「 考古学 」一覧

第1922話 2019/06/15

箸墓古墳改築説と応神陵の『日本書紀』不記載

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。7月はアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)、8月は福島区民センターで開催します。明日、16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です(午前中は全国世話人会開催)。午後は大阪文化財研究所長の南秀雄さんをお招きし、「日本列島における五〜七世紀の都市化」という演題で講演していただきます(諸団体と共催。後述)。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「姫たちの古伝承」というテーマで講演されます。
 今回は古墳について考古学と文献史学からの研究報告がありました。まず大原さんからは、箸墓古墳はホタテ貝式古墳に前方部を増築したものとする仮説が発表されました。確かに箸墓古墳の前方部の形は通常の前方後円墳とはやや異なっており、わたしも違和感を持っていました。ですから、大原さんの仮説に説得力を感じました。
 次いで、谷本さんからは、応神天皇のみが『日本書紀』にその陵墓についての記載がないことを指摘されました。従って、『日本書紀』からは応神陵の所在は不明であり、誉田山古墳を応神陵とする白石太一郎説には史料根拠がないとされました。
 百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を目前にしたグッドタイミングの発表でした。また、谷本さんの発表ではカール・ポパーの反証主義に触れられていましたので、わたしも賛意を示し、反証可能性のない仮説は科学(学問)ではないとすることは自然科学では常識となりつつあり、その点、日本の古代史学界は「戦後型皇国史観」(近畿天皇家が古代日本列島の唯一卓越した権力者とする思想)ともいうべき反証を許さないイデオロギーに基づいていると批判しました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①欽明-推古期の近畿天皇家系譜の異常性について(茨木市・満田正賢)
②壬申の乱(八尾市・服部静尚)
③箸墓古墳の本当の姿について(京都府大山崎町・大原重雄)
④誉田山古墳(伝応神天皇陵)の史料批判(神戸市・谷本 茂)
⑤「韓国西海岸水行説」批判(川西市・正木 裕)
⑥薩摩と南の島々の古代史《大和朝廷以前》(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆『失われた倭国年号 大和朝廷以前』増刷。拡販協力要請。
◆『古代に真実を求めて』バックナンバー廉価販売が好調。在庫僅少。
◆2019年度会費納入状況。
◆6/13 NHKBSのダークサイドストーリーで東日流外三郡誌を偽書としてとりあげ、古田氏の名前も出された。

◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会(会場:I-siteなんば。共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会。参加費無料)
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)。
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
 ※京都新聞が無料告知。

◆6/16 11:00〜12:00 「古田史学の会」全国世話人会(会場:I-siteなんば)
 6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会(会場:I-siteなんば)
 総会終了後、希望者で懇親会開催(当日、会場で受け付け)。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 7/20 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 8/17 10:00〜17:00 会場:福島区民センター
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 7/26 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。

◆「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 7/02 13:30〜17:00
 「磐井の乱-継体紀の謎に迫る-」 講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 7/09 14:00〜16:00
 「徹底解説-邪馬『台』国九州説」 講師:正木裕さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 6/18 18:45〜20:15 「海を渡る倭人〜魏志倭人伝に記された国々」 講師:大下隆司さん。
 7/23 18:45〜20:15 「盗まれた天皇陵」講師:服部静尚さん。

◆火曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 6/26 13:00〜

◆久留米大学講演会(久留米大学御井校舎)
 7/07 14:30〜16:00 「『日本書紀』に盗用された九州の神話」講師:正木裕さん。
7/14 14:30〜16:00 「筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》」講師:古賀達也。


第1921話 2019/06/14

「難波複都」関連年表の作成(2)

 『日本書紀』に見える次の「大道」記事の考察により、「難波複都」関連年表の作成が可能ではないかとわたしは考えました。

○「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
○「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 詳論に入る前に、難波複都関連史を次のⅣ期に分け、その概略を押さえておきたいと思います。

Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期
Ⅱ期(七世紀初頭〜652年) 狭山池・難波天王寺(四天王寺)・難波複都造営期
Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686) 前期難波宮の時代(倭京・太宰府と難波京の両京制)
Ⅳ期(朱鳥元年・686〜) 前期難波宮焼失以後

 Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃)は多利思北孤の時代に相当し、九州王朝(倭国)が摂津・河内を制圧した時期です。冨川ケイ子さんの研究によれば、『日本書紀』に見える「河内戦争」で、河内の権力者である捕鳥部萬(ととりべのよろず)を殺し、九州王朝(倭国)が当地を直轄支配領域にしたとされます。
 Ⅱ期(七世紀初頭〜652年)は、九州王朝(倭国)が難波の都市化を進めた時期で、難波複都造営に先立ち、人口急増に備えて食糧増産のため古代では最大規模の灌漑施設として狭山池を築造し(616年、出土木樋の年輪年代測定による)、難波天王寺(四天王寺)を創建(倭京二年・619年。『二中歴』年代歴による)しています。
 九州年号(倭国年号)の白雉元年(652)には、国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮が完成します。前期難波宮で執り行われた大規模な白雉改元儀式の様子は、『日本書紀』には二年ずらされて孝徳天皇白雉元年(650)二月条に転用されています。また、前期難波宮造営のために工人(番匠)が難波に集められるのですが、その史料痕跡が「番匠の初め」「常色二年(648)」として、『伊予大三島縁起』に記されていることを正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見されています。
 Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686)は前期難波宮の時代で、九州王朝(倭国)が倭京(太宰府)と難波京の両京制を採用した時代です。全国に評制を施行し(「難波朝廷、天下立評」『皇大神宮儀式帳』による)、前期難波宮における中央集権的律令体制を構築した九州王朝最盛期から、白村江の敗戦(663年)により国力を急速に失い、近畿天皇家との力関係が劇的に変化した激動の時代です。
 また、白鳳十年(670)には全国的な戸籍である庚午年籍も造籍されていますが、この造籍を実施したのは難波京なのか近江大津宮の近江朝廷なのか、あるいは唐軍が進駐していた太宰府なのかという論争が古田学派では続いており、まだ決着を見ていません。
 そして、九州年号(倭国年号)の朱雀三年(686)正月に前期難波宮は焼失し、同年七月には朱鳥に改元されます。こうして、前期難波宮の時代と九州王朝(倭国)の両京制は終焉しました。
 Ⅳ期(朱鳥元年・686〜)は前期難波宮焼失以後の時代です。難波は歴史の表舞台から遠ざかり、『日本書紀』には断片的に登場するだけです。そして、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替がなされ、大和朝廷は大宝年号を建元(701年)します。この後、難波が脚光を浴びるのは、聖武天皇による後期難波宮の造営と難波遷都を待たなければなりません。(つづく)


第1920話 2019/06/13

「難波複都」関連年表の作成(1)

 「洛中洛外日記」1649話(2018/04/13)〝九州王朝「官道」の造営時期〟において、わたしは九州王朝「官道」の造営時期の史料根拠として次の『日本書紀』の三つの「大道」記事に注目し、確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかとしました。すなわち、前期難波宮を九州王朝が複都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えたわけです。実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解です。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 他方、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できず、7世紀中頃ではちょっと遅いような気がするとも考えていました。
 今回、改めてこれらの記事を精査したところ、わたしの理解が適切ではないことに気づきました。というのも『日本書紀』白雉4年条(653)の(C)「処処の大道を修治(つく)る。」の「修治(つく)る」とは初めて大道を造ったという意味ではなく、既にあった大道を「修治(修理)」したと解すべきだからです。岩波書店『日本書紀』の「修治」に付された訓み「つくる」に惑わされたようです。
 そうすると、『日本書紀』推古21年条(613)の(B)「難波より京への大道を置く。」の記事が注目されます。難波と京(太宰府か)の間に「大道」を造営したという記事ですから、これこそ難波複都や四天王寺(難波天王寺)造営に先立ち、筑紫から摂津難波へ建設に携わる大量の物資や工人(番匠)たちの輸送のための、九州王朝(倭国)による官道造営記事だったのではないでしょうか。
 なお、この記事の「置く」という表現も微妙です。初めて大道を造営したのなら、「造る」のような表現がより適切と思われるからです。もしかすると、既にあった「道」を官道(大道)として「認定」したことを「置く」と表現したのかもしれません。この点、『日本書紀』に見える他の「置く」の用例を調査する必要があります。
 以上のような視点で『日本書紀』などの難波関連記事を見直すことにより、難波複都の歴史を復元(年表作成)できるのではないかと考えています。(つづく)


