現代一覧

第857話 2015/01/24

『三国志』のフィロロギー

 「長里への原文改訂」

 『三国志』に長里が混在する論理性とその理由についてフィロロギーの視点や学問の方法について縷々説明してきましたが、今回はちょっと息抜きに現代中国における『三国志』の「長里への原文改訂」についてご紹介します。
 『三国志』が短里で編纂されていることは動かないものの、長里が混在する可能性やその論理性について、15年ほど前から古田先生と検討を進めていまし た。そのときのエピソードですが、『三国志』の次の記事は長里ではないかと古田先生に報告しました。
 『三国志』ほう統伝(注)中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、短里では1日に約2.4kmとなり、牛が荷を引く距離としても短すぎるので、これ は長里の例(約13km)ではないかと考えました。このことを古田先生に報告したところ、先生は怪訝な顔をされ、その記事は「三十里」ではなく、「三百里」ではないかと言われたのです。再度わたしが持っている『三国志』(中華書局本。1982年第2版・2001年10月北京第15次印刷)を確認したのですが、やはり「三十里」とありました。ところが古田先生の所有する同書局本1959年第1版では「駑牛一日行三百里」とあるのです。最も優れた『三国志』 版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」でした。なんと、中華書局本は何の説明もなく「三十里」へと第2版で原文改訂していたのでした。
 この現象は、現代中国には「短里」の認識が無いこと、そして長里の「三百里」では約130kmとなり、牛の1日の走行距離として不可能と判断したことが うかがえます。その結果、何の説明もなく「三百里」を「三十里」に原文改訂したのです。こうした編集方針の中華書局本を学問研究のテキストとして使用することが危険であることを痛感したものです。同時に、「駑牛一日行三百里」が『三国志』が短里で編纂されている一例であることも判明したのでした。
 この例を含めて『三国志』等に混在した「長里」「短里」について考察した次の拙稿が本ホームページに収録されていますので、ご参照下さい。(つづく)
 古賀達也「短里と長里の史料批判 —  『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』No.47、2001年12月)
 ※(注)ほう統伝のホウは、广編に龍。


第818話 2014/11/08

初参加、八王子セミナー(実況同時記録)

 今日は八王子大学セミナーハウスでの「第11回古代史セミナー・古田武彦先生 を囲んで」に初参加しました。久しぶりにお会いする懐かしい方々と旧交を暖めることができました。古田先生のご子息の古田光河さん(ふるたこうが)や主催されている荻上紘一さん(大妻女子大学・学長)ともご挨拶することができました。ちなみに、光河さんは一目見て、先生のご子息とわかりました。参加者も 100名を超え、盛況です。
 古田先生の講演は「日本古代史新考自由自在・その七」と銘打たれ、資料に記された講演テーマは次の通りです。

(一)松本深志講演(十月四日)の展開
  「深志から始まった九州王朝」
(二)日本考古学界の「通説」について
  福永伸哉講演(2014.4.12)
  『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会刊(2005.8.10)(大冊)
(三)トマス・ペインの『コモンセンス』(1776)と“A serious thought ”(1775)辛辣な思想
(四)秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)
(五)宗教と国家の死滅 — 表裏一体の「天国と地獄」「神と悪魔」論
(六)真実と人間の誕生

 講演に先立ち、荻上さんのご挨拶があり、当セミナーが11回を迎えられたことは歴史的なことであり、最近、古田先生の学問が受け入れられつつあり、先生には少しでも長くご研究を続けてほしいと述べられました。司会進行も荻上さんが担当です。
 講演は朝日新聞社OBの茂山さんからのお手紙を古田先生が紹介され、戦後まもなく親鸞研究に入った理由「自分が生きていくうえで、いかに生きるべきか」の説明から始められました。
 次いで、古代史研究(『三国志』倭人伝)に入るきっかけとなった松本清張さんの『陸行水行』や『中央公論』連載の「古代史疑」との出会いを紹介されました。
 次に、大阪大学の福永伸哉さんの「三角縁神獣鏡」魏鏡説(倭国向け特鋳説。だから中国から出土しなくてもよい、とする珍説。これだとA国から出土しなくても何でもA国製とできる「万能の論理」。もちろん学問の「禁じ手」です。古田学派の皆さんは真似しないようにしてください。:古賀注)を紹介され、学問として成り立たないことを批判されました。三角縁神獣鏡は日本製であり、3世紀の日本列島を知る上で貴重な鏡てあるとされました。
 次に、『コモンセンス』の「厳粛な思い」に記された英国による残虐な植民地支配(東インド)を批判した部分を示され、トマス・ペインの思想性を評価されました。更に勝者(連合軍)が敗者(日本)を有罪にした「東京裁判」や靖国神社問題にも触れられました。あわせて、秋田孝季の素晴らしい思想性を評価さ れ、和田家文書が真作であることを強調されました。また、和田家文書の秋田孝季による天地創造についての文とその思想について紹介されました。
 最後に、京都府向日市寺戸の五塚原古墳(全長約90m、前方後円墳)の第5次発掘調査現地説明会資料を示し、古墳の下に弥生時代の何かがあり、それを壊してこの古墳が造られているとのことでした。おそらく、弥生時代の銅鐸による祭祀跡があったのではないかとされました。

