「 考古学 」一覧

第2149話 2020/05/10

「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響

 わたしが古代戸籍の研究をしていた三十年ほど昔に集めた先行論文のファイルを整理していたら、横山妙子さん(当時、市民の古代研究会・会員)からのお手紙(1991.12.01付)が出てきました。それには、『市民の古代・九州ニュース』No.18(1991年9月)に掲載された拙稿「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」を読まれた増田修さん(同上)からのご依頼により、古代戸籍に関する論文コピーを進呈すると書かれていました(拙稿は「九州古代史の会」HPに収録されており、閲覧可能)。申し訳ないことに、この論文コピー入手の経緯をわたしはすっかり失念していました。
 その論文とは曾我部靜雄「西涼及び両魏の戸籍と我が古代戸籍との關係 ―附、課役問題の現狀―」(『法制史研究 7』1956年)という古い研究論文です。古代戸籍における中国から日本への影響関係を論じた専門性の高い論文で、いただいた当時(36歳)のわたしの学力では同論文の意義を深く理解できていなかったと思われます。今、読み直してみて、増田さんがわたしに提供された意味(同論文の重要性)がよくわかりました。
 同論文によれば、「大宝二年籍」の西海道戸籍と御野国戸籍には差異があり、御野国戸籍は西涼(五胡十六国時代、5世紀頃)の戸籍に似ており、西海道戸籍はその後の両魏(北魏が東西両魏に分かれた時代、6世紀頃)の戸籍に似ていることを指摘され、大宝二年(702年)当時の唐の戸籍の影響は受けていないと、次のように記されています。

 「我がこれ等の大寶や養老の戸籍を中国のものと比較するに、御野のものは西涼のものに似、筑前や下総のものは両魏のものに類することが直ちに判るのである。唐のものは戸口數の集計が記載されたものは一通もなく、西涼のものと両魏のものとはこれがあり、而もその記載の方法は西涼は御野に似、両魏は筑前や下総に類してゐる。(中略)我が大寶や養老の戸籍の源流は唐には無くて、それ以前の中国の制度にあることを示して居るのである。」(74頁)
 「我が大寶及び養老の戸籍に二つの異った形式が見られるのは、唐以前の中國の編籍制度が唐以前に既に我が國に流入し、我が國では大化以前からそれ等の制度に従って編籍が行はれ、大化改新によって唐制を採用するやうになっても、編籍の形式は従来のままで改正しなかったことを現はしてゐるのであらう。而もその編籍制度の流入は一度だけではなかったことは、西涼式も両魏式も存在することによって窺はれるであらう。西涼式の根源は西晋にある可く、両魏式の根源は北魏にある可く、従って我が古代の戸籍には西晋型と北魏型とがあると謂ひ得るであらう。(中略)従って御野式のものが我が國の最も古い戸籍の様式であり、筑前等の式のものはそれよりも後のものである。」(75~76頁)

 この曾我部靜雄さんの論文は六十年以上も昔のものであり、現在の戸籍研究水準においても有効かどうかは調べなければなりませんが、もし有効であれば、九州王朝時代の庚午年籍(670年)は、より古い西涼様式の影響を受けていた可能性が高く、その西涼の戸籍制度が中国南朝の西晋の制度を淵源としていたとする見解はとても興味深いものです。九州王朝は中国南朝の影響を受けていた時代があり、後に仏教伝来等と共に北魏の影響も受けたと考えてもよいように思われます。これらは九州王朝の造籍開始時期を研究する上でも重要な視点です。
 増田さんからいただいた論文コピーが三十年後の今になって役立つとは、学問の面白さであり、不思議さでもあります。


第2148話 2020/05/08

「大宝二年籍」断簡の史料批判(16)

 本シリーズも16回目になって、ようやくテーマの〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟に入ることができました。ですから、今までは〝前説〟であり、今回からが本番です。気持ちを引き締めて論じます。
 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。その前年に成立した『大宝律令』「戸令」に基づき、九州王朝(倭国)から王朝交替したばかりの大和朝廷(日本国)により、全国的に造籍されたものです。残念ながらほとんどが失われ、残っているのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけですが、古代の戸籍や家族制度を知る上で貴重な史料(重要文化財)です。なお、今回の調査は『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)によりました。
 先行研究によれば、「大宝二年籍」において西海道戸籍と御野国戸籍には大きな差異が認められ、西海道戸籍は様式や用語が高度に統一されています。通説では西海道戸籍は『大宝律令』に基づき大宰府により統一的に管理され、御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されたためと考えられています。西海道戸籍は九州王朝による造籍の伝統と優れた地方官僚組織を引き継いだため、高度で統一性を持った造籍が可能だったとわたしは推測しています。いずれにしましても、この西海道戸籍と御野国戸籍の差異は史料批判上留意すべき点です。
 ちなみに、2012年に太宰府市国分松本遺跡から出土した7世紀後半頃(「評」の時代)の「戸籍」木簡の記述様式は、どちらかというと御野国戸籍に似ており、この点について「洛中洛外日記」445話(2012/07/21)〝太宰府「戸籍」木簡の「政丁」〟で少し触れました。更に、『古田史学会報』112号(2012/10)の拙稿〝太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―〟でも詳述しましたのでご参照下さい。(つづく)


