2020年08月一覧

第2195話 2020/08/05

「大宝二年籍」断簡の史料批判(19)

 南部昇さんが『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)で指摘されたように、八世紀前半の戸籍に「戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い」例として「御野国加毛郡半布里戸籍」の中から、顕著な四戸について関係人物を抜粋し、親子関係をわかりやすく並べ替えて紹介します。(『寧楽遺文』上巻、昭和37年版による)

○「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主都野」(59歳)
 「戸主妻阿刀部井手賣」(52歳)
   ―「嫡子麻呂」(18歳)※41歳差
   ―「次古麻呂」(16歳)※43歳差
   ―「次百嶋」(1歳)※58歳差
   ―「児刀自賣」(29歳)※30歳差
     ―「刀自賣児敢臣族岸臣眞嶋賣」(10歳)
     ―「次爾波賣」(5歳)
   ―「次大墨賣」(18歳)※41歳差
 「妾秦人意比止賣」(47歳)
   ―「児古賣」(12歳)※47歳差
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳)

   「戸主甥嶋薬」(33歳)
     ―「嫡子安麻呂」(5歳)※嶋薬と28歳差
     ―「次吉麻呂」(1歳)※嶋薬と32歳差

〔解説〕戸主「都野」(59歳)の嫡子「麻呂」(18歳)との年齢差は41歳。末子の「百嶋」(1歳)との年齢差は58歳で、戸主の妻「井手賣」(52歳)が51歳のときの超高齢出産となります。他方、戸主の甥「嶋薬」(33歳)とその嫡子「安麻呂」(5歳)との年齢差28歳は常識的です。

○「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主加佐布」(63歳)
 「戸主妻物マ志祢賣」(47歳)
  ―「嫡子小玉」(19歳)※44歳差
  ―「次身津」(16歳)※47歳差
  ―「次小身」(10歳)※53歳差

 「戸主弟阿手」(47歳)
 「阿手妻工マ嶋賣」(42歳)
  ―「児玉賣」(20歳)※阿手と27歳差
  ―「次小玉賣」(18歳)※阿手と29歳差
  ―「次大津賣」(15歳)※阿手と32歳差
  ―「次小古賣」(8歳)※阿手と39歳差
  ―「次依賣」(2歳)※阿手と45歳差

 「戸主弟古閇」(42歳)
  ―「古閇児廣津賣」(3歳)※古閇と39歳差

〔解説〕戸主「加佐布」(63歳)の嫡子「小玉」(19歳)との年齢差は44歳。末子「小身」(10歳)とは53歳差です。

○「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主山」(73歳)
 「戸主妻秦人和良比賣」(47歳)
  ―「嫡子古麻呂」(14歳)※59歳差
  ―「次加麻呂」(11歳)※62歳差
 「妾秦人小賣」(27歳)
  ―「児手小賣」(2歳)※71歳差

 「戸主弟林」(59歳)
 「林妻秦人小賣」(42歳)
  ―「嫡子依手」(30歳)※林と29歳差
  ―「依手子古麻呂」(8歳)
―「次結」(24歳)※林と35歳差
―「次伊都毛」(16歳)※林と43歳差
―「次稲久利」(13歳)※林と46歳差
―「次奴加手」(7歳)※林と52歳差

〔解説〕戸主「山」(73歳)の嫡子「古麻呂」(14歳)との年齢差は59歳。次子の「加麻呂」(11歳)とは62歳差です。妾「秦人小賣」(27歳)との子「小賣」(2歳)とは71歳差。
 戸主の弟「林」の場合は、嫡子「依手」以外の子供たちとの年齢差が開いていることが注目されます。

○「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主阿波」(69歳)
  ―「嫡子乎知」(13歳)※56歳差
  ―「次布奈麻呂」(11歳)※58歳差
  ―「次小布奈」(8歳)※61歳差
  ―「次根麻呂」(2歳)※67歳差
―「戸主の児志祁賣」(33歳)※36歳差

