2021年10月一覧

第2605話 2021/10/31

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(1)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)に見える大化改新詔については、通説(近畿天皇家一元史観)はもとより九州王朝説でも諸研究が発表され、その論点は多岐にわたります。
 現在では、大阪市法円坂から巨大な前期難波宮が出土したことにより、それまで古代史学界で有力視されていた大化改新虚構説が後退し、孝徳天皇の時代に難波を舞台として大化改新がなされ、『日本書紀』編纂時に律令用語(国司、郡司など)を用いて脚色されたとする大化改新実在説が通説(最有力な多数説)となりました。
 他方、古田学派内でも、九州王朝説に立つ「大化改新」説が発表されてきました。わたしの見るところ、次の三説が有力視されています。

(a) 九州年号「大化」の時代(695~704年)に九州王朝が発した大化改新詔が、『日本書紀』編纂により50年遡って「大化」年号ごと孝徳紀に転用された(注①)。
(b) 七世紀中頃の九州年号「常色」年間(647~651年)頃に九州王朝により、難波で出された詔であり、『日本書紀』編纂時に律令用語などで書き改められた(注②)。
(c) 孝徳紀に見える大化改新詔などの一連の詔は、九州王朝により、九州年号「大化」(695~704年)年間に出された詔と、同「常色」年間(647~651年)頃に出された詔が混在している(注③)。

 こうした論争が「古田史学の会」で本格化したのは2015年頃からでした。その時の様子を「洛中洛外日記」896話(2015/03/12)〝「大化改新」論争の新局面〟で次のように紹介しました。

〝古代史学界で永く続いてきた「大化の改新」論争ですが、従来優勢だった「大化の改新はなかった」とする説から、「大化の改新はあった」とする説が徐々に有力説となってきています。前期難波宮の巨大な宮殿遺構と、その東西から発見された大規模官衙遺跡群、そして7世紀中頃とされる木簡などの出土により、『日本書紀』に記された「大化の改新」のような事件があったと考えても問題ないとする見解が考古学的根拠を持った有力説として見直されつつあるのです。
 古田学派内でも服部静尚さんから、7世紀中頃に九州王朝により前期難波宮で「(大化の)改新」が行われたとする説が発表されており、九州年号の大化年間(695~703)に藤原宮で「改新」が行われたとする、「九州年号の大化の改新」説(西村秀己・古賀達也)と論争が展開されています。
 さらに正木裕さんからは、『日本書紀』の大化改新詔には、九州年号・大化期(7世紀末)の詔勅と7世紀中頃の「常色(九州年号)の改新」詔が混在しているとする説が発表されており、関西例会では三つ巴の激論が交わされているところです。〟

 現在も論争は継続しており、〝決着〟がつきつつある古代史学界での大化改新論争を超える、多元史観・九州王朝説に基づく「新・大化改新論争」の時代を古田学派は迎えています。今回は改新詔に見える都の四至(東西南北)に関する諸説を紹介します。
 大化改新詔には「畿内」の範囲を規定する次の四至記事があります。

 「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、〔兄、此をば制と云ふ〕、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。」

 岩波の『日本書紀』頭注には、四至について次の解説があります。

(東)名墾の横河 「伊賀名張郡の名張川。」
(南)紀伊の兄山 「紀伊国紀川中流域北岸、和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山、対岸に妹山がある。」
(西)赤石の櫛淵 「播磨国赤石郡。」
(北)近江の狭狭波の合坂山 「逢坂山。狭狭波は楽浪とも書く。今の大津市内。」

 「大化改新はあった」とする通説では、この四至の中心地、すなわち同詔を発した都は難波と解されるに至っています。(つづく)

(注)
①古田武彦「大化改新批判」『なかった』第五号、ミネルヴァ書房、2008年。
 古田武彦「蘇我氏と大化改新」『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、2015年。
②服部静尚「畿内を定めたのは九州王朝か ―すべてが繋がった―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』十八集)明石書店、2015年。
 服部静尚「改新詔は九州王朝によって宣勅された」『古田史学会報』160号、2020年10月。
③正木 裕「『佐賀なる吉野』へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上・中・下)」『古田史学会報』140・141・142号、2017年6・8・10月。


