「 金石文 」一覧

第2142話 2020/04/25

古代の感染症と九州年号「金光」

 「洛中洛外日記」2136話〝厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷〟において、天平年間の感染症(天然痘)の流行により大和朝廷が厄除けのために、九州王朝の天子・多利思北孤を法隆寺で祀ったとする拙論を紹介しました。九州王朝でも感染症の流行に対して厄除けのために九州年号を改元したことがわかってきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も『古田史学会報』No.157(2020.04.13)掲載の〝「壹」から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3〟で、金光元年(570)に熱病が蔓延するという国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀したことが述べられています。
 わたしも「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟で『王代記』金光元年条の次の記事を紹介しました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」『王代記』(大永四年(1524)写本、『甲斐戦国史料叢書 第二冊』収録)

 『善光寺縁起』に同様の記事があり、『王代記』の記事はその「要約」であることがわかりました。概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が、鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたが全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話が『善光寺縁起』では続きます。なお、金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀にはこの事件は記されていません。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 百済からの如来像もたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝を介して送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。その後、河内や難波を直轄支配領域とした九州王朝は、上町台地に天王寺や前期難波宮・難波京を造営したとわたしは考えています。


第2115話 2020/03/20

湯岡碑文の「我」と「聊」の論理

 「洛中洛外日記」2112話(2020/03/16)〝蘇我氏研究の予察(2)〟において、「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)の次の冒頭記事にある三名の称号・名前(法王大王、恵忩法師、葛城臣)の他に、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在が記されていると説明しました。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)。

 読者の方から、「我法王大王」の「我」は、「わが君」のような慣習的な呼称(用法)であり、「我」を4人目の特定の人物と考えなくてもよいのではないかというご意見が届きました。この見解には根拠があり、もっともな疑問で、わたしも理解できます。しかしながら、この「我」を碑文の作成人物とする中小路駿逸先生(故人、追手門学院大学教授)の説をわたしは支持しています。良い機会ですので、その中小路説について説明します。
 中小路先生は論文「湯岡碑文と赤人の歌について」(『愛文』第二七号、1992年)で、次の理由により同碑文の「我」を碑文作成者とされました。

①碑文は序文と本文からなっている。
②序文は「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」であり、この碑文作成に至る事情が述べられている。
③「惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。(中略)後之君子、幸無蚩咲也。」が本文に当たる。
④この二つの部分の関係を示すのが「聊作碑文一首」の「聊」(いささか)の一字である。
⑤当碑文以前の先行例(『詩経』『楚辞』『文選』)によれば、「聊」なる語が、常に、その文における「われ」、すなわち第一人称の人物の、動作・状態を修飾するのに用いられており、第二人称・第三人称の人物の動作・状態について用いられた例を見いだしえない。
⑥当碑文の作者も先行例の用法に従ったものと考えるのが妥当である。

 こうした論理展開により、次のように結論づけられています。

⑦ゆえに、「聊作碑文一首」は「われは、いささか(しばらく、ひとまず)以下の(あるいは、この)碑文を作る」の意ととるほかなく、この場合「碑文」とは少なくとも「惟夫」から「蚩咲」までを含むがゆえに、その部分は「われ」が作ったのであり、また「その部分を『われ』が作る(作った)」という文辞を含む「序」を書いたのは、その「われ」以外ではありえないがゆえに、当碑はその「序」も「本文」も、同一の一人物の作である。

 このように中小路先生は指摘され、碑文に見える「法王大王」は「聖徳太子]ではなく、古田先生と同じく九州王朝の「大王」とされました。この中小路先生の、碑文中の「我」は碑文の作成者とする説をわたしは支持しています。


第2112話 2020/03/16

蘇我氏研究の予察(2)

 服部さんが指摘されたように、『日本書紀』に見える蘇我氏と「葛城」との不自然な関係付け記事にこそ、わたしは九州王朝説からの蘇我氏研究アプローチの鍵があるのではないかと直感しました。そしてその鍵を解くもう一つの鍵が九州王朝系史料にありました。それは、九州年号「法興」史料として有名な「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)です。
 現在、同碑は所在不明となっていますが、碑文冒頭には次の記事があったとされています。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)

