「 考古学 」一覧

第1948話 2019/07/25

奇想天外の「お墓参り」論

 服部静尚さんの講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」では古墳以外に、大和朝廷一元史観の根拠となっている土器についても鋭い指摘がなされました。たとえば、大和で発生し、全国に伝わったとされる庄内式土器の胎土分析結果から、生産地は大和ではなく北部九州や吉備・河内であること、大和から出土した布留式土器の生産地は加賀であったことなど、最新の考古学的知見も紹介されました。なお、これらの新知見は一元史観論者からは事実上〝無視〟されているようです。
 今回の服部さんの講演で、わたしが最も驚いたのが「お墓参り」論という奇想天外の新仮説でした。それは、飛鳥時代の天皇陵の所在地を示され、飛鳥宮からお墓参りするのにまる一日かかるほどの遠距離の地にあり、不自然と指摘されたのです。例えば継体天皇の子供の宣化・欽明が飛鳥から継体天皇陵まで墓参りに行くのに片道三日もかかります。このように天皇が住んでいる王宮から遠く離れた地に父祖の墓(天皇陵)があるのは墓参りに不便であることから、『延喜式』に記されたそれら天皇陵を天皇家の祖先の墓とするのは疑わしいとされました。
 こうした奇想天外の発想は服部さんらしいのですが、わたしが驚いたのはこのアイデアそのものではありません。このアイデア(思いつき)を学問的仮説とするためのエビデンス(根拠)が素晴らしかったのです。
 最初にこの「墓参り」論を聞いたとき、わたしはすぐに次の反証が浮かびました。対馬などに遺る両墓制です。両墓制とは埋葬した墓とは別に遺族の居住地の近くにお墓参りのための墓を造るという制度です。おそらく、お墓を住居の近くに造ることを忌み、そのため離れた場所に埋葬し、日常的なお墓参り(先祖供養)のために住居の近くに「参り墓」を造ったものと思われます。
 この両墓制が天皇家でも採用されていたのではないかという反証が可能なため、服部さんのアイデアは面白いけれども仮説としての論証(両墓制という反証を論理的に排除できる根拠と説明)は困難ではないかと考えたのです。ところが、服部さんは飛鳥時代の天皇陵の位置を記した地図に続けて二枚の地図を示されました。わたしはその二枚の地図(エビデンス)に驚いたのです。それは奈良時代と平安時代の天皇陵をプロットした地図でした。それは奈良時代の天皇陵はほぼ奈良市とその周辺にあり、平安時代には京都市内に天皇陵が造営されていることを示していました。それぞれの王宮(平城宮・平安宮)から日帰りで墓参できるという位置関係に陵墓があるのです。
 これらの事実は、王朝交替後の天皇家は王宮の近辺に天皇陵を造るという風習を持つことを意味し、天皇家が両墓制という風習を持っていたことを否定するのです。少なくとも8世紀以降はそうです。従って7世紀(飛鳥時代)以前の飛鳥から遠く離れた天皇陵(たとえば河内の巨大前方後円墳)を天皇家の墓とすることを疑うに足る論理性(理屈)を服部さんの「墓参り」論は提起しています。
 近年、服部さんが提起された仮説には、「言われてみればその通り」という〝コロンブスの卵〟のような新視点があります。たとえば律令官制による全国支配に必要な官僚は約八千人で、その官僚たちの執務が可能な規模の王宮・官衙遺構と、家族も含めて数万人が居住可能な大都市(条坊都市)の存在(考古学的遺跡)を提示しなければ、律令時代(7世紀)の王朝の都とは認められないという指摘は画期的でした。それまでの考古学的根拠を示さず自説に都合のよい所を九州王朝の都とする古田学派内にあった諸説を木っ端みじんに吹き飛ばしました。
 その結果、この服部さんの「律令官制王都」論による批判に耐えうる仮説として、前期難波宮九州王朝複都説(古賀説)や太宰府飛鳥宮論(服部説)、九州王朝系近江朝論(正木説)、九州王朝系藤原宮論(西村説)などが生き残り、それらの是非を巡って「古田史学の会」関西例会で厳しい論争が続き、今日に至っています。
 更に「律令官制王都」論を発展させた新論証「太宰府条坊都市=首都」も画期的でした。『養老律令』などによれば大和朝廷の律令官制における「大宰府官僚」の人数は九州地方を統括する程度の少人数なのですが、服部さんはそのような少人数であれば、あの大規模な太宰府条坊都市は不要であり、逆から言えば、太宰府条坊都市の巨大さこそ当地が王朝の首都であったことを示しており、この論理性は九州王朝説を支持しているとされました。すなわち、巨大条坊都市太宰府の存在そのものが九州王朝説でなければ説明ができず、その存在が九州王朝説を論証するエビデンスとなっていることを指摘されたのです。
 今回の「墓参り」論など、一連の服部さんの新仮説は奇想天外という他ありません。こうして古田学派の研究水準は一元史観に真正面から対峙する令和時代にふさわしい新段階に突入したのです。


