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第1668話 2018/05/11

山田春廣さんの「実証・論証」論

 今年9月に東京家政学院大学で開催される『発見された倭京』出版記念講演会で、多元的古代官道について講演される山田春廣さん(古田史学の会・会員)がご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で、「実証」と「論証」について論じられています。わたしは「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を古田先生から教えていただいたのですが、わたし自身の理解が不十分なため、その意味についてうまく説明できないでいました。この山田さんのブログを拝見し、このような説明の仕方もあるのかと感銘しました。
 山田さんのご了解のもと、以下転載します。

「学問は実証より論証を重んじる」
―「実証主義」は「教条主義」、科学は「仮説主義」―

 肥さんが夢ブログでこの難しいテーマを論じられた。
 学問は実証より論証を重んじる
 http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/05/post-4dad.html
 私は、肥さんとは別の角度から論じてみたいと思う。
 学問は、様々な分野に分化している(化学、物理学、歴史学、社会学、…、〜学と)。
 〜学とつけば学問かといえば、そうではない。文学は学問ではなく芸術だ。芸術は「表現したい」という欲求を満たす活動で、副次的にその表現が他の人を楽しませる。
 学問は芸術とは違う。学問する者は、「表現したい」という欲求をもっているかもしれないが、それは目的ではない。学問は「知りたい」という欲求を満たす活動だ。ただ「知りたい」のであれば「読書」、「鑑賞」、「見学」、「旅行」などといった行為をすればよい。文学は鑑賞法といったことも扱うかも知れないが、それはハウ・ツー(How to 〜)であり、ハウ・ツー(うまくやるにはどうすれば良いか)を知ることは、学問とは異なる。学問は「真実」を「知りたい」という欲求を満たすための活動で、それが他の人の同じ欲求を満たす。
 「能書き」はこれくらいにして、本題に入ろう。
 私は、学問を「真実を知ろうとする活動」だと考えている。しかし、この考えを他人に強制しようという意図はない。
 学問(真実を知ろうとする活動)=サイエンス(科学)と考える。サイエンスでなければ真実を知ることができないと考えている。この考えに反対の考えもある。宗教やイデオロギーである。
 宗教やイデオロギーは「論証されていないこと」を事実・真実としている。科学と対極の考え方と言える。だとすれば、科学と宗教の違いを確認しておくことが重要だと考える。

 科学的とは

 「科学」は「科学的な方法論」によって成り立つ。「科学的な方法論」には「科学的なものの考え方」が含まれる、というよりそれが基礎になってはじめて成り立つといえる。
 「科学的なものの考え方」とは「科学は仮説によって成り立っている」とする考え方である。今現在「正しい」とされていることも、それは「今のところ、正しいとされている(だけ)」と考える「ものの考え方」である。昨日まで「太陽が地球を回っている」とされていても(それで天体の運行が計算できていても)、今日は「地球が太陽を回っている」と証明されてしまうようなことは科学では「起きるのが当たり前」と考える「ものの考え方」である。「科学的なものの考え方」によれば「現在正しいとされていること(認識や理論)も仮説である」ということである。これと対極にあるのが宗教・イデオロギーである。

 神学(イデオロギーの典型)

 宗教・イデオロギーの典型として「神学」をとりだして論じよう。
 神学は、科学とは「ものの考え方」において科学の対極の考え方に基づいている。科学は「科学は仮説によって成り立っている」と考えるのに対して「神学は絶対的真理によって成り立っている」と考えている。いや、神学は言うであろう。「神は絶対的真理だ」と。
 とにかくこう言おう。科学が「真理・真実」といっても「仮の正しさ」であるが、神学が「真理・真実」といえば「絶対的正しさ」をいっている。これが科学と神学の違いである。

 神学の証明法

 神学の真理の証明法は、次の通りである。
・絶対的真理が定義されている(経典・福音書などに)
・ここにこう書かれていると実証する
・Q.E.D(証明終り)

 科学の証明法

・現象・事実をうまく説明できる仮説を立てる
・従来説明できなかったことがその仮説によって説明できると論証する
・論証した仮説の通りであることを実証する
・Q.E.D(証明終り)

