現代一覧

第1110話 2015/12/23

教科書に古田説(韓国内陸行)採用

 先日の「古田史学の会」関西例会で『三国志』倭人伝の行程について論争が行われました。帯方郡(ソウル付近)から狗邪韓国(釜山付近)まで、陸行か水行かが争点でした。従来説では韓半島の西と南の海を水行するというものでしたが、古田説では一部水行した後、あとは韓半島内を陸行したとされています。
 ところが中学の歴史教科書(帝国書院「社会科 中学生の歴史」)に古田説の「韓国内陸行」が採用されていると、八王子市の前田嘉彦さんからその教科書が送られてきました。同書23ページにある「邪馬台国」という小さな図面ですが、確かに行程を示す赤いラインが韓国内は陸行を示しているのです。基本的に歴史教科書は「通説」「多数説」に基づいて編纂されますから、日本古代史学界は知らないうちに「韓国内陸行」という古田説を認めているようです。
 このように、気づかれないように古田説を部分的に取り込みながら、「通説」は古田説にすり寄っているのかもしれませんね。この件、引き続き調査したいと思います。
 ちなみに、同教科書巻末には次のように記されていました。
 「平成23年3月30日 文部科学省 検定済
  平成27年1月10日 印刷
  平成27年1月20日 発行」


第1107話 2015/12/19

『日本書紀』安閑紀に

 「九州年号建元」記事発見!

 先月公開されたテキサス医科大学の研究者による下記論文は、損傷筋細胞からいわゆる「STAP現象」による幹細胞の発現を確認したというものらしいのですが、ネイチャーの電子版に掲載されています。残念ながらわたしの英語力では全く理解できませんでした。もちろん、門外漢のわたしには当否も判断できません。

 『Characterization of an Injury Induced Population of Muscle-Derived Stem Cell-Like Cells』
 損傷誘導性による筋肉由来の幹細胞様細胞(iMuSCs)
  http://www.nature.com/articles/srep17355

 願わくは、小保方さんや笹井さんの時のような集団バッシング(マスコミなどによる日本型リンチ)にあうことなく、発表者たちが落ち着いた環境で研究を進められますように。仮に間違っていたり不正確な仮説であっても、自由に発表しあえる学問的寛容性もまた科学を発展させてきたのですから。
 本日の「古田史学の会」関西例会では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、『日本書紀』安閑紀に「九州年号建元」記事発見を報告されました。従来から『日本書紀』編纂にあたり漢籍(「芸文類聚」等)からの転用があることは知られていましたが、その漢籍転用は九州王朝が先行して行っており、その転用した九州王朝史書を『日本書紀』編纂にあたりそのまま引用した可能性があることを指摘されました。
 そうした研究過程で安閑紀に「九州年号建元」記事なるものを発見されました。さらに、この方法論による『日本書紀』史料批判の結果、九州王朝の漢籍受容の検証が進み、九州王朝思想史の研究にも道を拓くことが予想されます。とても興味深く重要な発表でした。今後の展開が楽しみです。
 12月例会の発表は次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
①「九州年号」と「評」から見た九州王朝の風景(八尾市・服部静尚)
②多利思北孤の都は伊勢(三重県)にあった(姫路市・野田利郎)
③仮説「国伝」のご意見への回答(姫路市・野田利郎)
④狗邪韓国の一考察(奈良市・出野正)
⑤『三角縁神獣鏡研究の最前線』〜精密計測から浮かび上がる製作地〜(京都市・岡下英男)
⑥『日本書紀』における「神武紀」の役割及びニギハヤヒの位置付け 後編2(東大阪市・萩野秀公)
⑧『大唐青龍寺三朝供奉大徳行状』の空海(高松市・西村秀己)
⑦『日本書紀』の「原典」と九州王朝(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼会の準備・宮本美代志氏(米子市)から質問fax・史跡巡りハイキング(JR四条畷駅付近・市立歴史民俗資料館〔開館30周年特別展「継躰天皇と河内の馬飼い」〕・楠正行墓)・TV視聴(奈良大学文学講座)・別府史談会30周年記念投稿募集案内・蛭田喬樹『周髀算経』と「短里」、『歴史研究』No.636、2015/11・その他


