現代一覧

第910話 2015/03/28

月刊『加工技術』に

  古代史コラム連載

 株式会社繊維社(大阪市)から発行されています月刊『加工技術』に、古代史の連載コラムを執筆することになりました。
 「古代衣装・染色技術などの生活文化を紹介していただくことで、現代にも通ずる素材開発や技術革新などのあり方などを探るコラム」という執筆依頼で、結構ハードルが高そうです。写真や図・絵なども付けてほしいとのこと。同誌は古代史とは関係のない繊維や繊維加工関連の業界誌ですから、読みやすく、かつ現代の開発にも役立つという依頼内容ですから、簡単ではありません。
 繊維社の阪上社長とは学会などの会合で親しくさせていただいており、かねてより機能性色素についての専門書の執筆依頼もいただいているのですが、わたしが忙しいのと、企業機密に抵触する懸念もあって、良いご返事ができずにいました。そのような経緯もありましたので、今回はご期待に応えたいと、お引き受けしました。
 月刊誌への連載ですから、毎月、読者に興味を持っていただけるようなテーマがどれだけあるのか、今から考え込んでいます。もちろん、古田史学・多元史観がベースです。何か面白いテーマやアイデアがあれば、是非、ご教示ください。


第909話 2015/03/27

古代史のブルーオーシャン戦略(3)

 「九州年号」などのテーマが「ニッチ(隙間)」ではなく、新たな「ブルーオーシャン(競争なき市場)」であることに気づき、後にそれが確信に変わったのは、服部静尚さんによる考古学分野での研究(庄内式土器・他)と考古学者との交流により明らかとなった、考古学界における「学問の実体」を知ったことでした。
 遺跡や遺物を研究対象とする考古学ですから、出土物に対する「解釈」に異説があるのは学問ですから当然なのですが、考古学的出土事実に対しては等しく合意や情報の共有化が果たされていると、わたしは思っていたのです。ところが服部さんの調査によると、自説に都合の良い出土事実のみに基づいていたり、不都合な出土事実そのものを知らないまま立論されているケースがあるとのこと。このように近畿天皇家一元史観は文献史学だけではなく、考古学の諸説も結構ずさんであることがわかってきたのです。その結果、わたしたち古田学派の研究者は、一元史観論者との「他流試合」でも有効に戦えるということが明らかとなり、ブルーオーシャン(一元史観論者が論争したくないテーマ)は結構たくさんありそうなのです。
 とすれば、どのようなステージやツールで競争するのが有効なのかを検討すればいいわけです。今のところ考えているのが、インターネット上のサイバー空間や書籍の発行、各地の講演会といったステージでの展開を検討しています。既にユーチューブを利用した動画配信事業が正木裕さんらにより準備が進められています。将来的には「古田史学の会」会員を中心としたSNSも視野に入れています。講演会も久留米大学の公開講座や愛知県では高校生を対象とした公開講座も「古田史学の会・東海」により続けられています。
 ブルーオーシャン戦略は計画段階での様々な分析手法がありますので、わたしも再度勉強しなおして、「古田史学の会」の運営や事業計画に採用したいと考えています。


第908話 2015/03/26

古代史のブルーオーシャン戦略(2)

