第472話 2012/09/24

難波の古代寺院群

 先日、大阪歴史博物館(歴博)を訪れました。今回で2度目の訪問です。目的は、初めて訪れたときに展示してあった、前期難波宮整地層から出土した瓦を観察することでした。ところが、展示内容が一部変更されていたようで、いくら探しても見つかりません。しかし、よくしたもので別の瓦が展示してあり、 わたしの目は釘付けになりました。
 それは「素弁蓮華文軒丸瓦」と呼ばれる三個の瓦で、一つは四天王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦とみなされています。時代も7世紀前葉とされており、四天王寺創建年代との関連などから620~630年代頃と編年されているものです(歴博の展示説明文による)。
 歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』にも記されていない複数の寺院が建立されていたものと推定できます。上町台地の高台を削って谷を埋めたてた整地層からの出土もありますから、それら寺院を取り壊して前期難波宮が造営されたことになるのかもしれません。
 こうした7世紀初頭(上宮法皇・多利思北弧の時代)の難波の出土状況(国内有数の寺院群=仏教先進地域)は、この時期すでに難波は九州王朝の直轄支配領域だったとするわたしの仮説を支持するように思われます。このように今回の歴博訪問は多くの成果が得られましたが、更に貴重な知見を得ることができまし た。(つづく)

フォローする