2022年09月一覧

第2836話 2022/09/14

大宝二年「西海道戸籍」の高齢出産記事

 大宝二年(702年)「御野国戸籍」に高齢者や高齢出産が多いことを紹介しましたが、大宝二年「西海道戸籍」(注①)にも高齢出産記事が少なくないことが知られています。松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注②)には、大宝二年西海道戸籍に記載された67戸(1125人)中、40歳以上の女性による高齢出産の31戸の全例が紹介されています。それらの母親の名前と出産年齢は次の通りです。番号は論文で戸毎に付されたものです。

【大宝二年「西海道戸籍」の高齢出産】

〔筑前国嶋郡川邊里〕
(1) 卜部 甫西豆売 42歳
(2) 卜部 夜夫志売 42歳・45歳
(3) 中臣部 與利売 42歳・52歳
  吉備部 岐多奈売 42歳・45歳
(4) 建部 稲津売 48歳
(5) 卜部 宮津売 40歳・44歳
(6) 卜部 酒屋売 62歳
(7) 宇治部 彌乃売 42歳・45歳・47歳
(8) 秦部 咩豆売 47歳
(9) 葛野部 比良売 45歳・46歳
(10)大家部 泉売 40歳
(11)葛野部 美奈豆売 49歳・55歳

〔豊前国上三毛郡塔里〕
(12)秦部 小民売 43歳
(13)秦部 乎堤売 40歳・41歳
(14)秦部 小赤売 41歳・42歳
(15)秦部 意等比売 43歳・51歳
(16)秦部 伊比豆売 44歳

〔豊前国仲津郡丁里〕
(17)墨田赤売 40歳
(18)都加自売 43歳・46歳
(19)秦部 阿理売 41歳
  秦部 刀自売 45歳・47歳
(20)狭度 小赤目 40歳・41歳・42歳
(21)等能比売 40歳
(22)丁糠売 53歳
(23)秦部 犬売 40歳・42歳
(24)春日部 昨売 42歳
(25)狭度 赤売 47歳
(26)川邊 波太売 51歳
(27)秦部 夜波良売 43歳
(28)秦部 犬売 51歳
(29)膳 百手売 41歳
(30)秦部 蓑売 46歳
(31)韓売 42歳

 これだけの「高齢出産」が七世紀の倭国でありえたとは考えられないのですが、松尾氏は「(6)卜部酒屋売」の出産年齢の62歳についても、西海道戸籍の表記の正確性などを根拠に、「不安はあるが、いまは記載されている通りに六十二歳で出産したものとしておく。」としています。わたしにはとてもこのような大胆な理解はできません。松尾氏は〝史料事実〟を〝歴史事実〟と理解してしまったわけですが、もし二倍年暦(二倍年齢)という概念(古田説)をご存じでしたら、こうした判断にまでは至らなかったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①大宝二年「西海道戸籍」は、筑前国嶋郡川邊里戸籍や豊前国上三毛郡塔里戸籍・仲津郡丁里戸籍などが現存している。
②松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」『古代史論聚』木本好信編、岩田書院、2020年。


第2835話 2022/09/13

「御野国戸籍」の親子間年齢差

 大寶二年(702年)「御野国戸籍」には、高齢者(70歳以上)の多さ以外にも不自然な史料事実があります。それは戸主と嫡子・次子らとの年齢格差が異常に大きいことです。この傾向は、戸主が高齢であるほど顕著に表れ、高齢者が多いという御野国戸籍の特徴とも密接に関連しています。この史料事実の異常さは従来から指摘されてきました。たとえば、南部昇『日本古代戸籍の研究』(注①)には次の指摘があります。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」同書315頁

 南部氏が非常に多いと指摘したこの傾向は、戸主以外の「寄人」家族(注②)にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人 縣主族 都野」家族の記載があります。

 「寄人 縣主族 都野」(44歳、兵士)
 「嫡子 川内」(3歳)
 「都野甥 守部 稲麻呂」(5歳)
 「都野母 若帯部 母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫 縣主族 部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部 母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
              ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
              ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。古代ではなおさらです。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不可解です。
 次に、「戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている」例として、「御野国加毛郡半布里戸籍」(注③)の特に顕著な戸の親子関係を紹介します。