 「ブルーオーシャン戦略(Blue Ocean Strategy)」とは、新規需要を主体的に創造し、競争が存在しない状況を作り出すという、従来にない新しい戦略論です。提唱者であるW・チャン・キムとルネ・モボルニュの同名の著書は、2005年に販売されると、たちまち世界的ベストセラーとなりました。限られた市場における価格競争などの血みどろの争い(レッド・オーシャン)ではなく、競争のない市場空間(ブルーオーシャン)を生みだし、競争戦略そのものを無関係なものにするというのが「ブルーオーシャン戦略」の要諦です。
 わたしが「古田史学の会」のような非力で弱小の組織でもブルーオーシャン戦略の採用が可能ではないかと最初に気づいたのは、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年1月)の発行と熊本県和水町で「九州年号付き納音史料」についての講演(2014年5月)を行ったときでした。これらの反響から、「九州年号」という九州王朝説の中核的テーマは一般の方にもわかりやすく、近畿天皇家一元史観側からすれば、なまじ論争などしてその存在そのものを国民に知られたくないという事情から、学問論争(競争)のない空間、ブルーオーシャンではないかとはっきりと自覚できたのです。
 この「九州年号」と同様に、一元史観側にとって国民に知られたくないテーマは他にもあります。たとえば『旧唐書』倭国伝と日本国伝の別国表記の存在、『隋書』の「阿蘇山」記事や男性の「日出ずる処の天子」多利思北孤などです。これらは論争が公に開始されると、国民にその存在が知られてしまい、一元史観の矛盾が白日の下に晒されてしまうという恐怖心から、彼ら(古代史業界のリーダーたち)は絶対に論争や反論をしかけてきません。もし反論があれば、その勇気を称えるにやぶさかではありませんが。
 ですから、これらのテーマはわたしたち古田学派の独壇場(ブルーオーシャン)となり、その戦うステージとタイミングやツールが適切であれば、古田史学の支持者や読者、ファン、会員を獲得することが今まで以上に容易となるはずです。(つづく)


第907話 2015/03/25

古代史のブルーオーシャン戦略(1)

 わたしは仕事で主にマーケティングに携わっていますので、マーケティング戦略や理論について勉強する機会が多くありました。ドラッカーを手始めに、マイケル・ポーターやコトラーなどの著作や解説書はかなり読み、仕事に応用してきました。そして、一時期流行した「ゲーム理論」まではそれなりに理解・応用できたのですが、新しい「ブルーオーシャン戦略」は難しくて、わたしの手には負えませんでした。
 そうした経験から、「古田史学の会」の運営においてもビジネスのマーケティング論を援用したり、参考にしてきました。「洛中洛外日記」723話でもホームページの「フリーミアム戦略」について触れたことがありました。「古田史学の会」創立以来、戦略的には「ニッチ戦略」という視点で運営してきましたが、その理由は、古田史学・多元史観は学問的には優れていても運動論・組織論的には国家体制に組み込まれた巨大な近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観)の学界やメディアと真正面からぶつかっても「勝てる相手」ではありませんし、また相手にもされないと考えたからです。そこで、独自に「古田学派」として、日本古代史では少数派(ニッチ)の多元史観・九州王朝説に特化して、そのステージで力をつけるという戦略をとってきました。組織拡大を意識的に行わなかったのも、こうした基本戦略に基づいてきたからです。
 ちなみに、マーケティング論的には「ニッチ戦略」とは業界のトップリーダーと「戦わない」という戦略でもあります。すなわち、業界のトップリーダーにとって、小規模マーケットであるニッチ(隙間)に参入してもメリットがないため、ニッチは業界の主戦場とはならないのです。結果として「ニッチ」企業は業界のリーダー企業と戦わなくてもすみ、生き残ることができます。これが「ニッチ戦略」のキーファクターです。
 ところがあることが契機となり、今まで続けてきた「ニッチ戦略」から「ブルーオーシャン戦略」へ転換しようと、わたしの考えが変わりました。それは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の研究や活躍に触発されたためです。(つづく)


第888話 2015/03/04

5月30日、

久留米大学で講演します

 一昨年に続いて久留米大学での公開講座で講演することになりました。今回与えられたテーマは「多元的王朝論の展開」というもので、これから内容を考えます。初めてお聞きいただく方にも、わかりやすく面白い内容にしたいと思います。お近くの方は、是非ご参加ください。