第2604話 2021/10/27

大隅国、台明寺「青葉の笛」伝承

 美濃晋平さんから頂いた著書『笛の文化史』(注①)に、九州王朝に関係すると思われる、大隅国の台明寺の「青葉の笛」伝承が詳述されています。台明寺は明治の廃仏毀釈により廃寺になっていますが、その地にある日枝神社の解説が鹿児島県神社庁のサイトに掲載されており、台明寺の「青葉の笛」伝承に触れられていますので、関係部分を転載します。

【以下、転載】
神社名 日枝神社(ヒエジンジャ)
鎮座地 〒899-4302 霧島市国分台明寺1103
例祭日 十月十五日
御祭神 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 大己貴命(オオナムチノミコト)
〔由緒〕
 往古、日吉山王神社と称し、群田川の上流の谷間に鎮座して台明寺一山を守護する尊社であった。台明寺は白鳳元年の創建で、三十八代天智天皇の御勅願所の地と古史にあり、また将軍家の文書数百通が同寺に格納されていたと伝えられる。島津氏の崇敬も厚く、牧場増殖を祈願されたことが鹿児島県畜産史にみえる。
 社殿は、拝殿と本殿が中心線からずれており、造営時期の違いを示している。本殿の造営は、細部の装飾等より十九世紀初頭のものといわれ、柱間約一メートルの七間二間で、形式としては珍しく貴重なものである。
 境内の青葉竹は俗に台明竹ともいい、笛の用材として宮中に貢納されていた。貢納する時は府中の鏡ヶ池に浸し、葉の付いたまま姫城の妙見神社(今の稲荷神社)にお供えしてから奉納したといわれる。天智天皇から楠の木板に笛像を刻して御下賜があったことや、源平合戦の一ノ谷で敗れた平敦盛が秘蔵していた笛もこの台明竹であったこと等が伝えられている。今でも自生しており、「青葉の竹」と呼ばれて市の文化財になっている。(昭和五十八年八月十五日指定)
【転載終わり】

 鎮座地の霧島市国分は大隅国の国府があった場所で、その北東の山間部に日枝神社があります。「台明寺は白鳳元年の創建で、三十八代天智天皇の御勅願所の地と古史にあり」とあるように、九州年号「白鳳元年」創建や天智天皇勅願寺伝承と重ねて、寺域に自生する笛の材料に適した「青葉の竹」を天皇家に奉納していたと伝えています。
 創建は九州王朝の時代の「白鳳元年」(661年)であり、「天皇」の勅願寺で、当時から笛の材料(青葉の竹)を朝貢していたことが史実であれば、それは天智天皇や近畿天皇家ではなく、九州王朝に置き換えて同伝承を捉えるべきと思われます。他に九州王朝の天子と笛に関わる伝承の存在を知りませんので、この台明寺の伝承は貴重です。
 なお、九州王朝に嫁いだ薩摩の大宮姫伝承については、わたしや正木裕さんの研究(注②)がありますので、台明寺伝承との関係も検討する必要がありそうです。また、多くの台明寺文書が遺されていますので、その全容も調査確認したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2597話(2021/10/18)〝美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む〟
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
 正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩摩比売」『倭国古伝 ―姫と英雄と神々の古代史― 』(『古代に真実を求めて』第22集)明石書店、2019年。
参照よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)正木裕
(古田史学会報会報145号)


第2603話 2021/10/26

斉明五年、九州王朝の「天子崩兆」記事

 宮崎県にアマ姓の人が多いことを教えていただいた白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から(注①)、『日本書紀』斉明紀の重要な史料事実についてご教示いただきました。斉明紀には唐の天子の記事が少なからず記されていますが、斉明五年是歳条(659年)に唐の天子とは考えられない「天子」記事があるとのこと。それは次の記事末尾の細注部分です。

 「是歳、出雲国造〔名を闕(もら)せり〕に命じて、神の宮を修嚴(つくりよそ)はしむ。狐、於友郡の役丁の執(と)れる葛の末を噛(く)ひ断ちて去る。又、狗、死人の手臂を言屋社に噛ひ置けり。〔言屋、此をば伊浮*耶といふ。天子の崩(かむあが)りまさむ兆(きざし)なり。〕」 ※「*耶」は王偏に耶の字体。

