考古学一覧

第2733話 2022/04/30

高知県四万十市(侏儒国)から弥生の硯が出土

 昨日の「多元の会」リモート発表会では吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)が「『ねずみ・鼠』について」を発表されました。高知県の別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)が初めて参加され、最後にご挨拶をされました。そのとき、高知県から弥生時代の硯(すずり)が発見されたとの報告がありました。わたしからお願いして、別役さんに地元での報道記事をメールで送っていただきました。
 というのも、高知県から弥生時代の硯が出土したと聞いて、これは倭人伝に見える侏儒国(足摺岬方面)での硯使用、すなわち文字が使用されていた痕跡ではないかと考えたからです。そうであれば、古田先生の倭人伝の里程記事解釈(注①)が正しかったことの証明にもなるからです。そこで、送っていただいたデータやweb上の報道を調べたところ、硯出土が確認された県内3箇所の遺跡(注②)の内、最も古いのが四万十市の古津賀遺跡群で、弥生時代中期末から後期初頭にかけての遺跡とされています。古田先生が侏儒国に比定された足摺岬方面(土佐清水市)の北側に四万十市がありますから、位置も時代も倭人伝に記された侏儒国領域と見ることができます。
 同硯発見の詳細な続報と調査報告書の発行が期待されます。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古津賀遺跡群(四万十市)、祈年遺跡(南国市)、伏原遺跡(香美市)。

【転載】〈読売オンライン 2022/04/27〉
弥生期の硯片発見
弥生時代の硯の一部を示す柳田客員教授(南国市で)
四万十市など3遺跡 県内初
文字が使われた可能性

 四万十市の古津賀遺跡群から、弥生時代中期末から後期初頭にかけてのものとみられる硯(すずり)の一部が出土していたことが確認され、県立埋蔵文化財センター(南国市)と四万十市教育委員会が26日発表した。県内で弥生時代の硯が見つかるのは初めてで、紀元前後に県内に文字を理解できる人がいた可能性を示す。同センターは「この地域の弥生時代像を見直すきっかけになる」としている。(飯田拓)

 古津賀遺跡群の弥生時代の竪穴住居跡から硯の一部が四つ出土した。一つの遺構から見つかった数としては国内最多という。サイズはそれぞれ縦横数センチ程度、厚さ数ミリ~1センチ程度。ほかに祈年遺跡(南国市)の弥生時代の遺構と、伏原遺跡(香美市)の弥生から古墳時代にかけての遺構からも硯の一部が一つずつ出土していた。
 この時代の硯は平たい形をしており、墨をする「陸」と墨汁をためる「海」が分かれた現在の硯とは異なる。硯の上で墨を潰し、水を加えて使っていたとされ、ここ数年は九州北部などで同様の確認例が増加している。政治的な交流や荷札に文字を書く際などに使われたとみられる。
 今回の硯が見つかった三つの遺構の中では、古津賀遺跡群のものが時代的に最も古く、地理的にも九州北部に近いことから、県西部から中部に向けて、少しずつ文字使用が広がった様子も想像できる。他の遺跡や出土品を調べれば、同様の硯が出てくることも考えられるという。
 同センターは2021年11月に弥生時代の硯に関する研修を開催し、専門家として招いた国学院大学の柳田康雄・客員教授が、 砥石(といし)などとして保管していた県内の出土品を分析。今回の六つの出土品は、中央部がわずかにくぼんでいたり、角の部分を滑らかに加工していたり、特有の特徴が見られたことから硯と判断したという。
 現物は28日~5月8日に同センターで展示し、4月29日と5月5日に調査員が説明会を実施する(土曜休館)。また5月10~29日には四万十市郷土博物館に場所を移して展示する(水曜、5月18~20日休館)。問い合わせは同センター(088-864-0671)へ。

【写真】出土した硯。関西例会(2018年3月)で別役さんと。


第2695話 2022/03/06

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (5)