テーマ 「多元的王朝論の展開」
日 時 5月30日(土)午後2時〜
会 場 久留米大学御井キャンパス 500号館51A教室
受講料 2160円


第885話 2015/02/28

巨大古墳vs神籠石山城・水城

 関西の考古学者と積極的に意見交換を続けられている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)によると、「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者の根本的な理由は、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿にあることから、古墳時代における列島内の中心権力者が畿内にいた証拠であり、弥生時代もそうであったはずということのようです。そのため、巨大前方後円墳の始原を畿内の古墳時代前期の纒向型前方後円墳であるとみなし、その編年を弥生時代(卑弥呼の時代、3世紀前半)に編年操作しようとしていると思われます。
 何度も指摘してきましたが、「邪馬台国」畿内説なるものは、『三国志』倭人伝に記された倭国中心国名を改竄し(邪馬壹国→邪馬台国)、その方角も改竄し(南→東)、その距離(12000余里)も無視し、倭国の文物(鉄・絹・銅鏡)も無視・軽視するなどの研究不正のオンパレードで、およそ学説(学問的仮説)と呼べる代物ではありません。
 普通の人間の理性からすれば、これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的とわたしは思うのですが、彼らはそうした思考が「苦手」なようです。その「苦手」な理由については別に考察したいと思います。
 とは言え、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿(大和ではなく河内が中心)にあり、北部九州よりも「優勢」という指摘は古墳時代の考古学事実に基づいており、その点は検討に値する指摘です。古田先生はこの問題についていくつかの反論をされていますが、当時の倭国は朝鮮半島で軍事的衝突を繰り返しており、巨大古墳を作る余裕はなく、逆にあればおかしいとされています。従って、巨大古墳を造った勢力は朝鮮半島で戦っていた倭国の中心勢力ではないとされました。
 巨大古墳を古代における土木事業という視点からすれば、同様に北部九州にある神籠石山城(複数)や水城(複数)の大規模土木事業の存在に注目しなければなりません。たとえば太宰府を防衛している大水城(全長1.2km、高さ13m、基底部幅80m。博多湾側の堀は幅60m)は土量は384000立法メートル、10tonダンプで64000台分に相当するとされています。動員された作業員は延べ110万人は下らないと見られています。この太宰府の北西の大水城の他に小水城や、久留米市には有明海側からの侵入を防ぐために上津荒木(こうだらき)の水城も造られています。
 神籠石山城群も太宰府や筑後「国府」を防衛するように要衝の地に点々と築城されています(雷山・高良山・阿志岐山・杷木・女山・帯隈山・おつぼ山・鹿毛馬・御所ケ谷・唐原など)。直方体の大石を石切場から山頂や中腹に運搬し、山を取り囲むように巡らせ、その列石上には土塁を盛り、前には木柵を設け、列石の内側には倉庫や水源、そして水門まで造営されています。これだけでもいかに巨大な土木事業であるかをご想像いただけると思います。大量の大石を石切場から山頂に運搬するだけでも、専用道路が必要ですから現代でもかなり大変な巨大土木事業といえるでしよう。おそらく水城や神籠石山城の造営は近畿の巨大前方後円墳以上の規模ではなかったでしょうか。
 この他に太宰府の北側には大野城、南側には基肄城が造営されていますから、北部九州には列島内最大規模の古代土木事業の痕跡があるのです。お墓と防衛施設とでは、どちらが「都」に相応しいか言うまでもないでしょう。近畿の巨大古墳群を自説の根拠にしたいのであれば、北部九州の巨大防衛施設にも言及すべきです。両者を比較した上で、列島内の中心権力者の都の所在を学問的論理的に提起すべきです。それが学問というものです。


第883話 2015/02/26

倭人はお酒好きで

   美人が多い?

 今日の午前中は二日市市にある福岡県工業技術センターを訪問し、同センターの堂ノ脇靖巳さんと旧交を暖めました。堂ノ脇さんはタンパク質のトリプトファン発色反応をウールやシルクに応用し、染料による染色ではなく、ウールやシルクそのものを化学反応で発色させ、衣料品に用いるという画期的な技術(中小企業庁長官賞受賞)を開発された優れた化学者です。十数年前、京都大学で開催された繊維学会でお会いして以来、同郷の化学者同士として、あるいはビジネスでもおつきあいをさせていただいています。
 午後からは新幹線「さくら」で大阪まで戻り、繊維応用技術研究会(事務局:大阪府立産業技術研究所)の理事会に出席しました。理事会の皆さんと夕食をご一緒したのですが、話題が古代史にも及び、盛り上がりました。理事全員が科学研究者ですので、様々な観点から『三国志』倭人伝の記事について持論が展開されました。特に拝聴したのが花王のヘアケア研究所のKさんの次のご意見でした。

