「 2020年09月 」一覧

第2246話 2020/09/29

『東京古田会ニュース』194号の紹介

『東京古田会ニュース』194号が届きました。同号には拙稿「大化の改新詔と王朝交替」を掲載していただきました。同稿では、『続日本紀』の文武天皇「即位の宣命」や『日本書紀』の大化二年改新詔などの分析に基づいて、7世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替について考察しました。まだ初歩的な研究段階で不十分で未完成の論稿ですから、これからも修正や論究を深めたいと思います。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「継体天皇と女系天皇」も掲載されていました。現在の女系天皇反対論や容認論に継体天皇の皇位継承例が取り上げられることもあり、現代史からも興味深い研究です。なお、同稿は「古田史学の会」関西例会で口頭発表され論争となったテーマで、論点整理を含めた検証が待たれます。
 中村通敏さん(福岡市)の論稿「『史記』の『穆王即位50歳説』について」は、わたしや古田先生の古代中国や『論語』における二倍年暦説を批判したもので、なかなか興味深い内容でした。たとえば、そこで紹介された中国の国家的研究プロジェクトによる「穆王の即位年齢20歳」説は、『史記』の「50歳即位」記事との比較(2.5倍)から、周王朝の天子の年齢が二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で『史記』に記述されていたことの証明にもなりそうです。この点、稿をあらためて詳述します。


第2245話 2020/09/28

古典の中の「都鳥」(4)

 チドリ目ミヤコドリ科の都鳥(渡り鳥)は、古代に於いて近畿天皇家の都がおかれた地には飛来していませんし、『伊勢物語』(九段)の主人公とされる在原業平(825~880年)の時代の平安京にはユリカモメもいなかったとされています。ですから、『伊勢物語』(九段)の舞台とされる武蔵国の「隅田川」でユリカモメを「都鳥」(宮こ鳥)とする次の歌が成立することは困難です。

 「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」『伊勢物語』(九段)
 ※『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見えます。

 そこでわたしが着目したのが「隅田川」という説話の舞台です。というのも、能楽に「隅田川」という演目があり、そこにも「都鳥」が登場するからです。
 観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作とされる「隅田川」は、都の婦人が人買いにさらわれた息子を探して武蔵国の隅田川まで訪れ、そこの渡し守との応答の中で「都鳥」が登場し、在原業平の「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥」の歌を引用するというものです。その概要については、本稿末に転載したウィキペディアの解説をご参照下さい。
 この「隅田川」の時代の都は平安京ですが、やはり京都には飛来しない「都鳥」(ミヤコドリ科)を、同じく「都鳥」がいない隅田川で、「鴎」(ユリカモメか)を指して歌うという不自然さがあります。そのとき、わたしが思い出したのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」(注①)です。(つづく)

(注)
①正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。

【隅田川】
 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『隅田川』(すみだがわ)は能楽作品の一つである。観世元雅作。
 一般に狂女物は再会→ハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。
 各流派で演じられるが、金春流で演じられる時は、『角田川』(すみだがわ)のタイトルになる。

 シテ:狂女、梅若丸の母
 子方:梅若丸の霊
 ワキ:隅田川の渡し守
 ワキヅレ:京都から来た旅の男

 大小前に塚の作り物(その中に子方が入っている)
 渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう。
 次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも『面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ』と虐められる。
 狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鴎)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ『かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ』と親身になって舟に乗せる。
 対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした。
 それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。


第2244話 2020/09/27

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(4)

 久住猛雄さんの論文「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(注①)には日本列島における文字受容に関する、これからの考古学への重要な指摘と提言が含まれています。例えば次の様な指摘です。

 (硯に書かれた文字は)〝当時(漢代)の木簡・竹簡の平均的なサイズである幅10~13mmのものに書かれてもおかしくないサイズである。ある程度書きなれた隷書体の文字に、当時の平均的木簡サイズの文字が存在することは、当時の日本列島において、漢代簡牘を模倣したような幅の狭い「木簡」が、存在した可能性を提起する。〟(94頁)