 須恵器セリエーションの分類作業におけるハードル(d)は考古学者でなければ判断を誤りかねないケースで、文献史学の研究者にはかなり難しいものです。

(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 出土土器型式の地域差や定義の違いにより、分類を間違えそうになったという、わたしの体験を紹介します。「洛中洛外日記」〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟(注①)で紹介しましたが、牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注②)に掲載された須恵器坏に次のような説明があり、わたしは途方に暮れました。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋に「つまみ」はないが、説明ではそれらを「坏G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、説明ではでは「坏B」とする。

 「つまみ」がない須恵器蓋を坏Gや坏Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、調査報告書を発行した大野城市に上記の点について質問したところ、次の回答が届きました。その要旨を転記します。

【質問1】26頁第16図73・74の「坏G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「坏G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏G」と表現しています。
【質問2】37頁第24図83の「坏B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏B蓋」には「つまみ」があり、坏身には「足=高台」を有しています。
 「坏G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏B」と表現しています。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、坏G蓋・坏B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。

 以上の回答とともに、資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋坏については、奈良文化財研究所が使用している名称坏H(古墳時代通有の合子形蓋坏)、坏G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、坏B(高台付きの坏)、坏A(無高台の坏)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 すなわち、蓋に「かえり」が付いているものは「つまみ」がなくても坏Gに分類していたのです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの坏G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、坏Gに見なすということのようです。蓋に「つまみ」がない坏Bも同様です。こうしたことから、調査報告書の須恵器を分類する際は「つまみ」の有無だけでの単純な型式判断で済ませることなく、地域差も考慮しなければならないことを知ったのです。
 以上のことから、太宰府関連遺構出土の須恵器坏セリエーション分類作業は、当地の考古学者の協力を得たり、地域差について教えを請うことから始めなければならないことに気づき、わたしは土器編年研究に一層慎重になりました。他方、土器セリエーションによる相対編年は考古学界の先進的研究者に採用されつつあります。その成果が古田史学・九州王朝説と整合する日が来ることを期待し、わたしたち古田学派研究者による精緻なセリエーションでの土器編年確立が待たれます。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2547話(2021/08/22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟
②『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。

 


2694話 2022/03/05

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (4)

 須恵器セリエーション分類作業におけるハードルとして次の四点を示しました。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 まず最初に、(c)についての体験を紹介します。水城の築造時期を探るために考古学エビデンスとできる堤体内からの出土須恵器に注目し、報告書(注①)を精査したところ、東門付近の木樋遺構SX050とその木樋付近SX051から須恵器が出土していました(第5次)。これらの土器は水城堤体内部(基底部)からの出土であり、築造当時までに使用あるいは廃棄されていたものですから、その土器年代以後に水城が築造されたことを意味します。
 『水城跡 下巻』192頁の図面(Fig156)に掲載された須恵器はSX050(坏身1点)とSX051(坏蓋5点、坏身6点、高坏の脚2点)の14点ですが、高坏の2点を除けばいずれも坏Hと呼ばれる型式の須恵器坏です。他方、山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注②)では次の説明がなされています。

 「水城跡では水処理を目的とした木製の箱型の暗渠である『木樋』が土塁の下に設置されているが、木樋の設置坑は長さ80㍍にわたって水城を縦断するように土塁の構築中に設定され、土塁の構築とともに埋められていた。5次と62次調査ではこの設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」202頁

 更に「第2表 遺跡出土遺物表」(213頁)中の「水城跡」「5次」「SX050,051」欄の坏Hと坏Gに「○」印があり、同木樋遺構から須恵器坏HとGが出土していることを指示しています。しかし、土器の図面(Fig156)には坏Gが見当たらないので、わたしは困惑しました。しかし、太宰府市教育委員会の考古学者である山村さんが、「設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」と明記していることから、少量の坏Gが伴出していることを疑えません。従って、図面(Fig156)に掲載された14点以外にも須恵器が出土していたと考えざるを得ません。更に、「短脚の高坏が一定量出土」という表記からも、図面(Fig156)に掲載されている2点以外にも「一定量」の高坏が出土したことがうかがえます。
 このことから、水城堤体内(木樋遺構SX051)から出土した須恵器の全てが報告書に掲載されているわけではないことに気づいたのです。ですから、正確な土器セリエーションを確立するためには、報告書に掲載されていない全ての出土須恵器のデータが必要となるわけです。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』192頁Fig156に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。
②山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2693話 2022/03/03