1.倭人伝には女性のヘアスタイルに関する記事があることから、倭人の女性はおしゃれに興味があり、その結果、おそらく美人が多かったのではないか。
2.倭人はお酒が好きと書いてあるので、「邪馬台国」はお酒好きの地方にあったはず。
3.「博多美人」という言葉はあるが「奈良美人」というのは聞いたことがない。
4.博多と奈良に出張で行くことがあるが、博多の人の方が圧倒的に「飲兵衛」が多い。
5.従って、「邪馬台国」九州説(博多説)に賛成する。

 以上のような持論を開陳されました。学問的な論証としては「問題」が少なくないのですが、ヘアケアの専門家らしい視点だと思いました。
 言われてみれば、倭国へのプレゼントとして倭人伝に特記されている「鏡」(倭人の好物)や「錦」(シルク製品)など、いずれも女性が喜びそうなプレゼントです。そして当時の倭国は女王卑弥呼・壹与の時代ですから、女性が喜ぶような品々を中国側は意図して贈ったのかもしれません。学問的かどうか全く自信はありませんが、このような視点が古代史研究にあってもよいのではないでしょうか。
 花王のKさんに、そのご意見を「洛中洛外日記」に書いてもよいかと確認したところ、「OK」のご返事をいただいたものの、奈良県での花王の化粧品の売り上げが落ちたら申しわけないような気持ちです。あくまで食事の席での個人的見解ですので、大目に見てあげてください。なお、理事会に同席され、Kさんやわたしの会話を聞いておられた業界誌のS社長から、今の話を自社の雑誌のコラムに連載して欲しいとのご要望をいただきました。もちろん、わたしの返事は「OK」でした。


第877話 2015/02/19

竜田関が守る都

 「前期難波宮」

 今日は朝から東京で仕事です。夕方までには仕事を終えて、名古屋に向かいます。今はお客様訪問の時間調整と休憩のため、八重洲のブリジストン美術館のティールーム(Georgette)でダージリンティーをいただいています。同美術館では五月からの改築工事を前にして「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というテーマで美術館所蔵名画の展覧会が開催されています。改築に数年かかるとのことで、このお気に入りのティールームともしばらくの間、お別れです。

 さて、古代の「関」で有名なものに「竜田関(たつたのせき)」があります。河内から大和に入るルートとして大和川沿いの道(竜田越)があるのですが、そこに設けられたのが「竜田関」です。その比定地は河内側ではなく大和側にあります(「関地蔵」が残っています)。ということは、関ヶ原と同様に、守るべき都から見て、峠の外側(下側)に「関」はあるはずですから、この竜田関は大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということになります。そして、河内方面にあった都とは「前期難波宮」しかありませんから、竜田関は前期難波宮防衛の為の施設であり、「外敵」として大和方面からの侵入者を想定していることになります。
 このことに気づかれたのが服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)です。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされたのです。
 この服部説には説得力があります。もし、前期難波宮が「大和朝廷」の都であったとしたら、自らの故地であり勢力圏でもある大和との間に「関」を造る必要性は低く、もし造るとしても河内方面からの大和への侵入を防ぐ位置、すなわち河内側に「関」を作るのが理の当然ですが、どういうわけか大和側に竜田関は造られたのです。従って、この竜田関の「位置」は「前期難波宮」九州王朝副都説を支持しているのです。少なくとも、大和朝廷一元史観では合理的な説明ができません。
 このような竜田関の位置関係から、次のように言えるでしょう。すなわち、九州王朝は副都「前期難波宮」の造営に伴って、大和からの侵入に備えたのです。このことから、九州王朝は「大和朝廷」を無条件で信頼していたわけではないこともわかります。
 この「関」についての服部論文が『古代に真実を求めて』18集に掲載されますので、是非、ご一読ください。