第1100話 2015/11/30

高島忠平先生からのメール

 「洛中洛外日記」第1099話で高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が「西日本新聞」11月4日朝刊に掲載されていることをご紹介しました。とても誠実な追悼文でしたので、高島先生にメールでお礼を申し上げ、『古代に真実を求めて』古田先生追悼特集号への転載許可をお願いしたところ、ご了解のメールをいただきました。大変有り難いことと感謝しています。機会があれば、佐賀市の旭学園を訪問し、お礼を申し上げたいと思います。
 11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com )まで、メールでお申し込みください。(「洛洛メール便」は当会会員向けのサービスです。)

11月の「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2015/11/01 角替豊さんと旧交をあたためる
2015/11/04 城南海さんの新曲「月と月」が美しい
2015/11/07 わたしが死んだら、賀茂川に入れて魚に与えよ
2015/11/10 朝来市の赤淵神社訪問
2015/11/15 中島みゆきと古田先生
2015/11/18 赤淵神社文書の撮影調査を実施
2015/11/20 最古の木造建築物、法隆寺の耐震技術
2015/11/27 大阪大学中之島センターで講演


第1099話 2015/11/29

高島忠平さんが追悼記事

 「洛中洛外日記」の読者で久留米市の犬塚幹夫さんからメールをいただき、「西日本新聞」11月4日朝刊に高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が掲載されていることを教えていただきました。
 高島さんは吉野ヶ里遺跡を発掘された著名な考古学者で、学界内では少数派の「邪馬台国」九州説に立たれています。現在は学校法人旭学園(佐賀市)の理事長をされておられますが、古田先生とは古くから親交がありました。1991年8月に昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された「古代史討論シンポジウム『邪馬台国』徹底論争 --邪馬壹国問題を起点として--」(東方史学会主催)に、七田忠昭さんとともに参加されています。そのときの発表や討論の内容は『「邪馬台国」徹底論争』1〜3巻(新泉社)に収録されています。24年前のことですが、読み返してみますと、懐かしさがこみ上げてきます。
 「西日本新聞」の追悼記事は「古田武彦さんを悼む」という表題とともに、「常識、定説、権威に対する疑問と反抗心」という見出しと先生の遺影・著作の写真が掲載されています。そして「邪馬壹国」説に始まり、「多元的古代」「九州王朝」説にもふれられ、「私は多元的古代史観に共感している。古田さんの描く九州王朝説をそのまま受け入れられないが、「地域史観」を持っている。(中略)私も邪馬台国のフォーラムに呼ばれたことがある。自説は確固として、激しく主張されるが、他説には謙虚に耳を傾けておられた姿が印象的であった。」と記されています。
 そして最後に、「古田さんは、もともとは思想史が専門で、親鸞の研究で知られている。既成の日本仏教に反旗をひるがえし、仏教に革命をもたらした親鸞と古田さんの間には、共通して常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心があったように思う。冥界で出会った2人はどんな論争をしているだろうか。ご冥福を祈ります。」と結ばれており、とても誠実な追悼文です。先生も冥界で喜んでおられることでしょう。高島さんに感謝したいと思います。なお、同記事の全文は「古田史学の会」やわたしのfacebook(Tatuya Koga)に張り付けていますので、ぜひご覧ください。


