第1924話 2019/06/17

法円坂巨大倉庫群の論理(2)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)のご講演「日本列島における五〜七世紀の都市化-大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」において、いくつもの注目点がありますので、一つずつ解説します。
 まず、わたしが驚いたのは下記の①の見解です。

① 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

 わたしが九州王朝(倭国)の複都と考える前期難波宮や難波京が置かれた上町台地北端が古墳時代の日本列島内最大規模の都市であるという事実と、その内部構造や性格が同じく最大規模の遺構とされる博多湾岸(比恵・那珂遺跡)と類似しており、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである」とまで述べられたことは重要です。上町台地の遺跡を30年以上にわたり調査発掘されてきた南さんの指摘だけに格段の重みがあります。
 この考古学的知見はわたしの前期難波宮九州王朝副都説にとって有利なことは、お解りいただけることと思います。しかも、当地への九州王朝の影響が古墳時代(五世紀)まで遡ることも示唆するものです。この点、九州王朝の難波・河内進出時期の考察にあたり、その時期を「Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期」としてきた、わたしの作業仮説の再考を促すものでもあります。
 質疑応答では、上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)の共通した土器の出土など、両者の交流の痕跡の有無について質問が出されました。南さんはそうした調査に関する知見をお持ちでなかったようで、回答をひかえられましたが、わたしの調査では下記の報告書に難波から出土した筑紫の土器の報告などがあります(古墳時代とは時期が異なるかもしれません)。「洛中洛外日記」でも紹介してきたところですので、当該部分を再掲載します。

「洛中洛外日記」224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
 (前略)わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。(後略)

「洛中洛外日記」243話 2010/02/06
「前期難波宮と番匠の初め」
 (前略)寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。(後略)

「洛中洛外日記」1830話 2019/01/26
難波から出土した「筑紫」の土器(2)
 (前略)『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。
 「5.その生産地について
 (中略)難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。ただ、(B)の杯身中に際立った特徴をもつ一群があり、それらは他のものと生産地を異にすると考えられる。それは、158〜163で、たちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものである。これらは、個体数こそ少ないが稀有な例ではない。さらにそのうち、162・163は色調が灰白色を呈し、胎土も非常によく似ている。その色調・胎土の特徴は、(B)の坏蓋や、SK9343出土土器中の65・67にもみられ、特異な一群を形成している。
 杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(186頁)
 (中略)ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。
○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』1977年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』1979年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』1972年

 以上ですが、詳細は「古田史学の会」HP収録の「洛中洛外日記」をご覧下さい。(つづく)

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