 ここで先生がお疲れとのことで、一旦、休憩となりましたので、その間に懐かしい方々にご挨拶まわりしました(まるで古田学派の同窓会のようでした)。

 再開後、最初のテーマは考古学的事実(ピラミッド建設・壊された銅鐸など)の「解釈」(学問の方法)についてでした。天皇陵古墳などの下に何があったか。そこには銅鐸文化の祭祀跡・遺跡があるのではないかと、天皇陵古墳をその下まで発掘する必要性をうったえられました。そ の際、周濠の水も入れ替えて魚が住めるようにきれいにすべきとも述べられました。
 次いで、テーマは神籠石山城へと移り、神籠石山城に囲まれた地こそ、都にふさわしい場所であり、この神籠石山城の分布は九州王朝説でなければ説明できないと指摘されました。
 更にテーマはギリシア神話に及び、太陽神アポロはアテネから北西のオリンポス山に行ったのではなく、オリンポス山の真東に位置するトロイから出発したのではないかとされ、その「トロイ神話」をアテネが取り込み、ギリシア神話として書き換えたのではないかとする仮説を発表されました。これは九州王朝神話を 『日本書紀』が盗用したことと同じ現象です。なお、来年4月にはギリシア旅行が企画されており、古田先生も参加されます(別途紹介予定。平成27年4月1 日~8日、旅行費用約33万円)。
 博多と信州の地を結んでいる歌として、『古今和歌集』巻十七の次の歌を紹介されました。

 「をそくいづる 月にもある哉 あしひきの山のあなたも 惜しむべら也」(877)筑紫太宰府の歌
 「わが心なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て」(878)信州の歌

 『隋書』「イ妥国伝」の「有阿蘇山其石無故火起接天」の「火」は阿蘇山による自然の火ではなく(天然の火は「災」と表記 される)、人間が起こす「火」であり、神籠石での祭祀の場の火ではないかとされました。従って、「日出ずる処の天子」とは阿蘇山下の天子、九州王朝の天子 であると主張されました。
 「宗教と国家の死滅」のテーマでは、「天国と地獄」「神と悪魔」は相対概念であるとされ、宗教と国家には誕生と終わりがあるとする秋田孝季の思想を紹介されました。

 ここで質疑応答となり、先の『隋書』の文の後段に、その火を「俗以為異」(俗、もって異となす)と表現されているので、 人間による火ではなく、噴火の火ではないかとする質問が出されました。古田先生は噴火の火ではないと返答されました。この時点で、かなりお疲れのご様子で、心配です。
 邪馬壹国の邪馬はいわゆる「山」のことではなく、「国名」ではないかとの質問に対して、博多湾から筑後にいたる領域名と返答されました(このことは『「邪馬台国」はなかった』で、卑弥呼の居た中心領域の国名は「邪馬」国と既に説明されています:古賀注)

 ここで再度休憩となり、参加者が宿泊施設に入りました。わたしは荷物も少ないので、そのまま会場に残り、この執筆中の「洛中洛外日記」のチェック・校正を行いました。

 質疑応答が再開され、信州の八面大王の安曇野の住みかの名称が「神籠石の岩屋」とされていますが、九州と関係するのかという質問が出されました。古田先生は、九州と長野県に関連する名称と思われると返答。
 この後、以前に出されていた質問(複数)に対して回答されましたが、その中で『隋書』「イ妥国伝」に見える「秦王国」について、信濃のことではないかとする新たなアイデアを紹介されました。『日本書紀』天武紀にある「信濃遷都計画」記事について、九州王朝によるものではないかとされ、「秦王」も「シナノ」の音に近いことなどから、「秦王国」を信濃とする視点を得られたとのことでした。
 前期難波宮九州王朝副都説の是非についての質問に対し、今後検討しなければならない問題と回答されていたのが印象的でした。
 神籠石山城がいつ頃から建設が始まったのかという質問には、倭の五王の時代や多利思北孤の時代には有明海側からの防衛も必要になったと説明されました。
 平将門が神のお告げにより「新王」と称したとされていますが、これも九州王朝に淵源・関係するのではないかという質問に対し、面白いご意見なので深めてほしいと返答されました。
 その後は質問よりも「決意表明」や「意見発表」が続き、いろいろと考えさせられました。というところで、夕食の時間になりました。
 食後に古田先生の控え室にうかがい、『古代に真実を求めて』18集掲載用の古田先生へのインタビュー(古田・家永論争の思い出)の打ち合わせを行いました。光河さんや『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんも同席されました。

 午後7時からは「夜の部」の始まりです。入り口で缶酎ハイが参加者に配られ、いよいよセミナーも佳境に入るのかと思い、 気を引き締めました。各人のデスクの上にはお菓子も用意されており、初参加のわたしには驚くことばかりです。さすがに先生のお話をお酒を飲みながら聞くのは、わたしにはできませんでしたので、缶酎ハイはそのまま持ち帰ることにしました。