第1096話 2015/11/24

正倉院の毛製宝物の材質

 本日、大阪市天王寺区のホテルアウィーナ大阪で開催された繊維応用技術研究会に出席し、奥村章(おくむら・あきら)さん(消費科学研究所・技術顧問)の講演「正倉院の毛製宝物の材質を調べる」の座長をさせていただきました。
 講師の奥村さんは北海道大学農学部を卒業後、大阪府立産業技術総合研究所に勤務され、平成21〜24年の秋の正倉院開封期間中に特別材質調査の調査員として、毛製宝物の筆、伎楽面、伎楽衣装、毛氈(もうせん)、鞆、馬具など117点の材質を調査されました。ちなみに、正倉院は校倉造りとされていますが、「北倉」と「南倉」のみが校倉作りで、「中倉」は板倉造りで、内部は二階建てだそうです。現在、正倉院内部は空で、宝物は「西宝庫」に保管されているとのこと。
 その調査結果や調査方法などの体験談をお聞かせいただいたのですが、走査電子顕微鏡(SEM)やソフトX線透視画像により明らかとなった新知見など、とても興味深いものでした。とりわけ、従来はカシミアに似た故品種の山羊やアンゴラ山羊(モヘア)とされていた毛氈(フェルト生地)の材質が、実は羊毛であったという素材判定結果は新聞でも報道され、今年の正倉院展でも展示され注目されたところです。
 奥村さんの調査成果は画期的なものとされ、「正倉院の毛製品宝物の調査は、今後50年はしなくてもよい」との高い評価がなされたそうです。「古田史学の会」講演会の講師としてお呼びする機会があればと思います。
 歴史研究における最新の科学分析技術の進化発展に比べると、旧来の大和朝廷一元史観から未だ抜け出すことができない日本古代史学界の後進性には絶望感を覚えました。


第1092話 2015/11/13

「とーとーたらり、とーたらり」

 奄美大島出身の歌手、城南海(きずき・みなみ)さん(25歳)のニューアルバム「尊々加那志〜トウトガナシ〜」を購入したのですが、奄美大島の方言で「尊々加那志〜トウトガナシ〜」とは「大切なあなた」「尊い人」という意味とのこと。そこで、謡曲「翁」などで歌われる意味不明のフレーズ「とーとーたらり、とーたらり」の「とーとー」とは「尊い」「大切な」という意味ではないかと思いつきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が謡曲に滅法詳しいので、先日、朝来市の赤淵神社訪問のおり、おたずねしました。やはり「とーとーたらり」は「翁」で謡われるものの、意味は諸説有るが不明とのことでした。
 インターネットで調べたところ、「とーとー」は「尊い」とする説があり、その発音からも現代語の「とおとい」と共通したものと思われました。「たらり」は「きらり」とひかるという説があり、「大切なもがきらきら光っている」という意味でしょうか。沖縄や奄美大島で「たらり」という方言があれば、それは有力説となりそうですが、ご存じの方があればご教示ください。
 いずれにしても、「とーとーたらり」で始まる「翁」などの謡曲の歌詞の淵源は南方系のようです。しかし、時代の流れの中で、意味不明となってしまった歴史的背景が問題となります。このテーマも古田先生が提起された言素論で解明できれば面白いのですが、引き続き検討したいと思います。


第1091話 2015/11/11

『記紀九州』創刊号の鳩山邦夫議員の発言

 久留米市の福島雅彦さんから『記紀九州』創刊号(平成27年11月10日、梓書院)を御贈呈いただきました。表紙にはかわいい女の子のイラストとともに、「古事記・日本書紀からひもとく九州王朝説」「九州から見直す日本の歴史!!」とあり、九州王朝説をコンセプトとした雑誌です。このような雑誌が九州王朝のお膝元の筑後地方から発信される時代になったようです。古田先生が生きておられれば、きっと目を細めて喜ばれたことと思います。
 同書では福島雅彦さんのほか大矢野範義さんらが独自のを「邪馬台国」論や「九州王朝」論を展開されています。また、“マンガでわかる「九州王朝説」”と銘打たれた平沢弘明さんの「まほろば!」も掲載されており、企画にも工夫がこらされています。
 なかでも注目した企画は、冒頭に掲載された衆議院議員の鳩山邦夫さん(福岡6区)のインタビュー記事です。鳩山さんは編集子からの「古代九州王朝の議論につきましてお話をお聞きします。」という質問等に答えるかたちで、次のように述べられておられます。

