「 考古学 」一覧

第1650話 2018/04/13

古代日本銘文鏡のフィロロギー

 「洛中洛外日記」1646話(2018/04/10)「縄文神話と縄文土器のフィロロギー」で、『古田史学会報』145号に掲載された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」の画期性について述べました。古代人の思想性や精神文化をフィロロギーにより復元する方法として、縄文土器の文様を史料として採用するという着眼点が素晴らしい論文でした。
 このように従来は思想史の史料として省みられなかった物について、古田先生から託されたテーマがあります。30年ほど前のことだったと思いますが、三角縁神獣鏡に記された銘文について、学界は単なる中国伝来の「吉祥句」として受け止めているが、これら国産鏡に記された銘文は当時の日本人の思想や価値観を著した第一級の同時代史料であり、フィロロギーの研究対象であると古田先生からうかがいました。そして誰かこの研究をやってもらいたいとも言われました。
 このときの先生の言葉が今でもときおり脳裏に浮かぶのですが、わたしの研究対象から外れていたこともあり、全く手をつけてきませんでした。ところが今回の大原論文に触発され、少しずつでも始めなければ冥界の先生に叱られるのではと思うようになりました。
 三角縁神獣鏡の紋様や銘文についての古田先生の見解については「三角縁神獣鏡の盲点」(古田史学の会HPに収録)が参考になります。どなたか一緒に研究しませんか。


第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。

 


第1648話 2018/04/12

発見された後期難波宮の大規模区画と官衙群

 前期難波宮には律令官制に対応した東西の官衙遺構が発見されています。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究によれば、律令官制を支える中央官僚は八千名に及ぶとの試算が示されています。他方、前期難波宮の上部に造営された聖武天皇の後期難波宮には前期難波宮のような大規模官衙遺構の発見がありませんでした。
 ところが、大阪文化財研究所発行『葦火』185号(2017年4月)に高橋工さんの「後期難波宮西方で官衙地区を初めて発見」という報告が掲載されていることに気づきましたので紹介します。
 発見された遺構は難波宮史跡公園の西、大阪医療センター内に位置し、後期難波宮の五間門区画の塀と官衙(役所)建物群が見つかりました。8世紀の土器が出土しており、後期難波宮の遺構と見て問題ありません。しかも南北の規模は約200m、東西は100m以上あることもわかりました。これは内裏をも凌駕する規模をもっていた可能性もあるとされています。
 今回の調査区は「五間門区画」と呼ばれているもので、後期難波宮大極殿の西方にあり、東面に2棟の五間門を持つ、掘立柱塀を巡らせた一画です。五間門は宮殿の正門などに採用される格式の高い門とされ、この区画を天皇や上皇の御在所とする説もあるそうです。その南側からは堀立柱建物群も発見されており、これらは官衙の一部と見られています。このことから「五間門区画」の南方に官衙群が展開していたと推定されています。
 後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇によって造営が始められ、天平16年(744)に一時的に皇都として定められましたが、遷都期間が短かったこともあり、実際に都の機能を有していたか不明でした。しかし今回の発見により、政治を行う機能が備わっていたことが証明されたと思われます。このことは多元史観・九州王朝説にとっても無関係ではありません。今後、七世紀における九州王朝の都城を論じる場合、宮殿だけではなく、律令官制の中央官僚群が政務に就いていた大型官衙遺構の出土が不可欠となったからです。
 たとえば、7世紀における律令官制による全国統治が可能な官衙遺構を持つ王都は、太宰府(倭京)、前期難波宮(難波京)、近江大津宮(近江京)、藤原宮(藤原京)が知られています。7世紀において、これら以外の地に九州王朝(倭国)の王都があったとする場合は、宮殿・官衙遺構の明示を一元史観論者から求められることでしょう。この一元史観論者からの指摘や批判に答えられるような理論構築がわたしたち古田学派の研究者には必要です。先月発行した『発見された倭京 太宰府都城と官道』もそうした取り組みの一環なのです。


第1647話 2018/04/11

後期難波宮の基幹排水路と谷の整地

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』188号(2018年1月)に高橋工さんによる「後期難波宮の石組 基幹排水路を発見」という発掘調査報告が掲載されており、その中に興味深い記事がありましので、ご紹介します。
 今回発見されたのは後期難波宮の東側に南北に伸びる基幹排水路で、前期難波宮造営時に埋め立てられた谷の整地層(厚さ2.4m以上)の上に造られた石組溝として出土しました。この溝について、次のように説明されています。