 神学と科学の違い

 ご覧の通り、神学と科学の違いは「論証」が有るか無いかなのです。そしてこの「論証」は何の為になされているかといえば、「従来説明できなかったことがこの仮説によって説明できる」と論証しているのです。つまり「仮説」を立てて「この仮説で説明できる」と論証し、「仮説の通りである」ことを実証する、これが科学的方法論なのです。
 これに対して「神学」の真骨頂は「実証」です。「実証」こそが「神学」の「神学」たる所なのです。神学の実証法は「典拠主義」といわれます。「どこどこにこう書いてある」「誰々がいつどこでこう言われた」という実証法です。この実証からは何も新しい知見は出てきません。いや、出てきては困るのですから、神学にとって「典拠主義」は正しいありかたなのです。「実証主義(実証することが目的、つまり実証すれば事足りるとする立場)」は「典拠主義」なのです。「典拠主義」は英語で dogmatismといいます。「典拠主義」は「教条主義」とも訳されます(教義の条文をもって証明するから「教条」です)。これによって異端審判(宗教裁判)ができるわけです。
 一方、科学は、従来説明できないことを何とか説明できるようにする仮説を立てることに努力しますから、新しい仮説によって新しい知見がもたらされて、「真実(いまのところはそう見えている)を知りたい」という欲求を満たし、他の人の同じ欲求を満たすわけです。
 神学(イデオロギーの代表)が一つたりとも新しい知見をもたらさず、科学が新しい知見をもたらすのは、神学は「実証主義」であるが、科学は「仮説主義」だからなのです。
 つまり、科学の本質は「実証」などではなく、「仮説」を立てるところにあるのです。

 結語

 学問は新しい知見を得るための活動なのですから、「学問(科学)は実証より論証を重んじる」のです。
(追加注記)
「論証」は論理的に証明すること。
「実証」は具体的な事実を示して証明すること。
 これを混同してはならない。


第1666話 2018/05/09

『論語』二倍年暦説の史料根拠(8)

 今回は文献史学や古典の史料批判というテーマから離れて、そもそもなぜ『論語』二倍年暦説への批判が発生するのかという現代日本人の認識について考えてみることにします。
 わたしの『論語』二倍年暦説に反対される方々には通底する「共通誤解」があるのではないでしょうか。それは紀元前数百年頃の周代においても「70歳や80歳を越える長寿の人は少なからず存在していた」とする考えが暗黙のあるいは明確な前提となっていると思われるのです。はっきり言って、この認識は学問的根拠を持たない「錯覚」ではないかとわたしは思っています。かく言うわたしも同様に錯覚していました。
 わたしは古代における二倍年暦の研究過程で、周代のような紀元前数百年頃の人間の寿命は50歳かせいぜい60歳までで、それを越えるケースは極めて希ではないかと考えるようになりました。その理由の一つは、「周代」史料の二倍年暦による高齢寿命記事は管見では「百歳(一倍年暦の50歳)」か「百二十歳(一倍年暦の60歳)」までであり、「百四十歳(一倍年暦の70歳)」「百六十歳(一倍年暦の80歳)」とするものが見えないことです。すなわち周代の人間の寿命は50〜60歳頃が限界のようなのです。
 他方、人類史上初の超長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年厚生労働省調査)に突入した現代日本に生きるわたしたちが、人間の寿命が古代においても70歳や80歳に及ぶ例が少なからずあったのではないかと錯覚するのも無理からぬことですが、その日本においても平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではありません。このことを説明した武田邦彦さん(中部大学教授)の著書を紹介します。

 「1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42.1歳、女性は43.2歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても50歳には達しません。江戸時代には45歳くらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても50歳を越えたら確実に『老後』でした。」(武田邦彦『科学者が解く「老人」のウソ』産経新聞出版、2018年3月)

 このように大正から昭和初期の日本でもこれが実態でした。紀元前数百年頃の周代の実状はおして知るべしです。(つづく)