第2147話 2020/05/07

「大宝二年籍」断簡の史料批判(15)

 わが国最初の全国的な戸籍とされる庚午年籍(670年)造籍時に存在したとされる、年齢が不詳・不審の人々とはどのような人々でしょうか。南部さんが推定された〝親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明(本人の申告は信用できない)な人々や、よるべき資料がなかった一般農民〟という理解では、わたしには今ひとつ納得できませんでした。
 そもそも初めての造籍であれば、人々が申告した年齢をとりあえず記す他なく、その年齢が正確か否かなどは、見た目と申告年齢がよほど異なっていない限りわからないのではないでしょうか。更に言えば、造籍にあたり戸籍調査を担当した地方役人にすれば、申告年齢をそのまま上級役人に報告しても何も問題とはならないようにも思います。上級役人も自らが一軒一軒戸別訪問して再確認でもしない限り、その報告を信用する以外ないのですから。
 しかし、「大宝二年籍」にはほぼ十歳ごとの特定年齢にピークが存在していますから、やはり何らかの事情があったと考えざるを得ません。そこで先に述べたように、見た目と申告年齢がよほど異なっているケースを想定するのであれば、その理由があるはずです。例えば、庚午年籍造籍(670年)当時の七世紀後半に至っても、古い「二倍年齢」が採用(併用)されており、その結果、自らの年齢申告に「二倍年齢」を用いた人々がある程度いたのではないでしょうか。
 具体的には、実年齢1歳の赤ちゃんを「2歳」、実年齢2歳の乳幼児を「4歳」、実年齢3歳の幼子を「6歳」と、「二倍年齢」で申告されたケースです。さすがに地方役人も、こうしたケースは不審として、それらの年齢不審の人々を全て「1歳」として登録したとすれば、その庚午年籍(670年)を基本として、32年後の「大宝二年籍」造籍時、あるいはそれまでの造籍時にその間の年数を加算することにより、大宝二年(702年)には33歳のピークが出現するわけです。他のピークも同様の理由により発生したとする解釈が可能です。
 今回わたしが示した、「大宝二年籍」中のピーク発生理由を「二倍年齢」の影響とする作業仮説(思いつき)ですが、これが学問的仮説として成立するかどうかを検証するために、「大宝二年籍」に記された人と年齢について全数精査を試みました。(つづく)


第2146話 2020/05/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(14)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由について、庚午年籍を始めとして庚寅年籍・「持統九年籍」などの造籍時に、十歳ごとにまとめて推定記入した結果、十歳ごとの年齢ピークが発生し、そのピークが「大宝二年籍」にまで遺存したとする南部昇さんの説は概ね納得できます。しかし、庚午年籍(670年)造籍時になぜ年齢が不詳・不審とされる人々が存在していたのでしょうか。この点について南部さんの次の説明だけでは不十分と思われるのです。

 「国郡司が『盗賊』や『浮浪』を把握し、これを庚午年籍に登録したとき、彼らが親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明である――本人の申告は信用できない――場合がしばしばあったのではないか、『盗賊』や『浮浪』ではない一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかったのであるから同様のことが生じたのではないか」(『日本古代戸籍の研究』382-383頁)

 南部さんは、「一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかった」とされますが、「大宝二年籍」にはピーク年齢以外の多くの人々の年齢が記載されており、この事実から「一般農民」は基本的に自らの年齢を把握しており、一部の農民に年齢不詳・不審のケースがあったと理解すべきです。
 さらに指摘されたピークを精査すると、次の疑問点が見えてきます。それは33歳の大ピークの存在です。南部さんの仮説によれば、大宝二年(702)の造籍時に33歳の人は、庚午年籍(670年)造籍時に年齢不詳・不審により、まとめて「一歳」として年齢認定されたということになります。それは当時、乳幼児年齢の人たちであり、母親や養育者が身近にいなければ生きていけない人たちです。そうであれば、その乳幼児の年齢は母親や養育者が知っていたはずであり、造籍を担当した地方役人たちもその申告をそのまま登録すればよいわけですから、年齢不詳・不審によるピークは少なくともこの年齢層には発生しにくいはずなのです。従って、南部さんの仮説だけでは「大宝二年籍」の33歳の大ピーク発生理由をうまく説明できないのではないでしょうか。(つづく)


