「 2019年08月 」一覧

第1958話 2019/08/07

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(8)

 本シリーズにおいて、「千仏多宝塔銅板」や「小野毛人墓誌」の年次表記に九州年号が使用されていないことに留意が必要と、わたしは指摘しました。「釆女氏榮域碑」にも九州年号は使用されていません。これらの金石文の史料性格と九州王朝律令における年号使用規定について少し論じておきたいと思います。
 『東京古田会ニュース』No.184(2019.01)に発表した拙論「九州王朝「儀制令」の予察 -九州年号の使用範囲-」において、わたしは九州王朝律令により定められた九州年号の使用範囲について考察しました。たとえば、大和朝廷の『養老律令』儀制令で次のように年号使用が規定されています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

 同様の条文が『大宝律令』にもあったと考えられていますが、おそらくは九州王朝律令にもあったのではないでしょうか。九州年号を公布した九州王朝がその年号の使用規定を律令で定めなかったとは考えられないからです。
 公文である戸籍や僧尼の名籍、そして冠位官職の「認定証」などの詔書類には九州年号が記されていたとわたしは考えています。特に庚午年籍のように長期保管を前提とした公文は干支だけでは60年ごとに廻ってくるので、どの時代の「庚午」なのかを特定するためにも年号使用が便利かつ必要です。同様に墓碑や墓誌銘も、没後長期にわたって遺存することを前提としますから、やはり干支だけでは不十分なため、年次特定に便利な年号が使用されたと思われます。そのことについて、先の拙論では次のように述べました。

 〝後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては六十年毎に廻ってくる干支表記だけでは不十分ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠として、「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)、「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)、「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。
 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)
 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせへの聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(六六一-六八三年)から朱雀(六八四-六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。」〟
 (古賀達也「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」、『東京古田会ニュース』No.184所収)

 他方、今回紹介した近畿出土・伝来の金石文、特に墓誌(小野毛人墓誌)・墓碑(釆女氏榮域碑)には九州年号が使用されていません。そのため、「小野毛人墓誌」は冒頭に「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)と記されていることにより、末尾の年次表記「丁丑年」が天武天皇の六年(677年)であることが墓誌を読む人にも特定できるような構文となっているのです。「釆女氏榮域碑」も同様で、冒頭に「飛鳥浄原大朝廷」とあり、末尾の「己丑年」が持統三年(689年)のことと特定できます。
 もしこれらが九州王朝の臣下の墓誌・墓碑であれば、たとえば「白鳳十七年丁丑」「朱鳥四年己丑」と記すだけで、故人が九州王朝配下の人物であることを示し、それぞれの絶対年次も過不足無く特定できるのです。ところが、九州年号の時代であるにもかかわらず、あえて九州年号を使用せず、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「飛鳥浄原大朝廷」と表記することにより、九州王朝ではなく大和「飛鳥」に君臨した近畿天皇家直属の臣下であることを主張した銘文となっているのです。
 この高官の墓誌・墓碑銘に九州年号が使用されておらず、「飛鳥浄原」という大和「飛鳥」と理解できる地名表記(「飛鳥」地名の遺存や宮殿遺構出土というエビデンスを持つ)が使用されていることに九州王朝説論者は注目すべきです。(つづく)


第1957話 2019/08/06

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(7)

 これまでに紹介したように、7世紀後半頃に飛鳥の地で「天皇」号を称していた天武らが「詔」を発していたことが飛鳥池出土木簡により明らかとなりましたが、どのような内容の詔勅なのかまでは木簡からはわかりません。他方、同時代金石文によれば臣下に冠位官職を授けていることがわかり、天武らは事実上のナンバーワン「天皇」として振る舞う権力者であったことをうかがわせます。
 たとえば「釆女氏榮域碑」に「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大貳采女竹良卿」とあるように、「飛鳥浄原大朝庭」の「大弁官」である「采女竹良卿」の冠位が「直大貳」とされています。このことから、「飛鳥浄原大朝庭」には「大弁官」という役職があり、「直大貳」という冠位が授けられていたことがわかります。この冠位は『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、金石文と文献の内容が対応しています。
 また、京都市出土の「小野毛人墓誌」には次の銘文があり、「丁丑年」(天武六年、677年)に没した小野毛人は「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)に「太政官」として仕え、冠位は「大錦上」とされています。この冠位も『日本書紀』によれば、664〜685年の期間のもので、金石文と文献が対応しています。