 原文は「天子崩兆」とあり、文脈や状況から見て、唐の天子ではありません。斉明天皇の崩御は翌々年(661年)の斉明七年七月ですから、ちょっと間が開きすぎているようにも思われます。
 他方、九州年号は661年に改元され白鳳元年となりますから、「天子崩兆」の天子は九州王朝の天子とする方が穏当です。というのも、七世紀に於ける九州年号の改元で、天子崩御に伴う改元と推定できる例として、多利思北孤の崩御(倭京五年:622年)の翌年に改元された仁王(元年は623年)、利歌彌多弗利の崩御(命長七年:646年)の翌年に改元された常色(元年は647年)の二例があります。このように、七世紀に於ける九州年号が天子崩御の翌年に改元されるのであれば、白鳳元年の前年(660年)に九州王朝の天子は崩御したことになります。これですと、斉明五年(659年)の「天子崩兆」から、翌年の「天子崩御」(660年)を経て、白鳳改元(661年)となり、ぴったりです。
 この理解が正しければ、斉明五年の「天子崩兆」は九州王朝の天子のことになります。しかしながら、正木説(注②)によれば、この時期の九州王朝の天子は伊勢王とされ、その崩御記事は斉明七年(661年)六月と天智七年六月(668年)に見え、実際は斉明七年(661年)の方であり、天智七年は重出記事とされています。この正木説は有力ですが、斉明五年(659年)の「天子崩兆」記事とどのように整合するのかという課題があります。また、斉明七年六月の崩御であれば、その年の内に白鳳に改元したこととなり、先に紹介した崩御翌年の改元例(仁王、常色)との不一致も気になるところです。
 白石さんから教えていただいた、この「天子崩兆」記事はどのような歴史事実の反映なのか、引き続き検討したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2543話(2021/08/19)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)〟
②正木 裕「九州王朝の天子の系列(中) 利歌彌多弗利から、『伊勢王』へ」『古田史学会報』164号、2021年6月。


第2602話 2021/10/24

『九州倭国通信』No.204の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.204が届きました。同号には拙稿「『塩尻』の九州年号(倭国年号) ―「九州年号」現地調査のすすめ―」を掲載していただきました。拙稿は、江戸時代の学者、天野信景(あまの・さだかげ)の随筆『塩尻』に見える九州年号について論じたものです。
 同紙には、新たに「九州古代史の会」代表幹事(会長)に就任された工藤常泰さんの挨拶が掲載されていました。同会の発展に向けて、意欲的な取り組みが指し示されており、頼もしく思いました。これからも両会の友好発展を目指したいと思います。


第2601話 2021/10/23

狭山池博物館特別展「狭山池のルーツ」の紹介

 大阪府立狭山池博物館から、特別展「狭山池のルーツ」(注①)の案内とポスターが届きました。ポスターは拙宅前に貼りました。案内チラシは「古田史学の会・関西例会」で配布予定です。
 狭山池は七世紀前半に築造された古代日本最大の灌漑用ため池です。わたしは前期難波宮と難波京造営に先立って、人口増加に備えた食糧増産のためのため池と考えています。従って、前期難波宮九州王朝複都説の立場からは、九州王朝(倭国)が築造したことになります。川を堰き止めるための築堤に、水城築造と同様の技術(敷粗朶工法など)が用いられており、このことを指摘した以下の記述はわたしの仮説を裏付けるものです。

〝これら2つの堤防(古賀注:狭山池と水城)に共通することは、どちらも後述する特徴的な工法(古賀注:敷葉・敷粗朶、版築、護岸・土留め杭など)によって堤体強度を上げていたということである。〟(注②)

〝この河内狭山池(依網池)においても、築堤の基部から複層の腐植層が確認されており、関西においては”敷葉工法”と名付けられている。材料こそ天然のものであるが、またそれ故に耐久性までを考慮に入れているとしたら、水城築堤に用いられているこれらの”古代の建設技術”は、千数百年を隔てる”現代の技術”を凌駕しているとさえ言うことができる。〟(注③)

