「 金石文 」一覧

第1908話 2019/05/26

「釆女氏塋域碑」の碑文「四千代」について

 今月の「古田史学の会」関西例会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より「釆女氏塋域碑」(己丑年、689年)も九州王朝系のものであり、そこに記された「飛鳥浄原大朝庭」を太宰府飛鳥とする見解が発表されました。
 河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土したとされる「釆女氏塋域碑」は行方不明となり、次のような江戸時代の碑文拓本が残されています。

《釆女氏塋域碑》
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。

※現存唯一の真拓(小杉文庫蔵拓本。現在は静岡県立美術館蔵)による。

碑文中の采女竹良の墓所「四千代」という面積は当地に隣接する用明陵、推古陵、聖徳太子陵よりも広いことから、近畿天皇家の官僚のものではないとして、采女竹良を九州王朝(飛鳥浄原大朝廷)が大弁官に任命したものであり、その「飛鳥浄原大朝廷」も太宰府のこととされました。
 「四千代」という面積は「八町」(一町は106m四方)に相当し、「四千代」という広大な墓所は従来の研究でも問題視されてきました。そのため、「四千代」とする論者は采女竹良の一族の墓所と理解してきました(注①)。
 他方、「千」の字は本来は「十」であり、墓碑表面のひびなどにより拓本では「千」に見えているとする見解も有力視されてきました。その上で、「四十代」であれば采女竹良個人の墓所として妥当な面積であるとされました(注②)。
 関西例会で服部さんにこの拓本の文字について確認したところ、「四千代」であったとのことでした。ただし、現存する真拓は小杉文庫蔵拓本だけであり、その他のものは印刷用に作成された「摺本」「版本」ですから、服部さんがどの「拓本」で確認されたのかも重要です。この点、真拓で確認された三谷芳幸さんの論文(注②)によれば、真拓には碑文表面の傷の跡が多く、問題の「千」とされた字も碑文の他の字との比較により「十」と判断されています。
 わたしも、「千」の字は「4」の字に近い字形であり、碑文にある「穢」の字の「禾」の第一画や、「代」「他」の第一画と比べて明らかに異なっていますので、表面の傷により「十」が「4」のような字になって拓出されたとする三谷さんの見解に賛成です。
 なお一言すれば、確かに「四千代」という墓所の面積は「直大弐」の官位の官僚にしては広すぎます。しかし、それは大和(近畿天皇家)であれ筑紫(九州王朝)でれ同じことですから、「四千代」という墓所の面積は九州王朝の官僚と断定する根拠にはなりません。また、同墓碑は河内国春日村の妙見寺に伝わってきたものですから、やはり近畿天皇家の官僚とする通説の方が穏当と思われます。その上で、なぜ持統天皇の時代(己丑年、689年)において、近畿天皇家が官僚任命権を持つことができたのかという視点での研究が必要なのではないでしょうか。
 本稿の是非にかかわらず、服部さんが提起された問題点や仮説は重要なテーマであり、引き続き論議検証されるべきものであることは言うまでもありません。このことを最後に強調しておきたいと思います。

(注)
①近江昌司「釆女氏塋域碑について」『日本歴史』431号 1984年4月。
 近江昌司「妙見寺と釆女氏塋域碑」『古代文化』49(9) 1997年。
②三谷芳幸「釆女氏塋域碑考」『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号 1997年。