〝田和山遺跡457資料の「文字」板石硯の発見により、板石硯は文字書写用に使われた可能性が極めて高くなったし、木簡に書かれるような「文字」が存在していたことが判明した。したがって今後、弥生時代中期中頃以降の有機質遺物が遺るような遺跡においては、「木簡」が遺存している可能性を視野に入れて、発掘調査することが不可欠である。なお当時は「膠」使用以前の墨であるから、墨書の遺存度が悪いことも想定する必要がある。今後の注意深い調査により、まさに「歴史」が書き換えられることになるだろう。〟(95頁)

 「弥生木簡」出土を予見した久住さんの指摘は論理的と思われます。こうした考古学的予見と論理性は文献史学へも激震を与えます。
 わたしは、「洛中洛外日記」2076話(2020/02/06)〝松江市出土の硯に「文字」発見(2)〟において、銅鐸圏(銅鐸国家)での文字使用を予見し、1844話(2019/02/26)〝紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理〟では、福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡(弥生中期中頃、紀元前100年頃)から出土した「硯」を論拠に、「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃には天孫族(倭人)は文字(漢字)を使用していた可能性があり、彼らは自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうと指摘しました。
 したがって、天孫族が「天孫降臨神話」の神々の名前を漢字表記していたとなれば、記紀に見える神名漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立したものがあるという可能性を前提にした文献史学の研究方法が必要となります。
 久住さんらの一連の板石硯・文字発見と考古学的予見は、文献史学の常識と論理構成の見直しを迫った歴史的研究業績ではないかとわたしは思います。(おわり)

(注)
①久住猛雄「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(『古代文化』Vol.72-1 2020.06)


第2243話 2020/09/27

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(3)

 田和山遺跡出土板石硯(弥生時代中期後半~後期初頭、紀元前後)に文字(「子戊」と判読)が書かれていることを発見された久住猛雄さんは「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(注①)において、同硯とほぼ同時期(弥生時代中期後半頃)の「文字」痕跡を有する福岡県久留米市塚崎東畑遺跡出土の「丹塗磨研土器」を紹介されています。そのような土器がわたしの故郷の久留米市から出土(1987年)していたことを全く知りませんでしたので、わたしは昨日京都府立歴彩館で「墨書状痕跡」を持つ同土器の資料紹介(注②)を閲覧しました。
 その掲載写真によれば、それは美しい朱色に塗られた高坏の脚部中程部分で、杯部と脚部は失われています。その残存部分に縦書きで一文字(「門」「内」「田」か)と四文字(一字目は「今」「令」か。他は不詳)の文字らしき黒色の〝墨書状痕跡〟がうっすらと肉眼でも見えるのです。説明では、同土器の墨書状痕跡は、土器の整形がなされた後、丹が塗られる前に施されており、高坏が製作された当時のものである可能性が極めて高いと判断されています。そして、「現在までに日本列島で確認されている最古の墨書土器となる。」とも記されています。なお、「墨書状」の黒色色素は墨(炭素)ではなく、マンガン系顔料と分析されたことが久住論文に紹介されています。
 この「墨書状痕跡」を持つ丹塗磨研土器の存在により、田和山遺跡出土板石硯の「文字」は孤立していないと久住さんは指摘されています。これらの発見により、弥生時代中期頃に倭人が文字を受容し、外交や交易に使用していたことは決定的になったと思われます。しかし、柳田さんや久住さんらのこの発見は発表当初は考古学界から無視されたようで、そのことが久住論文には次の様に記されています。

〝457資料(板石硯)裏面における「文字」の存在も含めて、その事実を同年(2019年)11月に発表した。ところが、柳田(柳田康雄さん・国学院大客員教授)の発表に対する学会の反応は冷淡であり、重大な公表にも関わらず事実上無視されてしまった。〟〔92頁〕※()内は古賀による注。

 このように学会から無視された理由を「注」で次の様に説明されています。

〝令和元年度九州考古学会においては、「板石硯」そのものに対する懐疑派が少なくなかったためと、本来は板石硯研究を牽引していた武末純一が、柳田や筆者が次々に板石硯を認定することに対する疑念を表明したことにその原因の一つがある。ましてや、弥生時代後期初頭に列島で書かれた「文字」が存在するなどというのは「常識外」と受け取られた。また柳田が「文字」釈読の一案として、干支の「壬戌」(西暦2年)という案も示したことが、「出来過ぎている」ととらえられたことも一因らしい。〟〔97頁〕