 更に狭山池は考古学編年においても重要な遺構です。それは堤体内部から出土した木樋(コウヤマキ)の年輪年代測定(伐採年616年)により、伴出須恵器の暦年が確定でき、土器編年における定点資料になっているからです。
 狭山池博物館からは展示会のポスターや案内を度々送っていただいています。それは2016年9月の「古田史学の会・関西」の史跡めぐりハイキングで狭山池を訪問し、同館の西川寿勝さん(考古学者、鏡の専門家)から、中国洛陽で発見された三角縁神獣鏡の現地調査報告をしていただいた御縁によります。同館(安藤忠雄氏設計)の展示物や狭山池は古代史ファンには必見です。この機会に訪問されてはいかがでしょうか。お薦めします。

(注)
①大阪府立狭山池博物館開館20周年記念令和3年度特別展「狭山池のルーツ ―古代東アジアのため池と土木技術―」10月9日(土)~12月5日(日)。入館無料。
②安保堅史・藤田龍之・知野泰明「発掘記事にみる治水・利水技術の変遷に関する研究」『土木史研究』第21号、2001年5月。
③林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む ~特別史跡・水城を中心として~」『ジオシンセティックス論文集』第18巻、2003.12。
④古賀達也「洛中洛外日記」1266話(2016/09/04)〝狭山池博物館訪問と西川寿勝さん講演〟


第2600話 2021/10/22

佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)

 近年、わたしが読んだ考古学論文で、優れた問題提起を続けてきたのが大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの論考でした。その中で最も画期的な論文が「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注①)です。佐藤さんは、「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。」として、「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。」と指摘されました。これは、『日本書紀』の記述よりも出土事実を重視するという、誠に考古学者らしい意見です(注②)。この出土事実と佐藤さんの考察は、前期難波宮九州王朝複都説と整合するもので、わたしは注目しています。
 直近の論文では、「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」(注③)が見事でした。従来は条坊が及んでいないと見られてきた難波京西北部地区(難波宮域の北西方にある大川南岸の一帯)に、難波宮南方に広がる条坊とは異なる尺単位(1尺29.2cm)による条坊の痕跡が複数出土しているとの報告です(注④)。
 今までに発見された難波京条坊の造営尺は1尺29.49cmであり、藤原京条坊の使用尺(1尺29.5cm)に近いものでした。ところが、佐藤さんが発見された難波京西北部地区の使用尺は前期難波宮の造営尺(1尺29.2cm)と同じです。これは、難波宮とその南に広がる条坊の設計尺がなぜか異なるという不思議な現象を説明する上で重要な発見と思います。私見では、難波宮と難波京条坊の設計主体が異なっていたのではないかと推測しています。こうした出土事実は、前期難波宮九州王朝複都説の傍証になりそうです。
 この他に、「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」(注⑤)も示唆的な論文でした。前期難波宮九州王朝複都説を唱えるわたしは、難波宮北側の大阪城がある場所には何があったのだろうかという疑問を抱いてきたのですが、佐藤さんはその地に「内裏」があったのではないかとする考古学的知見と痕跡を指摘されました(注⑥)。もしそうであれば、それは九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王)の内裏ということになります。
 佐藤さんによるベーシックな研究としては、難波編年の確立があります。『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(注⑦)所収の「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の編年により前期難波宮造営期を「七世紀中葉」とされました。その後も、この編年を支持する理化学的年代測定値などが発表され、長く続いた前期難波宮造営時期の論争に終止符が打たれ、孝徳期造営説が定説となりました(注⑧)。
 このように、考古学的出土事実を重視し、それと『日本書紀』の記事が整合しない場合は、出土事実に基づく解釈を優先するという姿勢を佐藤さんは明確に表明されました。こうした傾向が近年では散見され(注⑨)、考古学者が文献史学(一元史観)の制約から独立しようとしているのかもしれません。それは古代に真実を求める古代史学にとって大切なことであり、注目されます。

(注)
①『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年3月。
②古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)〟
 古賀達也「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年8月。
③『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、2021年3月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2522話(2021/07/18)〝難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡〟
⑤『大阪歴史博物館 研究紀要』第14号、2016年3月。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」1185話(2016/05/12)〝前期難波宮「内裏」の新説〟
⑦『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年3月。
⑧古賀達也「洛中洛外日記」1787話(2018/11/20)〝佐藤隆さんの「難波編年」の紹介〟
 古賀達也「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
⑨向井一雄『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2017年)に、古代山城の築造年代に関して次の記述が見える。
 「考古学者が年代を決めるのに、文献史料だけに頼るようになってはもはや考古学者ではない。」70~71頁
 同書には九州王朝説への批判があるものの、古代山城研究の第一人者から学ぶところは多い。古田学派研究者にも一読をお薦めしたい。


