「 百済人祢軍墓誌 」一覧

第1537話 2017/11/11

百済禰軍墓誌の「日本」再考(1)

 久留米市の犬塚幹夫さんから百済禰軍墓誌の研究論文のコピーをたくさんいただいたのですが、ようやく時間ができましたので少しずつ読み始めました。その中には筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生の「中国出土の墓誌にみる亡命百済人について 百済禰軍と扶余太妃」もありました。
 禰軍墓誌については6年ほど前に少しだけ調べ、「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)「百済人祢軍墓誌の『日本』」などで報告しました。既に諸説が発表されており、中でも東野治之さんの「百済人祢軍墓誌の『日本』」(岩波書店『図書』2012.02)では墓誌に見える「日本」を倭国の国名ではなく朝鮮半島諸国のこととされ、この説は有力視されています。
 他方、氣賀澤保規さんは「百済人『祢軍墓誌』と“日本”と660年代の東アジア情勢」(文化継承学Ⅰ報告史料、2013年4月)で東野説を批判され、その時代に国号としての「日本」表記は成立していたと考えてよいとされました。わたしから見ると、東野説も氣賀澤保規さんの批判も大和朝廷一元史観枠内での解釈であるため、いずれも説得力に欠けるように思われました。(つづく)


第356話 2011/12/03

南郷村神門神社の綾布墨書

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それは、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが7世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲 廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』20号「百済年号の発見」 で紹介しました)。
 また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(536年あるいは569年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。
 学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています。


第355話 2011/12/01

百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送ってい ただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなの かが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660) 官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「「日本余(口へんに焦)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして 「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年 (672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
 従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われま す。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝 廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」 という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰 のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアには いないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。

第353話 2011/11/22

百済人祢軍墓誌の「日本」

 11月の関西例会で水野さんから紹介された「百済人祢軍墓誌」ですが、どうやらこの墓誌は九州王朝説に大変有利な内容を含んでいるようです。現在、墓誌拓本のコピー入手を試みていますが、新聞発表などでわかる範囲で、見解を述べてみたいと思います。
 この墓誌は百済人の祢軍(でいぐん・ねいぐん)という人物の墓誌で、678年二月に長安で没して同年十に埋葬されたと記されています。残念ながら墓誌そ のものは行方不明ですが、その拓本が中国の学者から紹介されました。王連竜さん(吉林大学古籍研究所副教授)が「社会科学戦線」7月号で発表された「百済 人祢軍墓誌論考」という論文です。中国在住の青木さん(「古田史学の会」会員)のご協力により、同論文を読むことができました。この場をお借りして御礼申 し上げます。
 墓誌の中に「日本」という表記があり、これは現存最古の「日本」ということで、マスコミは取り上げています。これはこれですばらしい史料なのですが、実はそれ以外に大変興味深い記事が記されています。
 たとえば「僭帝一旦称臣」という記事です。くわしい解説は拓本コピーで確認した後にしたいと思いますが、この「僭帝」とは誰なのか、百済王なのか、倭王 なのかというテーマです。関西例会後の懇親会でも喧々囂々の論争を行いました。墓誌の文脈から判断しなければなりませんが、倭王の可能性も高く、もしそう であれば九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか。
 白村江戦で敗北し、捕らわれの身となった 薩野馬であれば、「僭帝一旦称臣」という表現がぴったりです。少なくとも大和朝廷にはこのような天皇がいた記録はありません。
 この他にも、「日本余(口へんに焦)、据扶桑以逋誅」という記事がありますが、朝日新聞(2011/10/23)によれば、白村江戦で敗れた「生き残っ た日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と解説されています。
唐代において扶桑は東方にある国と認識されており、「日本の別称」という説明は必ずしも正確ではありません。従って、ここは日本の残存勢力が日本(倭 国)の更に東に籠もって抵抗を続けていると解すべきではないでしょうか。そすると、扶桑とされた地域は近畿、あるいは東海か関東のいずれかと思われます。
 九州王朝説の立場から見れば、倭国・九州王朝の中枢領域である九州の更に東ということになりそうです。以前、わたしは「九州王朝の近江遷都」という論文 で、白鳳元年(661)に九州王朝は近江遷都したのではないかという説を発表しました。すなわち、白村江戦の直前に九州王朝は近江に遷都したと理解したの です。こうした視点からすると、日本残存勢力が籠もったとする扶桑とは、近江宮か前期難波宮ということになります。
 墓誌拓本そのものを見ていませんので、まだアイデア(思いつき)の段階ですが、この墓誌の内容のすごさが予感されるのです。今後、拓本精査の上、詳論したいと考えています。