第1908話 2019/05/26

「釆女氏塋域碑」の碑文「四千代」について

 今月の「古田史学の会」関西例会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より「釆女氏塋域碑」(己丑年、689年)も九州王朝系のものであり、そこに記された「飛鳥浄原大朝庭」を太宰府飛鳥とする見解が発表されました。
 河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土したとされる「釆女氏塋域碑」は行方不明となり、次のような江戸時代の碑文拓本が残されています。

《釆女氏塋域碑》
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。

※現存唯一の真拓(小杉文庫蔵拓本。現在は静岡県立美術館蔵)による。

碑文中の采女竹良の墓所「四千代」という面積は当地に隣接する用明陵、推古陵、聖徳太子陵よりも広いことから、近畿天皇家の官僚のものではないとして、采女竹良を九州王朝(飛鳥浄原大朝廷)が大弁官に任命したものであり、その「飛鳥浄原大朝廷」も太宰府のこととされました。
 「四千代」という面積は「八町」(一町は106m四方)に相当し、「四千代」という広大な墓所は従来の研究でも問題視されてきました。そのため、「四千代」とする論者は采女竹良の一族の墓所と理解してきました(注①)。
 他方、「千」の字は本来は「十」であり、墓碑表面のひびなどにより拓本では「千」に見えているとする見解も有力視されてきました。その上で、「四十代」であれば采女竹良個人の墓所として妥当な面積であるとされました(注②)。
 関西例会で服部さんにこの拓本の文字について確認したところ、「四千代」であったとのことでした。ただし、現存する真拓は小杉文庫蔵拓本だけであり、その他のものは印刷用に作成された「摺本」「版本」ですから、服部さんがどの「拓本」で確認されたのかも重要です。この点、真拓で確認された三谷芳幸さんの論文(注②)によれば、真拓には碑文表面の傷の跡が多く、問題の「千」とされた字も碑文の他の字との比較により「十」と判断されています。
 わたしも、「千」の字は「4」の字に近い字形であり、碑文にある「穢」の字の「禾」の第一画や、「代」「他」の第一画と比べて明らかに異なっていますので、表面の傷により「十」が「4」のような字になって拓出されたとする三谷さんの見解に賛成です。
 なお一言すれば、確かに「四千代」という墓所の面積は「直大弐」の官位の官僚にしては広すぎます。しかし、それは大和(近畿天皇家)であれ筑紫(九州王朝)でれ同じことですから、「四千代」という墓所の面積は九州王朝の官僚と断定する根拠にはなりません。また、同墓碑は河内国春日村の妙見寺に伝わってきたものですから、やはり近畿天皇家の官僚とする通説の方が穏当と思われます。その上で、なぜ持統天皇の時代(己丑年、689年)において、近畿天皇家が官僚任命権を持つことができたのかという視点での研究が必要なのではないでしょうか。
 本稿の是非にかかわらず、服部さんが提起された問題点や仮説は重要なテーマであり、引き続き論議検証されるべきものであることは言うまでもありません。このことを最後に強調しておきたいと思います。

(注)
①近江昌司「釆女氏塋域碑について」『日本歴史』431号 1984年4月。
 近江昌司「妙見寺と釆女氏塋域碑」『古代文化』49(9) 1997年。
②三谷芳幸「釆女氏塋域碑考」『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号 1997年。