第2142話 2020/04/25

古代の感染症と九州年号「金光」

 「洛中洛外日記」2136話〝厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷〟において、天平年間の感染症(天然痘)の流行により大和朝廷が厄除けのために、九州王朝の天子・多利思北孤を法隆寺で祀ったとする拙論を紹介しました。九州王朝でも感染症の流行に対して厄除けのために九州年号を改元したことがわかってきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も『古田史学会報』No.157(2020.04.13)掲載の〝「壹」から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3〟で、金光元年(570)に熱病が蔓延するという国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀したことが述べられています。
 わたしも「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟で『王代記』金光元年条の次の記事を紹介しました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」『王代記』(大永四年(1524)写本、『甲斐戦国史料叢書 第二冊』収録)

 『善光寺縁起』に同様の記事があり、『王代記』の記事はその「要約」であることがわかりました。概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が、鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたが全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話が『善光寺縁起』では続きます。なお、金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀にはこの事件は記されていません。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 百済からの如来像もたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝を介して送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。その後、河内や難波を直轄支配領域とした九州王朝は、上町台地に天王寺や前期難波宮・難波京を造営したとわたしは考えています。


第2140話 2020/04/23

「大宝二年籍」断簡の史料批判(13)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由について、「庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出された」と南部さんは考えられ、その異常分布発生の過程を次のように説明しています。

 「国郡司が『盗賊』や『浮浪』を把握し、これを庚午年籍に登録したとき、彼らが親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明である――本人の申告は信用できない――場合がしばしばあったのではないか、『盗賊』や『浮浪』ではない一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかったのであるから同様のことが生じたのではないか、と。そして男子の場合は、その年齢が賦課と密接にかかわるので、国家の側も真剣に実年齢を究明したであろうが、女子については、おおよその推定年齢で記入したことも多かったのではないか、と。八、九歳か十一、二歳かわからぬ女児は、『十歳』と記入し、十八、十九歳か二十一、二歳かわからぬ女子は『二十歳』と記入したことも多かったのではないかと推定するのである。また、たとえば、本人がいかに『二十三歳である』と申告してもそれが信用されず、『三十歳』と記入された場合もあったかもしれない。庚午年籍に(一)―十―二十―三十……歳というピークが存在したとすれば――私は存在した可能性が高いと考えているのだが――それはかくして生じたものと推定されるのである。
 かくして二十年後、庚寅年籍が作成されるが、庚午年籍に登録されて以来、死亡・逃亡することなく定住していた人々の年齢決定は簡単であった。本人を確定した後、庚午年籍に記入してある年齢に二〇を加算すればよかったからである。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』382-383頁)

 このような年齢不詳女児や年齢詐称女子の年齢を、庚午年籍(670)造籍時に十歳ごとにまとめて推定記入した結果、十歳ごとの年齢ピークが発生し、そのピークが「大宝二年籍」にまで遺存したとされました。
 更に、庚寅年籍(690)造籍時にも同様の操作が行われた結果、大ピークが大きくなり、「持統九年籍」(695)での同様操作により小ピークが発生したことを精緻に論証し、「大宝二年籍」に見える女子の異常年齢分布についての説明に成功されました。そして、この異常分布の傾向は男子にも見られることを指摘されました。
 わたしはこうした南部さんの論証は有力と思うのですが、造籍時の「年齢推定記入」だけでは、「大宝二年籍」の異常年齢分布を完全には説明できないのではないかと考えました。(つづく)


第2139話 2020/04/22

「大宝二年籍」断簡の史料批判(12)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由についての岸俊男氏の推定について、南部昇著『日本古代戸籍の研究』では次のように紹介されています。

 「岸氏はこれを造籍との関連で説明している。すなわち、日本の戸籍は最初は男丁のみを記載し、ある時期からこれに女子を付加するようになったのではないかという推定と、大ピーク・小ピークの各年齢が一二年前の庚寅年籍(六九〇年)においては、五歳・十歳・十五歳というように五歳ごとの完数に適合するという着眼によって、庚寅年籍作成のとき、『女子のみは年齢を五歳ごと、または十歳ごとに区切り、それを基準として記入するようなことが行われたのではなかろうか』というのである。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』360頁)

 このような岸さんの推定について、南部さんは「女子年齢の異常分布を造籍との関係で説明しようとしたことは慧眼」と評価しながらも、自説を次のように説明しています。

 「とくに私は、岸氏の指摘した大ピーク・小ピークは庚寅年籍によって生み出されたものではなく、『自庚午年籍至大宝二年四比之籍』すなわち、庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出されたものと考えているので、この点、岸氏と大いに見解を異にしている。」(同書361頁)