第875話 2015/02/17

松浦光修編訳

『【新釈】講孟余話』を読む

 今朝は加古川行きのJR新快速の車中で松浦光修編訳『【新釈】講孟余話』(PHP研究所、2015年1月)を読んでいます。『講孟余話』は吉田松陰の主著として有名です。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の影響もあり、約20年ぶりに吉田松陰の本を読んでいます。
 前回の「花燃ゆ」は松陰が野山獄で囚人に対して『孟子』の講義を行っている場面でしたが、この『孟子』講義が出獄後も家人らを対象にして続けられ、その講義録が『講孟余話』です。松陰の生き様や思想が綴られており感動的な内容ですが、中でも下田の獄舎での金子重之助(松陰とともに密航しようとした人物)とのことを記した「尽心」上・首章の記述は、学問を志す一人として胸を打たれました。その原文を抜粋します。

 「余(松陰)、甲寅の歳、渋木生(金子重之助の変名)と下田獄に囚はる。僅か半坪の檻に両人座臥す。日夜、無事なるに因(よ)りて番人に頼み、『赤穂義臣伝』・『三河後風土記』・『真田三代記』など、数種を借りて相共に誦読す。時に両人、万死自ら期す。今日の寛典に処せらるべきこと、夢にだも思はざることなり。
 因りて余、渋木生に語り云はく、「今日の読書こそ真の学問と云ふものなり(中略)
 両人獄に在る時、固(もと)より他日の大赦は夢にも知らぬことなり。然れども道を楽しむは厚く、学を好むの至り、斯(かく)の如し。今、吾が輩両人、亦(また)此の意を師とすべし」と云へば、渋木生も、大(おおい)に喜べり。」『講孟余話』(「尽心」上・首章)※()内は古賀による。

 畳一畳の狭い獄舎に繋がれ、死罪になる身にもかかわらず、このような状況だからこそ「真の学問」が行えると、松陰は金子重之助に中国の故事をあげて説明しているシーンの回想です。下田の獄舎での講義を松陰は他の囚人にも聞こえるように大声で行い、この講義を聞いた多くの囚人が感激したと松陰は記しています。この『講孟余話』執筆時も松陰は萩の自宅で謹慎の身でした。
 この獄舎での松陰の行いは、南アフリカのマンデラ大統領が長期の獄中生活にあっても他の囚人への教育活動を続け、「マンデラ大学」と称されていたことと相通じるもので、たいへん感慨深い話です。ですから、山口県の人々(安倍総理も)が今も吉田松陰のことを「松陰先生」と敬愛の念を込めて呼ぶことは深く理解できるのです。
 現代日本では、学問や歴史の真実よりも、お金・地位・名誉が大切な御用学者による御用史学が跋扈しています。このような時代だからこそ、わたしたち古田学派は吉田松陰のように「真の学問」が行えるのであり、それは大いに喜ぶべきことと思われるのです。


第870話 2015/02/13

古代における「富の再分配」

 極端な富の集中と格差拡大に警鐘を打ち鳴らした『21世紀の資本』ですが、その対策として著者のトマ・ピケティ氏は富裕層への国際的な累進課税を提案されているとのこと。
 確かマルクスが言っていたと記憶していますが、資本主義のメカニズムは、労働者の賃金を「労働力の再生産」が可能なレベルまで引き下げるとされています。「労働力の再生産」とは労働者夫婦が二人以上の子供(将来の労働力)を産み育てることで、これが不可能なほどまで賃金が下がると、労働人口が減少し、社会や国家がいずれ消滅し、商品を購買するマーケットさえも縮小します。そのため、労働者の最低賃金は本人が生きていくだけではなく、子供二人以上を養えるレベルが必要であり、同時にそのレベルまで賃金は下がるとマルクスは指摘しています。十代の頃に読んだ本の記憶ですから、正確ではないかもしれませんが、本質的な指摘だと青年の頃のわたしの心を激しく揺さぶった記憶があります。
 『21世紀の資本』ブームの影響を受けて、古代日本において「富の再分配」は行われたのか、行われていたとすればそれはどのようなものだったのか、というようなことをこの数日考えています。
 『日本書紀』『続日本紀』には、天災や不作のときには当該地域の「税」を免除する記事が見えますが、これは「富の再分配」とは異なります。国家の制度、あるいは習慣などによる政策的な「富の再分配」として、どのようなものがあったのでしょうか。公共事業(都や宮殿、大仏・寺院の造営など)の実施により、権力が蓄えた富を消費するという経済活動も、ある意味では「富の再分配」を促しますが、もっと直接的な「富の再分配」はなかったのでしょうか。
 『続日本紀』には高齢者(70歳や80歳)に対して、ときおり「褒美」が出された記事がありますが、国家が行う経済政策としての「富の再分配」にしては規模が小さいように思われます。このようなことは「古代経済学史」ともいうべき学問分野かもしれません。どなたかご教示いただければ幸いです。