 「夜の部」では、倭人伝や親鸞研究についての最新情報の紹介から始められました。そして、秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)をテーマに講演され、和田家文書の寛政原本の調査発見について、現在は絶好のチャンスであると話されました。和田喜八郎さんの祖 父・長作さんが隠した寛政原本がどこかにあるはずで、それら寛政原本の本来の持ち主は総理大臣の安倍さんであると言えないこともないと指摘されました。和田家文書は秋田孝季が書いた「安倍文書」というべきものというのが、その理由です。つまり、三春藩の秋田家(安倍・安藤一族の子孫)が孝季に命じて安倍・ 安藤の歴史を綴らせた文書が「和田家文書」として現在まで伝わっているわけです。
 次のテーマは「紫宸殿」地名。「紫宸殿」「大極殿」などという地名は誰かが勝手につけられるものではないとされ、太宰府や愛媛県にある「紫宸殿」地名も歴史事実(九州王朝の実在)の痕跡とされました。
 「宗教と国家の死滅」をテーマとして、宗教にも国家にも始まりがあり、終わりがあるというのが秋田孝季の思想であり、これは正しいと思うと述べられまし た。そして、原水爆は人間が作ったものであり、国家がこれを使用できると考えられているが、これは間違っていると指摘されました。人間が作った宗教や国家に、原水爆や原発で人間を殺す権限が与えられているとは思えないとされました。もはや人類は戦争をできる時代ではないと主張され、宗教や国家が原水爆や原 発を自由に作ってもよいという思想はもはや時代遅れと述べられました。
 更に先生の思考は深く深く進まれ、地獄に落ちる方法を考えているうちに、天国と地獄、神と悪魔とかの概念は本来同じもの、表裏一体ではないかと考えるようになったとのこと。

 以上で先生の講義は終わり、質疑応答が再開されました。安藤昌益と和田家文書の思想は共通しているように思うが関係はないのかという質問が出され、両者が知り合いであったという直接的な証拠は見ていないが、関係はあると考えられると返答されました。
 炭素同位体年代測定に関する新知見はないかという質問には、稲作の年代測定で博多湾岸や松浦半島が古く、次いで高知県足摺近辺が古く、その後に大和が古いとなっていることが紹介されました。なぜ足摺近辺が古いのか不明とされているが、古田説では足摺が倭人伝に見える侏儒国とされ、このことと無関係ではないと説明されました。

 午後8時30分になり、ようやくセミナーは終了となりました。古田先生がお疲れになられたのではと心配しましたが、無事お開きです。連日の出張で、わたしも疲れましたが、ご高齢の古田先生のお姿には改めて深く感銘しました。
 その後、門限の10時までラウンジで多元的古代研究会の皆さん、古田史学の会・四国や関西の皆さんと古代史論議を続け、とても楽しく貴重な時間を過ごすことができました。文字通り「古代史自由自在」の一日でした。これから、お風呂に入り就寝します。


第804話 2014/10/17

「反知性主義」に抗して

        なにをなすべきか

 佐藤優さんの『「知」の読書術』に指摘されているように、「反知性主義者」(大和朝廷一元史観の日本古代史学界)は「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもない」のであれば、わたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。

 佐藤さんは同書の中で、レーニンの『なにをなすべきか』(わたしも青年時代に読んだことがありますが、恥ずかしながら深く理解できませんでした)をはじめ、さまざまな著作を紹介し、最終的に「中間団体を再建することが重要だ」と指摘され、その中間団体とは「宗教団体や労働組合、業界団体、地域の寄り合いやサークルなどのこと」とされています。そして次のように締めくくられました。

 「フランスの哲学者シャルル・ド・モンテスキュー(1689~1755)は、三権分立を提唱した人物として知られていますが、彼はまた中間団体の重要性を指摘しています。すなわち、国家の専制化を防ぐには、貴族や教会といった中間団体が存在することが重要だということを言っているのです。
中間団体が壊れた国では、新自由主義によってアトム化した個人が国家に包摂されてしまいます。そうなると、国家の暴走に対する歯止めを失ってしまう。その手前で個人を包摂し、国家の暴走のストッパーともなる中間団体を再建することこそ、現代の最も重要な課題なのです。」(99頁)

 ここで佐藤さんが展開されている現代政治や国家問題とは次元やスケールは異なりますが、わたしたち「古田史学の会」もこうした中間団体の一つのように思われます。そうであれば、「市民の古代研究会」の分裂により組織的に縮小再出発した「古田史学の会」を少なくとも当時の規模程度(会員数約1000名)にまで「再建」することも重要課題として浮上してきそうです。そのための新たな施策も検討していますが、これからも全国の会員や 古田ファンの皆さんのお力添えが必要です。「古田史学の会」役員会などで検討を重ね、実現させたいと願っています。

(只今、東北出張からの帰りの新幹線の車中ですが、冠雪した美しい富士山が見え、心が癒されます。)