第1947話 2019/07/24

天皇陵編年と天皇即位順の不整合

 前方後円墳の数では大和朝廷一元史観の根拠とはできないことから、一元史観論者は河内・大和に存在する巨大前方後円墳を自説の根拠としました。この根拠が一元史観の最後の拠り所(エビデンス)となっているわけですが、この巨大前方後円墳を天皇陵とすることそのものが学問的論証の上に成立しているのかという根源的疑問を提起されたのが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」でした。そしてその結論として、『延喜式』に記された天皇陵の比定は疑わしいとされたのです。
 その理由の一つとして、天皇の即位順と当該天皇陵の編年が逆転している例をあげ、『延喜式』編纂時の近畿天皇家は自らの祖先の陵墓についての伝承を失っていたと考えざるを得ないとされました。
 服部さんが天皇陵の逆転の事例として、次の天皇陵をあげられました。

○11代垂仁天皇陵(4世紀末〜5世紀初頭)・12代景行天皇陵(4世紀中頃)
○14代仲哀天皇陵(5世紀後半)・仲哀の妻、神功皇后陵(4世紀後半〜5世紀初頭)
○16代仁徳天皇陵(5世紀半)・17代履中天皇陵(5世紀初頭)
○24代仁賢天皇陵(6世紀前半)・26代継体天皇陵(5世紀中頭)

 こうした事例から、服部さんは天皇陵に比定された河内や大和の前方後円墳などは天皇家とは別の在地勢力者の墓ではないかと考えられたのでした。
 この論理性(理屈)は穏当なものと思われますが、更に深く考察しますと、比定された天皇陵の年代は全体としては考古学的編年と大きくは外れていないという事実もあります。「古田史学の会」関西例会でわたしはそのことを指摘し、天皇陵の研究をされていた谷本茂さんも同見解でした。ということは、『延喜式』を編纂した天皇家の官僚たちは、古墳時代の天皇家の陵墓に関する伝承や情報をあまり持っていなかったが、河内や大和の巨大古墳を造営した勢力の伝承についてはある程度知っており、その伝承の年代に合うように各古墳を歴代天皇の陵墓に推定(置き換え)したという可能性を導入しなければならないと思います。
 このように細部にわたる検証は残されていますが、服部さんが指摘された論点は一元史観が最後の拠り所とする巨大前方後円墳に対する根源的批判として成立しており、有力な仮説と思います。(つづく)


第1946話 2019/07/22

前方後円墳の最密集地は近畿ではない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠である巨大前方後円墳の精査に先立ち、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は全国の前方後円墳分布の調査結果にもとづき、その中心(最密集地)は河内や大和、そして近畿でもないことを指摘されました。
 服部さんが紹介された、都道府県別前方後円墳の分布データによれば、前方後円墳の数は近畿よりも関東がはるかに多いことがわかります。これは関東平野が広いということにも関係していると思われますが、それだけ当地の人口や生産力が高いことも意味していると思われます。比較のために近畿地方・中国地方・九州地方のデータも並べておきますが、近畿よりも中国地方が多く、九州は少ないという分布を示しています。
 九州王朝の福岡でもなく、近畿天皇家の奈良でもなく、関東に前方後円墳が多いという事実からは、九州王朝説も大和朝廷一元史観も合理的に説明しにくく、むしろ古墳時代には列島の各地に王朝があったという多元史観を指示しているのです。(つづく)

【都道府県別の前方後円墳の数】
1位 千葉県 685
2位 茨城県 444
3位 群馬県 410

〔近畿地方〕
奈良県 239
大阪府 162
兵庫県 174
京都府 183
滋賀県 132
和歌山県 58

〔中国地方〕
鳥取県 280
島根県 155
岡山県 291
広島県 248
山口県 28

〔九州地方〕
福岡県 219
佐賀県 53
長崎県 32
熊本県 65
大分県 77
宮崎県 149
鹿児島県 25


第1944話 2019/07/19

巨大前方後円墳が天皇陵とは限らない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠が河内・大和の巨大前方後円墳の存在です。その論理性は次のようなものです。

