第1736話 2018/08/30

那須国造碑「永昌元年」の論理(7)

 那須国造碑や釆女氏塋域碑に記された「飛鳥浄原大朝庭」「飛鳥浄御原大宮」について、ここで少し考察してみます。
 「洛中洛外日記」902話(2015/03/19)でわたしは〝「浄御原」「清原」「浄原」〟について次のように論じました。以下、要約して転載します。

【要約転載】
 『日本書紀』(720年成立)天武紀には「飛鳥浄御原宮」と表記され、『古事記』(712年成立)序文には「飛鳥清原大宮」とあります。
 同時代金石文や同逸文に「きよみはら」が記されています。

(1)天武5年(677)小野毛人墓誌(京都市出土)「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
(2)天武即位8年(680)薬師寺東塔檫銘(奈良県)「清原馭宇天皇」
(3)持統3年(689)采女氏榮域碑(大阪府出土、今なし)「飛鳥浄原大朝廷」
(4)文武4年(700)那須国造碑(栃木県)「飛鳥浄御原大宮」
(5)景雲4年(707)威奈大村骨蔵器墓誌銘(奈良県出土)「清原聖朝」
(6)和銅8年(715)粟原寺鑪盤銘(奈良県)「大倭国浄美原宮治天下天皇」
(7)天平2年(730)美努岡万墓誌(奈良県出土)「飛鳥浄原天皇」

 大別すると、「浄御原」「浄美原」のように、「きよみはら」と読めるもの(1、4、6)と、「清原」「浄原」のように「み」に対応する「御」「美」がないもの(2、3、5、7)の二種類があります。
 近畿天皇家の正史『日本書紀』には「飛鳥浄御原宮」とありますから、少なくとも『日本書紀』成立以降はこちらを正当としたかったと思われますが、『日本書紀』成立以後の(7)美努岡万墓誌は「飛鳥浄原天皇」とあり、「み」に相当する字がありません。
 701年以前の近畿天皇家中枢領域の金石文の薬師寺東塔檫銘は「清原馭宇天皇」とあり、「み」が無いタイプです。天武の命により作成した金石文ですから、当時としては「清原」が用いられていた「直接証拠」とも言えるので、貴重です。『古事記』序文もこの「清原」を使用していますから、『日本書紀』成立以前の近畿天皇家では「清原」を正当な表記としていたと考えざるを得ません。
 古田先生はこの「浄御原」を「じょう・みばる」と訓み、福岡県小郡市付近にあった九州王朝の宮殿所在地名とされています。
【転載終わり】

 ここで考えなければならないことに、古田説のように「み」がつくケースは九州王朝の「じょう・みばる」宮のことであり、「み」がない場合は奈良の「きよはら」宮のことなのかという問題があります。また、同時代金石文の表記と『古事記』や『日本書紀』の表記との差異が何に基づくのかという点についても検討が必要です。(つづく)

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