第2599話 2021/10/21

佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(1)

 多元的古代研究会の例会にリモート参加し、勉強させていただいています。そのおり、同じくリモート参加されていた荻上紘一先生(注)がエビデンスの重要性を述べられていました。歴史学におけるエビデンスとしては、文献や金石文・木簡などの史料根拠と考古学的出土事実などが相当しますが、これらが明示されていない研究や仮説の発表は学問的な手続きを欠いたもので、学問の世界では評価されません。ですから、荻上先生のご指摘は極めて真っ当で重要なことです。
 そこで問題となるのが考古学分野のエビデンスです。発掘調査の結果、遺物がどの遺構のどの層位からどのような状態で出土したのかという出土事実は報告書に詳述されますが、その出土事実に対する解釈が考古学者により異なる場合が少なくありません。しかし、歴史学的には、この解釈が遺構や遺物の歴史的位置づけや史料価値を決めますので、とても重要です。たとえば、どこから何が出土しても、大和朝廷や『日本書紀』の記事と関連付けて解釈する報告書が大半で、その結果、出土事実から描かれた歴史像がゆがんでしまうこともあるからです。
 ですから、わたしは考古学論文や発掘調査報告書の〝解釈〟部分を読む場合は、筆者が出土事実(考古学)と大和朝廷一元史観(文献史学)のどちらに基づいているのかを注視してきました。そうしたなかで、わたしの基本的歴史観(多元史観・九州王朝説)とは異なっていても、優れた考古学論文に出会うことが少なからずありました。その筆頭が大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの論考でした。(つづく)

(注)「古田武彦記念 古代史セミナー」実行委員長。大学セミナーハウス・理事長。元東京都立大学総長、元大妻女子大学学長。2021年、瑞宝中綬章受章。


第2598話 2021/10/20

京都講演会

参照できる会報を紹介

書評『発見された倭京 太宰府都城と官道』 古賀達也(会報146号)

「東山道十五国」の比定 — 西村論文「五畿七道の謎」の例証 山田春廣(会報139号)

南海道の付け替え 西村秀己 (会報136号)

古代官道 南海道研究の最先端(土佐国の場合) (会報142号)

割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎 西村秀己

 

京都講演会(11月23日)の再開

 先日、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)から、コロナ禍のため中断していた「市民古代史の会・京都」の講演会を再開したいとの連絡がありました。11月23日(火)を予定されているとのことで、まだ相談中ですが、わたしと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の二人で講演させていただくことになりそうです。
 わたしに要請された講演テーマは「古代官道」でしたので、下記の演題と要旨で講演資料(パワポ)を作成中です。正式に決まりましたら、改めて報告します。久しぶりの京都講演会ですので、わたしも楽しみにしています。

第一講演 古代官道の不思議発見
〔要旨〕
○古代官道(七道)の不思議な名称
 不思議その1 東海道。陸路なのに、なぜ「海道」
 不思議その2 西海道。島(九州)なのに、なぜ「海道」
 不思議その3 北海道がないのはなぜ
 不思議その4 北陸道だけが、なぜ「陸道」
 不思議その5 山陽道と山陰道。なぜ東西南北がないの
○謎を解くカギは『日本書紀』景行55年条にあった
○地名に遺された古代王朝の記憶
○『宋書』倭国伝に記された倭王武の侵攻領域
○王朝交替により官道名が改変された
○九州王朝「官道」の歴史的変遷
○九州王朝「官道」の終着点

第二講演 『多賀城碑の解釈』

〜蝦夷は間宮海峡を知っていた

講師:正木裕(古田史学の会事務局長)

 

 


