現代一覧

第1550話 2017/12/08

九州王朝の都鳥

 昨日、東京からの帰りの新幹線グリーン車に備えてある雑誌『ひととき』(2017年12月)を読んでいると、「都鳥」という記事が目に留まりました。片柳草生さんによる文と鈴木一彦さんの写真からなるもので、興味深く拝読しました。
 同記事では隅田川を飛ぶユリカモメの写真などが掲載され、ユリカモメのことを都鳥というと紹介されていました。わたしはいつから都鳥をユリカモメのこととするようになったのだろうと不思議に思い調べてみると、古典(伊勢物語・万葉集)などに見える都鳥はユリカモメとするのが有力説であり、ミヤコドリ科のミヤコドリのこととする説は少数とのこと。そして、なぜ都鳥と呼ばれるようになったのかも不明とされているようなのです。
 今から30年ほど昔のことですが、わたしは「市民の古代研究会・九州」(当時)の灰塚照明さんらから、冬になるとシベリア方面から都鳥(ミヤコドリ科)が博多湾岸に飛来するということを教えていただいたことがあり、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったのではないかと考えていました。このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説に立たなければ都鳥という名称の説明がつきません。ですから、都鳥こそ九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥なのです。
 このようにわたしは理解していましたので、いつのまにかユリカモメが都鳥とされてしまい、おまけに東京都がユリカモメを「東京都の鳥」に指定したとのことで、話がややこしくなったようです。そこで提案ですが、ミヤコドリ科の本物の都鳥を福岡市か太宰府市の「市の鳥」に認定してはどうでしょうか。あるいは福岡県の鳥でもよいと思います。古田史学・九州王朝説を地元に広めるためにも、ユリカモメに負けることなく、「都鳥(ミヤコドリ科)=九州王朝の都の鳥」説を提唱したいと思います。

《追記》念のため調べたところ、福岡県の鳥は鴬。そしてなんと福岡市の鳥(海鳥部門)はゆりかもめとのこと。ゆりかもめ、恐るべし。


第1540話 2017/11/16

天寿国繍帳のグリーン色の謎

 今日は終日大阪での学会発表(繊維応用技術研究会)を聴講しました。信州大学でエレクトロスピニングによるナノファイバー量産化技術を開発し、自らベンチャーを起業された渡邊圭さん(株式会社ナフィアス社長、30歳)の発表の座長を務めさせていただきました。また、天然染料を研究されている武庫川女子大学の古濱裕樹先生とは懇親会で古代の天然染料について意見交換しました。
 古濱先生によれば、天然色素は緑色で良いものがないとのことなので、クロロフィル(葉緑素。テトラピロール環の中心にマグネシウムを配位した分子骨格)は利用できないかと質問したところ、葉っぱをすりつぶしてそのまま着色するという技術はあるが、すぐに退色するとのこと。そこで、奈良の中宮寺にある国宝「天寿国繍帳」は飛鳥時代の作品だが、緑色の亀の部分の色素は現代まで退色しておらず、どのような色素が使用されたのかを懇親会で論議しました。
 古濱先生の見解では、藍の青色と黄色の染料の重ね染めと思うが、黄色の染料は退色が早いので、飛鳥時代の黄色が現在まで残るとは考えられないとのことでした。わたしは鎌倉時代に補修した部分は緑色の部分が黄色に変色しており、むしろ青色の染料の退色が早いことを示しているのではないかと思いました。結論は出ませんでしたが、久しぶりの古代染色論議で楽しい時間を持てました。現代化学の技術や知見でも古代染色技法を解明できないことに、古代人の英知を感じました。
 渡邊社長のご講演では、ナノファイバーでのプルシアンブルー(青色顔料)担持により、ゼオライトよりも効果的なセシウムの吸収が可能との報告がありました。福島原発から放出した放射性セシウムの防護・回収フィルターへの利用を想定されているのですかと質問したところ、その通りですとのこと。渡邊さんは福島市ご出身で、同技術が故郷の除染に貢献できればよいなと思いました。
 若い研究者との対話はいつも新鮮でエキサイティングです。わたしは定年まで残すところ3年を切りましたが、この夏に開発に成功した、太陽光発熱色素と同染色技術を世に送り出すことが勤務先や業界への最後のご奉公になりそうです。


