2022年08月26日一覧

第2817話 2022/08/26

「二倍年暦」研究の思い出 (5)

―〝解釈論〟を超えるための実証の試み―

 大越邦生さんや高田かつ子さんが指摘された『論語』陽貨第十七の次の年齢記事を二倍年暦(二倍年齢)とする見解にわたしも賛成です。

 「子曰く、年四十にして悪(にく)まるれば、其れ終らんのみと。」
 「子生まれて三年、然(しか)る後に父母の懐を免(まぬが)る。夫(そ)れ三年の喪は、天下の通葬なり。予(よ)や其の父母に三年の愛有るかと。」『論語』陽貨第十七

 しかし、通説支持者からの〝一倍年暦による解釈も可能であり、これらの記事を根拠に『論語』が二倍年暦で記されているとする論証は成立していない〟との批判を避けられません。すなわち、史料事実に基づく実証力が、こられのケースでは十分ではないと認めざるを得ないのです。たとえば『論語』に百歳とか百二十歳とかの年齢記事が少なからずあれば、その年齢を古代中国(周代)の一倍年暦による実年齢とはさすがに言いにくく、その場合は二倍年暦を証明する実証力を有していると見なせます。先に紹介した『礼記』曲礼上(注①)に見える次の「百歳」記事であれば、通説との比較において相対的実証力を有します。

 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」『礼記』曲礼上

 このような史料根拠に基づく実証による仮説は、ケースによっては互いが主張する相対的実証力による〝水掛け論〟になる学問上の危うさがあるため、わたしは史料根拠に基づく、より有力な実証に注力してきました。一例をあげれば、『論語』に先立って行った仏典の二倍年暦研究です(注②)。

 「我れ今、世に出づるに、人寿の百歳は、出でたるが少なく、減ずるが多し。」『長阿含経』巻第一、第一分初、大本経第一。
 「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。」中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、1999年版。

 これらの仏典には、釈迦の時代における一般的な人の寿命についての釈迦の認識(百歳以上は少なく、それ以下が多い)が示されています。ここで重要なことは、特別に長生きした人についてではなく、当時の一般的な人の寿命についての釈迦の認識が語られていることです。次に、具体的な人物の長寿記事についての釈迦の言葉を紹介します。

 「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧(きぐ)にして多智なり。」『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二。
 「昔、此の斯波醯(しばけい)の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三。
 (師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、1999年版。

 初めの記事は仏弟子、須跋(すばつ スバッダ)の寿命(百二十歳)についてのものです。後の記事も百二十歳の老人(耆旧 きぐ)に関するもので、これらも二倍年暦で理解すべき年齢であることから(一倍年暦の六十歳に相当)、『長阿含経』や『スッタニパータ』などは二倍年暦で記述されていると判断せざるを得ません。これらは史料事実に基づく実証として、かなり有力なケースです。
 しかし、二倍年暦の概念を持たない、あるいは二倍年暦を否定する「実証史学」の論者は〝これらの史料事実から、釈迦の時代のインドには百二十歳の人がいたと考えてもよい。そのことが実証的に示されている。〟と主張するかもしれません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2816話(2022/08/25)〝「二倍年暦」研究の思い出(4) ―大越邦生さんと高田かつ子さんの着眼点―〟
 古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。