 「これらの溝は、宮殿の雨水や廃水を集めて流した基幹的な排水溝とみてよいでしょう。排水溝に集まった水は、地形にそって南へ流れ、調査地付近で暗渠となって、整地層の下から埋められていない谷へ排出されたものと考えられます。」

 そして、わたしが最も注目したのは次の指摘です。

 「整地層の分布から、宮殿の中枢部に近い谷の北部のみを埋め立て、調査区より南側は谷が埋め立てられずに残っていたとみられます。また、整地層のすぐ北側には、朱雀門から東へ延び、宮の南を画する塀があるはずです。塀のすぐ外側は谷が埋め立てられていなかったことになり、大規模な土木工事である整地が、必要最小限の範囲で行われたことを示しているとみてよいでしょう。」

 このように前期難波宮造営時に、上町台地に入り組んでいる急峻な谷を平地にまで埋め立てているものの、それは必要最小限だったようです。逆から言えば、宮殿造営に必要であれば大きな谷も埋め立てたということを意味します。次のような記述もあります。
 「調査区はこの谷を東西方向に横断していたので、谷の幅が約40mであることがわかりました。谷の中は、約3.5m掘っても底が出なかったので、それ以上の深さです。
 これほど急峻な谷は、難波宮を造営する際には障害となったはずです。実際、この谷は2.4m以上の厚さをもつ整地層で埋め立てられ、平地として造成されていました。」

 前期難波宮朱雀門の南側に谷が入り込んでいることを根拠に、難波京には朱雀大路が無かったとする見解があったのですが、今回の調査で、宮殿のすぐ側で平地にまで埋め立てた整地層が発見されたことにより、難波京造営にあたり、朱雀大路にかかる谷も埋め立てられたと考えてもよいと思われます。難波宮は発掘調査のたびに新発見が続き、前期難波宮九州王朝副都説を提唱するわたしとしては目が離せません。


第1646話 2018/04/10

縄文神話と縄文土器のフィロロギー

 『古田史学会報』145号で発表された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」は「古田史学の会」関西例会での発表を論文化したものです。大原さんの発表を聞いたとき、わたしはその学問の方法と縄文神話という未知の領域に挑んだ画期的な研究に驚きました。そして同時に脳裏に浮かんだもう一つの論文がありました。
 古田武彦「村岡典嗣論 時代に抗する学問」(『古田史学会報』38号、2000年6月)です。『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店、2016年)にも収録した、古田先生にとっての記念碑的論文です(自筆原稿を古田先生から記念にいただきました。古賀家の家宝としています。自筆原稿の写真も『古田武彦は死なず』に掲載)。
 その中で村岡典嗣先生の論文「日本思想史の研究方法について」を紹介された部分があります。村岡先生がドイツのアウグスト・ベエクのフィロロギーを日本思想史として取り入れられたのですが、その思想史という学問について古田先生は次のように紹介されました。

「第一に、思想史は、『ある意味において文化史に属する』こと。
 第二に、外来の思想を摂取し、その構成要素としつゝも、その間に、何等かの『日本的なもの』を発展して来たところ、そこに思想史の目標をおかねばならぬこと。
 第三に、外国における日本思想史学の先蹤として、第十八世紀の末から第十九世紀へかけて、ドイツの学界において学問的に成立した学問として『フィロロギイ』が存在すること。
 第四に、その代表者たるアウグスト・ベエクがのべている『人間の精神から産出されたもの、則ち認識されたものの認識』という定義がこの学問の本質をしめしている。
 第五に、ただし『思想史の主な研究対象といへば、いふまでもなく文献である。』
 第六、宣長が上古、中古の古典、即ち古事記や源氏物語などの研究によつて実行したところは、十分な意味で、『フィロロギイと一致』する。」

 そして、古田先生はこの村岡先生が取り扱われた学問領域について、次のように「批判」されています。

 「以上の論述の中には、今日の問題意識から見れば、矛盾とは言えないけれど、若干の問題点を含んでいると思われる。
 その一は、縄文時代における『人間の認識』だ。右の論文の記せられた昭和初期(発表は九年)に比すれば、近年における縄文遺跡の発掘には刮目させられる。三内丸山遺跡はもとより、わたしが調査報告した足摺岬(高知県)の巨石遺構に至るまで、当時の『認識範囲』をはるかに超えている。おびただしい土器群と共に、これらが『人間の認識』に入ること疑いがない。先述のベエクの定義によれば、これらも当然『フィロロギイ』の対象である。彼が古代ギリシヤの建築・体育・音楽等をもその研究対象としている点からも、この点はうかがえよう。
 確かに、縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」

