2022年06月一覧

第2778話 2022/06/30

上弓削の法皇宮と稲員家の菊花紋

 久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からいただいた『北野町の神社と寺院』(注①)にある法皇宮の解説には、「法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。」とあります。これは、よくよく考えるとおかしなことです。後白河法皇を祀っているのであれば、菊花紋の瓦をはずせなどと駐在所のおまわりさんに言えるはずがありません。それこそ、後白河法皇の霊に対して失礼な所業だからです。戦時中であればなおさらです。従って、駐在所が菊花紋瓦を取りはずせと指示したのは、この法皇宮に祀られているのは後白河法皇ではなく、弓削の道鏡だとおまわりさんも知っていたからではないでしょうか。その証拠に、江戸時代の地誌(注②)には、祭神は道鏡であると記録されています。
 このことと対応するのですが、筑後地方には菊花を家紋とする一族があり、同様に御上に対して差し障りがあるとして使用を止めさせられています。その一族とは、高良玉垂命の末裔で高良大社の神事を執り行っていた稲員(いなかず)家(旧・草壁氏)です。草壁氏は草部・日下部と記されることもあり、御井郡稲員村に居住したことから稲員氏を名乗ります。正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居し、江戸時代には筑後国上妻郡広川村古賀の大庄屋となり、久留米藩に仕えました。大庄屋職にあった稲員安則が寛永十年~元禄九年(1633~1696)に書き留めた『家勤記得集』(注③)末尾に次の一文が見えます。

〝稲員家の紋、古来は菊なり、今は上に指合うによりて止むる由なり。〟『家勤記得集』

 九州王朝の王族と思われる高良玉垂命の子孫(注④)、稲員家の家紋が菊花紋であり、後世において差し障りがあり、止めたとの記事です。それでは御井郡北野村弓削の法皇宮の菊花紋瓦と、上妻郡広川村の大庄屋稲員家の菊花紋とは何か関係があるのでしょうか。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和62年(1987)。②伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
③稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2777話 2022/06/28

三井郡北野町弓削の法皇宮の祭神

 一昨日の久留米大学での講演で、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族(弓削氏、習宜氏)による〝共同謀議〟とする作業仮説(思いつき)をわたしが発表することを事前に予想されていたかのような資料を提供されたのが、地元久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)でした。
 その資料とは、昭和62年(1987)発行の『北野町の神社と寺院』(注①)に収録された「法皇宮」のコピーです。三井郡北野町教育委員会によるもので、久留米市との合併前(注②)の資料です。同町は筑後川の北岸に位置し、小郡市の南側にあります。同地の上弓削にある法皇宮は以前から注目していた神社で、『北野町の神社と寺院』には次の解説があります。

 「一、法皇宮
   (北野町大字上弓削字屋敷に祀る)
 法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。
 道鏡は奈良時代仏教の興隆期に太政大臣禅師、翌年に法王となり位人臣を極めたが、さらに天皇の位までうかがった。併し忠臣和気清麻呂に阻まれ下野国薬師寺の別当に貶され、宝亀三年(一二一六年前)配所で没した。この史実から逆臣であった道鏡が神に祀られるはずがなく、ただ弓削の姓から弓削の地名に通じたものであろうか。(後略)」

 この解説は一元史観を前提とした歴史認識に基づいており、わたしから見ると問題が多い解説です。法皇宮現地にある説明板の内容はこの認識よりも更に後退したもので、道鏡祭神説は記されていないようです。わたしの史料調査によれば、道鏡祭神は学者の「説」ではなく、現地伝承を伝えた史料事実なのです。たとえば江戸時代の地誌『太宰管内志』(注③)には、次のように法皇宮の祭神を道鏡とする伝承を記録しています。

「○弓削
 〔和名抄〕に御井郡弓削あり、(中略)〔筑後地鑑中巻〕に御井郡上弓削下弓削二村あり、弓削ノ杣ノ事はいまだ考へず、上弓削村に法皇宮あり道鏡ノ靈を祭れりと云」『太宰管内志』筑後之四(御井郡下)