第1907話 2019/05/25

七世紀における「天皇」号と「天子」号

 「古田史学の会」関西例会では、七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟のこととする晩年の古田説に対して賛否両論が出され活発な論争が続いています。このように関西例会では、古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた「師の説にななづみそ」(本居宣長)、「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を体現した学問研究が続けられています。
 わたしは、倭国ナンバーワンの九州王朝の「天子」に対して、ナンバーツーとしての近畿天皇家の「天皇」とする古田旧説を支持しています。従って、七世紀の金石文に見える「天皇」はナンバーツーとしての近畿天皇家の天皇と考えています。そのことを論じた拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」を『古田史学会報』(152号、2019年6月)に投稿しました。同稿では船王後墓誌に見える「天皇」を近畿天皇家の天皇としましたが、さらに「天皇」号の位置づけについて、別の視点から説明することにします。それは九州王朝の「天子」号との関係についてです。
 九州王朝の多利思北孤が「天子」を名乗っていたことは『隋書』の記事「日出る処の天子」から明らかです。他方、近畿天皇家では七世紀初頭の推古から後半の天武が「天皇」を名乗っていたことは、法隆寺の薬師如来像光背銘の「大王天皇」や飛鳥池出土の「天皇」木簡から明らかです。こうした史料事実が古田旧説の根拠となっています。
 もし古田新説のように船王後墓誌などの七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟とすると、ナンバーワンの九州王朝もナンバーツーの近畿天皇家も同じ「天皇」を称していたこととなります。しかし、ナンバーツーがナンバーワンと同じ称号を名乗ることをナンバーワンが許すとは到底考えられません。こうした、称号の序列という論理から考えても、古田新説は成立困難と思われるのです。


第1781話 2018/11/04

亀井南冥の金印借用説の出所

 川岡保さん(福岡市西区)から教えていただいた、亀井南冥が八雲神社から金印を借用したとする説の出所は博多湾に浮かぶ能古島の能古博物館から発行されている『能古博物館だより』でした。川岡さんからいただいた資料は『能古博物館だより』29号(平成8年7月)と30号(平成8年10月)のコピーで、次の記事が掲載されていました。

○29号 「亀井南冥と金印の謎を追って」大谷英彦(亀陽文庫客員理事)
○30号 「国宝『金印』について」庄野寿人

 『能古博物館だより』の全文が同館ホームページに掲載されており、詳細はそちらを読んで頂くこととして、まず大谷稿では庄野寿人さん(同館初代館長)から聞かれた戦後間もない頃の思い出として次の話が紹介されています。
 「以前、あの金印は今宿にある神社の御神体だったものを南冥が持ち出したという話を聞いたことがある。」
 「敗戦で陸軍省を退職し、福岡市役所の市史編纂室の所長をしていた小野有耶介さんという方は、なかなかの変わり者で九大で国史学を専攻し『陸軍省戦史編纂室勤務』から戦後、福岡市史編纂を担当された。(中略)ある日、その小野さんが朱印を押した半紙を机上に広げて腕組みをされていた。小野さんは『これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよ』と私に説明された。(中略)小野さんが見せてくれた半紙はその後どうなったか分からない。
 この話から私も、同神社と金印印影を実見するため現地を訪ねて事実を確認しています。以来、三十年になりますね。」

 このように庄野寿人さんの「証言」を紹介し、庄野さんとともに訪問調査し、その顛末を次号に掲載すると締めくくられています。ところが、次号(30号)では庄野寿人さん御自身の一文が掲載され、戦後からの経緯について改めて詳述されています。
 この『能古博物館だより』の両記事が「亀井南冥の金印借用説」の出所です。そこで、わたしは同博物館に電話で両氏の連絡先を問い合わせましたが、庄野さんは既に故人となられており、大谷さんとはお付き合いもなく、同館には知っている者もいないとのことでした。(つづく)


第1776話 2018/10/25

八雲神社にあった金印

 「洛中洛外日記」806話(2014/10/19)「細石神社にあった金印」で紹介したのですが、『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房)に志賀島の金印「漢委奴国王」が糸島の細石神社に蔵されていたという同神社宮司の「口伝」が記されています。「古田史学の会・四国」の会員、大政就平さんからの情報が古田先生に伝えられたことが当研究の発端となりました。さらに同地域の住民への聞き取り調査により、「細石神社にあった金印を武士がもっていった」という伝承も採録されたとのことです。
 志賀島から出土したとする「文書」の不審点が以前から指摘されてきましたし、肝心の志賀島にも金印が出土するような遺跡が発見されていないという問題点もありました。そのため、この細石神社に「金印」が伝えられていたという情報にわたしたちは注目してきました。しかし、当地の関係者の口伝でしか根拠がなく、学問研究の対象とするには難しさが伴っていました。ところがこの度、福岡市西区の川岡保さんから驚くような不思議な新情報が寄せられました。
 FACEBOOKでお付き合いしている川岡さんが、10月14日に久留米大学で開催した講演会に見えられ、金印は福岡市西区今宿にある八雲神社の御神宝として伝えられたもので、筑前黒田藩の大儒として著名な亀井南冥が同神社から借り受けたものとする資料をいただきました。しかもその「証言者」についても具体的な氏名が伝えられていたのです。(つづく)