 この最後の部分にある「縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」という指摘を思い出したのです。
 古田先生が待望されていた縄文世界の真相に肉薄する「その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文」が大原論文であり、わたしたち古田学派の中から生まれた研究と言っても過言ではないと思います。古田先生が生きておられたら、大原さんの研究を高く評価されたことでしょう。


第1644話 2018/04/08

百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)

 観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦を根拠に、観世音寺に先だって建立された「仮設寺院」に観世音寺の本尊となる百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたとする作業仮説(思いつき)に至りましたが、それではその「仮設寺院」は何と呼ばれていたのでしょうか。また、百済系単弁瓦の編年において、一元史観の通説では7世紀後半から7世紀末とされているのですが、この問題について更に深く考えてみました。
 まず寺院名ですが、素人判断では阿弥陀如来像を本尊とするのであれば観世音寺では不自然な気がします。観世音寺であれば観世音菩薩像を本尊にしてほしいところです。しかしながら観世音寺の本尊が阿弥陀如来像であったことは文献に見えており、疑えません。したがって、現時点では「仮設寺院」の名称は不詳とせざるをえません。
 次に「仮設寺院」の創建年代ですが、わたしの説に対応させるのであれば、創建観世音寺が白鳳10年(670)ですから、「仮設寺院」は百済系単弁瓦の編年から7世紀前半頃となるのですが、実は本テーマを執筆していてもう一つの可能性にも言及する必要があることに気づきました。それは通説の編年観に立った場合、観世音寺寺域に先在した百済系単弁瓦の「仮設寺院」が、『二中歴』や『勝山記』などに白鳳10年に創建されたとある「観世音寺」ではなかったかという可能性です。もしそうであれば、いわゆる天智により発願された観世音寺はその「仮設寺院」を取り壊して、同じ場所に造営された創建観世音寺(完成は8世紀前半とする)ということになります。これですと、通説の編年と矛盾無く整合します。
 この問題の鍵は百済系単弁瓦が九州王朝(倭国)で7世紀後半まで採用されたのか否かというテーマとも関連しており、引き続き検討を続けたいと思います。


第1632話 2018/03/25

向井一雄『よみがえる古代山城』を読む

 今日は久しぶりに用事がなかったので、向井一雄さんの『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』(吉川弘文館。2016年)を読みました。同書は書店で立ち読みしたことはあったのですが、まだ購入していませんでした。ところが過日の久留米大学での講演会で、菊池市から見えられた吉田正一さんから同書中の「九州王朝築城説」部分のコピーをいただき、そこに古田説の紹介と批判がありましたので、先週末、名古屋出張のときに購入しました。
 著者の向井さんは古代山城研究会の代表で、その分野を代表する研究者です。従って、考古学的知見だけではなく文献にも詳しく、とても勉強になる好著です。しかしながら、同書は終始一貫して近畿天皇家一元史観に貫かれており、それにあうように古代山城の考古学的事実を解釈されています。そのため古代山城研究の第一人者としての説得力ある部分と、一元史観に依拠したための避け難い弱点が併存しています。
 これから同書を精読し、多元史観・九州王朝説による批判的対比と検討を進めていく予定です。(つづく)


第1630話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(3)

 水城築造年次を考察するあたり、その築造開始年と完成年など築造期間年数についても最後に触れておきたいと思います。
 水城基底部から出土した敷粗朶は土と交互に何層も積み上げられ、その上に版築層がまた積み上げられています。こうした遺構の状況から、当初、わたしは何十年もかけて水城が築造されたと漠然と理解していました。しかし、発掘調査報告書を精査することより、水城は数年という短期間で完成したのではないかと考えるようになりました。既に「洛中洛外日記」などで紹介してきましたが、このことについて改めて説明します。

①敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていた。
②平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見された。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたもの。
③その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層は短期間で築造されたと考えられる。
④基底部を形成する敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造もそれほど長期間を必要としない。
⑤その基底部の上に形成された版築層も1年以内で完成したと考えられる。版築は梅雨や台風の大雨の時期を挟んでの工事は困難である。従って秋の収穫期を終えた農閑期に行わなければならず、翌年の梅雨の季節前に完成する必要がある。従って、版築工事は1年以内の短期間に完了したと考えざるを得ない。

 以上の諸点を考えると、水城築造は数年で完成したと考えるべきですし、それは可能と思われます。従って、築造開始は唐・新羅との開戦を目前にして、白村江戦前から始まり、白村江戦敗北の翌年に完成したと考えても問題ないと思います。(了)


第1629話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(2)

 水城基底部出土の敷粗朶の理化学的年代測定値からすると、水城造営年(完成年)を白村江戦後とする理解が比較的妥当であることがわかるのですが、わたしが白村江戦後とする理由で最も重視したのは『日本書紀』編纂の論理性でした。『日本書紀』には次のように水城築造が記されています。
 「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
 『日本書紀』編纂において、近畿天皇家は自らの大義名分に沿った書き換えや削除は行うかもしれません。水城築造記事においても築造主体について九州王朝ではなく「近畿天皇家の天智」と書き換えることはあっても、その築造年次を白村江戦後へ数年ずらさなければならない理由や動機がわたしには見あたらないのです。ですから天智紀の築造年次については疑わなければならない積極的理由がありません。
 古田先生は、白村江戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがないということを水城築造を白村江戦以前とする根拠にされたのですが、これも厳密に考えるとあまり説得力がありません。というのも『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)です。従って、水城を築造したとする天智三年(664)は唐軍二千人の筑紫進駐以前であり、白村江戦敗北(663)の後に太宰府防衛のために水城を築造したとする理解は穏当なものです。すなわち白村江戦敗北後の天智三年(664)に水城築造ができないとする理解にはそもそも根拠がなかったのです。
 この件について「古田史学の会」の研究者とも意見交換していますが、今のところ賛成意見はなく、古田学派内ではわたし一人だけの極少数説です。かつ研究途上のテーマであり、わたし自身ももっと深く検討を続けるつもりです。その結果、もし間違っているとなれば、もちろんこの説は撤回します。(つづく)


第1627話 2018/03/13

水城築造は白村江戦の前か後か(1)

 「洛中洛外日記」で連載した「九州王朝の高安城」を読まれた「古田史学の会」の何名かの会員さんから、「水城の築造は白村江戦より前ではないのですか」というご質問を頂いています。古田先生から“白村江敗戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがない。『日本書紀』には水城築造を天智3(664)年と記されているが、実際は白村江戦以前の築造である。”との指摘がなされてからは、古田学派では水城築造を白村江戦以前とする理解が大勢となりました。わたしもそのように考えてきました。
 ところが、近年、水城の考古学発掘調査報告書を精査する機会があり、水城築造は『日本書紀』の記述通り664年としても問題なく、むしろ白村江戦以前と理解する方が困難ではないかと考えるようになったのです。そうしたわたしの意識の変化を敏感に感じ取られた「洛中洛外日記」読者から、先の質問を頂いたものと思います。そこで、わたしの水城築造年次についての見解が変化した理由について説明したいと思います。
 わたしの水城築造を白村江戦後と考えるに至った道筋は次のようなものでした。わかりやすく箇条書きで説明します。

①水城は基底部とその上の版築部、そしてそれに付随する城門や道路などからなる。その基底部から出土した敷粗朶工法の敷粗朶の炭素同位体比年代測定によれば、最上層の敷粗朶の中央値が660年である。
②その基底部の上に版築土塁が築造されていることから、水城土塁部の完成は660年+αとなる。
③さらに城門などの建築、道路の敷設を含めると全体の完成は更に遅れると思われる。
④炭素同位体比年代測定には幅や誤差が含まれるため、完成推定年も幅を持つが、白村江戦(663年)よりも後と見た方が穏当であるが、白村江戦以前の可能性もないわけではない。
⑤少なくとも、こうした理化学的年代測定による年代推定値と『日本書紀』の天智3年(664)の造営記事は矛盾しない。

 以上のように、理化学的年代測定値は『日本書紀』の記事を否定せず、むしろより整合していると考えられるのです。もちろん、測定誤差や測定年次幅があることを考えると、白村江戦以前とする古田説も成立する余地があります。(つづく)