都府楼』46号、古都太宰府保存協会。2014年)に大野城や太宰府から出土した軒丸瓦を記した地図「大野城周辺の単弁軒丸瓦の分布」があり、7世紀前半頃と思われる百済系単弁軒丸瓦が観世音寺寺域から出土していることを知りました。観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式(7世紀後半)とわたしは理解していますので、それよりも古い百済系単弁軒丸瓦の出土には驚きました。そこで同論文を読んでみると、この百済系単弁軒丸瓦は観世音寺創建瓦ではなく、それ以前に当地にあった寺院のものと推定されていました。
 創建観世音寺の金堂跡から出土した基壇は瓦積みであり、その瓦は老司Ⅰ式と同時期と編年されており、一元史観の通説では8世紀前半と編年されています。老司Ⅰ式瓦が7世紀後半頃であれば、金堂の基壇に用いられた瓦も7世紀後半頃となり、創建観世音寺の建立を7世紀後半の白鳳十年(670)とする文献史料(『勝山記』他)の記述と整合します。したがって観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦が創建観世音寺以前に当地にあった寺院のものとする判断は穏当です。(つづく)


第1639話 2018/04/03

百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)

 観世音寺創建時の本尊は百済から伝来した金銅阿弥陀如来像であったことが次の史料から明らかになっています。

 「其の状(太宰府解文)云わく、去る(康治二年、一一四三)六月二一日の夜、観世音寺の堂塔・回廊焼亡す。(略)但し、塔に於いては康平七年(一〇六四)五月十一日に焼亡す。中尊の丈六金銅阿弥陀如来像、猛火の中に在りても尊容に変わり無し。昔、百済國より之は渡り奉られり。云々。」(古賀訳)
 『国史大系』所収、「本朝世紀」
 康治二年(一一四三)七月十九日条

 これは康治二年(一一四三)の火災の記事ですが、このときは金堂は被災しておらず、阿弥陀如来像は無事でした。このように観世音寺は創建以来度々火災に遭っていることが、各史料に記されています。例えば次の通りです。

○筑前國観世音寺三綱等解案
 「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡す。」(古賀訳)
 元永二年(一一一九)三月二七日
 『平安遺文』〔一八九八〕所収。
 ※内閣文庫所蔵観世音寺文書

 康平七年(一〇六四)の火災により観世音寺は五重塔や講堂等が全焼し、金堂は火災を免れました。「不慮の天火出来」とありますから、落雷による火災と思われます。その後、観世音寺の復興が進められますが、五重塔だけは再建されていないようです。
 観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は百済渡来で「丈六」とされていることから、身長一丈六尺(四・八五m)の仏像のようです(座像の場合は半分の二・四二m)。この丈六の阿弥陀如来像が百済から献上されたのであれば、それは百済滅亡(六六〇)以前の出来事となり、阿弥陀如来像の九州王朝への「搬入」は、当然、観世音寺創建(六七〇)よりも以前のこととなります。
 ちなみに、この阿弥陀如来像は天正十四年の兵乱により失われたようで、『筑前国続風土記拾遺』に次のように記されています。

 「此阿弥陀佛は金銅なりしか百済より船に積て志摩郡岐志浦につく。其所を今も佛崎とよぶ。此佛の座床なりし鐵今も残れり。依て其村を御床と云。彼寺の佛像ハ天正十四年兵乱に掠られてなくなりしといふ。」
 『筑前国続風土記拾遺』御笠郡三、観世音寺

 倭国と百済の盟友の証であった阿弥陀如来像も天正十四年(一五八六)岩屋城攻防戦のおり、島津軍兵によって鋳潰され刀の鍔にされたと伝わっています。こうして白鳳十年の創建以来残っていた佛像も失われました。
 なお、『筑前国続風土記拾遺』によれば、「講堂佛前の紫石の獅子は百済國より献すると云」(御笠郡観世音寺)とあり、本尊以外にも百済からの奉納品があったことがうかがえます。(つづく)


第1638話 2018/04/01

百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)

 太宰府市の観世音寺創建年次について、『発見された倭京』(古田史学の会編、明石書店。2018.03)収録の拙稿「太宰府都城の年代観 近年の研究成果と -九州王朝説-」で次のように記しました。

 「3.観世音寺の造営(六七〇年)
〔根拠〕①出土創建瓦老司Ⅰ式の編年が川原寺の頃と考えられる。②『二中歴』年代歴に白鳳年間の創建と記されている。③『日本帝皇年代記』に白鳳十年(六七〇)の創建と記されている。④『勝山記』に白鳳十年(六七〇)の創建と記されている。⑤『続日本紀』和銅二年(七〇九)二月条に、天智天皇が斉明天皇のために創建したとある。」(85頁)

 観世音寺の創建年は従来から諸説あり、一元史観においても安定した通説は見られませんでした。しかし、最終的な伽藍の完成年は8世紀前半とされてきました。考古学的にも創建年を特定できるほどの出土土器が少なく、出土瓦などの編年によっていました。
 他方、九州王朝説の視点から、わたしは創建瓦の老司Ⅰ式を従来の考古学編年に基づいて、川原寺系のもので藤原宮式よりも古い(7世紀後半)とする見解を支持してきました。更に文献史料に白鳳年間(661〜683)や白鳳十年(670)とするものを複数発見し、観世音寺創建を670年としました。
 この観世音寺創建670年説は揺るがないと考えているのですが、その結果、別の問題が発生し、解決できずに残されたままになっていました。観世音寺の本尊である百済伝来の丈六金銅阿弥陀如来像は、観世音寺創建までどこの寺院に安置されていたのかという問題です。(つづく)