 このように江戸時代の地誌には「道鏡ノ霊を祭れりと云」とあり、後白河法皇のことは見えません。従って、後白河法皇祭神説こそ明治以後に作られた「説」である可能性が大です。もちろんその理由は、明治以後の国家神道の台頭により、皇位簒奪を謀った悪人とされた道鏡(注④)を祀ることを憚ったためと思われます。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和61年(1986)。
②三井郡北野町は2005年に久留米市と合併し、久留米市北野町になった。
③伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
④ウィキペディアでは、道鏡が「日本三悪人」の一人とされていることを紹介している。
〝道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? – 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。〟


第2776話 2022/06/27

神護景雲三年(769)、九州王朝の復権未遂事件

 昨日の久留米大学での講演で、わたしはとんでもない思いつき(作業仮説)を恐る恐る発表しました。「たぶん間違っているかもしれませんが」と始めた腰が引けた発表とは、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件(注①)、すなわち弓削の道鏡を天皇位につけよという宇佐八幡神のお告げを大宰主神・習宜阿曾麻呂(注②)が上奏した事件の真相は、九州王朝王族の復権のための物部系氏族(弓削氏、習宜氏)による〝共同謀議〟ではないかとするものです。この思いつきに至った状況証拠は次のようなことでした。

(1) 『新撰姓氏録』によれぱ、弓削氏と習宜氏は共に物部氏系の神を祖先とする。
(2) 習宜阿曾麻呂の習宜は「すげ」とは訓めず、「すぎ」と訓むべきである。
(3) 「すぎ」は現代の名字では「杉」の字を当てるのが一般的と思われる。
(4) 杉さんの名字分布を調べたところ、県別では福岡県が最多で(2位は岡山県)、うきは市を中心として筑後地方が最濃密地域である。
(5) このことから、習宜阿曾麻呂の出身地は筑後地方とするのが有力である。
(6) 『続日本紀』によれば、習宜阿曾麻呂の任地は九州内(豊前国・大宰府・種子島・大隅国)に限られており、奈良県出身とする通説よりも、福岡県(筑後地方)出身とする方が妥当である。
(7) 『和名抄』によれば、筑後国に物部郷があり、名字の物部さんも岡山県に次いでうきは市が多い。
(8) 杉さんと物部さんが共通して福岡県と岡山県に多いことは偶然ではなく、両者に何らかの関係があることを指し示している。
(9) 弓削の道鏡の出身地は河内国とされているが、筑後国にも弓削郷があり、久留米市北野町上弓削にある法皇宮は後白河法皇を祭神とするが、弓削の道鏡を祀るとする説がある(注③)。
(10)『養老律令』官位令の規定によれば、大宰府主神の官位は正七位下とされているが、習宜阿曾麻呂は従五位下と比較的高位であり、左遷後も変化していない。

 以上のような状況証拠により、物部系で筑後出身の習宜氏(阿曾麻呂)と弓削氏(道鏡)らが結託して、大和朝廷の天皇位簒奪(九州王朝王族の復権)を目論んだのではないかとの作業仮説(思いつき)に至りました。果たして、この思いつきが史料根拠に基づいた学問的仮説にまで発展するのか、今のところあまり自信はありませんが、研究を続けたいと思います。

(注)
①ウィキペディアに次の解説がある。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
②習宜阿曾麻呂は「すげのあそまろ」と呼ばれているが、「宜」の字は「げ」ではなく、「ぎ」と読むべきで、その出身地を筑後地方(うきは市)付近とする見解を次の「洛中洛外日記」で発表した。
 古賀達也「洛中洛外日記」2679~2680話(2022/02/08~09)〝難波宮の複都制と副都(8)~(9)〟
③『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和61年(1986)。同書関係部分のコピーを犬塚幹夫氏(古田史学の会・会員、久留米市)より、久留米大学講演時に提供していただいた。