第1539話 2017/11/15

深志の三悪筆

 昨日は松本市での古代史講演会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と共に講演しました。平日にもかわらず、「邪馬壹国研究会・まつもと」(事務局:鈴岡さん)の会員や古田先生の教え子さんをはじめ長野県内各地から30名以上の参加がありました。質疑応答で出された質問はとてもレベルが高く、「学都松本」と言われるだけはありました。会場は松本城(国宝)に近い中央図書館ですが、大勢の中高生が館内で勉強している姿にも感銘を受けました。催し物がない日は講演会場も開放し、子供たちの自習に使用させるとのこと。他の図書館にも見習ってほしい姿勢です。
 夜の懇親会では「邪馬壹国研究会・まつもと」の丸山さんから松本深志高校時代の古田先生の思い出話をたくさん聞かせていただきました。中でも国文学の担当をされていた古田先生の授業は休講が多かったが内容は素晴らしかったこと、深志高校の先生の中では古田先生は字が下手で、「深志の三悪筆」と生徒から呼ばれていたことなどを教えていただきました。ただし、「三悪筆」の中では、古田先生の字はまだ読める方だったとのこと。
 「深志の三悪筆」とは言い得て妙の表現です。たしかに古田先生の字は達筆とは言えませんでしたが、独特の「味のある」字体でした。ちなみに、一緒に「古田史学の会」を立ち上げた藤田友治さん(故人)とわたしも悪筆で、古田先生の「弟子」の中では「超悪筆」の二人かもしれません。他方、水野孝夫顧問(前代表)は達筆です。
 更に丸山さんは古田先生のお父上もご存じで、広島大学に進学されるとき、保証人になっていただいたそうです。古田先生の教え子さんたちも物故され、当時の古田先生のことを知る方々も少なくなっていますが、古田先生のお父上をご存じの方がおられることに驚きました。
 懇親会は夜遅くまで続き、遠方からお越しの方が徐々に退席される中、先生の思い出や学問の話、今後の活動方針などを話題に歓談が続きました。信州の皆様、ありがとうございました。


第1510話 2017/09/30

『戦後型皇国史観』に抗する学問

           をHPに転載

 「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」を担当されている横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)からの要請により、拙稿「『戦後型皇国史観』に抗する学問」を転載することになりました。同論稿は『季報 唯物論研究』の編集部より依頼されて執筆したもので、「中間総括・市民の日本古代史研究」を特集した138号(2017年2月)に収録されました。
 同誌は「古田史学の会」を一緒に立ち上げた藤田友治さん(故人、元・市民の古代研究会々長)も関わっておられた、立命館大学関係者が中心となって発行されているマルクス主義系の雑誌のようです。そうしたこともあり、「古田史学の会」役員会でも執筆依頼を受けるかどうか意見が分かれました。最終的には、わたしの意見を受け入れていただき、執筆することになりました。同特集には執筆予定者リストに反「古田武彦」、反「古田史学の会」の人物の名前が数名見られ、わたしが執筆しなければ、誤った古田史学の解説や古田先生への罵詈雑言が書かれた論稿のみとなりかねないと危惧していましたので、そのことを役員会でも理解していただきました。ですから、執筆した原稿を役員の皆さんに校正・チェックしていただきました。
 そうして書き上げた「『戦後型皇国史観』に抗する学問」は古田史学と「古田史学の会」の歴史的位置づけや使命を改めて表明したもので、古田先生を追悼する記念碑的論稿となりました。ホームページに転載されることにより、多くの皆さんに読んでいただけることを願っています。


第1476話 2017/08/10

半世紀ぶりの『将棋世界』

 子供の頃、わたしは将棋が大好きで学校に将棋の駒を持ち込んでは校長先生に見つかり、毎回没収されていました。プロの将棋指しになりたいと思ったこともありましたが、田舎に住んでいましたので、どうしたらプロ棋士になれるのかもわかりません。そのため、化学の道で食っていくことを子供心に決めたことを今でも覚えています。久留米高専に入ってからは将棋部に入部し、1年生のときに久留米市の将棋大会で優勝し、久留米市長杯や西日本新聞社からは記念品をいただきました。西日本新聞にも記事が掲載されました。
 当時は将棋の専門雑誌『将棋世界』や名著『将棋は歩から』をむさぼるように読んで、流行の戦法や定跡を学びました。そうした経験がありましたので、中学生のプロ棋士、藤井聡太四段の驚異の29連勝に刺激を受けて、学生時代に愛用した駒を引っ張り出したり、藤井四段の棋譜を拝見したりしています。そして、約半世紀ぶりに『将棋世界』9月号を購入してしまいました。藤井四段の29連勝と加藤一二三九段の引退が特集されており、記念の一冊です。
 その藤井四段の棋譜には衝撃を受けました。半世紀経つとこれほど戦法や考え方が進化するものかと思いました。化学でも半世紀前と現代の先端化学では異次元の領域の学問に変貌していますから、改めて時代の変化や時の流れを意識させられました。それらと比較すると日本古代史学の停滞は目を覆うばかりです。古代日本列島において複数の王朝が多元的に興亡したことや、中国史書に見える「倭国」と『日本書紀』が記す「日本国」とは異質(別国)であることさえも認めようとしないのですから。


