2019年08月20日一覧

第1970話 2019/08/20

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(4)

 筑紫「飛鳥」説を証明するための「アスカ」地名や「明日香川」の調査が行き詰まっていた時に、正木裕さんの宝満川を「アスカ川」とする広域「アスカ」説が発表されたのでした。正木さんとの対話の様子を「洛中洛外日記」901話では次のように紹介しています。

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第901話 2015/03/17
小郡宮と飛鳥宮(2)
 正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)との古代史談義のテーマは、小郡宮から飛鳥宮へと移りました。正木説によれば、宝満川(阿志岐川)が『万葉集』などに見える「あすか川」であり、筑後川を挟んで小郡・朝倉と久留米一帯の広域地名が「あすか」と比定されています。従って、この領域にあった宮殿は「あすかの○○宮」と称されることになります。
 他方、奈良県明日香村にも7世紀の宮殿遺構があり、これらも「あすかの○○宮」と呼ばれていたことを疑えません。そこで問題となるのが、『日本書紀』や『万葉集』、金石文に記されたそれぞれの「あすか宮」「あすかの○○宮」を、どちらの「あすか」と見るのかということです。二つの候補地がある以上、史料ごとに個別に検討しなければなりませんが、これがなかなか難しく、正木さんとの検討でも、まだ結論を得るには至りませんでした。特に「あすかのきよみはらの宮」「きよみはらの宮」に関しては、かなり突っ込んだ意見交換と検討を続けました。この問題について、引き続き考えたいと思います。
【転載、終わり】

 なお、正木さんの論文発表は更に遡り、『古田史学会報』103号(2011年4月)「『筑紫なる飛鳥宮』を探る」、同106号(2011年10月)「論争の提起に応えて」で、宝満川=「アスカ川」説を論じられられています。わたしは筑紫に「アスカ」地名が現存せず、過去に存在したという史料根拠も見当たらないことから、この正木説に反対ではないものの賛成もできずに来ました。しかしながら、こうした正木説との出会いにより、本稿のテーマである大和と筑紫の多元的「飛鳥」論の検証へとわたしの問題意識は進んできたのです。(つづく)


第1969話 2019/08/20

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(3)

 古田先生が筑紫の「飛鳥」と考えられた小郡市井上地区の小字「飛島(とびしま)」ですが、その小字「飛島」の形が元々は沼か水路のようで、『日本書紀』や『万葉集』に記された「あすか」のような比較的大きな領域とは考えにくく、わたしは古田先生の小郡「飛鳥」説に納得できないでいました。
 たとえば『万葉集』196番歌には「わが大君(吾王)」の名前「明日香」は「明日香川」に由来すると歌われています。従って、「明日香川」はそれなりの規模を持つ有名な川と考えざるを得ません。しかし、小郡市の小字「飛島(とびしま)」が元々は川であったとしても小規模であり、とても九州王朝の天子の名前の由来となるような川とは考えられません。
 そこで、わたしはこの「明日香川」にふさわしい川として、筑前と筑後の間を流れる九州随一の大河筑後川ではないかと考えました。筑後川という名称は筑紫国が前後に分国された後に付けられたものであり、分国以前(六世紀末以前)には別の名前があったはずですから、筑後川の古名が「明日香川」だったのではないかとする作業仮説(思いつき)に至ったのです。しかし史料調査の結果、筑後川には「一夜川」の別名や地元の通称である「大川」という名称しかみつかりませんでした。また、その上流や源流域の地に「アスカ」という地名や山名も見つかりませんでしたので、筑後川を「明日香川」とすることにはエビデンスがなく、仮説成立は困難とせざるを得ませんでした。
 次に検討したのが筑後川の支流で小郡市を流れる宝満川の古名が「明日香川」とする作業仮説(思いつき)を検討しました。通常、宝満川の名前の由来は宝満山(御笠山)を源流域とすることによるとされています。他方、同地域から博多湾へ流れる川として御笠川が存在しています。宝満山の古名が御笠山であることから、御笠川の名称はその山名に基づいています。同じように御笠山を源流域に持つ宝満川は、御笠山が宝満山と名前が変わって以降に成立した名称となりますから、筑後川と同様に別の名前(古名)を持っていたはずです。それが「明日香川」ではないかと考えたのですが、やはりそれを証明するためのエビデンスは見つかりませんでした。
 このように筑紫「飛鳥」説を証明するため、史料調査や検討を続けたのですが、成果は得られませんでした。(つづく)