○「小野毛人金銅板墓誌」
 ※明治31年に京都市左京区崇道神社裏山から出土。
〔表〕
 飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
〔裏〕
 小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬

 ここに見える「飛鳥浄御原宮」も、これまでの史料根拠(エビデンス)に基づく論証から、「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝庭」と同じ大和「飛鳥」の宮殿と考えるほかありません。そして「小野毛人墓誌」にも九州年号が使用されていないことは留意が必要です。(つづく)


第1956話 2019/08/04

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(6)

 7世紀の「天皇」表記について論じてきましたが、ここで少し脇道にそれて、大和の「飛鳥」という地名表記について、史料根拠(エビデンス)を二つ紹介します。一つは、法隆寺に伝わる「観音像造像記銅板」と呼ばれる金石文です。次のように記されています。

(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺

(裏)
族大原博士百済在王此土王姓

 この「甲午年」は694年(持統八年)とされており、7世紀末頃の金石文です(634年説もあるようです)。この記事中に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、法隆寺(再建されたもの)・片岡王寺・元興寺のこととされています。いずれも大和の古代寺院として有名です。この「飛鳥寺」という寺院名から、その地が「飛鳥」と表記されていたと理解できます。
 二つ目が飛鳥池出土木簡に見える「飛鳥寺」という表記です。奈良文化財研究所の「木簡データベース」に収録されています。この木簡には紀年は記されていませんが、飛鳥池出土ですから7世紀後半頃と判断できるのではないでしょうか。報告書を精査したいと考えています。本稿末に同データベースの記録を転載していますので、ご参照ください。
 以上、二つの同時代史料により、7世紀末頃の大和に「飛鳥」という地名表記が存在したことは確実です。従って、先に紹介した金石文(「釆女氏榮域碑」「千仏多宝塔銅板」)中の「飛鳥」を大和内の地名とすることには、確かなエビデンスがあることをご理解いただけたと思います。(つづく)

【奈良文化財研究所木簡データベース】
※「飛鳥」で検索した結果、「飛鳥寺」がヒット。

【木簡番号】945
【本文】・世牟止言而□\橘本/止∥飛鳥寺・○「□□□□」
【寸法(mm)】縦(75) 横(22) 厚さ(3)
【型式番号】081
【出典】飛鳥藤原京1-945(木研21-18頁-(2)・飛13-9下(5))
【文字説明】本文、表面「橘」は異体字「桔」。裏面一文字目は「人」、四文字目は「説」の可能性あり。
【形状】二片接続、上切断、下欠(折れ)、左やや割れ、右やや割れ。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SK1153
【地区名】5B】ASNJ30
【木簡説明】左右二片接続。上端切断、下端折れ、左右両辺やや割れ。表面に「止」字が二箇所あるが、右行のものは大書体で中央に記すのに対して、左行のものは小書体で右に寄せて記すという違いがある。本木簡は国語学的に重要な意味をもち、宣命大書体から宣命小書体へ、という従来の図式に再考を促すこととなった(沖森卓也『日本語の誕生』吉川弘文館、二〇〇三年)。また本木簡は「セムト言ヒテ□…/拮本ト飛鳥寺」と訓読できるが、一字一音仮名と訓字が混用された初期の史料としても貴重である。「桔」は「橘」の俗字。別筆で書かれた裏面は、やや大きな文字で一行書きで記されており、こちらが木簡当初の記載とみるべきかもしれない。裏面一文字目は「人」、四文字目は「説」の可能性がある。


第1955話 2019/08/02

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(5)