 (前略)私は「邪馬台国九州説」を強く支持しています。また、『古事記』や『日本書紀』の研究を通して、古代王朝が邪馬台国と関係があるのかないのかという問題は、重要な問題であります。日本の古代史の時代が北部九州で展開されたという可能性を考察するこのような議論は、日本の古代史を再考察する上でも重要で、興味深い取り組みであると考えています。
 私は、このような「九州王朝論」の取り組みが成功して新しい日本史研究が出現すると期待しています。そして、将来、日本史の教科書が「九州王朝論」の成果を取り入れて書き換えられていくと期待しています。(後略)

 鳩山議員の言葉通り、歴史教科書に古田説・多元史観が採用される日が一日もはやく来るよう、「古田史学の会」は頑張っていきたいと思います。

(補記)『記紀九州』を発刊された梓書院(福岡市)は、安本美典責任編集『季刊邪馬台国』を発行されている出版社です。


第1090話 2015/11/10

「古田武彦先生追悼講演会」のご案内済み

 10月14日に御逝去された古田先生の追悼講演会を、来年1月17日(日)、大阪市浪速区の「大阪府立大学なんばサテライト(I-siteなんば)」にて執り行うことといたしましたので、取り急ぎご案内申し上げます。
 年内に京都で開催すべく検討を進めてきましたが、時節柄会場や宿泊施設の確保が困難なため、「古田史学の会」が予定していました新年講演会の会場をそのまま利用し、「古田武彦先生追悼講演会」とすることにしました。なお、『古田史学会報』などでご案内したとおり、新井宏氏にご講演いただきます。
 既に、松本深志高校時代の教え子、北村明也様(古田史学の会・松本)や御遺族(古田光河様)らのご臨席のご承諾もいただいています。また、東北大学の御後輩で日本思想史学会前会長の佐藤弘夫教授からもメッセージをいただけるはこびです。
 ご来賓や式次第などの詳細は決まり次第、ご報告いたします。古田先生とのお別れに多くの皆様にご臨席賜りますよう、お願い申しあげます。なお、主催は「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」「多元的古代研究会」「古田史学の会」の三団体で、ミネルヴァ書房様協賛での開催となります。

古田武彦先生追悼講演会のご案内

期日 2016年 1月17日(日)午後1時から4時30分まで
場所

大阪府立大学I-siteなんば2階C会議場
          カンファレンスルーム

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
大阪府立大学I-siteなんばの交通アクセスはここから。

南海電鉄難波駅なんばパークス方面出口より
       南約800m 徒歩12分
地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より
       南約1,000m 徒歩15分
地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)
    1号出口より東約450m 徒歩7分

講演
1).追悼式 午後1時〜2時30分
2). 古代史講演会 午後3時〜4時30分

  「鉛同位体比から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」
      新井 宏氏

 銅鏡に含まれる鉛同位体の分析から、「三角縁神獣鏡の大部分は複製を含めた国産である」とされている冶金学者で『理系の視点からみた「考古学」の論争点』などの著書があります。
(韓国国立慶尚大学招聘教授)

 

なお終了後、懇親会(別途申込)も実施されます。

参加費

無料


第1089話 2015/11/08

「死んだら地獄に行きたい」

 親鸞は当時としてはかなり長寿で、90歳で没しました(1173〜1262)。これは数え年ですから、満年齢では89歳となり、古田先生も親鸞と同年齢で亡くなられたことに気づきました。もしかすると、古田先生はこの親鸞の没年齢を意識されていたのかもしれません。というのも、KBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録(8月27日)で、米團治さんの質問に対して次のように答えておられるのです。

米團治さん「まだまだ先生、研究を続けられますよね。」
古田先生「まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思います。」

 このとき、古田先生は笑いながら答えておられましたので、冗談とわたしは受け止めていました。
 似たようなお話ですが、近年、古田先生は講演で「死んだら地獄に行きたい」と言われるようになりました。地獄には現世で浮かばれなかった人々、恨みをいだいた人々が行っているはずだから、そうした人々の声こそ聞いてみたいという、先生ならではの学問的好奇心に基づいたロジックと、わたしは受け止めていました。しかし、そう言われる先生の思いは、もっともっと深いところにあったのではないかと考えるようになりました。
 古田先生が「日本人の魂の古典」といわれた、『歎異抄』(親鸞の言葉を弟子の唯円が記したもの)の中に、その「地獄に行きたい」の真意をうかがうヒントがあったのです。その『歎異抄』の中でも、先生のお気に入りだった第二条に次の有名な親鸞の言葉があります。