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (3)

 山村信榮さんが「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」で説明されたように、確実な須恵器セリエーション分類のためには出土土器のサンプル数が重要です。この分類方法そのものはそれほど難解ではないのですが、文献史学の研究者には困難な課題が少なくありません。わたしの経験だけでも次のようなハードルがあり、未だに解決できていない問題もあります。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器杯H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 上記の(a)(b)については説明は不要と思いますので、(c)(d)の具体例を紹介します。(つづく)


第2692話 2022/03/02

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (2)

 太宰府関連遺構の全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)にセリエーションという考古学の専門用語が用いられており、とても興味深い内容でした。出土土器のセリエーションという現象の比較による詳細な太宰府遺構の相対編年がなされており、その説得力を高める工夫がなされています。この山村論文では従来の編年について次のように指摘しています。

 「大宰府の成立を概観する際に重要な時間軸についても解決すべき課題がある。九州における大宰府成立期に係わる考古学的な時間軸は、遺跡から出土する頻度の高い須恵器が用いられてきた。(中略)しかし、型式と期の設定を同一化し、設定した土器型式を、重箱を重ねる方式で時間軸をたてる方式には問題点があり、研究史や新たな編年案についてかつて考察したことがある。また、実年代に関わる諸問題についても指摘した。」199頁

 こうした従来の相対編年方法に替えて、次のようなセリエーションの概念を導入した編年方法を明示しています。

 「本稿においては九州編年における『期』として括られた遺物の一群から一つの典型的な型式を抽出し、型式間には時間の流れに従った量的増減がありながらの共伴を認め、新しい型式の出現をもって期を区切る考え方で時間軸を立てる。」200頁

 そして、六~七世紀の須恵器杯H・G・Bのセリエーション(共伴状況)とその時間帯(フェイズ)を具体的に説明され、各遺構の編年を設定しています。同時にこの編年作業の難しさや限定条件についても触れています。

 「(前略)一つの遺構が存在した厳密な時期を知るためには埋没した環境が知られることや、一定量の同器種複数系統の土器が出土する必要がある。現実的には本論で取り扱う官衙や古代山城の特定の一つの遺構や層から多量の土器が出土するのは稀で、少量の土器が示す時期には不確実性がある。しかし、同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土であっても一定の時間的変遷の傾向は遺物群の前後関係から見て取れる場合が少なくない。遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の存在した時期を知ることはできる。」200頁

 山村さんはこのように土器のセリエーションによる遺構・層位の存在時期の幅(フェイズ)の判断の可能性について述べられており、いずれも重要な視点が含まれています。具体的には次の視点です。

(1) 少量の土器が示す時期には不確実性がある(注②)。
(2) 同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土でも一定の時間的変遷の傾向は見て取れる場合が少なくない。
(3) 遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の時期を知ることはできる。

 (2)(3)の視点は、巨大遺構である大野城や水城の編年に活かされており、山村さんは出土須恵器セリエーションに基づいて、両遺構の造営時期などについて、「現状では大野城の築造開始期は『日本書紀』の記述に沿う形で理解しておく。ともあれ、出土した須恵器の土器相が水城と整合的であることを指摘しておきたい。」(203頁)としています。すなわち、両遺構の須恵器セリエーションによる相対編年と暦年とのリンクに『日本書紀』の記事(注③)が採用されていることから、大野城と水城の築造開始時期を七世紀第3四半期と〝現状では理解〟されているようです。
 ちなみに、わたしは水城の完成時期を考古学エビデンスによれば七世紀中葉頃(『日本書紀』天智三年(664)水城築造記事の年代を含む。注④)、大野城はその規模の巨大さから完成は七世紀中葉(注⑤)で、築造開始は七世紀前半まで遡ると考えた方がよいと思っています。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②服部静尚「孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白」、古田史学の会・関西例会、2022年2月。同発表の質疑応答で、セリエーションによる相対編年を行う際の、母集団として必要な出土土器サンプル数についての筆者からの質問に対して、25点との返答がなされた。同研究は古田学派による初めての本格的な須恵器セリエーションの採用であり、注目される。
③『日本書紀』によれば水城の築造記事が天智三年(664)条、大野城の築城記事が天智四年(665)八月条見える。
④古賀達也『洛中洛外日記』2620話(2021/11/24)〝水城築造年代の考古学エビデンス(3)〟において、次のように述べた。同要旨を転載する。
〝水城築造年代のエビデンスとできるのは、堤体内から出土した土器です。堤体内からの出土土器は少数ですが、水城の基底部に埋設した木樋の抜き取り跡から須恵器杯Gが出土しています。他方、水城の上や周囲から出土した主流須恵器が杯Bであることを併せ考えると、水城の築造年代は杯Gが発生した7世紀中葉以降かつ杯B発生よりも前ということができます。具体的年代を推定すれば640~660年頃となり、「7世紀中葉頃」という表現が良い。〟
⑤大野城大宰府口城門から出土したコウヤマキ柱根最外層の年輪年代測定が648年とされており、大野城築造が650年頃まで遡る可能性がある。