第1756話 2018/09/22

7世紀の編年基準と方法(4)

 太宰府出土の「戸籍」木簡の成立年を685〜700年まで絞り込むことができると説明しましたが、それは二つの先行研究の成果によっています。一つは木簡に記された「嶋評」という「評制」が7世紀中頃に始まり700年まで続いたとする通説が多くの先行研究の結果により成立していること、二つ目は「進大弐」という位階が『日本書紀』天武14年条(685年)に制定(48等の位階)されたとする記事があり、この記事が信頼できるとする先行研究です。
 「評制」が7世紀中頃に開始されたとする根拠については拙論「『評』を論ず -評制施行時期について-」(『多元』145号、2018年4月)で詳述していますので、ご参照ください。また、「評制」が700年に終わり、翌701年から「郡制」に替わったことは、藤原宮などからの出土木簡により確認されています。
 『日本書紀』天武14年条(685年)の位階制定記事が信頼できるとする理由についても諸研究がありますが、次の出土木簡を紹介し、説明します。市大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記載があります(210頁)。
 「本位進大壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進大壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「進大壱」も天武14年に制定された位階制度です。この木簡から、大宝元年(701年)〜二年に制定された『大宝律令』による新位階制度へ変更されたことがわかります。従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土「戸籍」木簡も7世紀末頃のものと判断できるのです。
 更に那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年)の「追大壹」叙位記事も天武14年(685年)制定の位階であり、7世紀末にこれら位階が採用されていたことがわかります。このように、藤原宮出土木簡や那須国造碑などのような同時代史料により、『日本書紀』天武14年の位階制度制定記事が歴史事実と見なして問題ないとする通説が成立しています。
 こうした先行研究の成果により、太宰府出土「戸籍」木簡の編年を685〜700年とする判断が妥当とできるわけです。一元史観の「戦後実証史学」は、決して『日本書紀』の記述を無批判に受け入れて「成立」しているケースだけではないのです。
 なお、付言しますと、一元史観では以上の編年や考察で一段落するのですが、多元史観・古田説ではここから更にこの位階制度の制定主体が『日本書紀』にあるように近畿天皇家の天武でよいのか、九州王朝の天子によるものなのかという研究課題が待ち構えています。(つづく)


第1746話 2018/09/05

「船王後墓誌」の宮殿名(6)

 古田先生が晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていたことを説明しましたが、わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを2012年の「洛中洛外日記」444話に記していますので、抜粋転載します。

【以下、転載】
第444話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 (前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。
 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)
 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】

 7世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、7世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。
 古田史学を支持する古田学派の研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたち(「弟子」)に語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。

〈注〉「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。「論証よりも実証を重んじる」という研究方法に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため繰り返し付記します。


第1745話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(2)

 九州王朝が木簡への年号使用を規制していたとわたしは推定していますが、その律令の条文は『大宝律令』に受け継がれたと考えています。従って、九州王朝律令の「儀制令」にも「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)のような条文があったのではないでしょうか。そうしますと、「公文」の範囲を「式」(条令)で指定し、そこに指定された「公文」に九州年号が使用されたと推定しています。
 それでは「九州王朝律令」で九州年号の使用が許された「公文」などの範囲について、史料事実に基づいて推定してみます。まず、後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては60年毎に廻ってくる干支表記では不適切ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠としては「白鳳壬申年(672)」骨蔵器、「大化五子年(699)」土器(骨蔵器)、「朱鳥三年(688)」鬼室集斯墓碑があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には当然と思われますが九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」『続日本紀』神亀元年(724)十月条

