「 2018年08月26日 」一覧

第1732話 2018/08/26

『日本書紀』に見える「采女竹良」

 「采女氏塋域碑」に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、『日本書紀』にも「采女竹羅」「采女筑羅」として見えます。次の記事です。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には「小錦下」として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には「朝臣」の姓をもらい、天武崩御の際には「直大肆」として誅しています。没年は不明ですが、「采女氏塋域碑」によれば持統三年己丑(689)までには「直大弐」となり没しているようです。
 このような『日本書紀』の記事を信用する限り、采女竹良が「直大弐」として仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありません。そうすると那須国造碑にある「永昌元年己丑(689年)」に那須直韋提に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」も近畿天皇家のこととなります。太宰府の「戸籍」木簡に見える同類の冠位「進大弐」を持つ「建ア成」(「ア」は「部」の異体字)も近畿天皇家から叙位されたということになります。
 しかし、ONライン(王朝交代)以前のこの時期において、片方では九州年号が関東から九州まで使用される中、冠位は近畿天皇家が関東から九州まで叙位したということになります。このような理解は果たして正しいのでしょうか。他の可能性は考えられないのでしょうか。(「那須国造碑『永昌元年』の論理(7)」につづく)


第1731話 2018/08/26

「采女氏塋域碑」拓本の混乱

 〝那須国造碑「永昌元年」の論理〟ということで、理屈っぽい「洛中洛外日記」が続いていますが、ここで話題を少し変えて「息抜き」することにします。もっとも学問的には重要なテーマですから、しっかりと論じます。
 それは「釆女氏塋域碑」拓本の文字の異同についての問題です。同碑の「飛鳥浄原大朝庭」という表記について、わたしは「飛鳥浄原大朝庭」と記した拓本の他に、「飛鳥浄御原大朝庭」あるいは「飛鳥浄原大朝廷」と記した拓本や訳文が入り交じって存在していることに気づきました。わたしの「洛中洛外日記」原稿中にも同様の混乱があり、校正・チェックをお願いしている加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からそのご指摘を受け、この問題の存在にはっきりと気づきました。
 わたしは「釆女氏塋域碑」の碑文については主に「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本に基づいた訳文を採用していたのですが、ネットなどで見る拓本やそれらの訳文に微妙な差があることが気になっていました。そこで、京都府立歴彩館の総合資料館で先行研究論文や拓本が掲載された書籍を片っ端から閲覧しました。そして「釆女氏塋域碑」拓本についての近江昌司さんの研究論文「釆女氏塋域碑について」(『日本歴史』431号、1984.04)に巡り会いました。
 この「釆女氏塋域碑」は実物が存在しないため、研究は拓本によらざるを得ません。ところがその拓本間に文字の異同があったり、拓本から読み取られた訳文間にも文字の異同があるのです。そのことを近江昌司さんは「釆女氏塋域碑について」にて明らかにされ、複数ある拓本の中で「真拓」として現存するのは「小杉文庫蔵拓本」(静岡県立博物館蔵)だけであるとされたのです。そしてその他の拓本のほとんどは「真拓」ではなく、後世に造られた模造品の拓本であったり、印刷用の木製彫版によって摺られた「摺本」であるとのことなのです。
 幸い、わたしが依拠した「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本は「真拓」とされていました。ただし現在は行方不明とのこと。また、拓本作成時期はその碑文のひび割れの進み具合の差から、「小杉文庫蔵拓本」の方が古いとされています。結果としてわたしが採用した「拓本」は〝セーフ〟でしたが、まさか模造品の拓本やら印刷用の木版摺本が「拓本」として世の中に出回っているとは思いもしませんでした。
 文献史学における「史料批判」がいかに重要か、改めて思い知らされた一件で、まさに冷や汗ものでした。従って、「釆女氏塋域碑」の碑文は「飛鳥浄原大朝庭」であり、「飛鳥浄御原」と「御」を付記したり、「大朝庭」の「庭」を「廷」としている論稿は要注意です。なお、付言すればこれらの文字以外にも、碑文のキズなのか、本来の文字の一部なのかで論争されている字(「十」か「千」か)もありますが、こちらは碑文そのものを見つけ出さないと決着がつかないかもしれません。