第869話 2015/02/12

トマ・ピケティ

『21世紀の資本』ブーム

 フランスの経済学者トマ・ピケティ著『21世紀の資本』がブームとなっているようで、700頁の分厚い経済学の本が国内で既に13万部も売れているのには驚きです。大勢の人が並んで買うようなモノには、ブームが過ぎた頃にしか手を出さないというクセがわたしにはあるので、まだ同書を読んでいません。しかし、ちょっとは気になりますので、同書が特集された『週間ダイアモンド』2/14号を京都駅の書店で購入し、新幹線の車中で読みました。
 同書の核心は先進国の税務当局などが公表した公式データに基づいて、資本収益率(r)が経済成長率(g)を常に上回ることを「実証」した点にあるようで、平たく言えば「資本」の持ち主は労働者の所得よりも常に富を増やすことができる。つまり、金持ちはより金持ちになるということですので、たしかに「格差」が広がっている今の日本で売れるのも理解できます。
 詳細な内容は読んでいないのでわかるはずもないのですが、著者のピケティは15年間かけて世界各国の200年以上にわたるデータを実証的に調査分析したというのですから、この点はすごいと思います。古田先生が『三国志』全文から「壹」と「臺」を全て抜き出して、両者が間違って混用された例はないことを実証的に証明された方法に相通じるものを感じました。そういう意味では、学問分野は異なりますが、古田学派の研究者なら読んでおくべき本かもしれませんね。


第857話 2015/01/24

『三国志』のフィロロギー

 「長里への原文改訂」

 『三国志』に長里が混在する論理性とその理由についてフィロロギーの視点や学問の方法について縷々説明してきましたが、今回はちょっと息抜きに現代中国における『三国志』の「長里への原文改訂」についてご紹介します。
 『三国志』が短里で編纂されていることは動かないものの、長里が混在する可能性やその論理性について、15年ほど前から古田先生と検討を進めていまし た。そのときのエピソードですが、『三国志』の次の記事は長里ではないかと古田先生に報告しました。
 『三国志』ほう統伝(注)中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、短里では1日に約2.4kmとなり、牛が荷を引く距離としても短すぎるので、これ は長里の例(約13km)ではないかと考えました。このことを古田先生に報告したところ、先生は怪訝な顔をされ、その記事は「三十里」ではなく、「三百里」ではないかと言われたのです。再度わたしが持っている『三国志』(中華書局本。1982年第2版・2001年10月北京第15次印刷)を確認したのですが、やはり「三十里」とありました。ところが古田先生の所有する同書局本1959年第1版では「駑牛一日行三百里」とあるのです。最も優れた『三国志』 版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」でした。なんと、中華書局本は何の説明もなく「三十里」へと第2版で原文改訂していたのでした。
 この現象は、現代中国には「短里」の認識が無いこと、そして長里の「三百里」では約130kmとなり、牛の1日の走行距離として不可能と判断したことが うかがえます。その結果、何の説明もなく「三百里」を「三十里」に原文改訂したのです。こうした編集方針の中華書局本を学問研究のテキストとして使用することが危険であることを痛感したものです。同時に、「駑牛一日行三百里」が『三国志』が短里で編纂されている一例であることも判明したのでした。
 この例を含めて『三国志』等に混在した「長里」「短里」について考察した次の拙稿が本ホームページに収録されていますので、ご参照下さい。(つづく)
 古賀達也「短里と長里の史料批判 —  『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』No.47、2001年12月)
 ※(注)ほう統伝のホウは、广編に龍。