第2775話 2022/06/26

久留米大学で「九州王朝の両京制」を講演

 本日は久留米大学御井校舎で講演させていただきました。テーマは〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟です。講演の後半では、筑後地方に濃密分布する名字、杉さん・物部さん・柿本さんについての最新研究を報告しました。特に佐賀県の柿本氏から入手した「柿本家系図」を紹介し、久留米市に分布する柿本さんも万葉歌人柿本人麿の末裔かもしれず、もし系図をお持ちであれば紹介していただきたいと参加者にお願いしました。
 おかげさまで講演会は盛況で、当地もコロナ禍から脱しつつあることがうかがえました。持ち込んだ書籍『古代史の争点』(明石書店、2022年)も完売し、不足分については次週に講演される正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご購入いただくようお願いしたほどでした。
 講演会終了後には久留米大学教授の福山先生や参加された中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)と柿本家系図調査にご協力いただいた菊地哲子さん(久留米市)と夕食をご一緒させていただき、楽しい団らんが続きました。主催された久留米大学事務局の皆さんやご参加いただいた皆さんに御礼申し上げます。


第2774話 2022/06/25

「トマスによる福音書」と

        仏典の「変成男子」思想 (8)

 701年(九州年号の大化七年=大宝元年)の大和朝廷(日本国)への王朝交替まで日本列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)での仏典受容における女人救済思想の研究はようやく始まったばかりです(注①)。遺された九州王朝系史料の少なさから、本格的な研究はこれからですが、『日本書紀』に転用された九州王朝記事を探ることでその一端をうかがうことができます。たとえば聖徳太子によるとされる三経義疏(注②)も、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤、あるいは太子・利歌彌多弗利(注③)による事績の転載ではないかと考えています。
 三経義疏に関係するものとして、女性(勝鬘婦人)が中心となって説かれた『勝鬘経』が注目されます。仏教学の権威、中村元氏は同経典の特徴を次のように紹介しています。

〝それ(『勝鬘経』)は、釈尊の面前において国王の妃であった勝鬘婦人が、いろいろの問題について大乗の教えを説く、それにたいして釈尊はしばしば賞賛の言葉をはさみながら、その説法をそうだ、そうだと言って是認するという筋書きになっています。当時の世俗の女人の理想的な姿が『勝鬘経』のなかに示されています。(中略)
 釈尊は彼女が未来に必ず仏となりうるものであることを預言します。〟※()内は古賀注。中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』135~138頁(注④)

 このように解説されて、中村氏は次のように結論づけます。

〝ここに注目すべきこととして、勝鬘婦人という女人が未来に仏となるのであって、「男子に生まれ変わって、のちに仏となる」ということは説かれていません。「変成男子」ということは説かれていないのです。「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であったということがわかります。〟同150頁

 この結論の前半部分はその通りですが、後半の〝「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であった〟は頷けません。なぜなら、少なからぬ仏典中に「変成男子」思想は見受けられるからです。更に、釈迦の時代や仏典成立時での女性蔑視社会に抗した女人救済の便法「変成男子」思想を、現代人の人権感覚で忌避・否定するのではなく、古代社会での「跋苦与楽」(注⑤)の救済方法を当時の人々(特に女性たち)がどのように受けとめていたのかを検証すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
 同「聖徳太子と仏教 ―石井公成氏に問う―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)明石書店、2022年。
②『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』のことで、『日本書紀』推古紀には聖徳太子が講じたとある。『法華義疏』(皇室御物)は九州王朝の上宮王が集めたものとする古田先生の次の研究がある。
 古田武彦「『法華義疏』の史料批判」『古代は沈黙せず』1988年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『隋書』俀国伝に見える俀国(九州王朝)の天子と太子の名前。
④中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』東京書籍、1987年。
⑤「跋苦与楽」(ばっくよらく)とは、衆生の苦を取り除いて楽を与えること。『大智度論』二七(鳩摩羅什訳)に「大慈与一切衆生楽、大悲跋一切衆生成苦」とある。