第1460話 2017/07/21

『記紀九州』第三号を拝読する

 昨日、福島雅彦さんから『記紀九州』第三号をお贈りいただき、ありがたく拝読しました。同誌は久留米大学の大矢野栄次教授が発行されているもので、今号には福島さんの「倭の源流を探る」が掲載されています。
 巻頭に大矢野さんの「はじめに」があり、とても興味深く拝読しました。その内容は、昨年六月に物故された鳩山邦夫代議士(衆議院議員・福岡六区)の「追悼文」ともいうべきものでした。久留米市が鳩山邦夫さんの故郷だったことなど、わたしが初めて触れるようなことが紹介されています。たとえば次の鳩山さんの言葉には驚き、惜しい人物を失ったものだと思いました。

 「文部科学省の連中にも言っている。この九州王朝説が正しい。だから、まともに調べなさい。そして、やがて教科書を書き直さなければならない時が来ると言っているのですよ」

 大矢野先生のご尽力により、わたしや正木裕さん服部静尚さんは久留米大学公開講座の講師としてお招きいただいています。『記紀九州』がこれからも永く広く読み続けられることを祈念しています。


第1445話 2017/07/07

筒井康隆編『ネオ・ヌルの時代』斜め読み

 昨晩は名古屋の居酒屋で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からお借りした筒井康隆編『ネオ・ヌルの時代』(三冊、中公文庫。昭和60年)を斜め読みしました。同書は“SFショートショート”の同人誌『NULL』(復刊)に掲載された作品を筒井康隆さんの寸評を付して収録したものです。
 わたしも学生時代に星新一さんのショートショートにはまった経験があり、それ以来、実に40年ぶりにSFショートショート作品を読みました。というのも、この筒井康隆さん編集の三冊全てに西村さんの作品が掲載されており、筒井さんの寸評が付されているというので、お借りして読んだのでした。昭和60年に文庫化されているのですから、逆算すると西村さん二十代の作品ということになり、その文才に驚きました。西村さんが物理の法則にやたら詳しく論理的思考の持ち主というのは知っていましたが、まさか「若きSF作家」だったとは思いもよりませんでした。
 作品の内容は各人で読んでご判断いただくこととして、タイトルと筒井康隆さんの寸評のみご紹介します。

『ネオ・ヌルの時代』PART①
 「視線」西村秀己
 《寸評》似たような話はあるが、ちょいとしたアイデアなので佳作とする。
『ネオ・ヌルの時代』PART②
 「合流」西村秀己
 《寸評》ずいぶん不合理な点もあるが、ヌルとしては珍しいタイプの作品なので、佳作にしてみた。
  「イカロスの羽根」西村秀己
 《寸評》イカロス伝説の新解釈である。文章がもうひとつなので入選にはできない。佳作とする。

『ネオ・ヌルの時代』PART③
 「邂逅」西村秀己
 《寸評》孤独なテレパスであった男女がはじめて会う---というSFはすでにあるのです。もし誰も書いていなければ、ぼくがすでに書いているでしょう。文章もあまりよくない。しかしラストの面白さはちょっと捨てがたい。参考作品とする。