〔余談〕二倍年暦問題とは別に、武田邦彦さんの『科学者が解く「老人」のウソ』はお勧めです。特に50歳(一倍年暦の)を越えた男性の方に一読を勧めます。


第1550話 2017/12/08

九州王朝の都鳥

 昨日、東京からの帰りの新幹線グリーン車に備えてある雑誌『ひととき』(2017年12月)を読んでいると、「都鳥」という記事が目に留まりました。片柳草生さんによる文と鈴木一彦さんの写真からなるもので、興味深く拝読しました。
 同記事では隅田川を飛ぶユリカモメの写真などが掲載され、ユリカモメのことを都鳥というと紹介されていました。わたしはいつから都鳥をユリカモメのこととするようになったのだろうと不思議に思い調べてみると、古典(伊勢物語・万葉集)などに見える都鳥はユリカモメとするのが有力説であり、ミヤコドリ科のミヤコドリのこととする説は少数とのこと。そして、なぜ都鳥と呼ばれるようになったのかも不明とされているようなのです。
 今から30年ほど昔のことですが、わたしは「市民の古代研究会・九州」(当時)の灰塚照明さんらから、冬になるとシベリア方面から都鳥(ミヤコドリ科)が博多湾岸に飛来するということを教えていただいたことがあり、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったのではないかと考えていました。このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説に立たなければ都鳥という名称の説明がつきません。ですから、都鳥こそ九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥なのです。
 このようにわたしは理解していましたので、いつのまにかユリカモメが都鳥とされてしまい、おまけに東京都がユリカモメを「東京都の鳥」に指定したとのことで、話がややこしくなったようです。そこで提案ですが、ミヤコドリ科の本物の都鳥を福岡市か太宰府市の「市の鳥」に認定してはどうでしょうか。あるいは福岡県の鳥でもよいと思います。古田史学・九州王朝説を地元に広めるためにも、ユリカモメに負けることなく、「都鳥(ミヤコドリ科)=九州王朝の都の鳥」説を提唱したいと思います。

《追記》念のため調べたところ、福岡県の鳥は鴬。そしてなんと福岡市の鳥(海鳥部門)はゆりかもめとのこと。ゆりかもめ、恐るべし。


第1540話 2017/11/16

天寿国繍帳のグリーン色の謎

 今日は終日大阪での学会発表(繊維応用技術研究会)を聴講しました。信州大学でエレクトロスピニングによるナノファイバー量産化技術を開発し、自らベンチャーを起業された渡邊圭さん(株式会社ナフィアス社長、30歳)の発表の座長を務めさせていただきました。また、天然染料を研究されている武庫川女子大学の古濱裕樹先生とは懇親会で古代の天然染料について意見交換しました。
 古濱先生によれば、天然色素は緑色で良いものがないとのことなので、クロロフィル(葉緑素。テトラピロール環の中心にマグネシウムを配位した分子骨格)は利用できないかと質問したところ、葉っぱをすりつぶしてそのまま着色するという技術はあるが、すぐに退色するとのこと。そこで、奈良の中宮寺にある国宝「天寿国繍帳」は飛鳥時代の作品だが、緑色の亀の部分の色素は現代まで退色しておらず、どのような色素が使用されたのかを懇親会で論議しました。
 古濱先生の見解では、藍の青色と黄色の染料の重ね染めと思うが、黄色の染料は退色が早いので、飛鳥時代の黄色が現在まで残るとは考えられないとのことでした。わたしは鎌倉時代に補修した部分は緑色の部分が黄色に変色しており、むしろ青色の染料の退色が早いことを示しているのではないかと思いました。結論は出ませんでしたが、久しぶりの古代染色論議で楽しい時間を持てました。現代化学の技術や知見でも古代染色技法を解明できないことに、古代人の英知を感じました。
 渡邊社長のご講演では、ナノファイバーでのプルシアンブルー(青色顔料)担持により、ゼオライトよりも効果的なセシウムの吸収が可能との報告がありました。福島原発から放出した放射性セシウムの防護・回収フィルターへの利用を想定されているのですかと質問したところ、その通りですとのこと。渡邊さんは福島市ご出身で、同技術が故郷の除染に貢献できればよいなと思いました。
 若い研究者との対話はいつも新鮮でエキサイティングです。わたしは定年まで残すところ3年を切りましたが、この夏に開発に成功した、太陽光発熱色素と同染色技術を世に送り出すことが勤務先や業界への最後のご奉公になりそうです。