 ここには三名の称号・名前が記されています。「法王大王」「恵忩法師」「葛城臣」です。なお、「法王大王」を「法王」と「大王」の二人(兄弟)を表すとする理解もありますが、本稿では従来説に従い、「法王大王」という人物一人としておきます(本稿の論点の是非に直接関わらないため)。厳密に言うのなら、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在もありますが、その名前や称号は不明ですので、本稿では取り上げません。
 古田説では碑文の「法王大王」は『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤(法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える上宮法皇)のこととされ、「法興六年」はその年号で596年のこととされます。碑文に見える「法王大王」に従っている人物は、僧侶の「恵忩法師」と臣下の「葛城臣」の二人だけですので、いずれも天子に付き従って伊予まで来るほどの九州王朝内での重要人物と思われます。
 特に「葛城臣」にわたしは注目しました。もしかすると、『日本書紀』編者は九州王朝の重臣「葛城臣」を近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に重ね合わせようとして、蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』を編纂した、あるいは、九州王朝史書の多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、その際、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用したのではないでしょうか。
 この点、「葛城」という地名が、大和にも北部九州(『和名抄』肥前三根郡に葛城郷が見える)にもあったことが、「葛城臣」記事を『日本書紀』に転用しやすくさせた一つの要因になったと思われます。(つづく)

【以下はウィキペディアより転載】
 ※近畿天皇家一元史観に基づく解説が採用されており、古田史学とは異なる部分がありますので、ご留意下さい。。

伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)

法興六年[注 1]十月、歳在丙辰、我法王大王[注 2]与恵慈法師[注 3]及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以[注 4]妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽[注 5]。窺望山岳之巖※(山偏に「咢」)、反冀平子[注 6]之能往。椿樹相※(「广」の中に「陰」)而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢[注 7]、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊[注 8]、豈悟洪灌霄庭意歟[注 9]。
才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文より。

注釈
1.「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
2.「法王大王」は聖徳太子を指す(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
3.底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
4.底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
5.底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
6.底本では「子平」であるが、「平子」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
7.底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
8.底本に「以」は無いが、意補(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
9.底本では「与」であるが、「歟」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。


第2109話 2020/03/13

「鬼室集斯の娘」逸話(2)

 安田陽介さんやわたしが「鬼室集斯の娘の石碑」なるものの存在を知ったのは、『市民の古代研究』(21号、1987年5月)に掲載された平野雅※廣さん(熊本市、故人)の論稿「鬼室集斯の墓」で紹介された次の記事でした。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで、綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍らに朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
【転載おわり】

 この記事によれば、鬼室集斯の娘(鬼室王女)の石碑が蒲生郡の山中にあり、九州年号の「朱鳥三年戊子三月十七日」と刻されているとのこと。これが同時代(七世紀末)の金石文であれば九州年号史料として貴重ですし、後代に造立されたものであっても、「朱鳥三年戊子三月十七日」に「鬼室王女」が没したと思われる伝承が当地に残っていたこととなります。(おわり)
※廣:日偏に「廣」


第2107話 2020/03/12

「鬼室集斯の娘」逸話(1)

 わたしが古田先生の著書(※初期三部作)に出会い、いたく感銘し、どうしても著者に会いたいと、「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」に入会したのは1986年のことでした。当時のわたしの研究テーマは九州年号と古代貨幣で、特に九州年号は多くの会員が研究しておられ、その後を追うように、わたしも先輩に教えを請いながら手探りで研究を進めたものです。
 そのようなとき、一緒に調査研究を行ってくれたのが、当時、京都大学生だった安田陽介さんでした。安田さんは京大で国史(日本古代史)を専攻されており、国史大系本『続日本紀』の漢文をすらすらと読み下せるほどの俊英で、わたしは多くのことを教えていただいたものです。その安田さんと鬼室集斯墓碑研究のため二度ほど現地調査を行いました。初めて鬼室神社を訪問したとき、途中でレンタカーがパンクするというアクシデントが発生したのですが、安田さんはあわてることもなく、備え付け工具を使用して短時間でスペアタイヤと交換してしまいました。安田さんは頭が良いだけではなく、まさに歴史を足で知るアウトドア派でもあり、それは見事な手際だったことを記憶しています。
 そのときの調査目的は鬼室神社にある鬼室集斯墓碑の実見と、鬼室集斯の娘の石碑調査でした。鬼室神社の氏子さんのご協力により、墓碑調査は行えたのですが、娘の石碑については所在も不明で、何の手がかりも得ることができませんでした。それは今も手つかずのままで、三十年近く経ってしまいました。どなたか現地調査を手伝っていただける方はおられないでしょうか。(つづく)

※古田武彦「初期三部作」 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』朝日新聞社刊。現在はミネルヴァ書房より復刊されています。


第2106話 2020/03/11

七世紀の筆法と九州年号の論理

 鬼室集斯墓碑の碑文の文字「室」の「ウ冠」第二画が、七世紀まで遡る可能性を有す筆法「撥(はね)型」であることを先の連載で説明してきました。そのとき、国内の「撥型」の例として、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『法華義疏』の「宮」をあげました。いずれも九州王朝中枢で成立した一級品の史料ですが、時代が七世紀前半であり、七世紀後半成立の鬼室集斯墓碑(朱鳥三年没、688年)とは半世紀ほどの差がありました。そこで、七世紀後半の同じ近畿地方成立の史料を探したところ、『金剛場陀羅尼経』(国宝)中に「撥型」の「常」「守」などの字がありました。
 『金剛場陀羅尼経』は「丙戌年」(朱鳥元年、686年)「川内國志貴評」などと記された、九州王朝時代のいわゆる「評制史料」です。ですから、鬼室集斯墓碑と時代も地域(近江と川内)も近接しており、その両者に古い字形「撥型」が存在することは興味深い一致点です。なお、『金剛場陀羅尼経』の末尾に記載された写経者の署名「寶林」の「寶」の字の「ウ冠」第二画は「撥型」ではなく、真下に下ろす「押型」であり、経典本文の「ウ冠」に見える「撥型」とは異なっています。この史料事実は写経元の『金剛場陀羅尼経』に「撥型」が採用されていたことをうかがわせ、その元本の成立が七世紀初頭の可能性を示すのではないでしょうか。そして、川内国での七世紀末の流行筆法は「押型」であり、写経者自らの署名には「押型」の「寶」の字形を採用したことになります。なお、『金剛場陀羅尼経』は隋代に漢訳されており、この理解と矛盾しません。
 このように成立時期や地域が近接し、共に「ウ冠」の字形に「撥型」を採用するという共通点を持つ両史料ですが、他方、大きな違いもあります。それは九州年号の「採否」です。百済渡来の官人、鬼室集斯の「庶孫」は墓碑に「撥型」の「室」を使用し、九州年号「朱鳥三年」も採用しています。これは、近江朝の官人(学職頭)であった鬼室集斯の立ち位置(九州年号影響下の官人)を示し、正木裕さんの仮説「九州王朝系近江朝」を支持する史料状況といえます。
 ところが、同じ七世紀末(評制の時代)で近隣の川内国では、仏典の書写に「撥型」の「ウ冠」の字形を使用しながらも、その年次表記には九州年号を使用せず、「丙戌年」(朱鳥元年、686年)と記しています。これは、当時の川内国は近畿天皇家の影響下にあったことを示しているのではないでしょうか。同時期の藤原宮・飛鳥池出土木簡や畿内の金石文に九州年号が記されず、干支表記されていることに対応した史料状況なのです。
 このように、七世紀後半において、九州年号使用の有無が、どの権力者の影響下にあるのかを推察するうえで、ひとつの指標となるように思われ、このことは今後の研究にも役立ちそうです。


第2105話 2020/03/07

三十年ぶりの鬼室神社訪問(10)

 残念ながら、鬼室集斯墓碑の削られた一面の碑文を解読できる技術は未だに開発されていません。従って、墓碑を対象とした実証的な研究を進めることは不可能なので、わたしは論理的に考察を進めました。それは次のような論理展開でした。

①他の三面に残された碑文は、墓の被葬者名(鬼室集斯)、その没年(朱鳥三年戊子十一月八日)、墓の造営者名(庶孫美成)である。
②もし、残る一面に記録すべき文があったとすれば、「庶孫美成」がこの墓を造った造立年と考えるのが穏当であろう。
③その時期は、「庶孫」が造ったとあることから、没年からそう遠く離れた後代ではないと思われる。「室」の字体の筆法からも七世紀末頃まで遡る可能性が高い。
④しかし、何らかの事情により、その造立年は後世のある時点で削られたこととなる。
⑤その造立年には後代の認識や利害からして、削るべき必要性があったと考えざるを得ない。
⑥この②③④⑤を説明できる仮説として、造立年が九州年号の「大化」年間(695-703年)であり、例えば「大化○年○月之建」のようなが碑文があったとするケースが想定される。
⑦すなわち、九州年号「朱鳥」(686-694年)の次の九州年号「大化」が記されていた場合、『日本書紀』成立後の後世において、「朱鳥三年戊子」(688年)に没した鬼室集斯の墓が『日本書紀』に記された大化年間(645-649年)に造られたことになる碑文の年次は「誤り」と認識されてしまう。
⑧その結果、九州年号の記憶が失われた後世において、碑文の「大化」を不審として削られたとする仮説が論理的に成立する。