(Ⅰ)「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主 都野」(59歳)
 「戸主妻 阿刀部 井手賣」(52歳)
   ―「嫡子 麻呂」(18歳)※41歳差
   ―「次 古麻呂」(16歳)※43歳差
   ―「次 百嶋」(1歳)※58歳差
   ―「児 刀自賣」(29歳)※30歳差
      ―「刀自賣児 敢臣族 岸臣眞嶋賣」(10歳)
      ―「次 爾波賣」(5歳)
   ―「次 大墨賣」(18歳)※41歳差
 「妾 秦人 意比止賣」(47歳)
   ―「児 古賣」(12歳)※47歳差
 「戸主姑 麻部 細目賣」(82歳)

〔解説〕戸主「都野」(59歳)の嫡子「麻呂」(18歳)との年齢差は41歳。末子の「百嶋」(1歳)との年齢差は58歳で、戸主の妻「井手賣」(52歳)が51歳のときの超高齢出産となる。

(Ⅱ)「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主 加佐布」(63歳)
 「戸主妻 物マ 志祢賣」(47歳)
  ―「嫡子 小玉」(19歳)※44歳差
  ―「次 身津」(16歳)※47歳差
  ―「次 小身」(10歳)※53歳差

 「戸主弟 阿手」(47歳)
 「阿手妻 工マ 嶋賣」(42歳)
  ―「児 玉賣」(20歳)※阿手と27歳差
  ―「次 小玉賣」(18歳)※阿手と29歳差
  ―「次 大津賣」(15歳)※阿手と32歳差
  ―「次 小古賣」(8歳)※阿手と39歳差
  ―「次 依賣」(2歳)※阿手と45歳差

 「戸主弟 古閇」(42歳)
  ―「古閇児 廣津賣」(3歳)※古閇と39歳差

〔解説〕戸主「加佐布」(63歳)の嫡子「小玉」(19歳)との年齢差は44歳。末子「小身」(10歳)とは53歳差。

(Ⅲ)「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主 山」(73歳)
 「戸主妻 秦人 和良比賣」(47歳)
   ―「嫡子 古麻呂」(14歳)※59歳差
   ―「次 加麻呂」(11歳)※62歳差
 「妾 秦人 小賣」(27歳)
   ―「児 手小賣」(2歳)※71歳差

〔解説〕戸主「山」(73歳)の嫡子「古麻呂」(14歳)との年齢差は59歳。次子の「加麻呂」(11歳)とは62歳差。妾「秦人小賣」(27歳)との子「小賣」(2歳)とは71歳差。

(Ⅳ)「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主 阿波」(69歳)
  ―「嫡子 乎知」(13歳)※56歳差
   ―「次 布奈麻呂」(11歳)※58歳差
   ―「次 小布奈」(8歳)※61歳差
   ―「次 根麻呂」(2歳)※67歳差
―「戸主児 志祁賣」(33歳)※36歳差

〔解説〕戸主「阿波」(69歳)の嫡子「乎知」(13歳)との年齢差は56歳。末子「根麻呂」(2歳)とは67歳差。

 以上のように、戸主と嫡子らの年齢差が開いていることや、出産年齢が超高齢出産となるケースもあり、同戸籍の記載年齢(史料事実)をそのまま古代人の寿命や年齢を表した〝歴史事実〟として使用するのは学問的に危険です。(つづく)

(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』吉川弘文館、1992年。
②古代戸籍の寄人(よりゅうど)とは、戸主との血縁関係が当時の親族呼称では表せない場合につけられた一種の続柄。寄口(きこう・よりく)とも書く。
③『寧楽遺文』上巻、昭和37年版による。