第1539話 2017/11/15

深志の三悪筆

 昨日は松本市での古代史講演会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と共に講演しました。平日にもかわらず、「邪馬壹国研究会・まつもと」(事務局:鈴岡さん)の会員や古田先生の教え子さんをはじめ長野県内各地から30名以上の参加がありました。質疑応答で出された質問はとてもレベルが高く、「学都松本」と言われるだけはありました。会場は松本城(国宝)に近い中央図書館ですが、大勢の中高生が館内で勉強している姿にも感銘を受けました。催し物がない日は講演会場も開放し、子供たちの自習に使用させるとのこと。他の図書館にも見習ってほしい姿勢です。
 夜の懇親会では「邪馬壹国研究会・まつもと」の丸山さんから松本深志高校時代の古田先生の思い出話をたくさん聞かせていただきました。中でも国文学の担当をされていた古田先生の授業は休講が多かったが内容は素晴らしかったこと、深志高校の先生の中では古田先生は字が下手で、「深志の三悪筆」と生徒から呼ばれていたことなどを教えていただきました。ただし、「三悪筆」の中では、古田先生の字はまだ読める方だったとのこと。
 「深志の三悪筆」とは言い得て妙の表現です。たしかに古田先生の字は達筆とは言えませんでしたが、独特の「味のある」字体でした。ちなみに、一緒に「古田史学の会」を立ち上げた藤田友治さん(故人)とわたしも悪筆で、古田先生の「弟子」の中では「超悪筆」の二人かもしれません。他方、水野孝夫顧問(前代表)は達筆です。
 更に丸山さんは古田先生のお父上もご存じで、広島大学に進学されるとき、保証人になっていただいたそうです。古田先生の教え子さんたちも物故され、当時の古田先生のことを知る方々も少なくなっていますが、古田先生のお父上をご存じの方がおられることに驚きました。
 懇親会は夜遅くまで続き、遠方からお越しの方が徐々に退席される中、先生の思い出や学問の話、今後の活動方針などを話題に歓談が続きました。信州の皆様、ありがとうございました。


第1510話 2017/09/30

『戦後型皇国史観』に抗する学問

           をHPに転載

 「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」を担当されている横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)からの要請により、拙稿「『戦後型皇国史観』に抗する学問」を転載することになりました。同論稿は『季報 唯物論研究』の編集部より依頼されて執筆したもので、「中間総括・市民の日本古代史研究」を特集した138号(2017年2月)に収録されました。
 同誌は「古田史学の会」を一緒に立ち上げた藤田友治さん(故人、元・市民の古代研究会々長)も関わっておられた、立命館大学関係者が中心となって発行されているマルクス主義系の雑誌のようです。そうしたこともあり、「古田史学の会」役員会でも執筆依頼を受けるかどうか意見が分かれました。最終的には、わたしの意見を受け入れていただき、執筆することになりました。同特集には執筆予定者リストに反「古田武彦」、反「古田史学の会」の人物の名前が数名見られ、わたしが執筆しなければ、誤った古田史学の解説や古田先生への罵詈雑言が書かれた論稿のみとなりかねないと危惧していましたので、そのことを役員会でも理解していただきました。ですから、執筆した原稿を役員の皆さんに校正・チェックしていただきました。
 そうして書き上げた「『戦後型皇国史観』に抗する学問」は古田史学と「古田史学の会」の歴史的位置づけや使命を改めて表明したもので、古田先生を追悼する記念碑的論稿となりました。ホームページに転載されることにより、多くの皆さんに読んでいただけることを願っています。


第1476話 2017/08/10

半世紀ぶりの『将棋世界』

 子供の頃、わたしは将棋が大好きで学校に将棋の駒を持ち込んでは校長先生に見つかり、毎回没収されていました。プロの将棋指しになりたいと思ったこともありましたが、田舎に住んでいましたので、どうしたらプロ棋士になれるのかもわかりません。そのため、化学の道で食っていくことを子供心に決めたことを今でも覚えています。久留米高専に入ってからは将棋部に入部し、1年生のときに久留米市の将棋大会で優勝し、久留米市長杯や西日本新聞社からは記念品をいただきました。西日本新聞にも記事が掲載されました。
 当時は将棋の専門雑誌『将棋世界』や名著『将棋は歩から』をむさぼるように読んで、流行の戦法や定跡を学びました。そうした経験がありましたので、中学生のプロ棋士、藤井聡太四段の驚異の29連勝に刺激を受けて、学生時代に愛用した駒を引っ張り出したり、藤井四段の棋譜を拝見したりしています。そして、約半世紀ぶりに『将棋世界』9月号を購入してしまいました。藤井四段の29連勝と加藤一二三九段の引退が特集されており、記念の一冊です。
 その藤井四段の棋譜には衝撃を受けました。半世紀経つとこれほど戦法や考え方が進化するものかと思いました。化学でも半世紀前と現代の先端化学では異次元の領域の学問に変貌していますから、改めて時代の変化や時の流れを意識させられました。それらと比較すると日本古代史学の停滞は目を覆うばかりです。古代日本列島において複数の王朝が多元的に興亡したことや、中国史書に見える「倭国」と『日本書紀』が記す「日本国」とは異質(別国)であることさえも認めようとしないのですから。