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第798話 2014/10/04

火山列島の歴史と悲劇

 御嶽山噴火により大勢の犠牲者が出ました。心よりご冥福をお祈りします。火山列島に住むわたしたち日本人の悲劇と言わざるを得ませんが、噴火予知連絡会々長の東大教授のテレビでの発言と態度には驚きを通り越し、怒りさえ覚えました。
 マスコミは噴火を「予知できない」ということを問題にしているようですが、それはおかしいと思います。今回の悲劇は「予知できない」ことが問題ではなく、「予知した」ことが問題の本質です。当時、御嶽山は「レベル1」(安全に登山できる)と「予知」されていたのです。しかし、事実は連絡会々長の東大教授がテレビで開き直っていたように、御嶽山の噴火は「予知できない」ということだったのですから、予知できないのにレベル1と「予知した」ことが問題の本質なのです。レベル1という「予知」を信じて登山した多くの方々が犠牲となれらたのですから。(日本の火山で比較的「予知できる」のは北海道の有珠山など わずかのようです)
 学者はできないことをできると言ってはなりません。わからないことをわかると言ってはなりません。安全ではないものを安全と言って福島原発は爆発したのですから、御用学者がどれほど社会に悲劇をもたらすのかを日本人は知ったはずです。噴火を予知できないのなら、「レベル1」などと言ってはならず、「レベ ル」付けすることをも、真の学者なら「予知できないのだから、してはならない」と言うべきなのです。
 その東大教授が国からどのくらい「お金」をもらっているのかは知りませんが、あまりにも不誠実です。学者としての倫理観を疑わざるを得ません。少なくともわたしが見たテレビ放映では一言も謝罪していませんでした。「予知できないのだから登山した者の自己責任」と言わんばかりの口調でした。
 さらに不可解なのがマスコミの姿勢です。何の犯罪も犯しておらず、誰一人として被害にあっていないにもかかわらず、小保方さんや笹井さんに対しては叩きに叩き、小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し全治二週間の怪我を負わせ、笹井さんを自殺に追い込みました。NHKや関西民放、毎日新聞を筆頭とするそのマスコミは、御嶽山噴火で大勢の犠牲者を出したのに相手が東大教授だと、見て見ぬふりです。「理研を解体しろ」と言ったのなら「予知連絡会を解体しろ」と言うべきです。NHK・マスコミの見識を疑います。
 日本列島の歴史が火山噴火と深くかかわってきたことを古田先生はたびたび指摘されてきました。たとえば、世界最古の土器「縄文式土器」が日本列島で誕生したことは偶然ではなく、火山の影響によるとの論理的仮説を発表されました。すなわち、火山の熱が土を堅くするという「天然の窯」の現象を見る機会があった日本列島の人々だからこそ、火山をお手本にして他の地域に先駆けて土器を造ることができたのではないかと古田先生は考えられたのです。
 そしてその縄文式土器が中南米(ペルー・エクアドル・他から出土しています)まで伝播したのも、火山噴火により日本列島から船で中南米まで脱出した縄文人がいたことが発端になったのではないかと考えられました。
 また、古代文明が筑紫や出雲で花開いた理由の一つが、南九州での火山噴火により西日本の広い地域に火山灰(アカホヤなど)が降り注いだことではないかとされました。その火山灰の被害をまぬがれたのが西日本では北部九州(筑紫)と出雲地方だったからです。
 古代史で火山といえば『隋書』イ妥国伝の「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接す」の一文が有名でしょう。火山噴火の様子がリアルに表現されています。このように九州王朝は火山と「共存」してきたのです。歴史学でも火山学でも、真実を語る真の研究者・学者が御用学者に取って代わり、日本の学問 の主流となる日を目指して、わたしたち古田学派は歩んでいきたいと思います。


第794話 2014/09/28

東海道新幹線開業50周年雑感

 今年の10月で東海道新幹線は開業50周年を迎えます。わたしが小学生のときの開業で「夢の超特急ひかり号」のテレビ映像は今でもよく覚えています。今は出張で年間100回以上は新幹線を利用していますが、早いし安全で快適ですから、新幹線はとても重宝しています。
 お聞きしたところでは、古田史学の会の水野代表は現役時代(日本ペイント)に新幹線の塗料の開発に関わられ、試作車両の塗装に立ち合い、開業初日に乗車されたとのこと。時速200kmで走る車体の塗装ですから、衝撃に耐える厚みや、日光(紫外線)に耐える耐光堅牢度、そして風雨にさらされても錆びない、 汚れにくい、洗浄で汚れが落ちやすいなどという、かなり困難な諸条件をクリアさせなければなりませんから、とても困難な塗料開発と塗装技術開発だったことがうかがわれます。わたしも仕事で染料や機能性色素開発に関わっていますから、50年前の化学技術水準を考えると、そのご苦労が忍ばれます。
 東海道新幹線の「東海道」という名称は古代の官道に由来しているのですが、その出発点が近畿ですので、九州王朝滅亡後に近畿天皇家による命名と考え来ました。しかし、前期難波宮九州王朝副都説により、7世紀中頃(評制施行時期)であれば九州王朝による命名とできるかもしれません。肥沼孝治さん(古田史学 の会・会員、所沢市)が九州王朝による古代官道造営説を研究されています。この命名主体について、古田学派内での研究の進展が期待されます。