① 全国トップクラスの巨大前方後円墳が河内・大和に最濃密分布しているという考古学的事実は、その地に国内最大の権力者が存在していた証拠である。
② その権力者こそ『日本書紀』に記された天皇家(大和朝廷)のことと考えざるを得ない。
③ 最も古い前方後円墳の箸墓古墳などが大和で発生していることから、前方後円墳は大和朝廷のシンボル的古墳である。
④ その後、全国各地に前方後円墳が造営されたことは、大和朝廷の支配や影響力がその地方に及んでいた証拠と見なすことができる。『日本書紀』の記述もそのことに対応している。

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」で、こうした一元史観の根拠となった前方後円墳の分布や規模の精査により、河内・大和の巨大前方後円墳を天皇陵とすることはできないと発表されたのです。
 服部さんの調査によれば、全国の巨大古墳ベスト50の内訳は次のようになっています。

○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』で天皇陵比定されているもの 13陵
○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』に天皇陵比定の無いもの 24陵(平城陵含む)
○河内・大和以外の巨大古墳 13陵

 このように古墳の規模上位50位の内、『延喜式』で天皇陵とされているものは約1/4の13陵で、その他3/4の巨大古墳は天皇陵とされていないのです。この事実から、巨大古墳を大和朝廷(天皇)による全国支配の根拠とすることはできないと服部さんは指摘されました。
 更に歴代天皇陵を即位年代順に並べ、同時期のその他の巨大古墳と比較すると、5世紀中頃からは天皇陵よりも巨大な「非天皇陵」古墳の方が多くなると言う現象も明らかにされました。すなわち、天皇陵は同時代の古墳の中で常に最大とは限らず、古墳の規模を比較して大和朝廷の天皇陵が最大であるとした大和朝廷一元史観の根拠は学問的検証に耐えられない〝誤解〟だったのです。なお、服部さんと同様の指摘は一元史観に立つ考古学者からもなされており、このことは別途紹介します。(つづく)


第1943話 2019/07/18

箸墓古墳出土物の炭素14測定値の恣意的解釈

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」において、いくつもの重要な論点が発表されました。中でも卑弥呼の墓とされた箸墓古墳出土物(木材)の炭素同位体(C14)測定値による理化学的編年への指摘は衝撃的でした。その測定値からは箸墓古墳を卑弥呼の時代と編年することはできないという科学的事実を指摘されたのです。
 従来は4世紀頃と編年されていた箸墓古墳でしたが、「邪馬台国」畿内説に基づき、より古く編年したいという「動機」が一元史観論者や畿内説論者にはありました。そのようなとき、箸墓古墳周辺から出土した木材片等の炭素同位体測定の結果、3世紀と見なせる測定値が出たことで箸墓古墳は「邪馬台国」と同時代と編年され、卑弥呼の墓とする説が学界の有力説となりました。この理化学的測定結果が「邪馬台国」畿内説の有力なエビデンスとされたわけです。
 この一見〝科学的〟なエビデンスには反論しにくいと誰もが思いました。ところが服部さんはこの測定値の生データを精査され、この生データからは箸墓古墳を3世紀と編年することはできないことに気づかれたのです。というのも測定値の生データ(複数サンプル)は数世紀の差異がある数値(サンプル)群であり、その数値(サンプル)中から3世紀に一致するデータだけを根拠に編年されているという極めて恣意的なデータ解釈が採用されていたからです。
 このことについては服部さんから詳細な論稿が発表されると思いますが、出土した各木片の測定値の分布が数世紀の幅を持っているのであれば、その複数の数値の中から自説に都合のよいデータだけを採用するなどとは、およそ理系(自然科学)では許されない恣意的な方法です。
 更に服部さんは、その3世紀に対応する測定値は4世紀にも対応するもので、その一つの測定値だけを採用したとしても、3世紀と4世紀の両方の可能性があり、3世紀と断定できないことも指摘されました。このように根拠とされた炭素14による測定値の生データからは箸墓古墳の編年は不可能なのです。自説に都合のよい科学的測定データのみを採用して、自説に有利になるように解釈することは学問の禁じ手です。(つづく)


第1927話 2019/06/20

法円坂巨大倉庫群の論理(5)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)の講演に、わたしの前期難波宮九州王朝複都説を指示する、あるいはそれと整合する見解が少なくないことを解説してきました。最後に次の②の見解の重要性についても指摘しておきます。