 

【写真】大宰府政庁出土土器編年図(参考図です)


第2691話 2022/03/01

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (1)

 太宰府関連遺構の造営年代の研究のため、七世紀の須恵器編年の報告書や論文を読んできました。その中で全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)に興味深い言葉が用いられていました。それはセリエーションとという考古学の専門用語です。web上の論稿(注②)では次のように説明されています。

 「セリエーションとは、何だろうか?代表的には、以下のような説明がなされている。
 身辺の流行現象を見ればわかるように、モノは突如出現するわけでもないし、それ以前からあった同種のモノに直ちに置き代わるわけでもない。新しいモノは次第にあるいは急速に台頭し、それに合わせて、古いモノは次第に姿を消す。こうしたモノの変遷を視覚的・数量的に示す手法がセリエーションである。アメリカ考古学で開発されたこの方法(後略)」(上原真人 2009 「セリエーションとは何か」『考古学 -その方法と現状-』放送大学教材:129.)

 従来の考古学の土器編年では、ある遺構や層位から出土した主要土器、あるいは最も新しい土器の編年をその遺構・層位の年代とすることが通例でした。しかし、実際は複数の年代の土器が混在しているので、その混在率を数値化して相対編年するという考え方は実に合理的な方法です。
 こうしたセリエーションという考え方や編年方法を、表現は違いますが古田先生は30年ほど前から主張されていました(注③)。そのことを古田先生からお聞きしたのは、わたしの記憶では佐賀県吉野ヶ里から弥生時代の環濠集落が発見されて話題になっていた頃だったと思います。このセリエーションという概念はとても重要ですから、わたしも前期難波宮に関する論稿(注④)で触れたことがあります。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②「第2考古学」セリエーション[総論] https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2017/04/08)〝古田先生の土器編年の方法〟
【以下、転載】
 近年、わたしは考古学土器編年について勉強を進めてきました。その結果、土器の相対編年は研究者によってずれが見られるものの、比較的信頼できるのではないかと考えるようになりました。従来、古田学派の研究者は土器の相対編年は近畿を古く見て、筑紫は新しくする傾向にあり、信頼できないとする見解が多数だったのです。時には100年以上のずれが発生しているとする見解さえありました。わたし自身も永くそのように捉えてきました。
 しかし、考古学者も一元史観に基づいているとはいえ、それなりの出土事実に基づいて編年されているのですから、彼らがどのような論理性により土器の相対編年や暦年とのリンクを組み立てているのだろうかと、先入観を排して発掘調査報告書を見てきたのですが、特に大阪歴博の考古学者による難波編年がかなり正確で、文献史学との整合性もかなりとれていることがわかったのです。
 そして近年は筑紫の土器編年について考古学者の論稿を精査してきたのですが、これもまたそれほど不自然ではないことがわかりました。現時点でのわたしの理解では、北部九州では20~30年ほどのずれをがあるのではないかと考えていますが、土器の1様式の流行期間が従来の25年ほどとする理解よりも長いとする見解が出されていることもあって、編年観そのものは比較的正確ではないかと感じています。
 わたしは土器の相対編年の方法について、20年以上前に古田先生から次のようなお話をうかがったことがあります。それは、遺構から複数の様式の土器が出土したとき、その中の最も新しい土器の年代をその遺構の年代としてきた当時の編年方法に対して、複数の様式の土器が出土した場合は各様式の土器の割合で遺構ごとの相対編年を比較すべきという考え方でした。自然科学の「正規分布」の考え方を土器の相対編年においても援用する考え方で、現在の考古学ではこの考えが受け入れられています。古田先生の先見性を示す事例といえます。
 わたしはこうした古田先生の先進的な土器相対編年の考え方を知っていましたので、ある遺構から新しい様式の土器が少数出現したからといって、その新しい様式が流行した年代をその遺構の年代とするのは学問的には誤りと考えていました。ですから、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、その整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土することを理由に、前期難波宮造営年代を須恵器坏Bが流行した天武期とする論者があったのですが、その学問の方法は誤りであると反論してきました。
 考えてもみてください。ある土器様式が発生したとたん、それまでの土器様式が無くなって新様式の土器だけが出土することなど絶対にありえません。土器様式の変遷というものは、発生段階は少数でそれ以前の土器に混ざって出土し、流行に伴って多数を占め、その後は新たに発生した新新様式の土器と共存しながら、やがては出土しなくなるという変遷をたどるものです。これは自然科学では極めて常識的な考え方(正規分布)です。近年ではこの考え方をとる考古学者が増えているようで、ようやく古田先生の見解が考古学界でも常識となったようです。
【転載おわり】
 ここでは、前期難波宮の整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土したと書いたが、後にそれは不正確な情報に基づいていたことに気づいた。現在では前期難波宮整地層からは須恵器杯Bは出土していないと理解している。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構」―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
「続・前期難波宮の学習」『古田史学会報』114号、2013年2月。