第793話 2014/09/27

佐藤優『いま生きる「資本論」』を読む

 最近、佐藤優さんの著書に興味を持ち、『いま生きる「資本論」』(新潮社・2014年7月)を読みました。佐藤さんは同志社大学神学部卒の元外交官で、2002年に背任などの容疑で逮捕され有罪となったことでも有名です。かなりの博覧強記の知識人で、なかなか尊敬できる人物のようです。
 『いま生きる「資本論」』は宇野弘蔵学派の立場からマルクスの『資本論』を講義した記録です。たいへんわかりやすく、かつ広く深い教養が随所に散りばめられた快書でした。わたしは学生時代にマルクス経済学の講義を半年だけ受けましたが、当時、母校(久留米高専)の図書館にはマルクス経済学の書籍は向坂逸郎さんの『マルクス経済学入門』(だったと思う)の1冊しかなく、その本を読んで自習しました。いくら理工系の学校とはいえ、マルクス関連書籍が図書館に 1冊しかなかったというのも驚きですが、下火になっていた学生運動の影響もあり、学生が「左傾化」するのを警戒されていたのかもしれません。
 二十歳前の若造だったころですから、ほとんど深く理解はできませんでしたが、社会の不平等や恐慌・貧困が資本主義という経済システムに原因するという指摘はとても新鮮でした。今回あらためて佐藤さんによる『資本論』解説を読み、年を重ねたこともありますが、学生時代とはかなり違った新鮮さを感じました。 こんなところが古典の魅力なのだと思います。ちなみに『資本論』の発刊は1867年、明治維新の前年です。日本人がちょんまげを結い刀をさしていた時代 に、マルクスはこの名著を書いたのです。これもすごいことですね。ちなみに、古田先生もわたしもマルクス主義者ではありませんが、マルクスを優れた思想家 の一人として尊敬しています。
 『いま生きる「資本論」』に『太平記』について次のような解説がありましたので紹介します。

 「日本でいうと室町より前の文献は、実証できない語り方になっています。室町以降は実証的になる。そんな時代の分水嶺が『太平記』です。『太平記』というのはハイブリッドなのです。現代人に繋がるところもあれば、古の神々の世界に繋がるところもある。(中略)
 一六世紀にフランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちが日本へたくさん来ました。あの人たちは『太平記』を読んで、日本語を勉強していた。マカオで日本語版の『太平記』が印刷されていたんです。(中略)『源氏物語』や『平家物語』の日本語では通用しないけれども、『太平記』の日本語はそのまま使えたから、宣教師たちはこの本で勉強したのです。」(114頁)

 わたしは始めて知るエピソードです。古代史研究で『平家物語』は読みましたが、『太平記』はまだ読んだことがありません。大著ですが、時間が許せば読んでみたくなりました。


第786話 2014/09/18

倭国(九州王朝)遺産・遺跡編

 今回の「倭国(九州王朝)遺産」は遺跡編です。すでに失われた遺跡も含めて、九州王朝にとって重要な遺跡を認定してみたいと思います。

〔第1〕太宰府条坊都市と「政庁」(紫宸殿)
 太宰府に条坊があったかどうか不明とされてきた時代もありましたが、現在では考古学的発掘調査により条坊跡がいくつも発見されており、疑問の余地はありません。その上で、条坊がいつ頃造営されたのかが検討されてきましたが、井上信正さんの研究により7世紀末頃には既に存在していたとする説が地元の考古学 者の間では有力視されています。さらに井上さんの緻密な研究の結果、大宰府政庁2期遺構や観世音寺創建よりも条坊の造営の方が早いということも判明しまし た。
 こうした一元史観に基づいた研究でも太宰府条坊都市の成立が藤原京と同時期かそれよりも早いという結論になっているのですが、わたしたち古田学派の研究によれば太宰府条坊都市の成立は7世紀初頭(618年、九州年号の倭京元年)まで遡ります。従って、わが国初の条坊都市は通説の藤原京ではなく、九州王朝の首都太宰府となります。
 大宰府政庁遺跡は3期に区分されていますが、2期が九州王朝の紫宸殿と思われます。「紫宸殿」や「大裏(内裏)」という字地名が残っており、同地はいわゆる「政庁」ではなく、九州王朝の天子の宮殿と見なすべきです。ただ、規模が王宮にしては小さいので、天子が日常的に生活する館は別にあった可能性もあり ます。
 2期の造営年代は使用されている瓦が主に老司2式とされるもので、観世音寺の造営と同時期かやや遅れた頃と推定されます。観世音寺の創建年を九州年号の白鳳十年(670)とする史料が複数発見されたことから、政庁2期の造営もその頃と考えられます。九州王朝の首都遺構ではありますが、まだまだ研究途上ですので、古田学派内での論議と解明が期待されます。

 *考古学的報告書などの用語は「大宰府」が使用されていますので、考古学的遺跡名としての「大宰府政庁」などについては、現地名や九州王朝の役所名の「太宰府」ではなく、「大宰府」を使用し、使い分けています。

〔第2〕水城(大水城・小水城・上津荒木水城)
 九州王朝の首都太宰府を防衛する国内最大規模の防塁施設が水城です。『日本書紀』天智三年条(664年)の記事により、水城は白村江戦(663年)後の 造営と通説では理解されていますが、理科学的年代測定(14C同位体測定)によれば、それよりもかなり早くから造営が開始されていたことが判明していま す。
 通常知られている水城(大水城)以外にも太宰府方面への侵入を防衛するために小水城も造営されています。さらには有明海側からの侵入を防ぐための上津荒木(こうだらき)水城が久留米市にあります。これら水城は「倭国(九州王朝)遺産」に認定するに値する規模で、現在でもその偉容を見ることができます(上津荒木水城は今ではほとんど残っていません)。
 ちなみに、この水城は鎌倉時代の元寇でも太宰府防衛に役だったことが知られています。