 更にPART③には筒井康隆さんの「応募作寸評」という一文があり、「最後にこの同人誌寄稿者諸兄の中から、優秀であった人数人を表彰させていただこう。」とあり、西村さんは「努力賞」とされています。そして、「斉藤・脇・和田・西村の四氏の進歩ぶりはすばらしい。安心して読めるようになり、期待が裏切られることはなくなった。いいアイデアを見つけたら自信を持って書いてください。」との高評価です。筒井康隆さんからここまでいわれるのですから、たいしたものです。ちなみに寄稿者の名前に「夢枕獏」が見えることから、人気SF作家の夢枕獏さんでさえ貰えなかった努力賞を西村さんがもらったことに、また驚いたしだいです。
 「合流」という作品には「邪馬台国」論争も話題として取り扱っておられることから、西村さんが若い頃から古代史に関心を示されていたことがうかがえます。ただし、畿内説の他には筑後山門説や宇佐説のみが登場していることから、執筆時点では古田先生の邪馬壹国説をご存じなかったようです。
 以下は蛇足ですが、実はわたしも学生時代に文芸部に「所属」していたことがあります。部員には歴史小説作家として名をなした同学年の阿部龍太郎君(機械科)がいました。わたし(化学科)は全く文才がなかったため、入部早々に部員不足に悩んでいた新聞部へ「出向」させられました。もちろん、新聞部でも使い物にならず、先輩から「君が書いたのは記事ではなくメモだ」と叱られ、記事は書かせてもらえず、新聞の広告取りと集金がわたしの部活動となりました。集めた広告料は先輩の“飲み代”に消えました。情けない青春の思い出の一つです。


第1427話 2017/06/20

中小路駿逸先生の遺稿集が発刊

 先日の「古田史学の会」全国世話人会のおり、小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)から、中小路駿逸先生の遺稿集『九州王権と大和王権』(海鳥社)が発刊されたことを教えていただきました。案内文によると次の遺稿が収録されているとのことで、わたしも読んだことがある好論文で、とても懐かしく思いました。

〔収録論文一覧〕
答えが先か根拠が先か
古田言説が出現してから
神武東征の意味
宣命の文辞とその周辺
日本神話の構造とその成立
『日本書紀』の書名の「書」の字について
唐代文献の日本像
大和(日本)王権の対唐政策
王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について
日本(大和)王権は冊封を受けず

 中小路先生は追手門学院大学の文学部教授で日本古典文学の研究をされていました。その過程で古田説と巡り会い、古田先生の九州王朝説を支持される論稿を発表し続けられました。「市民の古代研究会」時代に、わたしも親しくおつき合いさせていただき、古典や学問について多くのことを教えていただきました。
 わたしが三十代の頃、古田先生から学問研究における「論証」の重要性を繰り返し教えられてきたのですが、それは「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも」とか「論証は学問の命である」、ときには「学問は理屈が大切なのです。たとえ“屁理屈”でも理屈が通っていなければなりません」というような言葉を通してでした。当時、古田先生が言われるのだからその通りだと受け止めていたのですが、いざ自分で研究論文を書こうとするとき、「論証する」とはどういうことなのだろうか、ということがよく理解できず悩んでいました。わたしは理系(化学)の人間でしたので、再現性実験ができない歴史研究における「論証(証明)の方法」というものがよくわからなかったのです。
 そのようなとき、中小路先生にそのことをおたずねしたことがあります。中小路先生のお答えは「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。この言葉も抽象的でしたが、わたしの理解は一歩進みました。今でもこのときの学恩が忘れられません。
 中小路先生は2006年にご逝去されましたが、晩年、古田先生と王維の詩にみえる「九州外」の意味について意見が対立され、ちょっとした論争になりました。この論争により、結論だけではなく古田先生と中小路先生の学問の方法の「差」も明らかとなったもので、とても刺激的な論争内容でした。機会があれば、このときの経緯や背景、論争内容についてもご紹介したいと思います。