第2686話 2022/02/19

七世紀の須恵器「服部編年」

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月、3月19日(土)はアネックスパル法円坂で開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会で見事だったのが服部静尚さんによる、飛鳥・難波・河内の七世紀の須恵器編年「服部編年」の発表でした。当研究は昨年12月に開催された大阪歴史学会考古学部会で発表されたもので、概要については同月の関西例会でも報告されましたが、今回は諸遺跡の新編年を提示・詳述されました。
 まず、服部さんは飛鳥と難波・河内の須恵器編年において、次の三点の基準を示されました。

1. 飛鳥と難波・河内は文化的に一体とみなし、これらを包含する基準とする。飛鳥編年に難波宮・狭山池を加える。
2. 各編年は須恵器「杯」に集約されると見られる。これに焦点を合わせた基準とする。杯H・G・Bの数量比率を中心に。
3. 考古学の所見を編年基準にする。年輪年代・干支年木簡を編年基準に。

 この三基準により各遺跡を編年すると、『日本書紀』の記事に基づいた従来の飛鳥編年とは全く異なる年代観が現れました。この新たな「服部編年」は基準が合理的で、杯H・G・Bの出土数量比率を中心に編年するという方法が簡明であり、その論理構造は強固(robust)です。論文発表が待たれます。

 発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①胡床と朝床とあぐらをかく埴輪 (大山崎町・大原重雄)
②乙巳の変と九州王朝の関係についての一考察 (茨木市・満田正賢)
③孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白 (八尾市・服部静尚)

(参考)
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@29:01@DSCN0458
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@12:41@DSCN0461
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@09:58@DSCN0463
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@06:32@DSCN0464

④アサクラの語源について (東大阪市・萩野秀公)
⑤長田王の「伊勢娘子の歌」は隼人討伐時に糸島でよまれた歌 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 03/19(土) 10:00~17:00 会場:アネックスパル法円坂
 04/16(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

 


第2669話 2022/01/27

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)