 「たとい法然聖人にだまされて、念仏して地獄に落ちてしまっても、少しも後悔するはずはないのです。その理由は、ほかの行にはげんでも、仏になる身が、念仏したために地獄に落ちるのでしたら、確かに「聖人にだまされて」という後悔もしましょうが、どんな行もおよびがたい、わたしの身だから、どうあろうと、もう地獄はきまりきったすみかだ。」(古田武彦訳。『人と思想 親鸞』清水書院)

 親鸞が「もう地獄はきまりきったすみかだ。」と言い切った『歎異抄』のこの言葉を、青年の日から晩年まで親鸞研究を続けられた古田先生が「地獄に行きたい」というとき、意識されなかったはずはありません。その親鸞が行った地獄に古田先生は行きたいと言われたのではなかったでしょうか。
 わたしは主に日本古代史を古田先生から学びましたが、おりにふれて親鸞や鎌倉仏教、そして思想史についてもお話をうかがいました。そうした先生の言葉を「洛中洛外日記」などでこれからもご紹介していきたいと思います。

参考 親鸞流罪記録について


第1088話 2015/11/07

蕉門の離合の迹を辿りつつ

 31歳のとき、古田先生の門を叩いて30年近くになりました。古田先生が亡くなられてから、先生との思い出が次から次へとよみがえります。
 嵐のような和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングがおき、先生とわたしは週刊誌などでも名指しで叩かれ、兄弟子と慕っていた多くの人々が先生から離れていく様を、わたしは30代から40代の若き日に目の当たりにしました。そのような最中、古田先生と二人だけで三重県津市に行きました。1997年10月のことです。
 その年、『奥の細道』芭蕉自筆本とされるものが現れ、津市の美術館で展示されると聞き、先生と二人で訪問したのです。『奥の細道』の開かれたページを二人でガラス越しに1時間以上も食い入るように見つめました。その筆跡を目に焼き付けるためです。後日、持ち主(古美術商)から、直接すべてのページを見せていただける機会が訪れるのですが、そのときはガラス越しに見ることが唯一の観察手段でした。このような機会を通して、わたしは先生から古文書研究の執念と方法を学びました。
 津市へ向かう列車の中で、わたしは先生から一冊の本をいただきました。『許六 去来 俳諧問答』(岩波文庫、横沢三郎校註。1954年)です。その本には次のような一文が添えられていました。

「-蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章等)-
変る人々多き中、変らぬ心
をお寄せいただくこと、この生涯最大
の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中
古賀達也様  古田武彦」

 芭蕉没後にその弟子たちは離合を続けました。中には、「門戸を張らんが為に師を軽侮して己の優位を示そうとする者」まで出ます(同書「解説」より)。偽作キャンペーンが吹き荒れるなか、古田先生がこの本を下さったお気持ちは、痛いほどわかりました。先生亡き今、その思いをより切実に受け止めています。
 この岩波文庫の小さな一冊は今も大切に持っています。わたしの宝物の一つとして。


第1085話 2015/10/30

古田先生の絶筆、徴兵検査と「赤紙」の狭間で

 夜、帰宅すると、友好団体の「多元的古代研究会」の会報「多元」No.130号が届いていました。友好団体間で行っている機関紙交流用に送っていただいたものです。
 今号は一面に古田先生の遺影と訃報が掲載され、2頁目には古田先生による「遺稿・真実と虚偽2」が掲載されていました。半頁ほどの短いものでしたが、末尾には「二〇一五、一〇月十二日脱稿」と執筆日が付されており、先生が亡くなられた14日の二日前の日付であることから、これは先生の絶筆ではないでしょうか。字数が少ないことから、すでにこの日には体調がすぐれなかったのかもしれません。心が痛みます。
 しかし、短文ではありますが、その内容は現在の日本国がおかれた状況を危惧した、古田先生の心の奥底からの訴えであり、後生にのこされた「遺言」のような気がしてなりません。
 その前半は、義兄(井上嘉亀氏)から聞かれた、満州に取り残された日本人婦女子に対するソ連兵の組織的集団強姦事件の話であり、後半は徴兵を目前にした旧制広島高校での生徒たちの会話(何のために死ぬのか。死ねるのか。)です。いずれのお話も、わたしは何度も先生からお聞きしたことがあり、先生としては死ぬ前にどうしてもこれだけは何度でも伝えておきたかったことに違いありません。「多元」から後半部分を引用させていただきます。

 日本はすでに負けることを知っていた。戦時中だ。一晩中、旧制広島高校で議論した。
 「わたしたちはどうしたらいい?」
 「今、アメリカが、極東から沖縄まで、唯一独立国である日本国を、植民地にしようとしている。」
 「その日本国を植民地にするために、狙っているのがアメリカだ。」
 「しかし、わたしたちが“アジアのために”戦って負けたら、次は必ず〈アジアが独立する〉ときが来る。」
 「そのために“戦う”のなら、〈戦う意味がある〉のではないか。」
 夜を徹して、議論した。それが結論だった。
  〔二〇一五年一〇月十二日脱稿〕

 おそらくこのとき、古田青年は徴兵検査を終え、「赤紙」(徴収礼状)が来るのを待っていた時期と思います。というのも、わたしは古田先生から次のようなお話を聞いたことがあるからです。

 「わたしは徴兵検査を受けて、『赤紙』が来る前に敗戦を迎えた最後の世代でした。東北大学に進むので、徴兵延期の特例が認められていたのですが、それを潔しとできなかったので、徴兵延期申請をせずに徴兵検査を受けました。帝国大学生なら徴兵延期のうえ、下士官として兵役につくこともできましたが、わたしはそれを選ばずに、二等兵として兵役につく覚悟でした。」

 古田先生らしい、不正を嫌う実直なお人柄がよくうかがわれるお話でした。今回の「多元」の絶筆を読み、この先生のお話を思い出しましたので、ここに紹介させていただきます。


第1084話 2015/10/29

「邪馬壹国」説、

昭和44年「読売新聞」が紹介

 「洛中洛外日記」1078話で、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評「批判と研究」(『週間読売』昭和47年1月)が池田大作氏により発表されたことを紹介しました。『「邪馬台国」はなかった』の元となった最初の論文、すなわち古田先生の「邪馬壹国」説が最初に発表されたのは東京大学の『史学雑誌』で、昭和44年、古田先生が43歳のときです。それは「邪馬壹国」という論文で、その年の日本古代史分野では最も優れた論文と高く評価されました。
 その「邪馬壹国」説を最初に紹介した読売新聞の記事を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけて下さり、その記事を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が活字データにしていただきましたので、ご紹介します。
 今、読んでみてもかなり正確な内容の記事です。当時の新聞記者の優秀さがうかがわれます。現在のように記者クラブなどで政府や官邸から流される発表をそのまま記事にする記者とは大違いです。それと同時に、この記事はある程度の学力(北畠親房や新井白石の業績を知っている)がないと深く理解できません。当時の新聞読者(国民)の学問レベルも新聞記者と同様に高かったように思われます。
 正木さんからのメールには次のような的確な感想が付されており、こちらもご紹介します。

《正木さんからのメール》
 茂山さんから昭和44年の古田先生の史学雑誌への発表をとりあげた読売新聞の記事を頂きました。記事を添付しましたが、見にくいので記事起ししました。 東大榎、京大上田、松本清張という「巨頭」がこぞって大きく評価しており、いかに大きな衝撃だったかがわかります。
 今日の「古田無視」の状況がどのような経過でもたらされたのか、その理由・背景に何があったのか、学問的にも大きな研究課題になろうかと思います。
 正木拝

《昭和四十四年十一月十二日読売新聞》

(大見出し)邪馬臺ヤマタイ国ではなく邪馬壹ヤマイチ国
 後漢書こそ三国志を誤記

(中見出し)古代史の根源に波紋
(*魏志倭人伝と後漢書の写真、古田先生の写真を掲載)

(リード)三世紀の日本にあったのは、邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国だったーヤマタイの発音からヤマトを想定したわが国の古代史の序章を白紙に戻させるような研究論文が、この秋、突然、学術専門誌に発表され、歴史学会に大きな波紋を投じている。
 京都の市立洛陽工業高校古田武彦教諭(四三)が五年間を費やした労作。これまで三国志の魏志倭人伝(当時の日本の情勢が書かれている)に出てくる邪馬壹国の「壹」は「臺」の書き誤りというのが定説になっていたが、古田教諭は「壹が正しく、臺の誤記ではない」という結論に達したという。ヤマタイ国について独自の推理を展開してきた松本清張氏は「大きな盲点をつかれた」と”古田研究”を高く評価しており、学会でも「もう一度出発点に戻らなければ」と古代史の”再点検”をうながす声が起こっている。

(小見出し)近畿、九州論争根拠を失う

(記事)これまでヤマタイ国の根拠とされてきたのは、五世紀の中国の史書、後漢書に出てくる「邪馬臺国」で、それ以後の史書も後漢書にならって同じ表記をしており、三世紀に書かれた三国志の「邪馬壹国」の方が書き誤りとされてきた。
 古田教諭の研究は、史学会代表者榎一雄東大教授の推薦で、同会の機関紙「史学雑誌」最近号に「研究ノート」として発表された。
 そのポイントは、女王ヒミコが統治する国についての最古の文献である三国志には「邪馬壹国」とあり、北畠親房、新井白石から今日にいたるまで「これは臺の誤記」という説がうのみにされてきたが、科学的に検討すると「壹」と「臺」の書き間違いは考えられないーというもの。
 三国志の「邪馬壹国」と、後漢書の「邪馬臺国」とを比較、検討した結果、文献上、字形上、発音上、次のような点が明らかであるとしている。
 ①三国志の文中には合計八十六個の「壹」の字が使われている。しかし、一つとして混同は認められない。一方、後漢書は、三国志の文面をもとにしながら「女子の多い国」などと才気走った修飾があちこちに見られ、誤記の可能性はむしろ後漢書の方こそ強い。②三国志が書かれた三世紀当時の「臺」の字には「天子の宮殿」という意味がある。また邪、馬、奴などはいずれも蔑称(べっしょう)で邪馬という蔑称の下に「臺」の字を使うはずがない③後漢書の「邪馬臺国」には、唐時代の学者李賢(七世紀)の注として「案ずるに今の名、邪馬惟(ヤマイ)の音の訛(なまり)なり」とあり、唐代になっても邪馬惟だったと思われる④仮に一歩譲って「邪馬臺国」が存在したとしても、発音は濁った「ダイ」であって「台(タイ)」にはならず、これを「ヤマト」と類推するには飛躍がありすぎる。
 つまりヤマタイ国は、それこそ”まぼろし”だったというわけで、八世紀の古事記、日本書紀に初めて現れる大和朝廷をヤマタイ国と結びつける従来の古代史は、それ以前の糸をぷっつりと断ち切られることになるし、発音からきた福岡県山門(やまと)郡説も、根拠を失ってしまう。
 これまでの学会は、ヤマタイ国近畿説、北九州説に分かれながらも、ヤマタイ国の存在そのものは疑わなかったが、その根源にいきなりメスを当てられたかっこう。いまのところ「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、大きな波紋を投ずるものと思って推薦した」(東大榎教授)「三国志自体の信ぴょう性という問題は残る。しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京都大上田正昭助教授)など、専門学者の反応はさまざまだが、それぞれ大きなショックを受けたことは間違いなさそうだ。

(小見出し)説得力十分だ

(記事)松本清張氏の話「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」