第1925話 2019/06/18

法円坂巨大倉庫群の論理(3)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)のご講演で、次に注目したのが④の見解、中でも「a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後」の部分です。

④ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
 古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。
b.第2段階(六世紀) 難波屯倉(ミヤケ)の時代
 六世紀前半に人口が急増しており、台地高所に役所的建物群、その北西に倉庫の建物群が配置され、工房も漸増する。港(難波津)から役所へ至る道も造営される。
c.第3段階(六世紀末〜七世紀前半) 難波遷都前夜
 台地中央の役所群が整い、それを囲むように工房群が増加(7ヶ所程度。手工業の拡大と多角化)する。

 ここで示された〝古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。〟という考古学的出土事実は、九州王朝説にとって有利なものではありません。この出土事実は、九州王朝説よりも「河内王朝説」というような仮説を指し示すからです。質疑応答で南さんも「河内政権」という言葉を漏らされてもいました(南さんが「河内政権」という概念を支持されているか否かは当講演内容では不明)。
 そこでわたしは次の質問をぶつけてみました。

 「古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群はその規模から王権の倉庫と考えられるが、その規模に相応しい最大規模の王権の遺跡や王権中枢の所在地はどこと考えておられるのか。」

 この質問の回答として奈良盆地内のどこかの遺構を挙げられるのではないかとわたしは予想していたのですが、南さんの回答は、そうした遺構は見つかっておらず、もしかすると大阪城の場所に宮殿遺構があったのかもしれない、というものでした。これは考古学者らしい誠実な回答と思いました。大和朝廷一元史観の論者なら、奈良盆地内のどこかにあったはずという〝答え〟なのでしょうが、上町台地北端の都市化を研究されてきた南さんは、大規模倉庫群の側に王宮はあったと推定されているのです。
 これは『日本書紀』の記述を妄信しない、出土事実に基づく学問的な姿勢と思いました。この姿勢は「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)〝七世紀後半の難波と飛鳥〟でも紹介した佐藤隆さんの主張〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟に通じるもので、両者のこうした学問的姿勢は大阪歴博考古学者の学風ではないでしょうか。(つづく)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする