「 金石文 」一覧

第1973話 2019/08/26

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(7)

 飛鳥の石神遺跡から大量出土(約三千点)した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものがあり、この「○○官」という官職名は7世紀後半頃の律令官制のものと考えられますが、この官職名「○○官」について、詳述します。
 わたしは「○○官」という官職名は九州王朝律令官制によるものと考えています。そのことについて、「洛中洛外日記」100話で論じています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
古賀事務局長の洛中洛外日記
第100話 2006/09/30
九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたⅢ-法隆寺の中の九州王朝-』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房 参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが再発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。(後略)
【転載、終わり】

 『威奈大村骨蔵器』銘文によれば、「大宝元年を以て律令はじめて定まる」とあり、それ以前の律令は近畿天皇家が定めたものではないことになります。同時代金石文であるこの骨蔵器銘文の証言は重要です。従って、7世紀以前の「○○官」という官職名は九州王朝律令によるものと考えざるを得ません。
 このような論理展開により、飛鳥の石神遺跡から出土した「大学官」「勢岐官」「道官」、そして「釆女氏塋域碑」(拓本)の「飛鳥浄原大朝庭大弁官」という官職名は、九州王朝律令によるものを飛鳥の天武天皇らは〝借用〟、あるいはそのまま〝転用〟したのかもしれない、という可能性を想定しなければなりません。更に考えれば、九州王朝の天子の命を受けたという形式にして、自らの臣下にこうした官職名を授与したということも検討する必要があります。(つづく)


第1972話 2019/08/24

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(6)

 多元史観・九州王朝説による筑紫「飛鳥」説として、新・古田説(小郡「飛島」説)が出され、その弱点を補うべく正木さんが広域筑紫「飛鳥」説(小郡・朝倉・久留米)を出され、「律令制宮都の論理」というロジックと「飛鳥浄御原令」を根拠に服部さんが太宰府「飛鳥」説を出されました。次に、通説の大和「飛鳥」説の根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)について、その要点を紹介します。
 一元史観の大和「飛鳥」説は一言で言えば〝『日本書紀』の記事と考古学的出土事実、現地地名などが対応している〟という論理構造により成立しています。このロジックは単純で平明なだけに、否定しがたい説得力を有しています。それは次のようなものです。

①奈良県明日香村に七世紀後半頃の宮殿遺構が重層的に出土している。
②それら遺構の年代は出土土器や干支木簡などにより、比較的安定して編年が成立している。
③字地名「飛鳥」にある飛鳥池遺跡等から出土した七世紀後半頃の木簡の内容が『日本書紀』の記事と対応している。たとえば「飛鳥寺」「天皇」「○○皇子」など、多数。
④飛鳥寺のすぐ北西にある石神遺跡からは藤原宮の官衙域と状況が似た建物群が出土しており、同遺跡北方域から大量に(約三千点)出土した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものもあり、当地に官衙が存在したと考えられている。
⑤この「○○官」という官職名は七世紀の律令官制のものと考えられ、近畿から出土した同じく七世紀後半の金石文「釆女氏塋域碑」(拓本)に見える「飛鳥浄原大朝庭大弁官」とも対応している。

 この他にも多くの論点がありますが、『日本書紀』の史料事実や考古学的出土事実の存在そのものは否定できませんし、両者の対応も複雑な解釈や屁理屈によるものではなく、単純・平明な対応に基づいています。従って、上記のロジックは強力で説得力があります。先に紹介した筑紫「飛鳥」説が九州王朝論を基盤としたやや複雑なロジックにより成立していることと比較すれば、確かなエビデンスにも支えられている大和「飛鳥」説のほうが分かりやすいことは明白です。
 この大和「飛鳥」説をよく理解し、これら一元史観のエビデンスとロジックを軽視することなく、古田学派九州王朝説論者は自説を構築しなければならないのです。無視したり、解釈だけで逃げてはなりません。(つづく)


第1958話 2019/08/07

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(8)

 本シリーズにおいて、「千仏多宝塔銅板」や「小野毛人墓誌」の年次表記に九州年号が使用されていないことに留意が必要と、わたしは指摘しました。「釆女氏榮域碑」にも九州年号は使用されていません。これらの金石文の史料性格と九州王朝律令における年号使用規定について少し論じておきたいと思います。
 『東京古田会ニュース』No.184(2019.01)に発表した拙論「九州王朝「儀制令」の予察 -九州年号の使用範囲-」において、わたしは九州王朝律令により定められた九州年号の使用範囲について考察しました。たとえば、大和朝廷の『養老律令』儀制令で次のように年号使用が規定されています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

 同様の条文が『大宝律令』にもあったと考えられていますが、おそらくは九州王朝律令にもあったのではないでしょうか。九州年号を公布した九州王朝がその年号の使用規定を律令で定めなかったとは考えられないからです。
 公文である戸籍や僧尼の名籍、そして冠位官職の「認定証」などの詔書類には九州年号が記されていたとわたしは考えています。特に庚午年籍のように長期保管を前提とした公文は干支だけでは60年ごとに廻ってくるので、どの時代の「庚午」なのかを特定するためにも年号使用が便利かつ必要です。同様に墓碑や墓誌銘も、没後長期にわたって遺存することを前提としますから、やはり干支だけでは不十分なため、年次特定に便利な年号が使用されたと思われます。そのことについて、先の拙論では次のように述べました。

 〝後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては六十年毎に廻ってくる干支表記だけでは不十分ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠として、「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)、「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)、「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。
 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)
 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせへの聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(六六一-六八三年)から朱雀(六八四-六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。」〟
 (古賀達也「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」、『東京古田会ニュース』No.184所収)

 他方、今回紹介した近畿出土・伝来の金石文、特に墓誌(小野毛人墓誌)・墓碑(釆女氏榮域碑)には九州年号が使用されていません。そのため、「小野毛人墓誌」は冒頭に「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)と記されていることにより、末尾の年次表記「丁丑年」が天武天皇の六年(677年)であることが墓誌を読む人にも特定できるような構文となっているのです。「釆女氏榮域碑」も同様で、冒頭に「飛鳥浄原大朝廷」とあり、末尾の「己丑年」が持統三年(689年)のことと特定できます。
 もしこれらが九州王朝の臣下の墓誌・墓碑であれば、たとえば「白鳳十七年丁丑」「朱鳥四年己丑」と記すだけで、故人が九州王朝配下の人物であることを示し、それぞれの絶対年次も過不足無く特定できるのです。ところが、九州年号の時代であるにもかかわらず、あえて九州年号を使用せず、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「飛鳥浄原大朝廷」と表記することにより、九州王朝ではなく大和「飛鳥」に君臨した近畿天皇家直属の臣下であることを主張した銘文となっているのです。
 この高官の墓誌・墓碑銘に九州年号が使用されておらず、「飛鳥浄原」という大和「飛鳥」と理解できる地名表記(「飛鳥」地名の遺存や宮殿遺構出土というエビデンスを持つ)が使用されていることに九州王朝説論者は注目すべきです。(つづく)


第1957話 2019/08/06

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(7)

 これまでに紹介したように、7世紀後半頃に飛鳥の地で「天皇」号を称していた天武らが「詔」を発していたことが飛鳥池出土木簡により明らかとなりましたが、どのような内容の詔勅なのかまでは木簡からはわかりません。他方、同時代金石文によれば臣下に冠位官職を授けていることがわかり、天武らは事実上のナンバーワン「天皇」として振る舞う権力者であったことをうかがわせます。
 たとえば「釆女氏榮域碑」に「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大貳采女竹良卿」とあるように、「飛鳥浄原大朝庭」の「大弁官」である「采女竹良卿」の冠位が「直大貳」とされています。このことから、「飛鳥浄原大朝庭」には「大弁官」という役職があり、「直大貳」という冠位が授けられていたことがわかります。この冠位は『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、金石文と文献の内容が対応しています。
 また、京都市出土の「小野毛人墓誌」には次の銘文があり、「丁丑年」(天武六年、677年)に没した小野毛人は「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)に「太政官」として仕え、冠位は「大錦上」とされています。この冠位も『日本書紀』によれば、664〜685年の期間のもので、金石文と文献が対応しています。

○「小野毛人金銅板墓誌」
 ※明治31年に京都市左京区崇道神社裏山から出土。
〔表〕
 飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
〔裏〕
 小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬

 ここに見える「飛鳥浄御原宮」も、これまでの史料根拠(エビデンス)に基づく論証から、「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝庭」と同じ大和「飛鳥」の宮殿と考えるほかありません。そして「小野毛人墓誌」にも九州年号が使用されていないことは留意が必要です。(つづく)


第1955話 2019/08/02

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(5)

 飛鳥池出土「天皇」木簡と長谷寺「千仏多宝塔銅板」銘という史料事実に基づき、論理展開(論証)を進めましたが、この論理構造(九州王朝説と齟齬をきたさない、平明で合理的な同時代金石文等の解釈)はここでとどまることを許しません。その論理の延長線上にある他の金石文の史料批判へと進まざるを得ないのです。そこで、続いて紹介するのが大阪府南河内郡太子町出土の「釆女氏榮域碑」です。

○「釆女氏榮域碑」 ※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年(689年)十二月二十五日。

 「釆女氏榮域碑」については「洛中洛外日記」1731話(2018/08/26)〝「采女氏塋域碑」拓本の混乱〟などで紹介してきましたが、碑文にあるようにその造営年は己丑年(689年、持統三年)です。先に紹介した長谷寺の「千仏多宝塔銅板」(686年 朱鳥元年丙戌か698年 文武二年戊戌)と同時代の成立です。従って、「千仏多宝塔銅板」の「飛鳥浄御原大宮」と「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝廷」は同じ時代の同じ飛鳥の権力者を意味していると考えざるを得ません。すなわち、大和飛鳥の天武・持統の宮殿・朝廷のこととなります。
 ちょうどこの時期、天武らは列島最大級の巨大条坊都市藤原宮・京を造営し、遷都(694年12月)します。藤原宮下層条坊道路跡から出土した干支木簡「壬午年(682)」「癸未年(683)」「甲申年(684)」などにより、天武の晩年に藤原宮と条坊都市の造営が行われていることがわかっています。686年(朱鳥元年)に前期難波宮が焼失しますから、その官僚たちは完成途上の藤原京に転居し、694年(持統八年)の遷都を迎えたものと思われます。まさにそうした時期に「采女氏塋域碑」と「千仏多宝塔銅板」は造られたのです。(つづく)


第1952話 2019/07/28

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(2)

 わたしが古田旧説の根拠と考える7世紀以前の金石文や史料に見える「天皇」を紹介します。それは次の諸史料です。

○596年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○607年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○668年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○677年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○680年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(奈良県明日香村飛鳥池出土)
○686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)

 このように7世紀以前の「天皇」号史料は全て近畿で出土、あるいは伝来したもので、これら全てを北部九州(太宰府など)の九州王朝の天子のこととするのは困難ではないでしょうか。わたしの見るところ、野中寺の弥勒菩薩像台座銘の「中宮天皇」だけは九州王朝系の「天皇」(皇后か)の可能性を有していますが、他は近畿天皇家の天皇のことと理解する方が穏当です。
 これら近畿出土・伝来史料中の「天皇」を九州王朝の天子のことと判断できる他の史料根拠もないことから、古田新説はエビデンスに基づく論証というよりも当該史料そのものの〝解釈〟の積み重ねになりかねません。そうした方法で「天皇」を九州王朝の天子とするのは無理筋というものです。もちろんその方法を全否定はしませんが、その結果出された仮説は学問の方法としてはかなり不安定で危険なものと言わざるを得ません。(つづく)


第1945話 2019/07/20

古田史学の会・関西2019年 8月例会

期日

2019年 8月17日(土)
午前10時より午後5時まで

場所

福島区民センター
会議室は案内で確認願います

交通アクセスはここから

住所:〒553-0006
大阪府大阪市福島区吉野3丁目17−23

・地下鉄/千日前線「野田阪神駅」下車、7番出口上がる
・阪神電車/「野田駅」下車、改札左手を出る。西へ200m 
・JR/環状線「野田駅」下車、徒歩8分
・東西線「海老江駅」下車、徒歩5分
・バス/市バス大阪駅より幹59酉島行「福島区役所前」下車

報告

会員発表例は例会報告参照

参加費 500円

9月例会は、21日(土)I-siteなんばでおこないます。
関西例会は、毎月第三土曜日午前10時より午後5時までです。


服部さんとの論争「7世紀の天皇称号」

 本日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催されました。8月は福島区民センター、9月はI-siteなんばで開催します。
 今回は古田説に対しての異見の発表が谷本さんや満田さんからあり、賛否は別としても、どちらも学問的に重要な論点が提起されたものでした。『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 また服部さんからの天皇称号についての報告も古田学派にとって貴重なものでした。それは7世紀の金石文(法隆寺薬師如来光背銘、船王後墓誌など)に見える「天皇」を近畿天皇家のものとするのか、九州王朝の天子の別称とするのかというテーマです。このテーマは古田旧説(ナンバーツーとしての近畿天皇家の称号「天皇」)と古田新説(九州王朝の天子の別称「天皇」)との対立でもあります。古田新説を支持する服部さんと、古田旧説を支持するわたしとで一年近く続けられている論争で、今回の関西例会でも激しく意見が対立しました。
 しかし、誤解のないように言っておきますと、わたしは服部さんの見解や論理性は有力であると考えています(だから論争しています)。更に新旧の古田説の帰趨は、王朝交替以前の7世紀の近畿天皇家の実勢や政治形態がどのような段階にあったのかにも影響します。ここを正確に把握しておかないと、701年の王朝交替の実態を見誤ることが避けられないからです。そのため、服部さんの研究や論争は古田学派としての最重要テーマの一つと考えています。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させるからです。このテーマでも『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①奇跡の12年 古田先生が語る「学問の方法」と「学問の未来」(明石市・不二井伸平)
②鳥居前古墳の伝世鏡(京都府大山崎町・大原重雄)
③百舌鳥・古市古墳群世界遺産登録を祝して二題(京都府大山崎町・大原重雄)
④常立神は旧近畿の祖神(大阪市・西井健一郎)
⑤「倭(ヰ)」と「イ妥(タイ)」(神戸市・谷本 茂)
⑥二つの古田説 天皇称号のはじめ(八尾市・服部静尚)
⑦持統の吉野行幸について(茨木市・満田正賢)
⑧「倭姫世記(紀)」についてⅡ(東大阪市・萩野秀公)
⑨「裂田の溝(さくたのうなで)」と俾弥呼・壹予の王都(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆新入会員情報
◆6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会の報告。
 編集部体制の強化。
◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会の報告(共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会)。
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)。
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
◆『倭国古伝』売れ行き好調。
◆『失われた倭国年号 大和朝廷以前』増刷。拡販協力要請。
◆『古代に真実を求めて』バックナンバー廉価販売が好調。12集完売。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 8/17 10:00〜17:00 会場:福島区民センター
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆8/18 『古代に真実を求めて』編集会議 福島区民センターにて。

◆9/16 『倭国古伝』出版記念東京講演会 文京区民センターにて。
 講演(講師:古賀達也)とパネルディスカッション(パネラー:正木裕さん、橘高修さん、井上肇さん)。

◆10/14 久留米大学での『倭国古伝』出版記念講演会を企画中。

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 7/26 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。
 8/23 18:45〜20:15 「古墳・城等歴史資産を地域活性化に生かす」 講師:正木裕さん。

◆「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 8/06 13:30〜17:00 「磐井の乱の真実」 講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 ☆8月はお休み。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 ☆8月はお休み。

◆水曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 7/24 13:00〜

◆新聞記事紹介「台湾→与那国島 丸木舟が到着」
 ☆魏使の水行速度、時速5km、1日500里が実証された。


第1908話 2019/05/26

「釆女氏塋域碑」の碑文「四千代」について

 今月の「古田史学の会」関西例会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より「釆女氏塋域碑」(己丑年、689年)も九州王朝系のものであり、そこに記された「飛鳥浄原大朝庭」を太宰府飛鳥とする見解が発表されました。
 河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土したとされる「釆女氏塋域碑」は行方不明となり、次のような江戸時代の碑文拓本が残されています。

《釆女氏塋域碑》
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。

※現存唯一の真拓(小杉文庫蔵拓本。現在は静岡県立美術館蔵)による。

碑文中の采女竹良の墓所「四千代」という面積は当地に隣接する用明陵、推古陵、聖徳太子陵よりも広いことから、近畿天皇家の官僚のものではないとして、采女竹良を九州王朝(飛鳥浄原大朝廷)が大弁官に任命したものであり、その「飛鳥浄原大朝廷」も太宰府のこととされました。
 「四千代」という面積は「八町」(一町は106m四方)に相当し、「四千代」という広大な墓所は従来の研究でも問題視されてきました。そのため、「四千代」とする論者は采女竹良の一族の墓所と理解してきました(注①)。
 他方、「千」の字は本来は「十」であり、墓碑表面のひびなどにより拓本では「千」に見えているとする見解も有力視されてきました。その上で、「四十代」であれば采女竹良個人の墓所として妥当な面積であるとされました(注②)。
 関西例会で服部さんにこの拓本の文字について確認したところ、「四千代」であったとのことでした。ただし、現存する真拓は小杉文庫蔵拓本だけであり、その他のものは印刷用に作成された「摺本」「版本」ですから、服部さんがどの「拓本」で確認されたのかも重要です。この点、真拓で確認された三谷芳幸さんの論文(注②)によれば、真拓には碑文表面の傷の跡が多く、問題の「千」とされた字も碑文の他の字との比較により「十」と判断されています。
 わたしも、「千」の字は「4」の字に近い字形であり、碑文にある「穢」の字の「禾」の第一画や、「代」「他」の第一画と比べて明らかに異なっていますので、表面の傷により「十」が「4」のような字になって拓出されたとする三谷さんの見解に賛成です。
 なお一言すれば、確かに「四千代」という墓所の面積は「直大弐」の官位の官僚にしては広すぎます。しかし、それは大和(近畿天皇家)であれ筑紫(九州王朝)でれ同じことですから、「四千代」という墓所の面積は九州王朝の官僚と断定する根拠にはなりません。また、同墓碑は河内国春日村の妙見寺に伝わってきたものですから、やはり近畿天皇家の官僚とする通説の方が穏当と思われます。その上で、なぜ持統天皇の時代(己丑年、689年)において、近畿天皇家が官僚任命権を持つことができたのかという視点での研究が必要なのではないでしょうか。
 本稿の是非にかかわらず、服部さんが提起された問題点や仮説は重要なテーマであり、引き続き論議検証されるべきものであることは言うまでもありません。このことを最後に強調しておきたいと思います。

(注)
①近江昌司「釆女氏塋域碑について」『日本歴史』431号 1984年4月。
 近江昌司「妙見寺と釆女氏塋域碑」『古代文化』49(9) 1997年。
②三谷芳幸「釆女氏塋域碑考」『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号 1997年。


第1907話 2019/05/25

七世紀における「天皇」号と「天子」号

 「古田史学の会」関西例会では、七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟のこととする晩年の古田説に対して賛否両論が出され活発な論争が続いています。このように関西例会では、古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた「師の説にななづみそ」(本居宣長)、「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を体現した学問研究が続けられています。
 わたしは、倭国ナンバーワンの九州王朝の「天子」に対して、ナンバーツーとしての近畿天皇家の「天皇」とする古田旧説を支持しています。従って、七世紀の金石文に見える「天皇」はナンバーツーとしての近畿天皇家の天皇と考えています。そのことを論じた拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」を『古田史学会報』(152号、2019年6月)に投稿しました。同稿では船王後墓誌に見える「天皇」を近畿天皇家の天皇としましたが、さらに「天皇」号の位置づけについて、別の視点から説明することにします。それは九州王朝の「天子」号との関係についてです。
 九州王朝の多利思北孤が「天子」を名乗っていたことは『隋書』の記事「日出る処の天子」から明らかです。他方、近畿天皇家では七世紀初頭の推古から後半の天武が「天皇」を名乗っていたことは、法隆寺の薬師如来像光背銘の「大王天皇」や飛鳥池出土の「天皇」木簡から明らかです。こうした史料事実が古田旧説の根拠となっています。
 もし古田新説のように船王後墓誌などの七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟とすると、ナンバーワンの九州王朝もナンバーツーの近畿天皇家も同じ「天皇」を称していたこととなります。しかし、ナンバーツーがナンバーワンと同じ称号を名乗ることをナンバーワンが許すとは到底考えられません。こうした、称号の序列という論理から考えても、古田新説は成立困難と思われるのです。


第1781話 2018/11/04

亀井南冥の金印借用説の出所

 川岡保さん(福岡市西区)から教えていただいた、亀井南冥が八雲神社から金印を借用したとする説の出所は博多湾に浮かぶ能古島の能古博物館から発行されている『能古博物館だより』でした。川岡さんからいただいた資料は『能古博物館だより』29号(平成8年7月)と30号(平成8年10月)のコピーで、次の記事が掲載されていました。

○29号 「亀井南冥と金印の謎を追って」大谷英彦(亀陽文庫客員理事)
○30号 「国宝『金印』について」庄野寿人

 『能古博物館だより』の全文が同館ホームページに掲載されており、詳細はそちらを読んで頂くこととして、まず大谷稿では庄野寿人さん(同館初代館長)から聞かれた戦後間もない頃の思い出として次の話が紹介されています。
 「以前、あの金印は今宿にある神社の御神体だったものを南冥が持ち出したという話を聞いたことがある。」
 「敗戦で陸軍省を退職し、福岡市役所の市史編纂室の所長をしていた小野有耶介さんという方は、なかなかの変わり者で九大で国史学を専攻し『陸軍省戦史編纂室勤務』から戦後、福岡市史編纂を担当された。(中略)ある日、その小野さんが朱印を押した半紙を机上に広げて腕組みをされていた。小野さんは『これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよ』と私に説明された。(中略)小野さんが見せてくれた半紙はその後どうなったか分からない。
 この話から私も、同神社と金印印影を実見するため現地を訪ねて事実を確認しています。以来、三十年になりますね。」

 このように庄野寿人さんの「証言」を紹介し、庄野さんとともに訪問調査し、その顛末を次号に掲載すると締めくくられています。ところが、次号(30号)では庄野寿人さん御自身の一文が掲載され、戦後からの経緯について改めて詳述されています。
 この『能古博物館だより』の両記事が「亀井南冥の金印借用説」の出所です。そこで、わたしは同博物館に電話で両氏の連絡先を問い合わせましたが、庄野さんは既に故人となられており、大谷さんとはお付き合いもなく、同館には知っている者もいないとのことでした。(つづく)