 通古賀(とおのこが)地区以外に政庁地区にもⅠ期の掘立柱建物がありますが、正殿後方の東北側にある後殿地区建物(SB500a、SB500b)の下層から政庁Ⅰ期当時の木簡が出土しています。調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には次のように紹介されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする根拠とされた次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 ここに見える「竺志前」が「筑前」の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された八世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝により行われたことが、わたしたちの研究(注②)で判明しています。ですから「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀第3四半期以前まで遡るとしても問題ありません。
この政庁東北部地区からは八世紀初頭頃に至る多くの木簡やその削り屑が出土しており、当地に木簡を取り扱う役所があったのではないかと考えられています。しかし、政庁Ⅰ期時代の中心地と思われる通古賀地区(字扇屋敷)からは離れていますので、どのような役所があったのか未詳です。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」同前。
 正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
 同「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2668話 2022/01/25

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡 (1)

 太宰府の高級官僚、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介しましたが(注①)、『日本書紀』持統天皇五年正月条(注②)によれば、その29年前の662年(白鳳二年)に筑紫大宰府典を拝命したとありますから、大宰府政庁Ⅰ期からⅡ期にかけての時代の官僚であることがわかります。
 大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。しかし、わたしの研究では大宰府政庁Ⅰ期の時代は七世紀中葉頃で、Ⅱ期の造営は観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と思われます(注③)。そこで、政庁Ⅰ期の太宰府の考古学的痕跡について調査し、その実態について考察してみます。
 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の研究(注④)によれば、太宰府条坊と政庁Ⅰ期の造営は同時期とされており、その時代の中心地は右郭12条4坊付近に位置する王城神社(小字「扇屋敷」)がある通古賀(とおのこが)地区とされています。同地区からは七世紀の土器の出土があり、条坊内では比較的古い土器とのことです。従って、朝堂院様式の政庁Ⅱ期の宮殿ができる前は通古賀に王宮があった可能性が大です。この他に政庁Ⅰ期当時の木簡が多数出土する場所があります。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2667話(2022/01/23)〝太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益〟
②「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・絁十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条
③古賀達也「洛中洛外日記」2632話(2021/12/10)〝大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)〟
④井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。


第2658話 2022/01/10

大宰府政庁造営尺と唐開元大尺

 大宰府政庁正殿などの造営基準尺は29.4cmであり、晋後尺(24.50㎝)の1.2倍であることから、「南朝大尺」と仮称したのですが(注①)、この29.4cmと同じ長さの「唐玄宗開元大尺」があることを山田春廣氏がブログ(注②)で紹介されていました。そこで、先日のリモートでの勉強会のおり、山田さんにその詳細を教えていただきました。
 「唐玄宗開元大尺」とは唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めた尺とされており、鉄製のモノサシが現存しているとのことでした。鉄製ですから木製や骨製よりも経年劣化や乾燥などによる収縮もはるかに少ないはずですから、1尺29.4cmという数値は信頼性が高いと思われます。また、開元年間(713年~741年)になって初めて作られた尺ではなく、隋・唐代において複数あった尺の中から、より広く採用されていたものを基準尺として公認したのではないかとのことでした。
 そうであれば、大宰府政庁造営基準尺として九州王朝(倭国)で採用されていた「南朝大尺」と同じものが中国でも使用されていたことになります。太宰府政庁Ⅱ期の造営年代を七世紀の第Ⅲ四半期頃とわたしは考えていますので、時代的にも対応しているようです。これは偶然の一致とするよりも、七世紀における両国の交流が度量衡にも及んでいたためと考えるべきではないでしょうか。もしそうであれば、短里(1里約77m)を採用していたと思われる九州王朝の公認里単位への影響も考える必要があるかもしれません。山田さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
②山田春廣「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に次の記事が収録されている。以下、転載する。
【転載】
 先の記事「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―2021年12月20日(月)で藤田元春「尺度の研究」(PDF)に載っていた「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説を紹介しました。そこに挙げられていた「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているものです。
 文化遺産オンラインを調べていたら、面白いモノサシを見つけました(リンクを貼ってあります)。単位はセンチメートルです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25 1本
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5 1本
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5 1本