第1460話 2017/07/21

『記紀九州』第三号を拝読する

 昨日、福島雅彦さんから『記紀九州』第三号をお贈りいただき、ありがたく拝読しました。同誌は久留米大学の大矢野栄次教授が発行されているもので、今号には福島さんの「倭の源流を探る」が掲載されています。
 巻頭に大矢野さんの「はじめに」があり、とても興味深く拝読しました。その内容は、昨年六月に物故された鳩山邦夫代議士(衆議院議員・福岡六区)の「追悼文」ともいうべきものでした。久留米市が鳩山邦夫さんの故郷だったことなど、わたしが初めて触れるようなことが紹介されています。たとえば次の鳩山さんの言葉には驚き、惜しい人物を失ったものだと思いました。

 「文部科学省の連中にも言っている。この九州王朝説が正しい。だから、まともに調べなさい。そして、やがて教科書を書き直さなければならない時が来ると言っているのですよ」

 大矢野先生のご尽力により、わたしや正木裕さん服部静尚さんは久留米大学公開講座の講師としてお招きいただいています。『記紀九州』がこれからも永く広く読み続けられることを祈念しています。


第1445話 2017/07/07

筒井康隆編『ネオ・ヌルの時代』斜め読み

 昨晩は名古屋の居酒屋で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からお借りした筒井康隆編『ネオ・ヌルの時代』(三冊、中公文庫。昭和60年)を斜め読みしました。同書は“SFショートショート”の同人誌『NULL』(復刊)に掲載された作品を筒井康隆さんの寸評を付して収録したものです。
 わたしも学生時代に星新一さんのショートショートにはまった経験があり、それ以来、実に40年ぶりにSFショートショート作品を読みました。というのも、この筒井康隆さん編集の三冊全てに西村さんの作品が掲載されており、筒井さんの寸評が付されているというので、お借りして読んだのでした。昭和60年に文庫化されているのですから、逆算すると西村さん二十代の作品ということになり、その文才に驚きました。西村さんが物理の法則にやたら詳しく論理的思考の持ち主というのは知っていましたが、まさか「若きSF作家」だったとは思いもよりませんでした。
 作品の内容は各人で読んでご判断いただくこととして、タイトルと筒井康隆さんの寸評のみご紹介します。

『ネオ・ヌルの時代』PART①
 「視線」西村秀己
 《寸評》似たような話はあるが、ちょいとしたアイデアなので佳作とする。
『ネオ・ヌルの時代』PART②
 「合流」西村秀己
 《寸評》ずいぶん不合理な点もあるが、ヌルとしては珍しいタイプの作品なので、佳作にしてみた。
  「イカロスの羽根」西村秀己
 《寸評》イカロス伝説の新解釈である。文章がもうひとつなので入選にはできない。佳作とする。

『ネオ・ヌルの時代』PART③
 「邂逅」西村秀己
 《寸評》孤独なテレパスであった男女がはじめて会う---というSFはすでにあるのです。もし誰も書いていなければ、ぼくがすでに書いているでしょう。文章もあまりよくない。しかしラストの面白さはちょっと捨てがたい。参考作品とする。

 更にPART③には筒井康隆さんの「応募作寸評」という一文があり、「最後にこの同人誌寄稿者諸兄の中から、優秀であった人数人を表彰させていただこう。」とあり、西村さんは「努力賞」とされています。そして、「斉藤・脇・和田・西村の四氏の進歩ぶりはすばらしい。安心して読めるようになり、期待が裏切られることはなくなった。いいアイデアを見つけたら自信を持って書いてください。」との高評価です。筒井康隆さんからここまでいわれるのですから、たいしたものです。ちなみに寄稿者の名前に「夢枕獏」が見えることから、人気SF作家の夢枕獏さんでさえ貰えなかった努力賞を西村さんがもらったことに、また驚いたしだいです。
 「合流」という作品には「邪馬台国」論争も話題として取り扱っておられることから、西村さんが若い頃から古代史に関心を示されていたことがうかがえます。ただし、畿内説の他には筑後山門説や宇佐説のみが登場していることから、執筆時点では古田先生の邪馬壹国説をご存じなかったようです。
 以下は蛇足ですが、実はわたしも学生時代に文芸部に「所属」していたことがあります。部員には歴史小説作家として名をなした同学年の阿部龍太郎君(機械科)がいました。わたし(化学科)は全く文才がなかったため、入部早々に部員不足に悩んでいた新聞部へ「出向」させられました。もちろん、新聞部でも使い物にならず、先輩から「君が書いたのは記事ではなくメモだ」と叱られ、記事は書かせてもらえず、新聞の広告取りと集金がわたしの部活動となりました。集めた広告料は先輩の“飲み代”に消えました。情けない青春の思い出の一つです。