第1906話 2019/05/24

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)
 〝七世紀後半の難波と飛鳥〟

 2017年3月、大阪歴博から驚愕すべき論文が発表されました。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)「前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」で紹介した佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号)です。
 従来、ほとんどの考古学出土報告書は『日本書紀』の記述に基づいた解釈(一元史観)を採用し、出土遺構・遺物の編年やその性格を解説するのが常でした。ところが、この佐藤論文では出土事実に基づいた解釈を優先し、それが『日本書紀』とは異なることを明示する、という考古学者としては画期的な報告を行っているのです。たとえば次のような指摘です。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。
 この考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説に見事に対応しています。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波複都は停滞を始めたと思われます。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたのです。文献史学においては古田先生が『日本書紀』の記事を絶対視しせず、中国史書(『旧唐書』「倭国伝」「日本国伝」、他)などの史料事実に基づいて多元史観・九州王朝説を提起されたように、考古学の分野にもこうした潮流が地下水脈のように流れ始めたのではないでしょうか。そしてその地下水脈が地表にあふれ出すとき、日本古代史学は大和朝廷一元史観から多元史観・九州王朝説へのパラダイムシフトを起こすのです。その日まで、わたしたち古田学派は迫害や中傷に怯まず、弛むことなく前進しようではありませんか。(つづく)


第1905話 2019/05/23

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(1)
 〝四天王寺創建瓦の編年〟

 「洛中洛外日記」1904話「那珂八幡古墳(福岡市)の多元史観報道」において、『日本書紀』の記述とは異なる出土物・遺構解釈が大阪歴博の考古学者により行われていると記しました。そのことについて紹介したいと思います。
 まず最初に紹介するのは四天王寺の創建瓦の編年についてです。すでに何度もこのことを「洛中洛外日記」でも記していますが、わたしが大阪歴博の考古学者の誠実性と眼力を信頼した瞬間がありました。わたしが初めて大阪歴博を訪れ、上町台地から出土した瓦の展示を見たときのことです。三個の素弁蓮華文軒丸瓦が展示されており、一つは四天王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦です。時代も7世紀前葉とされており、620〜630年代頃と編年されています(展示説明文による)。大阪歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』に記されていない複数の寺院が建立されていたようです。
 この展示の編年に驚いたわたしは、大阪歴博の考古学者で古代建築専門家の李陽浩さんに編年の根拠をお聞きしました。李さんの見解は次のようなものでした。

① 若草伽藍の創建瓦「素弁蓮華文軒丸瓦」と四天王寺の創建瓦、前期難波宮下層出土瓦は同笵瓦であり、それらの文様のくずれ具合から判断すれば、前期難波宮下層出土瓦よりも四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、古いと判断できる。
② この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
③ しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
④ 史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。

 以上のような説明がなされました。わたしは誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。この編年が『二中歴』の「倭京二年(619)難波天王寺創建」記事とほぼ一致していることから、大阪歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 このように四天王寺(天王寺)創建瓦の編年は考古学と文献(『二中歴』九州年号史料)の一致というクロスチェックが成立した事例でした。そして、この年代観の正確さと、文献(日本書紀)よりも考古学的出土事実を重視するという姿勢を知り、わたしは大阪歴博の考古学者への信頼を深めたのです。
 もちろん学問研究ですから、大阪歴博の考古学者の判断や報告書を信頼できないと批判する「自由」はあります。しかしその場合、信頼できない理由を客観的具体的根拠を示して説明することが、批判する側に要求されます。「自説と異なるから信用しない」「大阪歴博の利害によるから疑わしい」といった類いの「批判(非難)」は学問の世界では通用しません。この論法(疑わしきは誤りと見なす)を例えば法廷に持ち込めば、えん罪が多発することでしょうし、わたしが所属する自然科学系(化学)の学会ではエビデンスを示さない主張は発表そのものを拒否されます。当然ながら、そのような発表を自然科学系の学会でわたしは聞いたことがありません。(つづく)