 これは治部省からの諸国の僧尼の名籍についての問い合わせに対して、聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(661-683年)から朱雀(684-685年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので、新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿や戸籍などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推定できるのです。
 こうした公文書には年次記録が必要ですし、60年を超える長期保管が必要な書類であれば、干支だけではなく年号表記が必要であることは当然と思われます。たとえば「庚午年籍」は『養老律令』においても永久保管が命じられていますから、いつの庚午の年かを特定できるように年号(「白鳳十年」、670年)が付記されていたと推定できるのです。
 以上のように、「九州王朝律令」には年号使用を定めた儀制令があり、その運用が「式」などで決められていたと推定できるのですが、本格的な研究はこれからです。


第1743話 2018/09/03

「船王後墓誌」の宮殿名(5)

 古田先生は晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を次々に発表されました。その一つに今回取り上げた「船王後墓誌」もありました。今から思うと、そこに記された「阿須迦天皇」の「阿須迦」を福岡県小郡市にあったとする「飛鳥」と理解されたことが〝ことの始まり〟でした。
 この新仮説を古田先生がある会合で話され、それを聞いた正木さんから疑義(正木指摘)が出され、後日、古田先生との電話でそのことについてお聞きしたのですが、先生は納得されておられませんでした。古田先生のご意見は、「天皇」とあれば九州王朝の「天皇(天子)」であり、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないと考えられていることがわかりました。そこでわたしは次のような質問と指摘をしました。

①これまでの古田説によれば、九州王朝の天子(ナンバー1)に対して、近畿天皇家の「天皇」はナンバー2であり、「天子」と「天皇」とは格が異なるとされており、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」もナンバー2としての近畿天皇家の「天皇」と理解するべきではないか。
②法隆寺の薬師仏光背銘にある「天皇(用命)」「大王天皇(推古)」は、7世紀初頭の近畿天皇家が「天皇」を名乗っていた根拠となる同時代金石文と古田先生も主張されてきた(『古代は輝いていた Ⅲ』269〜278頁 朝日新聞社、1985年)。
③奈良県の飛鳥池遺跡から出土した天武時代の木簡に「天皇」と記されている。
④こうした史料事実から、近畿天皇家は少なくとも推古期から天武期にかけて「天皇」を名乗っていたと考えざるを得ない。
⑤従って、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」を近畿天皇家のものと理解して問題なく、遠く離れた九州の「天皇」とするよりも穏当である。

 以上のような質問と指摘をわたしは行ったのですが、先生との問答は平行線をたどり、合意形成には至りませんでした。なお付言しますと、正木さんは福岡県小郡市に「飛鳥浄御原宮」があったとする研究を発表されています。この点では古田説を支持されています。(つづく)


第1741話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(4)

 「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
 すなわち、641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。641年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
 この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。

 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末年(末歳次)」と表記できるとされているわけです。しかし、この解釈も無理であるとわたしは考えています。それは次のような理由からです。

①「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字により「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような因果関係が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
②「船王後墓誌」には「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(641)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(641)」は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続きますから、仮に命長七年(646)に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(641)」から更に5年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④さらに言えば、もし「末歳次辛丑(641)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦 天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説に従えば、こうした意味もなく不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。

 以上のようなことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする無理な解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ないのです。(つづく)


第1740話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇」の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、晩年の数年間を指すと解釈できるとする古田先生は、西村秀己さんの次の指摘を根拠に「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説を否定されました。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟

 すなわち、舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じており、船王後が没した12月3日は舒明在位期間中ではなく、墓誌の「阿須迦天皇の末」とは合致しないとされたのです。この西村さんの指摘はわたしも西村さんから直接聞いていたのですが、次の理由から賛成できませんでした。

①舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのは『日本書紀』によればその翌年(642年1月)であり、辛丑年(641)の10月9日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(641)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年とする表記は適切である。
②同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」と墓誌にあるように、戊辰年(668年)であり、その時点から27年前の辛丑年(641)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」年と表記するのは自然であり、不思議とするにあたらない。
③同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは「阿須迦天皇之末」という表記になっており、正確に使い分けていることがわかる。
④以上の理由から、「西村指摘」は古田説を支持する根拠とはならない。

 このような理解により、むしろ同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を正しく表現しており、同墓誌の解釈(「阿須迦天皇」の比定)は、古田説よりも通説の方が妥当であるとわたしは理解しています。(つづく)