第1415話 2017/06/06

原稿採否基準、新規性と進歩性

 福岡県での仕事を終え、鹿児島中央駅に向かう九州新幹線の車中で書いています。車窓からの景色はずいぶん薄暗くなりました。今日、九州南部が梅雨入りしたとのことです。

 先月の関西例会後の懇親会で、常連の会員さんから『古田史学会報』に掲載された某論文について、「古田史学の会」としてその論文の説に賛成しているのかという趣旨のご質問をいただきました。その質問をされた方は『古田史学会報』に採用されたということは編集部から承認されたのだから、その論文の説を編集部は賛成したものと理解されていたようです。こうした誤解は他の会員の皆様にもあるかもしれません。
 よい機会ですので、学術誌などの採用基準と学問研究のあり方について、わたしの考えを説明させていただきたいと思います。『古田史学会報』に採用する論稿の評価基準については、「洛中洛外日記」1327話(2017/01/23)「研究論文の進歩性と新規性」でも説明してきたところです。学術論文の基本的な条件としては、史料根拠が明確なこと、論証が成立していること、先行説をふまえていること、引用元の出典が明示されていることなどがありますが、もっと重要な視点は新規性と進歩性がその論文にあるのかということです。
 新規性とは今までにない新しい説であること、あるいは新しい視点が含まれていることなどです。これは簡単ですからご理解いただけるでしょう。次に進歩性の有無が問われます。その新説により学問研究が進展するのかという視点です。たとえば、その新説により従来説では説明できなかった問題や矛盾していた課題がうまく説明できる、あるいはそこで提起された仮説や方法論が他の問題解決に役立つ、または他の研究者に大きな刺激を与える可能性があるという視点です。
 こうした新規性と進歩性が優れている、画期的であると認められれば、仮に論証や史料根拠が不十分であっても採用されるケースがあります。結果的にその新説が間違いであったとしても、広く紹介した方が学問の発展に寄与すると考えるからです。
 『古田史学会報』ではそれほど厳しい査読はしませんが、『古代に真実を求めて』では採用のハードルが高く、編集部でも激論が交わされることがあります。しかし、その採否検討にあたり、わたしや編集委員の意見や説に対して反対か賛成、あるいは不利・有利といった判断で採否が決まることはありません。ですから、採用されたからといって、編集部や「古田史学の会」がその説を支持していることを意味しません。しかし、掲載に値する新規性や進歩性を有していると評価されていることは当然です。
 以上のように、わたしは考えていますが、抽象論でわかりにくい説明かもしれません。「洛中洛外日記」1327話ではもう少し具体的に解説していますので、その部分を転載します。ご参考まで。

【転載】
 (前略)「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。(後略)


第1414話 2017/06/06

「太宰府」と「大宰府」の書き分け

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。今週は仕事で九州5県(福岡・熊本・鹿児島・宮崎・長崎)を廻ります。若い頃とは違って、ハードな出張へのモチベーションを上げるのに時間がかかるようになりました。五十代の頃は海外出張で中国大陸をクルマに乗って1日に10時間移動できる体力と精神力があったのですが。

 「洛中洛外日記」1413話で紹介した、「文書化」の7つの基本原則の“継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う”に関して、最近の失敗談をご紹介します。それは「太宰府」と「大宰府」の書き分けについての失敗です。
 友好団体「九州古代史の会」の機関紙『九州倭国通信』に投稿した論文中に、「太宰府」と「大宰府」の書き分けにミスがあり、編集担当の方から拙宅までお電話をいただきました。わたし自身、かなり厳密に意識的に書き分けていたのですが、うっかり一カ所だけ変換ミスをしていたところを編集担当の方から指摘され、どのように対応すべきか問い合わせをいただいたのです。通常であれば見過ごしてしまうような箇所だったのですが、その方は的確に発見され、ご丁寧にお問い合わせの電話までくださったのです。さすがは九州王朝地元の研究会だと恐れ入りました。
 ご参考までに、わたしの「太宰府」と「大宰府」の書き分けの基準について紹介します。もちろん、わたしの考えに基づくものですから、他の基準とは異なるケースもありますので、この点、ご了解ください。

「太宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「太宰府」となっている。
○地名の「太宰府市」や神社名「太宰府天満宮」の表記。
○九州王朝の官職名や役所名としての「太宰府」「太宰」。
○九州王朝説に基づく文脈での使用。

「大宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「大宰府」となっている。
○考古学表記・用語として定着してる「大宰府政庁」など。
○一元史観の論稿や見解を要約するケース。

 他にもありますが、おおよそ上記の点に留意して書き分けています。中でも難しいのが「一元史観の論稿や見解を要約するケース」です。ここらへんになると、要約引用された側(人)への配慮と、九州王朝説を支持する読者への配慮とが矛盾することもあり、悩ましいところです。
 ちなみに、この「洛中洛外日記」の文章は複数の方のチェック(誤字・脱字・文章表現・論文慣習・事実関係・論理性等の当否)を受けた後にHPと「洛洛メール便」担当者に送るのですが、その際、「古田史学の会」役員へもccで送信しています。ですから、みなさんの目に留まる前に多数の関係者のチェックを受けているのですが、それでも文字や文章、論旨の誤りを完全には無くせません。中でも、今回の「太宰府」と「大宰府」の書き分けに至っては、チェック担当者から“当否を判断できない”と言われるほどの「難関」の一つなのです。「太」と「大」に、これだけこだわらなければならないのは、九州王朝説・古田学派の宿命ですね。
 なお付言しますと、「洛中洛外日記」の内容や仮説が学問的に誤りであったことが後に判明することがあります。その場合は、誤りであったことが判明した時点で、あるいは誤りとまでは言えないが他の有力説が登場したときに、あらためて「洛中洛外日記」で訂正記事を書いたり紹介することにしています。そうすることが学問的に真摯な対応であり、仮説の淘汰・発展を読者もリアルタイムで見ることができ、読んでいても面白いと思うからです。学問とはそうして発展するものだとわたしは考えています。