第2773話 2022/06/24

新幹線で気づいた「広島」地名の不思議

 今日の午前中は「多元の会」のリモート勉強会(注)に参加し、午後には博多に向かう新幹線に乗り込みました。26日の久留米大学での講演のためです。現役の時は出張で週に何回も新幹線を利用したものですが、退職後は激減しました。ですから、久しぶりの新幹線利用ですが、広島駅まで来て、妙な疑問が脳裏に浮かびました。広島市は島でもないのになぜ「広島」と呼ばれているのだろう。そう言えば、徳島市も福島市も島ではない。なぜだろう。という疑問です。大昔は本当に島だったのかもしれませんが、位置的にそうとは思えない所もあります。たとえば次の「島」地名です。

 鹿児島市(鹿児島県) 鹿島市(佐賀県) 渡嶋(北海道)

 茨城県の鹿嶋市は海岸沿いですから、昔は島だったのかもしれませんが、佐賀県の鹿島市は島だったとは思えない地勢です。北海道の渡嶋(おしま)は渡嶋半島とも言われますが、やはり島ではありません。鹿児島市は、古くは桜島のことを鹿児島と呼んでいたとする説がweb上に見え、『和名抄』に薩摩国の郡名に「カコシマ」があり、これを桜島のことと解釈されているようです。しかし、「カコシマ」を桜島のことと断定できる史料根拠が示されておらず、まだ納得できずにいます。
 ちなみに、冒頭の広島市についてweb上には、太田川の三角州が広々としていたので広島と呼んだとか、戦国武将の名前から広と島の一字ずつをとって広島にしたとか、あまり納得できそうにない説が並んでいます。
 ここまで書いて、博多駅に着きましたので、京都に帰ったらよく調べてみます。ちなみに、博多の語源は言素論では、「は」+「潟」です。語幹は「は」ですが、これは「広い」という意味があるようですから、「広い潟」が「はかた」の由来ではないでしょうか。

(注)「古田史学の会」の友好団体、多元的古代研究会が毎週金曜日に開催されるリモート研究会。終了後、残った参加者の皆さんと会話していたところ、物部氏研究のため『先代旧事本紀』のリモート勉強会をしようという話しになりました。ぜひ実現させたいものです。
 そうしたこともあり、博多駅前の紀伊國屋書店で篠川賢『物部氏の研究』(雄山閣、2009年)と宝賀寿男『物部氏 剣神奉斎の軍事大族』(青垣出版、2016年)の二冊を買いました。学風が対照的な著者の本ですから、読み比べが楽しみです。


第2772話 2022/06/23

「トマスによる福音書」

      と仏典の「変成男子」思想 (7)

 前話〝「トマスによる福音書」と仏典の「変成男子」思想 (6)〟で、「古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点」と述べたのですが、これは近畿天皇家内において実力者であった蘇我馬子が推古を女性として初の〝天皇〟位につけたこととも関係があるのかもしれません。仏教という外来の新たな宗教的権威として若い女性を出家させ、〝天皇〟位という近畿王権の権力者として女性の推古を即位させたことを偶然の一致とするよりも、馬子の女性に対する考え方や、当時の王権内の事情や九州王朝との関係を反映したものと考えた方がよいのではないでしょうか。
 王朝交代後の八世紀に入ると、大和朝廷として君臨した近畿天皇家は新たな仏教政策を採用します。聖武天皇による国分寺の建立命令です。『ウィキペディア』では次のように説明しています。

【国分寺】フリー百科事典『ウィキペディア』
 国分寺は、741年(天平十三年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺と国分尼寺に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺」が建てられた。
 天平十三年(741年)聖武天皇の勅願により、国分寺とともに諸国に創建された尼寺。正しくは法華滅罪之寺、略して法華寺と称し、妙法蓮華経を安置。奈良の法華寺は総国分尼寺の性格を有した。