第2834話 2022/09/12

大寶二年「御野国戸籍」と

 養老五年「下総国戸籍」の高齢者

 「大寶二年(702年)御野国戸籍」にわたしが注目したのは高齢者(70歳以上)の多さでした。古代戸籍研究でいくつもの戸籍を見てきたのですが、最高齢の93歳の女性(加毛郡半布里の都野母若帯部母里賣)を筆頭に高齢者が多く、この史料状況は二倍年暦の影響を受けて成立したのではないかと感じたのです。
 70歳以上の高齢者がわたしの調査では38人(男18人、女20人)記されています。文献によって総数が異なるのですが、その比率は全体(2428人。男1092人、女1336人)の1.57%(男1.65%、女1.5%)に相当します(注①)。高齢者率が男より女が低いことも不審ですが、比較的時代が近い養老五年(721年)「下総国戸籍」の高齢者は次の通りで、「御野国戸籍」はその約1.5倍の高齢者率なのです。

【「下総国戸籍」の70歳以上の人】

「妻 孔王部奈爲賣」(73歳)
「母 土師部刀自賣」(72歳)
「母 私部與伎賣」(71歳)
「戸主 孔王部三村」(71歳)
「母 孔王部乎弖賣」(73歳)
「母 小長谷部椋賣」(84歳)
「姑 三枝部宮賣」(75歳)
「孔王部大年」(79歳)

 最高齢は「母小長谷部椋賣」(84歳)で、70歳以上は計8人(男2人、女6人)であり、総数772人(男343人、女429人。注②)中の高齢者率は1.04%(男0.58%、女1.4%)です。こちらは女性の方が高く、人の寿命の男女差としてリーズナブルです。
 対象地域が御野国と下総国と離れてはいますが、どちらも八世紀第1四半期のほぼ同時代の戸籍ですから、約1.5倍も高齢者率が異なるのは不自然ではないでしょうか。両者を比較した場合、高齢者の男女比率の不自然さから判断しても、より疑うべきは「御野国戸籍」の方なのです(注③)。しかも、同戸籍の不自然さは他にもありました。(つづく)

(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)掲載の年齢分布表を元に、『寧楽遺文(上)』(竹内理三編、1962年)で高齢者数を確認した。見落としがあるかもしれないが、大きく異なることはないと考えている。
②同①。
③「下総国戸籍」の年齢も、52歳以上は二倍年暦の影響を受けており、正確には〝「下総国戸籍」よりも「御野国戸籍」の方が二倍年暦の影響を受けた年齢層が広い〟ということである(「御野国戸籍」は33歳以上が二倍年暦の影響を受けている)。この点、後述したい。


第2833話 2022/09/11

「大寶二年籍」の史料事実と歴史事実

 「延喜二年籍」(702年)の次は、現存最古の戸籍「大寶二年籍」(702年)の研究に入りました。「大寶二年籍」(注①)は西海道戸籍と御野国戸籍が遺っており、わたしが注目したのが御野国戸籍の高齢者群でした。それは次の高齢者(70歳以上)です。

〔味蜂間郡春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀郡栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣郡肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方郡三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛郡半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大寶二年籍」中の最高齢記事。
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果(二倍年齢)ではないかと疑いましたが、従来の古代戸籍研究ではこの〝史料事実〟を無批判に〝歴史事実〟として採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしは、「大寶二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢者群の存在という〝史料事実〟をそのまま〝歴史事実〟とすることは学問的に危険と指摘しました(注②)。しかも、高齢者群以外にも「大寶二年籍」には不自然な史料状況がありました。(つづく)

(注)
①「大寶二年籍」『寧楽遺文(上)』竹内理三編、1962年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2193話(2020/08/03)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)〟
 同「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf


第2832話 2022/09/10

「延喜二年籍」の史料事実と〝偽籍〟

 「延喜二年(902年)阿波国戸籍」に見える超高齢者群を二倍年暦(二倍年齢)の影響を受けたものではないかと、当初、わたしは考えていたのですが、同戸籍の年齢を全て半分にすると、新たに多くの問題点が発生することがわかりました。たとえば、親子間の年齢差や女性の出産年齢が非常識なものになる例が出てきたのです。このため、二倍年齢による解釈は成立困難と判断しました。
 そこで先行研究(注①)を調べたところ、この超高齢戸籍を〝偽籍〟とする説があることを知りました。すなわち、親や家族が亡くなると班田を国家に返却しなければならず、それを避けるため除籍せずに死者が生きていることにして、造籍時に年齢だけを加算した偽りの戸籍を作成し、国司や朝廷に報告した結果、〝偽籍〟「延喜二年阿波国戸籍」が成立したとするものです。現代社会でも、親が亡くなっても生きていることにして、親の年金を受給する事例が発覚していますが、それと同類の行為が十世紀初頭の平安時代にあったというわけです。しかも古代の場合、その〝偽籍〟は地方役人も加担して行われたに違いありません。
 この偽籍説は、「延喜二年阿波国戸籍」の〝史料事実〟を〝歴史事実〟とはせずに、班田返却を避けるための〝偽籍〟とするもので、学問の方法としても妥当な判断と思いました。しかし、同戸籍を精査すると、死者の年齢を造籍時に加算しただけでは説明できない超高齢の戸(家族)があり、やはり一部の戸には二倍年齢という概念を部分導入しなければ説明できないことに気づきました。その詳細については、八王子セミナーで発表した拙論「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注②)をご参照ください。
 こうして、「延喜二年籍」の超高齢者群の存在について、自分なりに納得できる結論に至ったので、次に現存最古の「大宝二年籍」(702年)の研究に入りました。そこにも、〝史料事実〟と〝歴史事実〟の間に大きな問題が横たわっていることを知りました。(つづく)

(注)
①平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。
②古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を検討したうえで使用しなければならない。文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf


第2831話 2022/09/09

「延喜二年籍」の史料事実と歴史事実

 八王子の大学セミナーハウスで毎年開催されている〝古田武彦記念古代史セミナー〟が、今年も近づいてきました。一昨年は、古代戸籍の二倍年暦についての研究「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注①)を発表させていただきました。
 この研究テーマの発端となったのは、古田先生が明らかにされた倭人の二倍年暦(二倍年齢)が日本列島ではいつ頃まで続いたのだろうかという疑問を抱いたことでした。そこで注目したのが「延喜二年阿波国戸籍」に見える超高齢の年齢分布という次の〝史料事実〟でした(注②)。

 【延喜二年阿波国戸籍】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
 合計 50 361 411 100.0

同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。もちろん〝史料事実〟と〝歴史事実〟とは異なる概念ですから、史料事実をそのまま歴史事実と見なし、別の仮説の根拠とすることは文献史学の学問の方法上できません。
 そこで、わたしはこの超高齢分布戸籍という〝史料事実〟は、二倍年暦を淵源とする二倍年齢の痕跡ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は一年で二歳とする古い二倍年齢計算法が阿波国では十世紀時点でも継続採用されていたのではないかと考えたのです。そこで、古田先生が提唱された二倍年暦説を用いてこの〝史料事実〟の解釈を試み、当時の阿波国の人々の二倍年齢使用という〝歴史事実〟を論証しようとしたのです。ところがそれほど単純な問題ではないことがわかりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf
②平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。


第2830話 2022/09/08

中国での「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)には、中国の研究者からも厳しい批判論文が発表されました。張富祥氏による「『夏商周断代工程』の間違い」(注①)という論文で、次のような書き出しで始まります。

〝暫定的に公表された「1996年から2000年までの夏商周断代工程の成果に関する報告書(簡易版)」(以下、「報告書」という)は、わが国の「5000年」の歴史の複合体を暗示しているように思われる。どう見ても不人気である。純粋に学術的な観点からは、大げさで不完全な特定の日付と数字の組み合わせはそれほど重要ではないかもしれません。おそらく、それらの背後にある一連の概念と意図こそ、学界による反省と思慮に値するものです。〟