第1413話 2017/06/05

ノートの書き方と論文の書き方

 わたしが勤務先で使用しているパソコンには社内外からの様々な情報や連絡メールが届きます。多い日には数十件のメールが届くこともあり、そんな日は朝から緊急メールの返信作業だけで半日かかります。
 そのようなビジネスレターの中に、古代史論文執筆にも役立ちそうな解説がありましたので、転載し若干の説明をします。『古田史学会報』への投稿論文執筆のご参考にしていただければと思います。

《以下、転載》
(前略)つまり、ノートの書き方など、みんなバラバラなのだ。
 ただし、一言断っておくと、どんなノートを取っていようとも、最終的に外部に出す文書を作成する場合には、「人に理解される」内容に仕上げられる能力がある。「文書化」の基本を押さえているからだ。
 文書化の基本となるのは、以下の7つの基本原則である。

 チャンキングの原則:情報を小さなかたまり(チャンク)に分割する
 関連性確保の原則:1つのチャンクでは1つのテーマだけを扱う
 ラベル付けの原則:チャンクの内容の概略がすぐに分かるように見出しを付ける
 継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う
 グラフの統合化:グラフや図をその内容の側に添付する
 参照先の添付:興味を持った人がさらに調べることのできる先を記しておく

 これらの基本原則は、本来、学生時代の卒業論文などで担当教授から徹底的に指導されマスターしておくべきものである。その経験がなくとも社会人になったのちに、会社の基本となる文書フォーマットに、この基本原則が反映されていることから、自然とフォーマットなしでもきちんとした文書が作れるようになっていたわけだが、昨今はパワポ文書の氾濫により、原則が完全に崩れてしまっている。その結果、生産性が劇的に下がっていることは以前の記事でも述べた通りである。エグゼクティブたちは、このあたりの原則は、確実にマスターしている。(転載終わり)

 古代史論文に関わらず、“「人に理解される」内容に仕上げられる能力”が重要なことは言うまでもありません。自説を支持していない人が読んでも、その内容を理解してもらえるように書く文章力は実践の中で身につけるしかありません。
 また、あれもこれも論じるのではなく、なるべくテーマを絞り込み、何を論証するのか、どのように読者に読みとってもらいたいのかという「読者理解のシナリオ」も重要です。そして、そのシナリオにそった項目分けと項目を明確に表現する「小見出し」の選定は必須です。長い論稿ほど効果的な「小見出し」が読者の理解を促すだけでなく、自らの論証シナリオの再確認にも役立ちます。
 わたしもこうしたことを意識しながら執筆するのですが、残念ながら誤字・変換ミスは無くなりませんし、今でも失敗の繰り返しです。その点、比較するのもはばかられますが、古田先生の執筆力と校正力は素晴らしいものでした。古田先生からいただいた鉛筆書きの原稿にはいつも校正の跡でびっしりでした。先生がどのような点を意識しながら原稿校正されていたのかがよくわかり、わたし自身も論文執筆の勉強になったものです。そのため、文体が古田先生に似てしまい、先生との共著を出したとき、出版社から文体を変えてくれとクレームがついたこともありました。まだ三十代の頃のことで、懐かしい思い出です。(つづく)


第1395話 2017/05/13

「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田説紹介

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)からのメールで、歌手でタレントの武田鉄矢さんがラジオ番組「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を紹介されているとことをご連絡いただきました。下記のyoutubeで聞くことができます。かなり好意的な紹介でした。

https://www.youtube.com/watch?v=dGwnzDs2ckI

 武田鉄矢さんは博多のご出身でもあり、古田説に衝撃を受けたとのことです。思わぬところに古田ファンがおられるものだと、嬉しくなりました。わたしも学生時代にフォークバンドでリードギターを担当していたこともあり、武田鉄矢さん率いる「海援隊」のファンでした。まだそれほど有名になる前に開催された久留米市でのコンサートに行ったこともあります。機会があれば武田鉄矢さんにお礼のメールでも差し上げたいと思います。