〔第3〕神籠石山城群
 水城と共に、九州王朝の首都太宰府や近隣の筑後国府・肥前国府を囲繞するような防衛施設(水源を内部に持ち、住民の収容も可能な大規模施設)としての神籠石山城群は九州王朝を代表する遺跡です。直方体の切石が山の中腹を取り囲む列石遺構は同じ規格で造営されていることから、統一権力者によるものと、一元史観の研究者からも指摘されてきました。瀬戸内海方面にも神籠石山城がいくつか点在しており、九州王朝の勢力範囲がうかがえます。
 水城や神籠石山城群の造営という超大規模土木事業は九州王朝の実力を推し量ることができます。文句なしの「倭国(九州王朝)遺産」です。

〔第4〕大野城
 太宰府の真北にある大野城は、首都防衛と水城が敵勢力に突破された場合、「逃げ城」としての機能も併せ持っています。大規模で頑強な「百間石垣」はその代表的な遺構ですが、山内にある豊富な水源や倉庫遺構群は長期の籠城戦にも耐えうる規模と構造になっています。首都太宰府の人々にとっては水城や神籠石山城とともに心強い防衛施設だったことを疑えません。逆から考えれば、当時の九州王朝や「都民」にとって恐るべき外敵の存在(隋や新羅、あるいは近畿天皇家)もうかがえます。
 近年の発掘や研究成果よれば、出土した木柱の年輪年代測定の結果、大野城が白村江戦(663年)以前に造営されていたことは確実です。このことは同時に 大野城が防衛すべき条坊都市太宰府もまた白村江戦以前から存在していたという論理的帰結へと至ります。従って、一元史観の通説で日本初の条坊都市とされてきた藤原京(694年遷都)よりも太宰府条坊都市の方が早いということになるのです。このことも多元史観・九州王朝説でなければ合理的で論理的な説明はできません。

〔第5〕基肄城(基山)
 太宰府の北にある大野城に対して、南方には基肄城(基山)があり、首都を防衛しています。基肄城は交通の要衝の地に位置し、現代でも麓を国道3号線と JR鹿児島本線が走っています。山頂からの眺めもよく、北は太宰府や博多湾方面、南は筑後や有明海方面、東は甘木や朝倉方面が望めます。また、太宰府条坊 都市の中心部の扇神社(王城神社)がある「通古賀(とおのこが)」は、真北(北極星)と基山山頂を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基肄城 は「ランドマーク」の役割を果たした可能性もあります。九州王朝にとって重要な山城であったこと、これを疑えません。

〔第6〕筑後国府跡(含む曲水宴遺構・久留米市)
 倭の五王の時代、九州王朝は筑後に遷宮していたとする研究をわたしは発表したことがあります。筑後国府は3期にわたり位置を変えながら長期間存続していたことが判明しています。中でも「曲水宴」遺構は珍しく、九州王朝の中枢にふさわしい遺構です。高良山神籠石や高良大社なども、九州王朝中枢にふさわしいものでしょう。ちなみに高良大社の御祭神の玉垂命を祖先に持つ稻員家が九州王朝の王族の末裔であることは既に述べてきたとおりです。

〔第7〕鞠智城
 九州王朝研究で検証がまだ進んでいないのが鞠智城です。おそらく九州王朝による造営と思うのですが、古田学派内での調査検討はこれからです。あえて認定することにより、今後の研究を促したいと思います。

〔第8〕岩戸山古墳(八女古墳群)
 現在異論のない九州王朝の王(筑紫君磐井)の墓が岩戸山古墳です。おそらく八女丘陵に点在する石人山古墳・鶴見山古墳などは九州王朝の歴代の王の墓であることは確実と思われます。さらには三潴地方の御塚古墳なども倭の五王の墓ではないかと考えています。これらも含めて認定します。

〔第9〕装飾壁画古墳(珍塚古墳・竹原古墳・他)
 北部九州の装飾壁画古墳も九州王朝を代表する遺跡です。中でも珍塚古墳や竹原古墳の壁画は古田先生の研究により、その謎が解き明かされつつあり、貴重なものです。

〔第10〕宮地嶽古墳
 巨大な横穴式石室を持つ宮地嶽古墳は、その超豪華な副葬品(金銅製馬具・他)と共にダブル認定です。これも異論はないと思います。その石室内で九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞が舞われていたことも「倭国(九州王朝)遺産」にふさわしいエピソードです。

 以上の他にも認定するにふさわしい遺跡は数多くありますが、とりあえず「遺跡編」はここまでとします。なお、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮も候補の対象ですが、検証過程の仮説ですので、今回は認定しませんでした。(つづく)


第784話 2014/09/13

倭国(九州王朝) 遺産10選

 書店で世界遺産を特集した本をよく見かけるようになりました。それにヒントを 得て、いつか「古田史学の会」でも『倭国(九州王朝)遺産』のような写真で紹介する九州王朝の遺跡や文物を紹介した本を出してみたいと思うようになりまし た。そこで、もし選ぶとしたら「倭国(九州王朝)遺産」として何がふさわしいだろうかと考えてみました。個人的見解ですが、ご紹介したいと思います。まず は金石文・出土品10選です。(順不同)