 聖武天皇が発したこの国分寺創建詔(注①)により、各地で国分寺・国分尼寺の造営が開始されます。なかでも、国分尼寺の正式名が「法華滅罪之寺」であり、女人救済という視点からすれば、法華経が中心経典とされたことは示唆的です。「法華滅罪之寺」を字義通り解釈すれば、女性の罪を法華経の教えで滅するということですから、当時の大和朝廷が受容した仏教思想として、女人救済(滅罪)には法華経が優れた教えとする認識があったことを疑えません。
 なお、聖武天皇周囲の女性皇族(光明皇后たち)が仏教を崇敬していたことは、天平八年(736)、法隆寺の法会への数々の施入品からもうかがえ、それが九州王朝への畏怖を背景の一つとしていたとする論稿をわたしは発表しました(注②)。(つづく)

(注)
①『続日本紀』聖武天皇天平十三年二月条に見える詔勅。
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年。


第2771話 2022/06/22

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (6)

 日本列島への仏教初伝や経典受容期における女人救済思想についても検討することにします。他国とは異なって、日本神話では女神の天照大神を最高神としたり、宗像三女神が崇敬されたりしています。倭人伝に見える邪馬壹国の女王俾弥呼の登場などを考えると、古代日本では比較的女性は尊重されており、インドや西洋とは少々様相が異なっているようにも思われます。そこで、史料事実を重視して、実証的に考察してみます。
 日本列島への仏教の伝来や影響を考える場合、わたしたち古田学派としては当然多元史観・九州王朝説を基礎とする多元的伝来への配慮が必要です。そこで、最初に『日本書紀』を中心として近畿天皇家(近畿地方)の受容について見てみます。近畿天皇家の勢力が仏教を公的に受け入れたのは『日本書紀』によれば、敏達十三年条(584年)のことであり、最初に受容したのは蘇我馬子らです。

〝(敏達天皇十三年)秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。
 是歳、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方訪覓修行者。於是、唯於播磨國得僧還俗者、名高麗惠便。大臣、乃以爲師、令度司馬達等女嶋、曰善信尼年十一歳、又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豊女名曰禪藏尼、其二、錦織壼之女石女名曰惠善尼。壼、此云都苻。
 馬子獨依佛法、崇敬三尼。乃以三尼付氷田直與達等、令供衣食經營佛殿於宅東方、安置彌勒石像、屈請三尼大會設齋。此時、達等得佛舍利於齋食上、卽以舍利獻於馬子宿禰。馬子宿禰、試以舍利置鐵質中振鐵鎚打、其質與鎚悉被摧壞、而舍利不可摧毀。又投舍利於水、舍利隨心所願浮沈於水。由是、馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等、深信佛法、修行不懈。馬子宿禰、亦於石川宅修治佛殿。佛法之初、自茲而作。〟(注①)

 この記事が示す重要な〝史料事実(『日本書紀』編者の主張)〟は次の点です。

(1)百済からもたらされた弥勒菩薩石造ともう一つの仏像を蘇我馬子が受け入れ、崇敬した。
(2)男性ではなく、なぜか若い女性三人(善信尼〈11歳〉・禅蔵尼・恵善尼)を出家させた。
(3)近畿天皇家の下には僧侶がいないため、播磨国にいた還俗僧の高麗の惠便を法師として三人を〝得度〟させた。
(4)仏舎利を得た蘇我馬子は仏殿を造り、敬った。
(5)「佛法之初、自茲而作」、こうして仏法は始まった。