 中国語(簡体字)の論文なので、わたしは上手に訳せませんが、主な批判点はつぎのようなことでした。結論部分をかなり要約して転載します。

〝一、研究アプローチの見直し
 古代年代学研究の難しさはよく知られていますが、「史料」がないわけではありません。現時点で実現可能なアプローチは、既存の古代文献「史料」に基づいている必要があり、既存年表をほとんどの学者が受け入れられるレベルにまで調整するよう努める必要があります。
 正直なところ、プロジェクト(夏商周断代工程)は急いで実行されており、既存の「史料」は体系的に注意深く研究されてはいません。「報告書」に反映されている研究アプローチはほとんどすべての既存史料を解体し、さまざまな古典または引用された文書と不適切な比較を行い、自分たちが「最良の選択肢」と考える年代を採用しています。〟

〝二、汎科学的議論の考察
 偏った研究アプローチに関連して、プロジェクトによって提唱された学際的なアプローチも汎科学的になりがちです。プロジェクトの年代学研究の基本原則は、文字史料が考古学的結果、科学技術的な年代測定、および碑文と矛盾する場合、前者よりも後者を信じるべきとすることです。この原則は特定の歴史年代を決定するという点では、文献史学と比較して利点がありません。プロジェクトにおける学際的な手法の適用には、長所と短所があると言うべきで、多くの間違いと教訓を反省する必要があります。〟

〝古代史の年代を考古学で検証するには、まず適用範囲の問題があります。調査の対象が数万年または数十万年前の遺物である場合、試験資料は比較的適用可能な年代順のデータを提供でき、誤差は数百年または数千年に拡大されても依然として有効です。
 しかし、それが文字の時代(歴史時代)に限定され、時系列の詳細に至る場合、試験方法は限界を示します。プロジェクトでは炭素年代測定値は±20年程度の精度が求められています。現在の技術水準を考えると実現不可能な精度です。たとえ試験が正確であっても、考古学的な層序区分や発掘された遺物が実際の年代を決定するための直接的な根拠になり得ないことは誰もが知っています。〟

〝プロジェクトにおける学際的なアプローチの使用は、大部分がとてつもないものであり、得られた結果も欧米人がよく使う比喩で言えば、プロジェクトが設定した時代に剣がかかっているとも言え、ちょっとした疑問があれば、剣が落ちて時代を殺してしまうかもしれません。科学研究の基礎は実験と帰納であり、社会科学に科学技術的手段を一概に適用することはできず、また科学自体にも欠点があり、汎科学的理解は決して科学を尊重するものではありません。〟

 わたしの拙い訳でわかりにくいと思いますが(注②)、張氏は「夏商周断代工程」が文献よりも考古学・炭素年代測定などの結果を優先していることを批判し、周王の王年のような詳細な年代を求めるには文献に依らなければならないと主張しています。具体的には『竹書紀年』『魯国年代記』などを重視し、周王の即位年を推定しています。
 わたしの見るところ、張氏の「夏商周断代工程」に対する批判は的を射ていると思うのですが、結局、張氏にも二倍年暦の概念がないため、周王の年代や在位年数の復元には成功していないと言わざるを得ません(注③)。しかし、国家プロジェクト「夏商周断代工程」に対する氏の厳しい批判精神に触れ、勇気ある研究者だと思いました。

(注)
①張富祥(Zhang Fuxiang)「『夏商周断代工程』の間違い」、『捜狐』デジタル版、2019年4月1日。
https://www.sohu.com/a/305083439_523187
②たとえば「汎科学的」に対応する適切な日本語訳を思いつかなかった。不適切な訳があるかもしれず、中国語に堪能な方の助言をいただければ幸いである。
③張氏の説によれば、周の建国年次を前1027年(『竹書紀年』に基づく)であり、「夏商周断代工程」の結果(前1046年)と大きくは変わらない。


第2829話 2022/09/07

日本からの「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)の結論、特に西周各王の紀年が間違っていると、わたしが確信した理由の一つに、日本人研究者からの有力な批判を知ったことでした。特に佐藤信弥さんの著書にはその理由が詳述されており、周代研究の現状を知るのにも大変役立ちました。「夏商周断代工程」以降の古代中国史研究を紹介した佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(注①)は、「夏商周断代工程」の研究結果への学界からの批判を次のように紹介しています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟同書108頁