〔第1〕志賀島の金印
 やはり最初に認定したいのはこれです。倭国が中国の王朝に認定された記念碑的文物ですから。『後漢書』によれば光武帝が西暦57年に倭王に贈ったもので す。「倭国が南海(南米か)を極めた」ことに対する報償です。印文の「漢委奴国王」は、「かんのいのこくおう」あるいは「かんのいぬこくおう」と訓んでく ださい。「かんのわのなのこくおう」と「三段細切れ国名」として訓むのは誤りです。

〔第2〕室見川の銘板
 倭国産の銘板で、これも外せません。後漢の年号「延光4年」(125)が記されています。吉武高木遺跡の宮殿造営(王作永宮齊鬲)を記したものとして、これも九州王朝の記念碑的文物です。

〔第3〕日田市出土「金銀象嵌鉄鏡」
 国内では唯一の出土と思われる見事な象嵌で飾られた鉄鏡です。九州王朝内の有力者の所持品と思われます。金銀象嵌(竜)の他に赤や緑の玉もはめ込まれた見事な鏡です。中国製(漢代)のようです。

〔第4〕平原出土の大型「内行花文鏡」(複数)
 この圧倒的な量と大きさも「遺産」認定に値します。

〔第5〕七支刀
 今は石上神宮にありますが、百済王が倭王旨に贈った古代を代表する異形の名刀(剣)です。「旨」は倭王の中国風一字名称です。

〔第6〕福岡市元岡古墳出土「四寅剣」
 倭国産の、これも珍しい「四寅剣」を忘れてはなりません。九州王朝内の有力氏族に与えたものと思われます。九州年号「金光」改元の年(570)に造られたものです。

〔第7〕糸島市一貴山銚子塚古墳出土「黄金鏡」
 国内でも数例しかないという鍍金された鏡です。邪馬壹国の卑弥呼が中国からもらった「金八両」が使用されたのではないかと、古田先生は推測されていま す。なお、同じ鍍金鏡として熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳出土の鏡もセットで認定したいと思います。

〔第8〕江田船山古墳出土「銀象嵌鉄刀」
 これを認定しないと本年五月にお世話になった和水町の皆様にしかられます。九州王朝の有力豪族に与えられた有名な刀です。馬だけでなく魚や鵜飼いの鵜と思われる水鳥の象嵌も貴重です。

〔第9〕隅田八幡人物画像鏡(和歌山県橋本市)
 百済の斯麻王(武寧王)から倭王「日十(ひと)大王年」に贈られた鏡です。この「年」は倭王の中国風一字名称です。岡下秀男さん(古田史学の会・会員、 京都市)の研究によれば、倭王への贈呈品とするには文様の質があまり良くないという課題もあります。

〔第10〕宮地嶽古墳出土の金銅製馬具・他
 この圧倒的に豪華な副葬品は文句なしの認定ですが、北部九州からはこの他にも王塚古墳(桂川町)などからも素晴らしい副葬品が出土しており、それらもセットで認定したいと思います。

 以上、とりあえず「10選」ということで絞りましたが、この他にも認定したいものが数多くあります。また、卑弥呼がもらった金印も発見されれば間違いなく認定です。今回漏れたものは続編か番外編にでも紹介できればと思います。(つづく)


第782話 2014/09/10

再読

『昭和天皇独白録』

 『昭和天皇実録』が完成したこともあって、20年ほど前に読んだ『昭和天皇独白録』(文春文庫、1995年)を再読しました。同書は敗戦後の昭和21年に昭和天皇が側近らに語った発言を寺崎英成御用掛が記録したものです。
 敗戦直後の米軍占領下で、昭和天皇が側近に語った言葉ですから、「事後の感想、発言」という史料性格を有していますが、大日本帝国の開戦の「正義」が次のように記されています。

 「〔大東亜戦争の遠因〕この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条件の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。
 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない。」(24~25頁)

 このような昭和天皇の発言が記されています。そして同書編集部による次の〔注〕が付されています。

 「大正八年(一九一九)、第一次大戦が終ると、平和会議が招集されて、連合国二十八カ国がパリに集まった。日本全権は西園寺公望。このとき各国の人種差別的移民政策に苦しんできた日本は、有色人種の立場から二月十三日に“人種差別撤廃”案を提出した。しかし、さまざまな外交努力にもかかわらず、日本案は四月十一日に正式に否決された。日本の世論は、この報に一致して猛反対でわき上がった。
 さらに大正十三年(一九二四)五月、アメリカはいわゆる「排日移民法」を決定する。それは日本にとって「一つの軍事的挑戦」であり、「深い永続的怨念を日本人の間に残した」ものとなった。日本の世論は憤慨以外のなにものでもなくなった。「アメリカをやっつけろ」「宣戦を布告せよ」の怒号と熱気に国じゅうがうまったといっていい。日本人の反米感情はこうして決定的となった。」(25~26頁)

 戦後の占領政策に基づく「戦後民主教育」により、日本国民はアメリカの「正義」と大日本帝国の「軍部の暴走」という「不正義」を「歴史」教育で学んできましたが、ことはそれほど単純ではなかったことが昭和天皇の独白録からもうかがえます。
 戦争は国家間の「正義」と「正義」の衝突であるという古田先生の定義から見れば、第一次大戦後の日本の「正義」(人種差別撤廃)と欧米の「正義」(人種差別)、中でもアメリカの「正義」(排日移民法)の衝突が太平洋戦争への布石の一つとなったことが見えてきます。同時に世界で有色人種を代表して日本のみが「列国」(白人帝国主義列強)と国際舞台で論戦していた歴史事実を、「戦後民主教育」では「なかった」ことにして日本国民には伏せられてきたこともわかります。
 歴史研究や歴史教育は自国の「正義」を超えた真実に基づかなければ、その国民は自国の「正義」のみに基づき、同じ誤りや失敗を繰り返し、「歴史は繰り返す」こととなりかねません。多元史観・フィロロギーは人類の未来の為に、真実の歴史に肉薄し、明らかにするという「学問の方法」「学問分野」です。わたしたち古田学派の真価が問われる時代なのです。