 この一連の記事で最も注目すべきは、(5)の近畿天皇家(近畿地方)への「仏法初伝」を敏達十三年(584年)とする記事です。現在の通説(近畿天皇家一元史観)では、わが国(大和朝廷)への仏教伝来を欽明十三年(552年)、あるいは宣化三年(538年)としてきましたが(注②)、天皇家の正史『日本書紀』には敏達十三年のこととしています。この史料事実は重要です。
 次に注目すべき記事が、若い女性を尼僧として出家させていることです。古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日本古典文学大系『日本書紀』岩波書店。
②古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集(古田史学の会編、1996年。明石書店から復刊)において、次のように中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)の見解を紹介した。
〝それに対して多元史観の立場から果敢な史料批判を試みられたのが中小路駿逸氏でした。氏は近畿天皇家への仏教初伝は『日本書紀』が「仏法の初め」と自ら記している敏達十三年(五八四)であり、しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されていることを指摘され、永く通念であった欽明十三年の記事は「仏教文物の伝来」であって「仏教の伝来」ではないと喝破されました。更に返す刀で、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などに見える、百済から戌午の年に伝来したとする説は近畿天皇家の伝承にはあらず、なぜなら『日本書紀』には播磨の恵便から仏法が伝わり、大和でも出家者が出たことをもって「仏法の初め」と明記されているからであると、言われてみればあまりにも単純明瞭な史料事実と論理を示されたのでした。その上で、百済から戊午の年に伝来したとされるのは九州王朝への仏教初伝伝承であり、その時期は四一八年の戊午である蓋然性が大きいとされました。


第2770話 2022/06/21

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (5)

 「トマスによる福音書」に見える女性救済方法は、仏典の「変成男子」と同様に、女性を男性にしてからというものです。

〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。
 イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」。〟「トマスによる福音書」『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(注①)

 今日は久しぶりに新約聖書を読み、女性救済がどのように語られているのかを調べているのですが、まだ見つけることができていません。しかし、当時の社会における女性蔑視思想はキリスト教団中にもありました。先の「トマスによる福音書」に見える〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。〟もその片鱗です。新約聖書「コリントの信徒への手紙1」には次のパウロの言葉があり、その差別思想は具体的です。

〝すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(中略)
 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。〟「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』(注②)

 現代のクリスチャンがこの聖書の言葉をどのように受けとめているのかは知りませんが、まさかそのまま〝是〟として受けとめてはいないと思います。少なくとも、わたしの周囲におられるクリスチャン(日本人)からは、このような思想を感じたことはありません。
 他方、恐らく女性蔑視社会の当時、イエスのもとには多くの女性たちが付き従っていたことが聖書に散見されます。次の聖書の一節は、イエスがゴルゴダの丘で処刑されたときの様子です。12名の弟子(全員が男)たちはイエスを見捨てて逃げたのですが、女性たちは逃げずに遠巻きで処刑を見ていたようです。

〝そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。〟「マタイの福音書」(27章55~56節)『聖書』

 いつの世も、覚悟を決めた女性の強さが輝くのですが、このシーンは象徴的です。ここに見えるマグダラのマリヤは、復活後のイエスに最初に出会った人物として福音書に記されており、他の男の弟子たちや新約聖書の編纂者たちも、彼女に一目置いていたと思われます。発見されたナグ・ハマディ文書には、「トマスによる福音書」とともに「マリヤによる福音書」もあります。そこには、イエス死後のマリヤとペトロらとの会話が記されています。

〝ペトロがマリヤに言った。「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私たちに話して下さい。あなたが知っていて私たちの(知ら)ない、私たちが聞いたこともないそれら(の言葉)を」。
 マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう。」と言った。そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。(中略)
 マリヤは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。救い主が彼女と語ったのはここまでだったからである。
 すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った。「彼女の言ったことに、そのことに関してあなたがたの(言いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」。
 ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「(まさかと思うが、)彼がわれわれに隠れて一人の女性と、(しかも)公開ではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか」。
 そのとき[マ]リヤは泣いて、ペトロに言った。「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。
 レビが答えて、ペトロに言った。「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。」〟「マリヤによる福音書」同①