 飛鳥池出土「天皇」木簡と長谷寺「千仏多宝塔銅板」銘という史料事実に基づき、論理展開(論証)を進めましたが、この論理構造(九州王朝説と齟齬をきたさない、平明で合理的な同時代金石文等の解釈)はここでとどまることを許しません。その論理の延長線上にある他の金石文の史料批判へと進まざるを得ないのです。そこで、続いて紹介するのが大阪府南河内郡太子町出土の「釆女氏榮域碑」です。

○「釆女氏榮域碑」 ※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年(689年)十二月二十五日。

 「釆女氏榮域碑」については「洛中洛外日記」1731話(2018/08/26)〝「采女氏塋域碑」拓本の混乱〟などで紹介してきましたが、碑文にあるようにその造営年は己丑年(689年、持統三年)です。先に紹介した長谷寺の「千仏多宝塔銅板」(686年 朱鳥元年丙戌か698年 文武二年戊戌)と同時代の成立です。従って、「千仏多宝塔銅板」の「飛鳥浄御原大宮」と「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝廷」は同じ時代の同じ飛鳥の権力者を意味していると考えざるを得ません。すなわち、大和飛鳥の天武・持統の宮殿・朝廷のこととなります。
 ちょうどこの時期、天武らは列島最大級の巨大条坊都市藤原宮・京を造営し、遷都(694年12月)します。藤原宮下層条坊道路跡から出土した干支木簡「壬午年(682)」「癸未年(683)」「甲申年(684)」などにより、天武の晩年に藤原宮と条坊都市の造営が行われていることがわかっています。686年(朱鳥元年)に前期難波宮が焼失しますから、その官僚たちは完成途上の藤原京に転居し、694年(持統八年)の遷都を迎えたものと思われます。まさにそうした時期に「采女氏塋域碑」と「千仏多宝塔銅板」は造られたのです。(つづく)


第1954話 2019/08/01

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(4)

 飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」などの考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証により、飛鳥の地で天武が「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを指摘しました。この近畿天皇家中枢の地から出土した同時代木簡という最強のエビデンスにより、安定して成立した仮説を基礎にして、更に他の同時代金石文により、論理を展開(論証)します。
 その同時代金石文とは奈良県桜井市の長谷寺に古くから秘蔵されてきた「千仏多宝塔銅板」です。その銅板の銘文には「天皇陛下」「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」という文字が記されており、この「天皇」を天武または持統とする説が有力視されています。この銅板の成立は銘文に記された「歳次降婁漆菟月上旬」という年次表記が「戌年の七月上旬」を意味することから(伴信友説)、686年(丙戌、朱鳥元年)か698年(戊戌、文武二年)のこととする諸説が発表されています。いずれにしても、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡とほぼ同時代と見なすことができます。
 銘文には「道明」という制作者名も記されており、他の史料(『扶桑略記』『七大寺年表』『東大寺要録』)では「道明」を斉明や天武と関係が深い奈良県明日香村の弘福寺(川原寺)僧としていることから、「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」の為に造ったと記されているこの銅板は7世紀後半の大和で成立したと考えて全く問題ありません。というよりも、それ以外の理解(仮説)を支持するエビデンス(史料根拠)はありません。
 以上の論理展開(論証結果)によるなら、飛鳥に割拠した天武や持統は「天皇」号を名乗り、その宮殿は「飛鳥浄御原大宮」と呼ばれていたことになります。そしてその考古学的根拠(エビデンス)として、比較的大規模な「伝板葺宮」「エビノコ郭」遺跡が飛鳥池の近傍にあり、その遺跡を「飛鳥浄御原大宮」とする仮説が成立します。なお、この宮殿遺跡は前期難波宮よりも規模が劣りますが、大宰府政庁よりも巨大です。7世紀後半頃の大和飛鳥にこの規模の宮殿遺跡が存在することを多元史観・九州王朝説論者は軽視してはいけません。更に、「千仏多宝塔銅板」銘文に九州年号が使用されていないことにも留意が必要です。(つづく)