 南部さんは古代の造籍年を、『続日本紀』宝亀十年六月条に見える「自庚午年籍至大宝二年四比之籍」などを根拠に、庚午年籍(670)・庚寅年籍(690)・「持統九年籍」(695)・大宝二年籍(672)とされ、それぞれの造籍時に行われた「操作」により、女子年齢の異常分布が発生したとされました。
 なお、通説では庚午年籍(670)・庚寅年籍(690)・「持統十年籍」(696)・大宝二年籍(672)の四回の造籍とされています。わたしは南部さんの「持統九年籍」(695)説の方が合理的と思いますが、本テーマとは直接関わりませんので、その理由についての説明は省きます。(つづく)


第2138話 2020/04/20

「大宝二年籍」断簡の史料批判(11)

 現存最古の戸籍「大宝二年籍」の調査に先立ち、わたしは先行研究を調べることにしました。しかし、戸籍研究に関する学界の動向を全く知りませんでしたので、何から手を付けてよいのか困っていたところ、鬼室集斯墓碑や「大化五子年」土器などの「九州年号金石文」調査を一緒にしていた安田陽介さん(当時、京都大学院生)から南部昇著『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)という本をいただきました。同書は当時のわたしの学力では歯が立たないハイレベルな内容でした。京都大学の院生はこのレベルの本で勉強しているのかと、最高学府の手強さを肌身に感じたものでした。
 それでもなんとか同書を読み、「大宝二年籍」に関するいくつもの重要な知見を得ることができました。その中の一つ「古代籍帳における女子年齢の異常分布について」(第五編第一章)という論文にわたしは注目しました。同稿冒頭に、「大宝二年籍」における女子年齢の異常分布についての岸俊男氏の指摘が次のように紹介されています。

 「現存する大宝二年御野国戸籍の女子を各年齢ごとに集計してゆくと、二十二歳―三十三歳―四十二歳―五十二歳―六十二歳とほぼ十年ごとの周期で、この年齢に属する女子人口が異常に多いという注目すべき事実が、岸俊男氏によって報告されている。続いて、二十七歳―三十七歳―四十七歳―五十七歳―六十七歳とやはり十年間隔でこの年齢に属する女子人口も相当に多いという事実が確認されている。岸氏は、前者の人口集中を大ピークと呼び、後者の人口集中を小ピークと呼んでいるが、同様の現象は大宝二年西海道戸籍についても指摘され、大宝二年時における、ほとんど全国的な現象であったと推定されている。」’360頁)

 このように「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が指摘されており、古代戸籍の年齢表記の信頼性に問題があることをわたしは知りました。(つづく)


第2132話 2020/04/11

南秀雄さんから「研究紀要」を頂きました

 昨年6月、I-siteなんばで開催された古代史講演会(「古田史学の会」共催)で、「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」というテーマで講演していただいた考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)から『大阪市文化財協会 研究紀要 21号』(2020年3月)を御贈呈いただきました。
 同書には南さんらの論文「難波堀江の学際的検討」が掲載されています。同論文は『日本書紀』仁徳紀に記されている「難波堀江掘削」記事の実態に迫った学際的研究で、大阪の考古学者を始め地質学・堆積学・河川工学の研究者が参加されています。詳細については精読させていただいてから、紹介したいと思います。
 『古田史学会報』155号や「洛中洛外日記」の「法円坂巨大倉庫群の論理」1923~1927話(2019/06/16-20)でも触れましたが、昨年六月の南さんの講演で、わたしが特に注目したのは次の点でした。

 「古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。」

 古墳時代において、日本列島内最大規模の都市で七世紀には前期難波宮がおかれた大阪市上町台地北端と九州王朝の中枢地域である博多湾岸(比恵・那珂遺跡)が「国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」とする指摘は重要です。
 前期難波宮九州王朝複都説に反対される論者の中には、古代の筑紫と難波の関係を疑問視する意見もあるようですが、南さんら考古学者の指摘を無視することなく真摯に受け止めていただきたいと願っています。


第2129話 2020/04/09

長野県中野市から弥生中期の鉄加工場出土

山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」に、吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)からの「信濃毎日新聞」(4月3日)の記事の紹介が掲載されていました。
 記事によると、長野県中野市の「南大原遺跡」から弥生中期(約2000年前)の集落跡と、その中の竪穴住居跡からの、鉄を加工していたとみられる「火床」、加工した際に飛び散ったとみられる「鉄片」、鉄をたたく事に使える「石の道具」、「鉄製の斧」などが出土し、これら遺品から、ここで集落外から持ち込んだ鉄や鉄器を二次的に加工していたと判断されたとのことです。
 弥生中期、このような炉を持った鉄の加工場は全国でも珍しく、「中期の加工場跡の確認例は西日本でも九州などに限られる」と記事にはあります。この出土事実から、九州と信州の弥生時代に遡る交流を吉村さんは指摘されています。注目すべき発見です。