 「戸主甥小人」(57歳)
  ―「嫡子知加良」(30歳)※小人と27歳差
  ―「次麻呂」(17歳)※小人と40歳差

 「戸主甥志比」(49歳)
 「志比妻不破勝族阿波比賣」(22歳)
  ―「嫡子牛麻呂」(22歳、兵士)※志比と27歳差
  ―「次比津自」(19歳)※志比と30歳差
  ―「次赤麻呂」(13歳)※志比と36歳差
  ―「次赤安」(8歳)※志比と41歳差
  ―「次吉嶋」(4歳)※志比と45歳差
  ―「次荒玉」(3歳)※志比と46歳差
  ―「児小依賣」(8歳)※志比と41歳差
  ―「次忍比賣」(3歳)※志比と46歳差

〔解説〕戸主「阿波」(69歳)の嫡子「乎知」(13歳)との年齢差は56歳。末子「根麻呂」(2歳)とは67歳差。「志比」の妻「阿波比賣」の年齢22歳は嫡子「牛麻呂」と同年齢であり、不審です(誤記・誤写か)。

 以上の例のように、戸主と嫡子の年齢差が開いていることや、出産年齢が超高齢出産となるケースもあり、同戸籍の記載年齢をそのまま信用するのは学問的に危険ではないかと、わたしは感じました。常識的には一世代20年くらいとして、戸主と嫡子の年齢差は20~30歳程度ではないかと思うのです。実際のところ、「御野国加毛郡半布里戸籍」にはそのような「戸」も多数あるのです。この一見不可解な史料状況をどのように考えればよいのか、わたしはこの25年間、ことあるごとに考え続けてきました。(つづく)


第2194話 2020/08/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(18)

 わたしが25年ほど前から古代戸籍の研究を始めたとき、古代戸籍に当時としてかなり珍しい高齢者が少なからず存在することに驚きました。その後、本連載の(2)(3)で紹介した「偽籍」という概念を知り、一応の疑問は解決できたのですが、それでもなお違和感を持ち続けてきました。それは、「大宝二年籍」のなかでも御野国戸籍におけるもう一つの注目点、戸主と嫡子の年齢差が大きいという史料事実です。この傾向は、戸主が高齢である場合はより顕著に表れ、一つ目の注目点である高齢者が少なくないという御野国戸籍の特徴とも密接に関連していました。
 このことは古代戸籍研究に於いて、従来から指摘されてきたところでもあります。たとえば、南部昇さんの『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)には次のような指摘がなされています。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図(三三三頁)に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」(315頁)

 南部さんが非常に多いと指摘されたこの傾向は戸主以外にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人縣主族都野」家族の記載があります。

 「寄人縣主族都野」(44歳、兵士)
 「嫡子川内」(3歳)
 「都野甥守部稲麻呂」(5歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫縣主族部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。また、二代続けて年齢差が異常に離れているということも不可解です。当初、わたしは都野家族の年齢は二倍年暦による計算表記(二倍年齢)ではないかと考えたこともありました。二倍年齢なら、母46.5歳、子22歳、孫1.5歳となり、これであれば常識的な親子の年齢差となるからです。
 しかし、わたしはこの単純な二倍年齢による年齢表記とする理解を採用できませんでした。なぜなら、仮に都野が一倍年齢で22歳とすると、「大宝二年籍(702年)」以前の「庚寅年籍(690年)」や「持統十年籍(696年)」の造籍時に年齢が補足されており、一旦年齢が戸籍に登録されると、その後の造籍時に一倍年暦によりその間の年数が加算されますから、二倍年齢による更新登録は造籍手続き上不可能だからです。
 このような不可解な史料状況を合理的に説明できる仮説はあるでしょうか。それとも、たまたまこうした高齢者があり、たまたま超高齢出産により子との年齢差が大きく、たまたま子と孫の年齢差も大きかったという〝たまたま〟が〝偶然〟に三回重なったと理解するしかないのでしょうか。(つづく)


第2193話 2020/08/03

「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)