〝夏商周断代工程の年表では懿王の在位年数は八年であり、銘文の紀年と矛盾する。あるいは『史記』の三代世表では第八代の孝王が懿王の弟、すなわち共王の子とされているが(周本紀では孝王は共王の弟とされている)、夏商周断代工程では孝王の在位年数も六年しかなく、いずれにせよ夏商周断代工程が設定した西周の王の紀年が誤っていたことが示されてしまったのである。
 北京大学の金文研究者朱鳳瀚はその誤りを認め、年表の修正を試みた。朱鳳瀚は夏商周断代工程の専門家チームのひとりである。彼は取り敢えず懿王元年とされる前八九九年から懿王の在位年をそのまま引き延ばそうとしたが、ここでまた問題が生じた。懿王一〇年にあたる前八九〇年の正月(一月)の朔日は丙申の日であり、銘文の「甲寅」は一九日となり、一日から一〇日までという月相の初吉の範囲に合わないのである。結局「天再び鄭(てい)に旦す」を基準に定めたはずの懿王元年の年も誤りであったと認めざるを得なくなった。〟同書110~111頁

 こうした批判を認めざるを得なくなった「夏商周断代工程」の専門家による年表修正、そして修正により新たな矛盾が発生したことを紹介し、佐藤さんは次のように指摘しました。

〝「夏商周断代工程は国家プロジェクトの一環として進められたのではなかったのか? それがあっさりと間違いでしたと掌(てのひら)を返してしまって問題がないのか?」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、金文に見える紀年を頼りに西周の王年を復元するという試み自体が、もともと誰がやっても無理が生じるものであり、このように新しい材料の出現にともなって修正を迫られるものなのである。(中略)
 金文の紀年による西周王年の復元は、中国だけでなく、日本も含めた外国の研究者も取り組んでいる研究課題であるが、一方でこのような観点から王年の復元自体に否定的な意見もある(実は筆者も否定的な立場をとる)。〟同書111~112頁

 様々な解釈が可能な抽象的な金文に対して、自説に都合の良い解釈を当てはめ、年代を確定するという「夏商周断代工程」の方法自体に、わたしの疑念は決定的なものとなりました(注②)。その後、中国の研究者からも更に厳しい批判論文が発表されました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。
 同『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2260話(2020/10/13)〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟
 同「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。


第2828話 2022/09/06

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (2)

 『古今和歌集』古写本(注①)の「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山を いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説が杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注②)に紹介されています。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 おそらくこうした偽作説の根拠になったと思われる不自然な状況があります。たとえば、同歌が『古今和歌集』の巻第八「離別哥」ではなく、巻第九「羈旅哥」冒頭に収録されていることです。この「天の原」歌の題詞・左注には、中国の明州の海辺で行われた中国の友人達との別れの席で、仲麻呂が夜の月を見て歌ったと語り伝えられているとあります。

 「もろこしにて月を見てよみける」
「この哥は、むかしなかまろ(仲麿)をもろこし(唐)にものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに、めいしう(明州)といふところのうみべ(海辺)にて、かのくにの人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」(注③)※()内の漢字は古賀による付記。

 この歌は別離の夜会で仲麻呂が歌ったとあるのですから、その通りであれば「羈旅哥」ではなく、その直前の「離別哥」に入れられるべきものです。しかも、この歌を詠んだときの作者の進行方向は、「ふりさけみれば かすがなるみかさの山」とあるのですから、日本ではなく唐のはずです。唐へ向かう遣唐使船上で振り返ると、「かすがなるみかさ山」から出た月が見えたという歌なのです。ですから、作者が唐に向かうときに歌ったのだからこそ「羈旅哥」に入れられたのではないでしょうか。
古田先生はこの歌の作歌場所を壱岐の〝天の原〟とされ、仲麻呂が遣唐使の一員として唐に渡るときに詠んだもので、その歌を明州で思い出して歌ったと理解されました(注④)。古田説の場合、偽作ではなく、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の左注が不正確だったとするものです。すなわち、「よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」とあるように、伝聞情報に依ったと記していることも、古田説成立の背景と思われます。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した次の二つの古写本がある。前田家所蔵『古今和歌集』清輔本、保元二年、1157年の奥書を持つ。京都大学所蔵『古今和歌集註』藤原教長著、治承元年、1177年成立。
②杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
③『古今和歌集』日本古典文学大系、岩波書店。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2827話 2022/09/05