 聖書の四福音書とは弟子等に対するイメージが大きく異なっていますが、イエス処刑のとき逃げずに最後まで残ったマグダラのマリアの福音書の方にリアリティーをわたしは感じます。同時に、ペトロの言葉にあるように、男の弟子等が恐れたのは「将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。」という事態だったのかもしれません。
 わたしは、聖書に記されたイエス処刑の一節を読む度に、小学生時代に父と観たハリウッド映画の大作「ベン・ハー」(注③)のワンシーンを想い出します。重い十字架を引きずり、むち打たれながらゴルゴダの丘へと連行されるイエスと主人公ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)との出会い(再会)の場面です。(つづく)

(注)
①『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』岩波書店、1998年。
②「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』日本聖書刊行会、1994年版。
③ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」、1959年、チャールトン・ヘストン主演。アカデミー賞11部門を獲得した同作品は、巨大な競技場セットでの戦車競争シーンが圧巻。原作はルー・ウォーレスの『ベン・ハー キリスト物語』1880年。


第2769話 2022/06/20

竹村さんからの提案、ボカロ版「洛中洛外日記」

 昨日の出版記念講演会は全国の会員・会友を対象にネットで生配信しました。「古田史学の会」が採用している配信機器は当初と比べ、性能は上がりコンパクトになりました。そのシステムを優れたテクニカルスタッフ(横田幸男さん、久冨直子さん、竹村順弘さん)が運営しています。聞けば、ハイスペックの機種で、操作も難しいとのこと。
 今回からは講師の声を収音マイクではなく、専用の小型マイクでとり、それを会場最後尾に設置したホストPCへ飛ばし、そこから全国配信する新システムを採用しました。おかけで音声や画像がきれいに配信できるようになりました。スタッフの皆さんに感謝します。
 ホームページ「新・古代学の扉」を横田さん(古田史学の会・全国世話人、インターネット事務局担当)が立ち上げて以来、「古田史学の会」ではインターネットを重視してきました。「洛中洛外日記」のリリースも、「新・古代学の扉」へのアクセス件数が増えるようにと始めたものです。その後、FaceBookにも参入しましたが、web環境やその社会的影響力は拡大を続け、SNSの進化によりコンテンツやビジネスモデルは劇的に変化しました。「古田史学の会」のインターネット事業にも新たな分野への挑戦が必要と感じています。
 そのようなとき、昨日の「古田史学の会」全国世話人会終了後に、竹村さん(古田史学の会・事務局次長、木津川市)から面白い提案を受けました。古田史学の紹介動画として、10~15分ほどのボーカロイドやトークロイド(注①)による解説番組やボカロ版「洛中洛外日記」を制作してはどうかというものです。ボーカロイドといえば初音ミクさんの「虹色蝶々」や「千本桜」をよく聴いていましたが、古代史の解説に使うという発想には至りませんでした。実際にどのように使用されているのかを久冨さんにうかがったところ、「ゆっくり動画」というサイトがあり、古代史のコンテンツもあることを教えていただきました。
 実現のためには技術的な問題の他、内容そのものに魅力がないと効果が見込めません。どのような層をターゲットとできるのかも含めて検討したいと思います。ボーカロイドやトークロイドに詳しい方のアドバイスをいただければ幸いです。

(注)
①トークロイドとは、本来歌うために作られたボーカロイド(VOCALOID)で喋りの質を追い求めた動画に付けられるタグである。(ニコニコ大百科の解説による)
②「虹色蝶々」初音ミク。
https://www.youtube.com/watch?v=3qYHaLlGyWs
 「千本桜」初音ミク。
https://www.youtube.com/watch?v=Mqps4anhz0Q


第2768話 2022/06/19

古代史の争点 KANSAI出版記念講演会

古田史学の会総会にて 2022年6月19日 於:アネックスパル法円坂

俾弥呼の鏡 — 俾弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡か?