 この久住さんの感想は示唆に富んでいます。恐らくは古田史学・九州王朝説も学界からは「常識外」「出来過ぎている」ととらえられているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①久住猛雄「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(『古代文化』Vol.72-1 2020.06)
②酒井芳司「塚崎東畑遺跡出土丹塗磨研土器の墨書状痕跡について」(『九州歴史資料館研究論集』31、2006年)。同土器は「未報告」とある。


第2242話 2020/09/26

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(2)

 『古代文化』(Vol.72-1 2020.06)に掲載された久住猛雄さんの「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」の冒頭に次の一文があります。

〝近年注目されている「板石硯」は、漢~晋代の「長方形板石硯」を日本列島あるいは朝鮮半島において模倣作製したものである。日本列島では、前漢中期前葉の長方形板石硯出現直後の須玖Ⅰ式新相に早くも受容と模倣が開始されていることが判明している。その後、弥生時代中期後半から後期にかけて西日本に広がり、弥生時代終末期以降には伊勢湾岸およびそれ以東に波及するということも指摘され、弥生時代だけではなく古墳時代全期間を通じて存在することも予想されている。〟(同書90頁)

 先に紹介した毎日新聞WEB版(2020年2月1日)にも、「九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり」とあり、弥生時代の硯の出土は筑紫(福岡市西新町遺跡・他)と出雲(松江市田和山遺跡)だけとわたしは思っていたのですが、西日本から伊勢湾岸以東にまで出土例があるとのことでした。そこでその具体的な出土状況を知りたいと思っていたところ、次の奈良新聞の記事がありました。現在、記事に紹介されている柳田康雄さん(国学院大客員教授)の論文(「纏向学」紀要)入手を試みています。

 本稿執筆のため京都府立歴彩館で図書閲覧していたところ、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)とお会いしました。岡下さんは聖徳太子関連資料調査のため来館したとのこと。他の図書館で「古田史学の会」の会員さんと出会うことはほとんどないのですが、歴彩館ではたまにあります。京都府立大学図書館と隣接していることもあって、歴史関連文献の調査閲覧に便利なことも、その一因かもしれません。(つづく)

【奈良新聞WEB版(2020.04.24)から転載】
石製の硯、150例以上 ―弥生時代から文字文化浸透か―
国学院大の柳田客員教授「纏向学」紀要で発表

 弥生時代中期中ごろから古墳時代中期までの石製品を調べた結果、硯(すずり)の可能性があるものが全国で150例以上あることが分かったと、柳田康雄国学院大学客員教授(考古学)が発表した。確認事例は西日本各地に分布し、多くが地域の拠点集落で出土していることから、「当時、交易にも文字文化が浸透していたことが推測できる」としている。
 纒向学研究センター(桜井市)の紀要で研究成果を報告した。
 柳田客員教授は、扁平(へんぺい)な板状石材で製作された「方形板石硯」と呼ばれる石製品の確認調査を実施。中国・前漢中期から出現したもので、日本では島根県や福岡県で発見されるなど確認事例が増えている。
 これまで砥石(といし)と考えられてきた石製品も、摩滅による窪みの形状や墨とみられる黒色、赤色の付着物から硯と判断。福岡県を中心に北部九州から近畿・北陸までで150例以上あることを確認した。
 県内では、纒向遺跡(桜井市)で平成26年に出土した石製品(縦約11センチ、幅約7センチ、厚さ約1センチ)をはじめ、唐古・鍵遺跡(田原本町)や布留三島遺跡(天理市)、新堂遺跡(橿原市)出土の計10例を挙げている。
 大半は拠点集落とみられる遺跡から見つかっており、柳田客員教授は「一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆している」と指摘。「国内では弥生時代から、外交文書だけでなく貿易交流にも文字が使われていたことが考えられる」と話している。


第2241話 2020/09/25

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(1)