② 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

 このように上町台地北端は居住や農耕にも適さず、そのため大きな在地勢力も存在しないと考えられています。それにもかかわらず、五世紀には古墳時代最大規模の巨大倉庫群(法円坂遺跡)が造営され、七世紀中頃(652年、九州年号の白雉元年)にはこれもまた国内最大規模の前期難波宮が造営され、同時に難波京(条坊都市)へと発展します。その選地の最大の理由が〝水運による物流の便〟と考えられていることは重要です。
 倉庫群も前期難波宮も当時国内最大規模ですから、その造営主体もまた国内最大の権力者と考えることが真っ当な理解です。しかも、前期難波宮が造営された七世紀中頃は全国に評制が施行された時代です。その施行主体も「難波朝廷、天下立評」(『皇大神宮儀式帳』)と史料に遺されているように前期難波宮にいた権力者によるものです。九州王朝説に立つならばこの前期難波宮にいた権力者は九州王朝(倭国)と考えざるを得ません。
 評制とは全国を行政区画「評」に分割し、それぞれに評督らを任命し、中央集権的律令体制による全国支配を行うという制度です。そのためにも「中央行政府」における水運の便は必須です。各地の物資(兵士・防人も)を集める物流拠点であり、同時に各地に軍隊を派遣できる交通の要所であることが不可欠ではないでしょうか。そうでなければ、律令を制定し、それに基づく中央集権による全国支配などできません。同時に、律令体制による政治を行うために必要な八千人(服部静尚説)もの中央官僚が勤務できる宮殿や官衙、そしてその家族を含めた数万人にもおよぶ人口を維持できる大都市(条坊都市難波京)の造営が不可欠であることもまた言うまでもありません。大和朝廷が『大宝律令』による郡制で全国支配するために藤原京や平城京を造営したのも、同様の理由からです。
 今回の南さんのご講演内容が、前期難波宮九州王朝複都説を結果として指示する考古学分野での知見を数多く含んでいることを解説してきました。最後に、こうした考古学的事実や仮説を教えていただいた南さんに感謝いたします。また、南さんを講演者に推薦していただいた久冨直子さん(市民古代史の会・京都)や原幸子さん(古代大和史研究会・代表)にも御礼申し上げます。


第1926話 2019/06/19

法円坂巨大倉庫群の論理(4)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)講演での③の見解も注目しました。

③ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

 上町台地北端の都市化による人口増を食料供給の面で支えたのが、六世紀末では後背地での大規模な水田開発とされました。その水田開発と古代において最大の灌漑施設である狭山池(616年。年輪年代測定値)との関係について質問したところ、平野区長原遺跡等の洪積台地へも狭山池は灌漑用水を供給したと返答されました。
 この質問の真の目的は難波と筑紫との関係を裏付けることにありました。既に紹介してきましたが、難波池の築堤には太宰府の水城と同じ敷粗朶工法が用いられたことが知られており、このことは難波池の築造を九州王朝による難波複都建設に先立つ食糧増産を目的としたものとするわたしの考えを支持するものでした。南さんは①で、上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)について、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」と指摘されているのですが、両者の類似は都市構造だけではなく、その人口を支える食糧増産施設(狭山池)と太宰府防衛の巨大防塁(水城)の工法にも及んでいたといえそうです。(つづく)


第1925話 2019/06/18

法円坂巨大倉庫群の論理(3)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)のご講演で、次に注目したのが④の見解、中でも「a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後」の部分です。

④ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
 古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。
b.第2段階(六世紀) 難波屯倉(ミヤケ)の時代
 六世紀前半に人口が急増しており、台地高所に役所的建物群、その北西に倉庫の建物群が配置され、工房も漸増する。港(難波津)から役所へ至る道も造営される。
c.第3段階(六世紀末〜七世紀前半) 難波遷都前夜
 台地中央の役所群が整い、それを囲むように工房群が増加(7ヶ所程度。手工業の拡大と多角化)する。

 ここで示された〝古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。〟という考古学的出土事実は、九州王朝説にとって有利なものではありません。この出土事実は、九州王朝説よりも「河内王朝説」というような仮説を指し示すからです。質疑応答で南さんも「河内政権」という言葉を漏らされてもいました(南さんが「河内政権」という概念を支持されているか否かは当講演内容では不明)。
 そこでわたしは次の質問をぶつけてみました。

 「古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群はその規模から王権の倉庫と考えられるが、その規模に相応しい最大規模の王権の遺跡や王権中枢の所在地はどこと考えておられるのか。」