第1427話 2017/06/20

中小路駿逸先生の遺稿集が発刊

 先日の「古田史学の会」全国世話人会のおり、小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)から、中小路駿逸先生の遺稿集『九州王権と大和王権』(海鳥社)が発刊されたことを教えていただきました。案内文によると次の遺稿が収録されているとのことで、わたしも読んだことがある好論文で、とても懐かしく思いました。

〔収録論文一覧〕
答えが先か根拠が先か
古田言説が出現してから
神武東征の意味
宣命の文辞とその周辺
日本神話の構造とその成立
『日本書紀』の書名の「書」の字について
唐代文献の日本像
大和(日本)王権の対唐政策
王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について
日本(大和)王権は冊封を受けず

 中小路先生は追手門学院大学の文学部教授で日本古典文学の研究をされていました。その過程で古田説と巡り会い、古田先生の九州王朝説を支持される論稿を発表し続けられました。「市民の古代研究会」時代に、わたしも親しくおつき合いさせていただき、古典や学問について多くのことを教えていただきました。
 わたしが三十代の頃、古田先生から学問研究における「論証」の重要性を繰り返し教えられてきたのですが、それは「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも」とか「論証は学問の命である」、ときには「学問は理屈が大切なのです。たとえ“屁理屈”でも理屈が通っていなければなりません」というような言葉を通してでした。当時、古田先生が言われるのだからその通りだと受け止めていたのですが、いざ自分で研究論文を書こうとするとき、「論証する」とはどういうことなのだろうか、ということがよく理解できず悩んでいました。わたしは理系(化学)の人間でしたので、再現性実験ができない歴史研究における「論証(証明)の方法」というものがよくわからなかったのです。
 そのようなとき、中小路先生にそのことをおたずねしたことがあります。中小路先生のお答えは「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。この言葉も抽象的でしたが、わたしの理解は一歩進みました。今でもこのときの学恩が忘れられません。
 中小路先生は2006年にご逝去されましたが、晩年、古田先生と王維の詩にみえる「九州外」の意味について意見が対立され、ちょっとした論争になりました。この論争により、結論だけではなく古田先生と中小路先生の学問の方法の「差」も明らかとなったもので、とても刺激的な論争内容でした。機会があれば、このときの経緯や背景、論争内容についてもご紹介したいと思います。


第1415話 2017/06/06

原稿採否基準、新規性と進歩性

 福岡県での仕事を終え、鹿児島中央駅に向かう九州新幹線の車中で書いています。車窓からの景色はずいぶん薄暗くなりました。今日、九州南部が梅雨入りしたとのことです。

 先月の関西例会後の懇親会で、常連の会員さんから『古田史学会報』に掲載された某論文について、「古田史学の会」としてその論文の説に賛成しているのかという趣旨のご質問をいただきました。その質問をされた方は『古田史学会報』に採用されたということは編集部から承認されたのだから、その論文の説を編集部は賛成したものと理解されていたようです。こうした誤解は他の会員の皆様にもあるかもしれません。
 よい機会ですので、学術誌などの採用基準と学問研究のあり方について、わたしの考えを説明させていただきたいと思います。『古田史学会報』に採用する論稿の評価基準については、「洛中洛外日記」1327話(2017/01/23)「研究論文の進歩性と新規性」でも説明してきたところです。学術論文の基本的な条件としては、史料根拠が明確なこと、論証が成立していること、先行説をふまえていること、引用元の出典が明示されていることなどがありますが、もっと重要な視点は新規性と進歩性がその論文にあるのかということです。
 新規性とは今までにない新しい説であること、あるいは新しい視点が含まれていることなどです。これは簡単ですからご理解いただけるでしょう。次に進歩性の有無が問われます。その新説により学問研究が進展するのかという視点です。たとえば、その新説により従来説では説明できなかった問題や矛盾していた課題がうまく説明できる、あるいはそこで提起された仮説や方法論が他の問題解決に役立つ、または他の研究者に大きな刺激を与える可能性があるという視点です。
 こうした新規性と進歩性が優れている、画期的であると認められれば、仮に論証や史料根拠が不十分であっても採用されるケースがあります。結果的にその新説が間違いであったとしても、広く紹介した方が学問の発展に寄与すると考えるからです。
 『古田史学会報』ではそれほど厳しい査読はしませんが、『古代に真実を求めて』では採用のハードルが高く、編集部でも激論が交わされることがあります。しかし、その採否検討にあたり、わたしや編集委員の意見や説に対して反対か賛成、あるいは不利・有利といった判断で採否が決まることはありません。ですから、採用されたからといって、編集部や「古田史学の会」がその説を支持していることを意味しません。しかし、掲載に値する新規性や進歩性を有していると評価されていることは当然です。
 以上のように、わたしは考えていますが、抽象論でわかりにくい説明かもしれません。「洛中洛外日記」1327話ではもう少し具体的に解説していますので、その部分を転載します。ご参考まで。