 島根県松江市の田和山遺跡出土の「文字」の痕跡がある板石硯について、「洛中洛外日記」2075~2076話(2020/02/05~06)〝松江市出土の硯に「文字」発見(1~2)〟で紹介しましたが、本年六月の『古代文化』(Vol.72-1 2020.06)に、久住猛雄さんの「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」が掲載され、その内容が極めて重要であるため、あらためて紹介することにします。

 本年二月、毎日新聞WEB版(2020年2月1日)は、この板石硯からの「文字」発見を報道しました。その要旨を略述します。

 ①松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループ(福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授ら)が、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。
 ②石製品は国産のすずりと判断され、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200~300年さかのぼって最古となる。
 ③田和山遺跡は弥生時代の環濠遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。
 ④さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らによる画像分析の結果、中国・漢代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとした。
 ⑤これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも2~3世紀だった。
 ⑥九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」とする。
 ⑦松江市埋蔵文化財調査室は石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある」とした。

 今回、『古代文化』に掲載された「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」では、更に新たな知見が加えられ、詳細な分析がなされています。(つづく)


第2240話 2020/08/24

大友皇子(弘文天皇)を祀る神社と伝承

 『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」には、天智天皇だけではなく大友皇子(弘文天皇)やその関係者を御祭神とする神社も紹介されています。次の通りです。

【大友皇子(弘文天皇)関連神社】
○白山(はくさん)神社 千葉県君津市俵田 祭神:大友皇子・日本武尊・他
由緒:創立年月日不詳。大友皇子が逃れてきて当国に築城したが、ゆえあり屠腹、放火炎上したので、天武天皇十三年に勅使が下向し、社殿を造営、皇子を祀って田原神と称したと伝えられる。本殿に接して「小櫃山古墳」があり、地元では弘文天皇御陵と伝える。房総における弘文天皇伝説の中心的な神社であり、千葉県内に関連の神社がいくつかある。
 子守(こもり)社 (君津市 俵田字姥神) 弘文天皇の乳母を祀る
 末吉(すえよし)神社 (君津市末吉字壬申山) 蘇我赤兄を祀る
 拾弐所(じゅうにしょ)神社 (君津市戸崎) 伊賀采女宅子郎女を祀る
 福王(ふくおう)神社 (君津郡袖ケ浦町奈良輪) 弘文天皇の皇子福王を祀る
 大嶽(おおたけ)神社 (君津市長谷川) 大友皇子の随臣長谷川紀伊を祀るという
○白山(はくさん)神社 千葉県木更津市牛袋 祭神:大友皇子
○白山(しらやま)神社 千葉県市原市飯給 祭神:大友皇子
○筒森(つつもり)神社 千葉県夷隅郡大多喜町筒森字陵 祭神:大友皇子・十市皇女(大友皇子妃)
由緒:十市皇女が当地に逃れ、流産でなくなった所という。
○十二所神社 千葉県木更津市下郡 祭神:耳面刀自命(みみめとじのみこと)