第2597話 2021/10/18

美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む

 先日、『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』(勝美印刷、2021年)という大著が、著者の美濃晋平さんから贈られてきました。縄文の石笛や弥生の土笛から始まる笛の歴史を中心としたエッセイと論考からなる一冊です。ちなみに、著者は東北大学で学ばれたケミスト(医薬開発)で、古田史学の会・会員とのことです。
 冒頭に紹介された、横笛の名手だったお父上や少年時代の思い出の数々が胸を打ちました。後半には「青葉の笛」に関する古代・中世の史料や伝承が紹介されており、笛に不思議な歴史があることを知りました。中でも九州王朝との関係をうかがわせる薩摩の伝承として、わたしの初期の論文「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(『市民の古代』第10集。新泉社、1988年)が引用されており、感慨深く読みました。
 著者にお礼の電話をかけたところ、同じケミストということもあり、会話が弾み、京都でお会いすることを約束しました。改めて笛の歴史についてお聞きしたいと、ご来訪を楽しみにしています。


第2596話 2021/10/17

両京制と複都制の再考

 栄原永遠男さんの「複都制」再考

 過日の多元的古代研究会月例会での西坂久和さんの発表(「筑紫の難波長柄豊碕宮を探る」)をリモート参加でお聞きしていて、古田先生と『日本書紀』孝徳紀について意見交換していたときのことを思い出しました。
 わたしから前期難波宮九州王朝副都説(後に「複都説」とした)のアイデアについて説明したところ、先生は「『日本書紀』孝徳紀の記事では孝徳がどの宮殿にいたのかよくわからない」と仰っていました。このようなやりとりがありましたので、改めて難波宮関連の記事を精査したところ、皇極四年条(大化元年)の次の〝細注〟記事が目にとまりました。

 「舊本に云はく、是歳、京を難波に移す。而して板蓋宮の墟と為らむ兆しなりといふ。」

 「舊本」には「京を難波に移す」(移京於難波)という記事があると記されており、通説では孝徳紀大化元年十二月条の次の記事に対応すると理解されています。

 「天皇、都を難波長柄豊碕に遷す。」

 ここでは「移京」ではなく、「遷都」(遷都難波長柄豊碕)の語が使われています。ともに「みやこをうつす」と読まれているのですが、栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)によれば、古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(天皇が都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとされています。ですから、天皇が、ある「京」から別の「京」へ移動する「遷都」は可能でも、都市そのものが移動する「遷京」という概念はありえないことになります。
 従って、この栄原説に従えば、皇極四年条の「移京」は都市としての「難波京」へ移るという意味になり、「京」の存在、あるいは造営が前提となります。わたしの前期難波宮九州王朝複都説によれば、この「移京於難波」記事は九州王朝の難波京造営を示唆するものとなります。そして、大化元年条の「遷都難波長柄豊碕」記事は、九州王朝の難波京造営に伴っての、九州王朝の臣下である近畿天皇家孝徳の難波長柄豊碕への転居記事と解することができるのではないでしょうか。なお、ここでは「難波長柄豊碕宮」ではなく、「難波長柄豊碕」としていることから、まだ「宮」は完成していなかったように思われます(注②)。
 ちなみに、「長柄豊碕」は大阪市北区の豊崎神社がある「長柄」地区のことであり、南北に延びる上町台地の北端部に近い「豊崎」に対応した「碕」地名です。他方、「移京於難波」記事の「難波」こそ、大阪市中央区法円坂から出土した巨大遺構「前期難波宮」のことで、まさに難波全体を代表する宮、「難波宮」と呼ぶにふさわしいものです。たとえば、『続日本紀』に見える聖武天皇の「難波宮」(焼失後の前期難波宮の上に造営された後期難波宮)は一貫して「難波宮」と呼ばれており、「難波長柄豊碕宮」とはされていないことは重要です。
 更に孝徳紀白雉元年正月条には「味経宮(あじふのみや)」で賀正礼が行われ、白雉二年(651)十二月には、僧侶二千七百余人による法要が営まれていることから、そうした大規模な行事が可能なスペースは上町台地上には前期難波宮の場所しかなく、「難波宮」は「味経宮」とも称され、完成後には「難波宮」と命名されたとする説を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は述べられています(注③)。
 以上の考察をまとめると、九州王朝(倭国)は7世紀前半(倭京元年、618年)に倭京(太宰府)を造営・遷都し、7世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)には難波京(前期難波宮)を造営・遷都し、両京制を採用したと思われます。その上で、倭京と難波京間を「遷都」し、ときの天子が居るところが「都」となり、留守にしたところには「留守官」を置いたのではないでしょうか。なお、7世紀後半(白鳳元年、661年)には近江京(大津宮)も造営し、三京制となったようです(注④)。
 最後に、古田史学の会・関西の研究者間では、藤原京も九州王朝による造営・遷都(九州年号の大化元年、695年)とする仮説が、近年、有力視されつつあります(注⑤)。慎重かつ活発な論議検証が期待されるテーマです。

