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第1953話 2019/07/29

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(3)

 前話で紹介した7世紀以前の金石文や史料に見える「天皇」のうち、最も明確で説得力を持つのが飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」です。その出土層位から7世紀後半の天武期の木簡と編年されていますし、そこに記された皇子たちの名前が『日本書紀』に見える天武天皇の子供の名前とほぼ一致していますから、考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証力を有しています。同時代文字史料が極めて少ないという古代史研究においては極めて珍しい理想的なケースなのです。

 【『日本書紀』天武の皇子・皇女】
○斉明七年正月条 大伯皇女(大来皇女のこと)
○天武二年二月条 大来皇女 大津皇子 舎人皇子 穂積皇子

 この他にも飛鳥池からは最高権力者が用いる「詔」木簡などが出土しており、この地の権力者が7世紀後半に「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを証明しています。そしてその皇子の名前が『日本書紀』の記事に対応していることから、飛鳥の地で近畿天皇家は天武の時代には「天皇」を称していたと理解せざるを得ません。こうした史料事実をエビデンスとして、一元史観では「天皇」号を称したのは天武の時代からとする説が最有力と見なされています。
 多元史観・九州王朝説に立つわたしも、この史料事実とそれに基づく理解については否定できないのです。実は古田先生との対話でも、この飛鳥池出土「天皇」木簡について意見が対立しました。古田先生はこの「天皇」も九州王朝の天子のことと理解されていました。ただ、その根拠は「天皇とあれば九州王朝の天子のこと」と説明されただけでしたので、わたしとの対話は平行線をたどりました。
 この飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は古田旧説(ナンバーツーとしての「天皇」)であれば矛盾無く説明できますが、古田新説での説明はかなり困難ではないでしょうか。もし古田新説で説明しようとすると、九州王朝の天子が7世紀後半頃に飛鳥にいて、その皇子たちの名前が天武の子供らと偶然一致していた、あるいは天武の子供たちの名前を九州王朝の天子の子供たちの名前に書き換えて『日本書紀』を編纂し、王朝交替後も「舎人親王」などのように九州王朝の天子の子供たちの名前を天武の実子たちは〝借用〟したとでも言うほかありません。しかし、このような解釈は説得力を持たないでしょうし、何よりも「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」を九州王朝の皇子たちの名前であるとするエビデンス(史料根拠)がありません。また、九州王朝の存在を隠した『日本書紀』編者や天武の実子たちがそのような改名をわざわざ行う必要性もメリットもありません。更に言えば太宰府条坊都市や前期難波宮・難波京という大規模な都城・宮殿を持つ九州王朝の天子が、飛鳥のような狭い地域の前期難波宮よりもはるかに小規模な飛鳥宮に〝遷都・遷宮〟する必要もありません。
 以上のような理由から、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は近畿天皇家の人物を示すとするほかありません。そうしますと、王朝トップの「天皇」が豪族に与える「八色(やくさ)の姓(かばね)」の「真人」姓を自らの名前中に持つ天武(天渟中原瀛眞人天皇)は古田旧説のようにナンバーツーとしての「天皇」号を称していたことになります。史料根拠と平明な論理性に基づく限り、わたしにはこの理解しか今のところできません。
 そして、一旦この理解に立つと、近畿から出土・伝来した7世紀の史料中に見える「天皇」号を九州王朝の天子の別称とする理解は困難となります。なぜなら、もし九州王朝の天子が「天皇」号も名乗っていたのであれば、ナンバーツーの天武に自らと同じ称号「天皇」を名乗ることを許すとは考えられないからです。ただ、次の可能性もあります。それは、壬申の乱に勝利した天武の時代には近畿天皇家が実力ナンバーワンとなり、九州王朝の天子と同じ「天皇」を自称したというケースです。この場合は、天武は飛鳥の宮で「天皇」を自称し、その実力で各地の豪族への支配を開始したということになります。わたしはこの二つの可能性(①ナンバーツー「天皇」号を飛鳥の天武は許された。②ナンバーワン「天皇」を天武は飛鳥で自称した。)について検討を続けています。(つづく)