由緒:当社は、大友皇子弘文帝の皇妃以下十二人の宮人を祭祀する所で、伝記によれば、弘文帝が戦(壬申の乱)に敗れて当地に潜伏していたが、西軍に襲われ、皇妃耳面刀自以下十二人は遂に自刃し果て、十二人の遺骸は土地のならわしに従って棺に納め、葬るところとなった。後世この一帯を望東郡小杞の谷、あるいは望陀郡小櫃の作(ママ)という。
○内裏(だいり)神社 千葉県旭市泉川 祭神:弘文天皇・耳面刀自命(弘文妃)
由緒:社伝に「弘文天皇の御妃耳面刀自は藤原鎌足の女、難を東国に避けて野田浦に漂着、病に罹りて薨ず。中臣英勝等従者十八人悲痛措く能はず、之を野田浦に葬る。今の内裏塚是なり」とあるが、この内裏塚は匝瑳郡野栄町内裏塚に現存する。従者たちが生活の場を求めて移動したとき、内裏塚の墳土を分祀したのが内裏神社といわれ、近くに大塚原古墳があって妃の従者の筆頭中臣英勝の墓とされている。泉川地区では神幸祭(通称「お浜下り」)が三十三年ごとに行われるが、神輿や山車に千人近くの従者が従い、大塚原古墳を経て内裏塚浜まで延々八キロを行進する。妃の霊をなぐさめるため、妃とその一行の上陸コースを逆にたどるものという。最近では昭和四六年十一月十日に行われた。
○大友天神社 愛知県岡崎市西大友字天神 祭神:弘文天皇
由緒:近江国志賀の住人長谷権之守の長男長谷木工允信次、白鳳年中、故あって三河国碧海郡に潜居、大友皇子のために一祠を創建奉崇し、その所在地を大友と称す。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町藤下字自害峰 祭神:弘文天皇
由緒:当社近くの丘陵を自害峰と称し、弘文天皇の御自害の地とも、御頸を移して奉葬した処とも伝える。壬申の乱の戦場であり、藤古川をはさんで西側の藤下、山中(次項)の住民は弘文天皇を祀り、東側の松尾は、天武天皇を祀った(井上神社)。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町山中字了願寺 祭神:弘文天皇
○鞍掛(くらかけ)神社 滋賀県大津市衣川 祭神:弘文天皇
由緒:壬申の乱に弘文天皇の軍は瀬田、粟津の一戦に利らず、衣川町本田の離宮に於て柳樹に玉鞍を掛け、悲壮の御最期を遂げられた。随従の侍臣等この地に帰農して、天皇の御神霊を奉斎し、子孫相伝えて日々奉仕して来た。第五十七代陽成天皇の勅命により元慶六年社殿の新営成り、はじめて社号を鞍掛と称し、今日に至る。
○石坐(いわい)神社 滋賀県大津市西の庄 祭神:天命開別尊(天智天皇)・弘文天皇・伊賀采女宅子媛命・他
由緒:創祀年代不詳。壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建て御霊殿山の霊祠を還すと共に相殿を造り、表面は龍神祠として、近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大竜王宮と称え、石坐神社とも称した。
 光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等を授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜っている。ここにはじめて、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたのである。
○御霊神社 滋賀県大津市鳥居川町 祭神:弘文天皇
由緒:社地を古来「隠山」というが、壬申の乱の際、大友皇子の戦没せられた故に、かく称せられたという。乱後三年目の白鳳四年、大友皇子の第二子与多王の指図により皇子の神霊を奉斎し大友宮または御霊宮と称した。
○御霊神社 滋賀県大津市北大路 祭神:弘文天皇
由緒:元来は近江国造・治田連が祖霊を祀った所という。
○羽田(はねだ)神社 滋賀県八日市市羽田町 祭神:弘文天皇・他
○大郡(おおこうり)神社 滋賀県神崎郡五個荘町北町屋 祭神:弘文天皇・十市皇女
由緒:弘文天皇崩御の地との伝えがある。
○山宮(やまみや)神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他
由緒:和銅二年、天智天皇の寵妃倭姫の草創という。天皇薩摩行幸の際、安楽の浜より御在所岳に登り開聞岳を望まれたといい、同山上に山宮を創建、帝を祀った。大同二年周辺の御由縁の神社を集めて山口六社大明神を建てた。これが山宮神社である。