服部静尚

卑弥呼を、「俾彌呼」としました。

https://www.youtube.com/watch?v=-iK4UxLCfpg

すべて視聴される方は、
ダウンロード版(hator619,638MB,mp4)をご利用できます。
パソコンのWebブラウザーでダウンロードされ保存してください。(5分以上かかります)
PDF資料と共に史料批判をお願いいたします。

 講演の視聴は、下記の「古田史学の会総会 2022年6月19日 俾彌呼の鏡」PDFをダウンロード(⬇️)され印刷されるか、もしくは拡大(🎛)して、ご視聴ください。

hattori619

 

 

 

「邪馬壹国」の官名

       — 俾弥呼は漢字を用いていた 

 (太夫・泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚の真実)

 

正木裕

https://www.youtube.com/watch?v=LC_KWXaMKk8

すべて視聴される方は、
ダウンロード版(masak619,756MB,mp4)をご利用できます。
パソコンのWebブラウザーでダウンロードされ保存してください。(5分以上かかります)
PDF資料と共に史料批判をお願いいたします。

 講演の視聴は、下記の「「邪馬壹国」の官名 2022年6月19日 」PDFをダウンロード(⬇️)され印刷されるか、もしくは拡大(🎛)して、ご視聴ください。

masaki619

 

質問は、省略しました。

 

関西例会と記念講演会を開催しました

 本日はアネックスパル法円坂で、「古田史学の会」関西例会と『古代史の争点』出版記念講演会・会員総会が開催されました。お昼休みには全国世話人会を開催し、総会議案の承認と今後の事業方針などについて審議しました。来月の関西例会は7月16日(土)にドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。

 今回の例会は午前中だけでしたので、発表は大原さんと西井さんの2名だけになりました。例会冒頭には正木事務局長より会員総会・記念講演会の段取りと受付などの協力要請がありました。関東からは久しぶりに冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)が参加され、関西のメンバーと旧交を温めました。

 6月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔6月度関西例会の内容〕
①火の国なる秦王国を訪れた裴世清(大山崎町・大原重雄)
②飛鳥時代の新羅(大山崎町・大原重雄)
③『古事記』神世七代のアイヌ語地名(大阪市・西井健一郎)

 午後の記念講演会の講師と演題は次の通りでした。
○服部静尚さん 「俾弥呼の鏡~俾弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡か?」

○正木 裕さん  「邪馬壹国の官名 — 俾弥呼は漢字を用いていた」


第2767話 2022/06/18

「トマスによる福音書」と

    仏典の「変成男子」思想 (4)

 『法華経』には、「題婆達多品第十二」に見える「龍女の成仏」説話の他にも女性の救済についての説話があります。「洛中洛外日記」(注①)で紹介したことがありますが、「薬王菩薩本事品第二十三」の次の説話です。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」

 「宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
 復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。」

 当時、成仏できないとされた女人でも、薬王菩薩本事品を聞き、説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いたものです。わたしが着目したのは「若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。」の部分です。三枝充悳氏による現代語訳では次のようです(注②)。

 「もしある女人が、この薬王菩薩本事品を聞いて、よく受持するならば、このひとは、女身を尽くしてから後に再び女身を受けるということはないであろう。」三枝充悳『法華経現代語訳(下)』464頁

 薬王菩薩本事品のこの部分は釈迦が女人の往生を説いた説話で、「女性救済」思想なのですが、ここでも「女身」であることをネガティブに捉え、滅後は再び女身として生まれないという〝方法〟を説いているわけです。現代人の感覚としては、なんともやりきれないのですが、このような便法を用いなければならないほど、当時の女性蔑視社会の圧力は強かったことがうかがえます。
 わたしにはこうした釈迦の便法を、あたまから否定することができません。現代社会にも、「正義」や「平等」「平和」を主張するだけでは一向に解決できない問題が数多くあり、その間も苦しみ続けている人々がいることを知っているからです。まさに釈迦やイエスが生きた時代はそのような精神文明の社会だったのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2505話(2021/06/29)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史(2) ―法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想―〟
②三枝充悳『法華経現代語訳(下)』第三文明社レグルス文庫、1974年。