第1904話 2019/05/22

那珂八幡古墳(福岡市)の多元史観報道

 昨日、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりとても感慨深く象徴的な情報が寄せられました。2019/02/14付の西日本新聞朝刊の記事です(本稿末尾に転載)。従来、大和の影響を受けた「纒向(まきむく)型」とみられていた福岡市の那珂八幡古墳の形状が北九州独自のものであることが判明したというものです。
 その詳細は同記事をお読みいただくとして、この記事が持つ学問的画期性について触れたいと思います。それは一言で言えば福岡県の考古学者が大和朝廷一元史観に基づく出土物・遺構解釈から離れて、多元史観による解釈を出土事実に基づき公然と主張しだしたということです。そしてそれをマスコミ(西日本新聞)が報道するようになったという社会の変化(潮目が変わりつつある)が顕著に表れだしたという点です。この傾向は近年の〝弥生時代のすずり〟が福岡県から出土していたという報道が立て続けにあったことからもうかがえていましたが、それが古墳時代でも開始されたということに、わたしは着目しています。当然のこととして、その変化は六世紀からの九州年号の時代いわゆる〝飛鳥時代〟へと続くことが予見されるからです。
 実はこの傾向は大阪歴博の考古学者を中心に数年前から見られてきたもので、今回の記事で紹介されている福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、昨年12月に大阪歴博で開催されたシンポジウム「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ー大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地ー」で、「列島最古の『都市』 福岡市比恵・那珂遺跡群」を発表されています。なお、このシンポジウムの司会は6月16日(日)の古代史講演会(i-siteなんば、「古田史学の会」共催)で講演される南秀雄さん(大阪文化財研究所長)で、南さんも「大阪上町台地の都市化と奈良盆地の比較」を発表されています。
 こうした考古学者の研究発表は、『日本書紀』を根拠とする大和朝廷一元史観とは異なる古代史像を提示するもので、古田先生が提起された多元史観はまず考古学の分野で承認されるものと思われます。
 なお、西日本新聞の記事には博多湾岸を「奴国」とするなど、まだまだ学問的に不適切な部分も含んでいます。しかし、こうした国名などの比定は文献史学の成果に委ねられており、わたしたち古田学派が一元史観との論争(他流試合)の先頭に立たなければなりません。そのためにも更に研鑽を深めたいと願っています。本年11月に開催される「新・八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー2019)」では、他流試合に通用する(一元史観論者をも説得できる)研究者の登場が期待されます。

【2019/02/14付 西日本新聞朝刊】
「ヤマトに服属」定説に一石か
福岡市の那珂八幡古墳
北部九州独自の形状

 古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳・那珂八幡古墳(福岡市博多区)の形が北部九州独自のものであることが、同市の発掘調査で明らかになった。最古級とされる同古墳の形状が近畿とは違うことから、ヤマト王権に服属した証しとして地方の勢力がヤマトをまねて前方後円墳を築造したとする古墳時代像に一石を投じることになりそうだ。
 これまで那珂八幡古墳は「纒向(まきむく)型」とみられていた。纒向型は、古墳時代開始期前後に近畿で築造された纒向石塚古墳(奈良県桜井市)のように、後円部と前方部の長さの比率が2対1で、前方部の端が広がっている形状の古墳を指す。全国に分布し、ヤマト王権の勢力の広がりを示すとされてきた。
 しかし、今回の調査により那珂八幡古墳は、従来75メートルとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45メートルより狭く、纒向型と異なっていた。福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話す。一帯は魏志倭人伝に出てくる奴国の中心部で、同古墳に埋葬された人物は奴国に関わる有力者と考えられる。
 似た形状を持つ古墳は、北部九州の戸原王塚古墳(福岡県粕屋町)や赤塚古墳(大分県宇佐市)などがあるとされるが、いずれも那珂八幡古墳よりも新しい。香川県に分布する開始期前後の前方後円墳も近畿とは形が違い、「讃岐(さぬき)型」と呼ばれることがある。こうしたことから、九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。
 那珂八幡古墳の現地説明会は16日午前10時から開催される。