第781話 2014/09/09

『昭和天皇実録』刊行

と多元史観

 本日の朝刊各紙1面に掲載された『昭和天皇実録』完成記事を、感慨深く読みました。『日本書紀』を筆頭とする官選史書「六国史」以来、明治になってから天皇の「実録」が編纂されてきましたが、今回の『昭和天皇実録』は特別な性格を有しています。内容については新聞に解説されている以上のことはわかりませんが、歴史学的に見てとても興味深い「実録」になるはずと推定しています。
 なぜなら『日本書紀』に匹敵する時代の激変期の「実録」だからです。『日本書紀』編纂は九州王朝から大和朝廷への権力構造の激変(王朝交代)の時代に編纂されたため、その政治的必要性に貫かれた編纂方針、すなわち前王朝である九州王朝の存在を消すという方針がとられました。それは、当時では周知の歴史事実であった「九州王朝の時代」をなかったことにするという相当無理無茶なものでした。それほどに新たな権力者、大和朝廷にとって、無理でも無茶でもそうした史書を編纂せざるを得なかった事情があったのです。
 今回の『昭和天皇実録』も同様の権力構造の激変(敗戦による戦前と戦後の構造と意識の変化)が一人の天皇の時代に発生したことにより、編纂にあたり、かなり深刻な問題を抱え込んだはずです。それは、戦前の明治憲法下における天皇、タイを除けばアジアでほぼ唯一の完全な独立国家の君主としての天皇と、敗戦後の世界最強の米軍とその核兵器に自国の防衛と運命を委ねている「独立国」の「君主」として、どちらの大義名分に立った『昭和天皇実録』とするのか、国家事業としての編纂作業においてどちらの立場をとっているのかという問題です。
 古田先生の言葉「戦争は国家間の『正義』と『正義』の衝突である」という戦争の思想史的定義からすれば、戦前の大日本帝国が主張した「正義」があったはずですし、太平洋でアメリカの「正義」と衝突して戦争となりました。それは、歴史的に西へ西へと侵略を続け植民地化(ネイティブアメリカン・メキシコ・ハワイ・フィリピン・他)するアメリカの帝国主義時代の「正義」と、その西の果てにあった日本の自衛戦争という「正義」との対立の構図もあったはずですが、どちらの「正義」を昭和天皇は語ったのでしょうか。そして、「実録」ではどちらの昭和天皇の発言を「採用」しているのでしょうか。興味は尽きません。
 権力構造が劇的に変化した時代の史書である『日本書紀』を、わたしたち古田学派は多元史観の目で分析してきたように、今回の『昭和天皇実録』もそうした多元的歴史観・フィロロギーの目で読むことにより、現代日本の史書編纂官僚の意志(大多数の国民が「戦後民主教育」を受けた結果に形成された国家意志や国民意識の反映)を再認識し、現代日本の真実の姿を読みとることができるように思われるのです。
 何を「正義」として編纂されたのかを明らかにする、これこそ『昭和天皇実録』を研究する歴史家の責務ではないでしょうか。昭和天皇の「発言」として権威づけられた「正義」が、これからの日本と日本人に影響を与え続けるのですから。


第780話 2014/09/06

奴(な)国か奴(ぬ)国か

「古田史学の会」会員の中村通敏さん(福岡市在住)から、ご著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』 (海鳥社、2014年9月)が送られてきました。古田先生の邪馬壹国説の骨子がわかりやすく紹介されており、古田史学入門書にもなっていますが、著者独自の仮説(奴国の比定地など)も提示されており、古田先生に敬意を払いながらも「師の説にななづみそ」を実践された古田学派の研究者らしい好著です。
また、志賀島の金印の出自に関する古田先生の考察など、興味深いテーマも取り扱われています。中でもわたしが注目したのが、『三国志』倭人伝に見える国名の「奴国」の「奴」を「な」とするのは誤りであり、「ぬ」である可能性が高いことを論じられたことです。わたしも「奴国」や金印の「委奴国」の「奴」の 当時の発音は「ぬ」か「の」、あるいはその中間の発音と考えています。通説の「な」とする理解が成立困難であることは、古田先生も指摘されてきたところです。中村さんはこの点でも、独自の根拠を示しておられ、説得力を感じました。
なお、奴国の位置については『古代に真実を求めて』17集にも中村稿とともに正木稿が掲載されており、両者の説を読み比べることにより、倭人伝理解が深 まります。このところ古田学派による著書の出版が続いていますが、中村さんの『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』はお勧めの一冊です。

インターネット事務局案内

 中村通敏(棟上寅七)さんが主宰するホームページ(新しい歴史教科書(古代史)研究会)と『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』中村通敏著のPRです。

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