 定年退職となり、ようやく古代戸籍について時間をとって研究できる環境になりましたので、「大宝二年籍」の史料批判を再開します。

 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。現存するのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけで、中でも御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されており、その戸籍年齢において注目すべき二つの史料事実があります。一つは当時としては考えにくいような高齢者が少なからず存在すること、もう一つは戸主とその嫡子の年齢差が大きい家族が多いことです。
 御野国戸籍には次の高齢者(70歳以上)が見えます。

〔味蜂間群春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀群栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣群肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方群三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛群半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 人類史上初の高齢化社会を迎えた現代日本であれば、上記の高齢者の存在は不思議ではありませんが、古代はおろか中近世でも珍しい高齢者群なのです。わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果ではないかと疑いました。しかし、他の中年層や若年層の年齢は一倍年暦によると思われ、「大宝二年籍」全体は一倍年暦によると判断せざるを得ません。
 このような戸籍年齢という史料事実を従来の古代戸籍研究では無批判に採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしの経験と直感は、「大宝二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢層の存在という「史料事実」を「歴史事実」の実証として受け入れることは学問的に危険と感じました。(つづく)


第2192話 2020/08/01

九州王朝の国号(14)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に中国北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたとする理解に至りましたので、本シリーズ最後のステージ、七世紀後半から大和朝廷と王朝交替する701年(ONライン)までの期間の国号について考察します。
 この時期の九州王朝の国号を記した同時代史料が見つかりませんので、八世紀前半の史料中に残された七世紀の国号表記を史料根拠として紹介します。次の例が比較的有力なものです。

①「対馬国司忍海造大国言さく、『銀始めて当国に出でたり。即ち貢上る』。是れによりて大国に小錦下位を授けたまう。おおよそ倭国に銀有ることは、此の時に始めて出る。」『日本書紀』天武三年(六七四)三月条

②「唐の人我が使いに謂ひて曰く、『しばしば聞かく、海の東に大倭国有り。これを君子国と謂ふ。人民豊楽にして、礼儀敦(あつ)く行はるときく。今使人を看るに、儀容大だ浄し。豈(あに)信(まこと)ならずや』といふ。」『続日本紀』慶雲元年(七〇四)七月条

③「三宝の奴(やっこ)と仕(つか)へ奉(まつ)る天皇が盧舎那の像の大前に奏(もう)し賜へと奏さく、此の大倭国は天地開闢(ひら)けてより以来に、黄金は人国より献(たてまつ)ることはあれども、斯(こ)の地には無き物と念(おも)へるに、聞こし看(め)す食国(おすくに)の中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い、部内の少田郡に黄金在りと奏して献れり。(後略)」『続日本紀』聖武天皇・天平勝宝元年(七四九)四月宣命

 ①の天武紀に見える「倭国」や②③の「大倭国」は共に「日本」全体のことを指していますから、『日本書紀』成立時点(720年)において、九州王朝の領域を「倭国」と表記していたことになります。②の「大倭国」は遣唐使が聞いた中国側の認識です。また、聖武天皇の宣命に見える「大倭国」も天平勝宝元年(七四九)時点のものと考えられますから、聖武天皇が九州王朝の国号を「大倭国」と認識していたことがわかります。
 こられ史料の「倭国」「大倭国」という記事から、王朝交替以前の九州王朝の国号が多利思北孤の時代の国号と同一と考えてよいと思われます。それ以外の国号としては、「大委国」と九州王朝系近江朝が採用した「日本国」くらいしか史料に見えませんので、九州王朝の国号は次のような変遷をたどったとして良いのではないでしょうか。

1世紀頃 委奴国(志賀島の金印による)
3世紀頃~ 倭国(『三国志』による)
6世紀末頃~7世紀末 大委国(主に国外向け表記。『法華義疏』『隋書』による)、倭国、大倭国
7世紀後半(670年~) 日本国(九州王朝系近江朝) ※この「日本国」は7世末頃(藤原京)から大和朝廷に引き継がれる。

 以上が九州王朝国号の考察結果ですが、新たな史料や論理の発見により、更に修正が必要になるかもしれませんので、現時点での到達点とご理解下さい。引き続いて、「大和朝廷の国号」をテーマに考察を行います。(おわり)