 この質問の回答として奈良盆地内のどこかの遺構を挙げられるのではないかとわたしは予想していたのですが、南さんの回答は、そうした遺構は見つかっておらず、もしかすると大阪城の場所に宮殿遺構があったのかもしれない、というものでした。これは考古学者らしい誠実な回答と思いました。大和朝廷一元史観の論者なら、奈良盆地内のどこかにあったはずという〝答え〟なのでしょうが、上町台地北端の都市化を研究されてきた南さんは、大規模倉庫群の側に王宮はあったと推定されているのです。
 これは『日本書紀』の記述を妄信しない、出土事実に基づく学問的な姿勢と思いました。この姿勢は「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)〝七世紀後半の難波と飛鳥〟でも紹介した佐藤隆さんの主張〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟に通じるもので、両者のこうした学問的姿勢は大阪歴博考古学者の学風ではないでしょうか。(つづく)


第1924話 2019/06/17

法円坂巨大倉庫群の論理(2)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)のご講演「日本列島における五〜七世紀の都市化-大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」において、いくつもの注目点がありますので、一つずつ解説します。
 まず、わたしが驚いたのは下記の①の見解です。

① 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

 わたしが九州王朝(倭国)の複都と考える前期難波宮や難波京が置かれた上町台地北端が古墳時代の日本列島内最大規模の都市であるという事実と、その内部構造や性格が同じく最大規模の遺構とされる博多湾岸(比恵・那珂遺跡)と類似しており、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである」とまで述べられたことは重要です。上町台地の遺跡を30年以上にわたり調査発掘されてきた南さんの指摘だけに格段の重みがあります。
 この考古学的知見はわたしの前期難波宮九州王朝副都説にとって有利なことは、お解りいただけることと思います。しかも、当地への九州王朝の影響が古墳時代(五世紀)まで遡ることも示唆するものです。この点、九州王朝の難波・河内進出時期の考察にあたり、その時期を「Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期」としてきた、わたしの作業仮説の再考を促すものでもあります。
 質疑応答では、上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)の共通した土器の出土など、両者の交流の痕跡の有無について質問が出されました。南さんはそうした調査に関する知見をお持ちでなかったようで、回答をひかえられましたが、わたしの調査では下記の報告書に難波から出土した筑紫の土器の報告などがあります(古墳時代とは時期が異なるかもしれません)。「洛中洛外日記」でも紹介してきたところですので、当該部分を再掲載します。

「洛中洛外日記」224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
 (前略)わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。(後略)

「洛中洛外日記」243話 2010/02/06
「前期難波宮と番匠の初め」
 (前略)寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。(後略)

「洛中洛外日記」1830話 2019/01/26
難波から出土した「筑紫」の土器(2)
 (前略)『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。
 「5.その生産地について
 (中略)難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。ただ、(B)の杯身中に際立った特徴をもつ一群があり、それらは他のものと生産地を異にすると考えられる。それは、158〜163で、たちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものである。これらは、個体数こそ少ないが稀有な例ではない。さらにそのうち、162・163は色調が灰白色を呈し、胎土も非常によく似ている。その色調・胎土の特徴は、(B)の坏蓋や、SK9343出土土器中の65・67にもみられ、特異な一群を形成している。
 杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(186頁)
 (中略)ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。
○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』1977年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』1979年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』1972年

 以上ですが、詳細は「古田史学の会」HP収録の「洛中洛外日記」をご覧下さい。(つづく)


第1923話 2019/06/16

法円坂巨大倉庫群の論理(1)

 本日、I-siteなんばで開催された古代史講演会(共催)で考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)による「日本列島における五〜七世紀の都市化-大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「姫たちの古伝承」という講演を拝聴しました。南さんは30年以上にわたり難波を発掘してこられただけに、広範な出土事実に基づいた説得力ある講演でした。
 南さんの講演で、わたしが特に注目したのは次の諸点でした。

① 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

② 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

③ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世期末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

④ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
 古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450m2以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。
b.第2段階(六世紀) 難波屯倉(ミヤケ)の時代
 六世紀前半に人口が急増しており、台地高所に役所的建物群、その北西に倉庫の建物群が配置され、工房も漸増する。港(難波津)から役所へ至る道も造営される。
c.第3段階(六世紀末〜七世紀前半) 難波遷都前夜
 台地中央の役所群が整い、それを囲むように工房群が増加(7ヶ所程度。手工業の拡大と多角化)する。

 こうした考古学的知見は、「洛中洛外日記」1921話(2019/06/14)〝「難波複都」関連年表の作成(2)〟で論じた「難波複都関連史」の実態を推し量る上で重要です。

Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期
Ⅱ期(七世紀初頭〜652年) 狭山池・難波天王寺(四天王寺)・難波複都造営期
Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686) 前期難波宮の時代(倭京・太宰府と難波京の両京制)
Ⅳ期(朱鳥元年・686〜) 前期難波宮焼失以後

 この中のⅠ期とⅡ期に相当するのが今回の南さんの講演で解説された時代です。(つづく)