 以上のように大友皇子(弘文天皇)やその関係者が祀られているのですが、とりわけ千葉県に濃密分布していることがわかります。
 今から30年ほど昔のことですが、大友皇子の奥方が壬申の乱敗北後に関東まで逃げたという伝承が関東にあることを古田先生から教えていただいたことがあります。そのときは、そのような伝承もあるものなのかと、あまり気にとめていなかったのですが、今回、こうした分布状況を知り、そのときのことを思い起こしました。多元史観・九州王朝説の視点で、千葉県の大友皇子関連伝承を調査したくなりました。関東方面の方のご協力や情報が得られれば幸いです。


第2239話 2020/08/23

南九州の「天智天皇」伝承

 わたしが古田史学に入門し、本格的論文として最初に書いたのが「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(『市民の古代』10集、1988年。新泉社)でした。これは32歳のときに書いた論文で、今読むと論証が甘く、学術論文としてはまことに恥ずかしいレベルですが、歴史の真実へ肉薄するという点では、大きく外れることはなく一定の役割を果たしたと思います。
 同論の主旨は、鹿児島県に濃密に遺っている古代伝承の「大宮姫」(注①)は九州王朝の天子(筑紫君薩野馬)の皇后で、『続日本紀』文武紀四年(700)六月条に見える「薩末比売」のこととするものです。そして薩摩に落ち延びた薩野馬の事績が後に「天智天皇」として伝承されたとしました(注②)。そのことが、鹿児島県に「天智天皇」を祀る神社が多い理由と考えられます。
 ところが拙論執筆の30年後、この拙論を超える研究発表が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からなされました。2017年12月の「古田史学の会」関西例会で発表された「『日本書紀』天智紀の年次のずれについて」において、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。そして、壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』(注③)に壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、大宮姫こそ倭姫王ではないかとされたのです(注④)。
 まだ検証中の仮説ですが、多元史観・九州王朝説による「倭姫王」や鹿児島県の「大宮姫」伝説についての最有力説ではないでしょうか。更に、この正木説に刺激を受けて、「倭姫王」についての諸仮説が古田学派内で発表が続いており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替研究が加速しています。
 なお、『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」によれば、次の神社が「倭姫」を御祭神としています。

○倭(しどり)神社 滋賀県大津市滋賀里 祭神:不詳(伝倭姫皇后)
○山宮神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他

(注)
①『日本伝説大系⑭』所収「大宮姫」に大宮姫伝説が紹介されている。
②『三国名勝図会』第二四巻「薩摩国頴娃郡」では、大宮姫伝説を俗信として批判している。
③五来重編『修験道史料集(2)』所収「開聞古事縁起」
④正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。


第2238話 2020/08/22

天智天皇を祀る神社の分布

 近江朝や天智天皇について知見と研究を深めています。『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)に興味深い記事がいくつもありましたので、その中から天智天皇を祀る神社の分布についての記事を紹介します。
 近藤喜博さんの「天智天皇に対する賛仰とその奉祀神社」に天智天皇を祭神とする神社を「管見の及ぶ限り」として、次の様に紹介されています。

○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村)
○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村)
○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村)
○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町)
○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦)
○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦)
○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村)
○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町)
○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村)
○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。
○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷)
○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村)

 これらを県別に見ますと、次の様な分布数になります、

□滋賀県  2社
□香川県  1社
□愛媛県  1社
□福岡県  1社
□鹿児島県 7社

 近江朝廷があった滋賀県の2社は当然としても、鹿児島県の7社は異様な数です。これは鹿児島県や宮崎県に伝承されている「大宮姫」伝説に関わる神社が多いことが原因です。(つづく)


第2237話 2020/08/21

上皇陛下の天智天皇讃歌(平成二年御製)

 明治天皇の「即位の詔勅」が宣命体であり、そこに天智天皇や神武天皇の業績が特筆されていることに驚いたのですが、天智天皇が日本国の基礎を築いたという認識が現在の上皇陛下へも続いていることを最近になって知りました。そのことについて紹介します。
 ご近所の古本屋さんにあった『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)を格安で購入したのですが、その巻頭グラビア写真に当時の天皇・皇后(現、上皇・上皇后)のお歌が掲載されていました。近江神宮の宮司、佐藤忠久さんが書かれたものです。

 「近江神宮五十年祭にあたって」
「今上陛下 御製」
「日の本の国の基を築かれし すめらみことの古思ふ」
「皇后陛下 御歌」
「学ぶみち 都に鄙に開かれし 帝にましぬ 深くしのばゆ」
  「近江神宮 宮司 佐藤久忠謹書 (印)」

 この御製御歌は、近江神宮御鎮座50周年(平成二年、1990年)の式年大祭に際して、当時の両陛下から賜ったものと説明されています。御製に「日の本の国の基を築かれし すめらみこと」とあり、近江神宮に下賜されたものであることから、この「すめらみこと」とは天智天皇です。その天智天皇が日本国の基を築かれたという認識に、わたしは注目したのです。おそらくこれは、皇室や宮内庁の共通の歴史認識に基づかれたものと思われます。
 古田先生は、『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を創建したとする説を発表されています。偶然かもしれませんが、この古田説と御製に示された認識が、表面的ではあれ一致しています。あらためて天智天皇や近江朝に関する研究史を精査する必要を感じました。