【転載】
 (前略)「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。(後略)


第1414話 2017/06/06

「太宰府」と「大宰府」の書き分け

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。今週は仕事で九州5県(福岡・熊本・鹿児島・宮崎・長崎)を廻ります。若い頃とは違って、ハードな出張へのモチベーションを上げるのに時間がかかるようになりました。五十代の頃は海外出張で中国大陸をクルマに乗って1日に10時間移動できる体力と精神力があったのですが。

 「洛中洛外日記」1413話で紹介した、「文書化」の7つの基本原則の“継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う”に関して、最近の失敗談をご紹介します。それは「太宰府」と「大宰府」の書き分けについての失敗です。
 友好団体「九州古代史の会」の機関紙『九州倭国通信』に投稿した論文中に、「太宰府」と「大宰府」の書き分けにミスがあり、編集担当の方から拙宅までお電話をいただきました。わたし自身、かなり厳密に意識的に書き分けていたのですが、うっかり一カ所だけ変換ミスをしていたところを編集担当の方から指摘され、どのように対応すべきか問い合わせをいただいたのです。通常であれば見過ごしてしまうような箇所だったのですが、その方は的確に発見され、ご丁寧にお問い合わせの電話までくださったのです。さすがは九州王朝地元の研究会だと恐れ入りました。
 ご参考までに、わたしの「太宰府」と「大宰府」の書き分けの基準について紹介します。もちろん、わたしの考えに基づくものですから、他の基準とは異なるケースもありますので、この点、ご了解ください。

「太宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「太宰府」となっている。
○地名の「太宰府市」や神社名「太宰府天満宮」の表記。
○九州王朝の官職名や役所名としての「太宰府」「太宰」。
○九州王朝説に基づく文脈での使用。

「大宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「大宰府」となっている。
○考古学表記・用語として定着してる「大宰府政庁」など。
○一元史観の論稿や見解を要約するケース。

 他にもありますが、おおよそ上記の点に留意して書き分けています。中でも難しいのが「一元史観の論稿や見解を要約するケース」です。ここらへんになると、要約引用された側(人)への配慮と、九州王朝説を支持する読者への配慮とが矛盾することもあり、悩ましいところです。
 ちなみに、この「洛中洛外日記」の文章は複数の方のチェック(誤字・脱字・文章表現・論文慣習・事実関係・論理性等の当否)を受けた後にHPと「洛洛メール便」担当者に送るのですが、その際、「古田史学の会」役員へもccで送信しています。ですから、みなさんの目に留まる前に多数の関係者のチェックを受けているのですが、それでも文字や文章、論旨の誤りを完全には無くせません。中でも、今回の「太宰府」と「大宰府」の書き分けに至っては、チェック担当者から“当否を判断できない”と言われるほどの「難関」の一つなのです。「太」と「大」に、これだけこだわらなければならないのは、九州王朝説・古田学派の宿命ですね。
 なお付言しますと、「洛中洛外日記」の内容や仮説が学問的に誤りであったことが後に判明することがあります。その場合は、誤りであったことが判明した時点で、あるいは誤りとまでは言えないが他の有力説が登場したときに、あらためて「洛中洛外日記」で訂正記事を書いたり紹介することにしています。そうすることが学問的に真摯な対応であり、仮説の淘汰・発展を読者もリアルタイムで見ることができ、読んでいても面白いと思うからです。学問とはそうして発展するものだとわたしは考えています。