「夏商周断代行程」と水月湖の年縞

 1996年から始まった中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」は、古代中国王朝(夏・殷・周)の実年代を多分野(文献史学・考古学・天文学・暦学)の研究者による共同作業で確定するというもので、その報告書が2004年に発表、国家から承認されました。それまでは古代王朝の実年代は東周(周代の後半、春秋・戦国時代)までしかわからないとされていましたが、このプロジェクトにより周の建国年次(前1046年)まで明らかになったと発表当時は注目されました。
 この研究結果により、『論語』や周代の二倍年暦説は成立しないとの批判(注①)もあったのですが、わたしは「夏商周断代工程」の方法論に疑問を抱いていましたので、周代(特に西周)は二倍年暦でなければ史料事実を説明できないと考えていました。ですから、このプロジェクト結果は正しいのだろうかと疑っていましたし、今では〝間違っている〟と確信しています(注②)。その理由の一つがC14炭素年代測定値を根拠にしていることでした。
 同プロジェクトの経緯や概要と結論について著された岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(注③)を読んで、最初に感じた疑問が、西周の王年の証明に使用された各遺跡出土物(人骨・木炭等)の炭素年代測定値幅が約20年~80年であり、紀元前11世紀から8世紀の炭素年代測定の精度がそこまで高いのだろうかということでした。もしその測定値と周の各王年が一致したのであれば、それは2000年頃の補正値(intCAL98か、1998年)が採用されているはずで、最新の補正値intCAL20(2020年)やその前の補正値intCAL13(2013年)など、数度にわたり補正値が変化しているので、最新補正値では王年との対応が崩れているのではないかと思ったからです。特にintCAL13は水月湖(福井県)の年縞(注④)により補正され、その精度が画期的に向上しています。(つづく)

(注)
①中村通敏「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない 『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」『東京古田会ニュース』178号、2018年。
 同「『史記』の「穆王即位五〇年説」について」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
 服部静尚「二倍年暦・二倍年齢の一考察」『古田史学会報』171号、2022年。
②古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。
③岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』柏書房、2005年。
④萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。


第2826話 2022/09/04

『多元』No.171で論じた 「夏商周断代行程」

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.171が届きました。同号には拙稿「周代の史料批判 「夏商周断代行程」の顛末」を掲載していただきました。同稿は、周代史料(伝世史料・金文・竹簡)の性格と史料批判上の留意点を説明し、中国の国家プロジェクト「夏商周断代行程」の問題点を指摘したものです。
 『論語』や周代の二倍年暦説への批判の根拠として、周代史料(金文・『竹書紀年』)の〝史料事実〟や「夏商周断代行程」の〝結論〟を指摘する意見もあるため、周代史料の取り扱い(例えば、金文は様々な解釈が可能)が難しいこと、プロジェクト「夏商周断代行程」の学問の方法への疑義や、結論に対して学界からの批判があることを紹介しました。
 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」は、古代中国王朝の実年代を多分野の研究者による共同作業で明らかにするというもので、その報告書が2004年に発表されました。わたしは、知人の台湾人研究者の協力の下、同報告書(中文)精査の準備をしており、後日、その結果を報告したいと思います。


第2825話 2022/09/03

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)

 上京区のお店で、「古代歌謡に詠まれた王朝」というテーマで話しをすることになりました。そこで改めて勉強しなおしたところ、『古今和歌集』の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説があることを知りました。杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注①)によれば、次のような偽作説です。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から出ると論じたことがあります(注③)。
この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌ったみかさ山は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。杉本氏の論文も古写本の「みかさの山を」が原型であるとされており、この点では古田先生やわたしの考えと一致するのですが、「偽作説」については検討に値する視点ではないかと、今回、気づきました。(つづく)

(注)
①杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。