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②白雉元年(650)十二月条に、大郡から難波長柄豊碕宮(新宮)への孝徳転居記事がみえる。
③古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年6月。  正木裕「前期難波宮築造準備について」『古田史学会報』124号、2014年10月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1418話(2017/06/09)〝前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1421話(2017/06/13)〝前期難波宮の難波宮説と味経宮説〟
④古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年に収録。
 古賀達也「洛中洛外日記」580話(2013/08/15)〝近江遷都と王朝交代〟
 正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」『古田史学会報』134号、2016年6月。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
 正木裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
⑤「701年以前の藤原宮(京)には九州王朝の天子がいた」とする仮説を最初に述べたのは西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)である。「洛中洛外日記」361話(2011/12/13)〝「論証」スタイル(1)〟でそのことに触れた。


第2595話 2021/10/16

万葉歌〝大和三山〟「高山」調査の思い出

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。11月はi-siteなんばで開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会でわたしは来月14日に迫った〝八王子セミナー2021〟の予行練習を兼ねて、〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―〟をパワポを使用して発表しました。関西例会参加者からの厳しい批判や指摘を事前にいただいておけば、当日の発表に役立つと考えたからです。おかげさまで、想定される批判や反論、不十分な点などが参加者から次々と指摘され、発表内容の修正に活かせそうです。ご指摘いただいた皆さんにお礼申し上げます。
 不二井さんが紹介された、万葉歌に見える〝大和三山〟の「高山」(原文)を通説の香具山ではなく、交野山(このさん、交野市)とする説は、古田先生との現地調査で発見されたものです。先生とドライブ中に偶然に発見した「高山町」(生駒市)という道路標識が新説誕生の端緒となったのですが、交野山々頂の巨岩に古田先生と登った思い出が、不二井さんの発表を聞きながら蘇ってきました。この〝大和三山〟「高山」説は古田武彦著『古代史の十字路 万葉批判』「第五章 あやまれる『高山』の歌」(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)に収録されています。

 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①大和三山 (明石市・不二井伸平)
②俀国と兄弟統治 (姫路市・野田利郎)
③服部論文「磐井の乱は南征だった」の根拠が失われる可能性について (茨木市・満田正賢)
④「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―(京都市・古賀達也)
⑤会誌第二十二集『倭国古伝』(荒覇吐神社~)の絵図に関して (大山崎町・大原重雄)
⑥名字と本姓の扱い方 ―秋田次郎橘孝季の例― (たつの市・日野智貴)
⑦景初鏡・正始鏡 (京都市・岡下英男)
⑧藤原宮造営中断の実相 (川西市・正木 裕)
⑨斉明紀の征西記事と朝倉宮 (東大阪市・荻野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
11/20(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 資料代500円 〔お問い合わせ〕℡080-2526-2584
○10/27(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「伊勢王の時代⑤ 大化の改新と二つの大化年号」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「王朝交代の真実 天武は筑紫都督だった」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
○11/24(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「白村江の戦い① 白村江前史~専守防衛に徹した伊勢王」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「飛鳥寺は飛鳥にあったのか」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)


第2594話 2021/10/15

倭の五王と神籠石山城・鞠智城

 本日は多元的古代研究会の月例会にリモート参加させていただきました。10日の例会では配信状態の悪化により、よく聞こえなかった鈴木浩さんの発表「倭五王王朝の興亡 朝鮮式山城・神籠石と装飾古墳」を改めて拝聴しました。装飾古墳や北部九州の神籠石山城・鞠智城を倭の五王と関連させて考察するという研究で、参考になりました。
 近年の研究では神籠石山城の造営年代を7世紀後半とする説が有力ですが、鈴木さんはそれよりも200年ほど早いとされました。遺跡造営年代の研究は考古学的エビデンスが重要となりますので、わたしも検証したいと思います。なお、鞠智城については6世紀末から7世紀初頭頃の造営とする論考をわたしは発表しています(注)。

(注)古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『古田史学会報』135号、2016年8月。