 何が「面白い」のかといえば、文化遺産オンラインに載っている「唐小尺 金工 長さ24.3(cm)」というのは、魏の「正始弩尺(24.30㎝)」であり、同じく「唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5(cm)」というのは、「晋後尺(24.50㎝)」であり、「唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4(cm)」というのは、古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で古賀さんが指摘している大宰府政庁Ⅱ期の「正殿」「後殿」で用いられている「南朝大尺(29.4㎝)」と完全に一致しているのです。
 唐の李淵が隋を滅ぼして支那大陸を統一(618年)してから開元元年(713年)まで凡そ百年経過しているにも関わらず、江南を中心に「魏・正始弩尺(24.30㎝)」「晋後尺(24.50㎝)」さらに「南朝大尺(29.4㎝)」=「晋後尺(24.50㎝)の1.2倍尺)」が用い続けられていたため、玄宗皇帝は「唐小尺(24.3㎝)」「開元小尺(24.5㎝)」「開元大尺(29.4㎝)」を定めて度量衡の統一を図ったのではないかと思われます。


第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2654話 2022/01/04

うきは市で双方中円墳を確認

 今年も多くの方々から年始のご挨拶が届きました。ありがとうございます。久留米市の菊池哲子さんからは、とても興味深い情報が寄せられましたので紹介させていただきます。
 いただいたメールによれば、昨年末、うきは市から全国でも珍しい双方中円墳が発見されたとのこと。12月29日付の西日本新聞(本稿末にWEB版を転載)によれば、うきは市の西ノ城(にしのしろ)古墳を調査したところ、全国でも4例ほどしか発見されていない双方中円墳であることが確認され、双方中円墳としては最も古い三世紀後半の築造と推定されています。菊池さんは他地域の双方中円墳の原型ではないかとされ、貴重な発見と思われました。
 双方中円墳について急ぎ調べたところ、西ノ城古墳を含め次の5例が知られています。築造年代順に並べます。

名称    所在地     築造年代  墳丘全長
西ノ城古墳 福岡県うきは市 三世紀後半 約50m
猫塚古墳  香川県高松市  四世紀前半 約96m(積石塚)
鏡塚古墳  同県高松市   四世紀前半 約70m(積石塚)
稲荷山北端1号墳 同県高松市 四世紀前半 不明(円丘部径約28m、南側方丘部長約20m)
櫛山古墳  奈良県天理市  四世紀   152m
明合古墳  三重県津市   五世紀前半 約81m
               ※ウィキペディアなどによる。

 西日本新聞に掲載された桃崎祐輔さんの見解では、大和朝廷一元史観の通説に基づいて「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」とされており、九州大学の西谷正さんは「大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう」と解釈されています。しかし、上記のように築造年代は、九州から四国へ、そして近畿・東海へと伝播していることを示唆していますし、分布数を重視すれば、高松から九州や近畿に伝播したと考えることもできそうです。少なくとも上記の考古学的事実が、〝大和から瀬戸内海地方を通って大分⇒日田⇒うきは〟という伝播の根拠には見えません。大和朝廷一元史観というイデオロギーが先にあって、それに合うように考古学的事実を解釈しているのではないでしょうか。
 今回の発見を機に双方中円墳の発生経緯を考えてみました。通説では弥生時代の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)がその原型として指摘されていますが、わたしは吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓(紀元前一世紀)に注目しています。同墳丘は長方形(南北40m×東西27m)に近い形状と推定されており、複数の甕棺が埋納されています。うきは市の西ノ城古墳も墳丘から複数の埋葬施設が出土しています。他方、倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼の墓は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあるように、円墳です。このことから、首長を葬る円墳と、複数の人々を埋葬する方形墳丘とが一体化して築造されたものが双方中円墳へと発展したのではないでしょうか。これは一つのアイデア(作業仮説)に過ぎませんが、ここに提起し、引き続き副葬品などの調査検討を行います。
 情報をお寄せいただいた菊池哲子さんに御礼申し上げます。

《西日本新聞WEB版 2021/12/29》
双方中円墳、九州で初確認
福岡・うきは市の西ノ城古墳

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されておらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。
 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。
 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。
 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。(渋田祐一)

国家の形成過程分かる

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。