第1901話 2019/05/15

椿井大塚山墳・黒塚古墳の被葬者は誰か

 河内の巨大前方後円墳の築造者や被葬者についての疑問と同様に、多くの三角縁神獣鏡の出土で有名な椿井大塚山古墳(京都府木津川市)・黒塚古墳(奈良県天理市)についても同様の疑問をわたしは持っています。
 たとえば3世紀末頃の前方後円墳(全長175m)とされる椿井大塚山古墳からは36面以上の三角縁神獣鏡が出土しており、その同笵鏡が西日本各地の古墳から出土していることが知られています。一元史観では大和の有力者が各地の豪族へ「下賜」したものとする説が有力とされています(異見あり)。同様の現象は三角縁神獣鏡33面が出土した黒塚古墳(4世紀初頭〜前半頃。全長130m)でも見られます。この三角縁神獣鏡の同笵鏡出土とその出土中心が両古墳と思われることはわたしも認めうるのですが、わたしの疑問は〝それではなぜ両古墳は「天皇陵」あるいは「皇族」の陵墓として伝承されていないのか〟という一点です。
 九州や関東などの遠隔地の豪族にまで同笵鏡を配布した有力者の古墳であれば、一元史観が正しければ両古墳の被葬者は近畿天皇家の「天皇」かその「皇族」級の権力者と考えざるを得ないでしょう。そうであれば「陵墓」として伝承されていてしかるべきです。しかし、両古墳はそうした伝承を持っていません。従って、両古墳から出土した同笵鏡は近畿天皇家一元史観を否定するのではないでしょうか。


第1900話 2019/05/14

百舌鳥・古市古墳群の被葬者は誰か

 日野智貴さんとの「河内戦争」問答で、日野さんの青年らしい鋭い指摘を受けて、わたしは「大和朝廷」前史というテーマをより深く考える必要性を感じました。その一つとして近畿の巨大前方後円墳の存在をどのように考えるのかがあります。今朝のテレビニュースでは百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録へ前進したと言われています。こうしたことにより、「令和」改元により高まった日本古代史への社会の関心がより学問的に深まることを願っています。
 過日、京都市上七軒で桂米團治さんにお会いしたとき、百舌鳥・古市古墳群について話を聞かせて欲しいと仰っていましたので、古田学派でも研究が進展しつつあると返答しました。「古田史学の会」では、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)の発表により、河内を中心とする八カ国の権力者としての捕鳥部萬(ととりべのよろず)の存在が注目されています。その後、冨川説を発展させるような研究として服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)により、河内の巨大前方後円墳を築造した勢力は近畿天皇家ではなく在地豪族の捕鳥部萬らではなかったかとされ、被葬者も近畿天皇家の「天皇」たちではなく、捕鳥部萬らの先祖ではないかとする仮説が発表されました。
 とても興味深い仮説ですが、学問的に成立するものかどうか服部さんの研究の進展を見守っている状況です。(つづく)


第1890話 2019/05/09

京都市域(北山背)の古代寺院(6)

 連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」の最後として大宅廃寺(山科区)を紹介します。大宅廃寺は早くから顕著な遺跡として認識されていましたが、昭和33年の名神高速道路建設に伴う調査でその一部が明らかとなりました。そして平成16年の調査で金堂基壇(二重基壇)が発見され、七世紀末頃の創建であることがわかりました。
 大宅廃寺の発掘調査で、最も注目されたのが藤原宮の瓦(藤原宮6646C型式)と同笵瓦の出土でした。しかも藤原宮よりも大宅廃寺の瓦の方が先行しており、この地で使用された笵型が藤原宮に転用されたこととなります。この事実は、七世紀末頃には近畿天皇家の影響力が山背国にまで及んでいたことを意味します。当時の近畿天皇家は没落した九州王朝に替わって列島の第一権力者に上りつめ、701年には王朝交替(九州王朝・倭国から大和朝廷・日本国へ)を果たし、九州年号に代えて[大宝」年号を建元しました。そのことを大宅廃寺から出土した藤原宮との同笵瓦も「証言」しているのではないでしょうか。
 このように、京都市域の古代寺院遺構を多元史観・九州王朝説で俯瞰することにより、新たな山背国古代史学が成立すると思われます。(おわり)