 以上のように、「削られた碑文」という作業仮説を説明するための論理展開(論証)は進みました。碑面そのものからの碑文復元という実証的説明(実証)は困難ですが、わたしは諦めることなく、その他の方法・分野の調査研究により、この仮説が証明できる日が来ることを願っています。(おわり)


第2104話 2020/03/06

三十年ぶりの鬼室神社訪問(9)

 鬼室集斯墓碑研究史において、誰も取り上げなかったテーマについて、本シリーズの最後に紹介します。それは「削られた碑文」というテーマです。
 古田先生と鬼室集斯墓碑の現地調査を行ったときのことです。八角柱の墓碑には一面おきで計三面に次の文字が彫られています。

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉

 一面おきですから、八面の内の四面に文字があってもよさそうなのですが、正面の裏側の面には文字が見えません。その面には大きな傷跡があり、本来は文字があったのではないかとわたしは考え、古田先生に「これだけ大きく削られていると、元の文字の復元はできませんね」と申し上げました。そうしたら先生から、「将来、復元技術が開発されるかもしれません。まだ諦めないでいましょう」と諭されました。こうした困難な調査研究であっても、簡単には諦めない研究姿勢とタフな学問精神を、わたしは古田先生から実地訓練で学んできたことを、今更ながら思い起こし、感謝の念が湧き上がってきます。(つづく)


第2102話 2020/03/06

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(4)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」が隋代史料(恐らく写経)の影響を受けた可能性について紹介してきましたが、隋代よりも前の、たとえば北魏史料からの影響ということも考えられますので、この点は今後調査したいと思います。
 今回の調査では、隋代の写経史料中にこの「撥型」が多数見受けられましたが、『隋書』国伝にもそのことを裏付けるような国交記事があります。

 「大業三年(607)、其王、多利思北孤、遣使朝貢す。使者曰く〝海西の菩薩天子、重ねて佛法を與すと聞く。故に遣朝し拜す〟。兼ねて沙門數十人來たりて佛法を學ぶ。」

 大業三年(607)に九州王朝の天子、多利思北孤は隋に沙門数十人を派遣し、仏法を学ばせています。この沙門たちにより、隋代史料(写経類)が九州王朝にもたらされ、同時に筆法も導入されたのではないでしょうか。
 他方、隋では大業年間頃(605年~)から筆法に変化が生じ、「撥型」から「押型」などに変化したとすれば、九州王朝にその変化が伝わらなかった、あるいは受容しなかったのかもしれません。そのことを示唆する次の言葉で『隋書』国は締めくくられているからです。

 「此の後、遂に絶つ。」

 このように大業年間以降に九州王朝と隋は国交断絶します。これらの記事と国内史料・隋代史料が示す「撥型」筆法変遷との対応は、偶然の一致とは考えにくいように思われるのです。(終わり)


第2101話 2020/03/05

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(3)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」は、いつ頃どこから伝わったのかを調べるために、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を見てみました。
 本調査に当たり、わたしは九州王朝は中国南朝の冊封を受けた時代が長いことから、筆法も南朝の影響を受けているのではないかと推定し、六朝時代から調査を始めたのですが、結論からいえば「撥型」は隋代に集中して出現していました。もっとも、『書道全集』という限定された史料対象から得た「結論」ですから、現時点での理解といわざるを得ませんが、とても興味深い現象でした。
 『書道全集』「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」に見える「撥型」の文字は次の史料に散見されました。JISコードにない旧字体は新字体に改めましたが、「撥型」調査結果には影響しません。

○『佛説月鐙三昧経』「大隋開皇九年」(589)
 「受」

○『大智度論 巻六十二』「開皇十三年」(593)
 「受」「帝」「當」「憂」「常」

○『大方等大集経 巻第廿』「大隋開皇十五年」(595)
 「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。

○「美人董氏墓誌」「開皇十七年」(597)
 「宣」「婉」

○「龍山公墓誌」「開皇二十年」(600)
 「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。

○『大般涅槃経 巻第十七』「仁寿三年」(603)
 「當」

 以上の隋代史料に集中して「撥型」が見られましたが、中には判断に迷う字形や、明らかに「撥型」とは異なる字形が混在しているケースもあります。
 他方、大業年間以降(605年~)になると「撥型」が見えなくなり、下記の例のように「押型」など他の筆法に変化しています。これも限定された史料による判断ですから、隋代の一般的字形変遷と断定できませんが、不思議な傾向です。

●『大般涅槃経 巻第卅七』「大業四年」(608)
 「蜜」「受」「割」

●『賢劫経 巻第一』「大業六年」(610)
 「宿」「常」「安」「諦」「學」「當」「家」