現代一覧

第1088話 2015/11/07

蕉門の離合の迹を辿りつつ

 31歳のとき、古田先生の門を叩いて30年近くになりました。古田先生が亡くなられてから、先生との思い出が次から次へとよみがえります。
 嵐のような和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングがおき、先生とわたしは週刊誌などでも名指しで叩かれ、兄弟子と慕っていた多くの人々が先生から離れていく様を、わたしは30代から40代の若き日に目の当たりにしました。そのような最中、古田先生と二人だけで三重県津市に行きました。1997年10月のことです。
 その年、『奥の細道』芭蕉自筆本とされるものが現れ、津市の美術館で展示されると聞き、先生と二人で訪問したのです。『奥の細道』の開かれたページを二人でガラス越しに1時間以上も食い入るように見つめました。その筆跡を目に焼き付けるためです。後日、持ち主(古美術商)から、直接すべてのページを見せていただける機会が訪れるのですが、そのときはガラス越しに見ることが唯一の観察手段でした。このような機会を通して、わたしは先生から古文書研究の執念と方法を学びました。
 津市へ向かう列車の中で、わたしは先生から一冊の本をいただきました。『許六 去来 俳諧問答』(岩波文庫、横沢三郎校註。1954年)です。その本には次のような一文が添えられていました。

「-蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章等)-
変る人々多き中、変らぬ心
をお寄せいただくこと、この生涯最大
の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中
古賀達也様  古田武彦」

 芭蕉没後にその弟子たちは離合を続けました。中には、「門戸を張らんが為に師を軽侮して己の優位を示そうとする者」まで出ます(同書「解説」より)。偽作キャンペーンが吹き荒れるなか、古田先生がこの本を下さったお気持ちは、痛いほどわかりました。先生亡き今、その思いをより切実に受け止めています。
 この岩波文庫の小さな一冊は今も大切に持っています。わたしの宝物の一つとして。


第1085話 2015/10/30

古田先生の絶筆、徴兵検査と「赤紙」の狭間で

 夜、帰宅すると、友好団体の「多元的古代研究会」の会報「多元」No.130号が届いていました。友好団体間で行っている機関紙交流用に送っていただいたものです。
 今号は一面に古田先生の遺影と訃報が掲載され、2頁目には古田先生による「遺稿・真実と虚偽2」が掲載されていました。半頁ほどの短いものでしたが、末尾には「二〇一五、一〇月十二日脱稿」と執筆日が付されており、先生が亡くなられた14日の二日前の日付であることから、これは先生の絶筆ではないでしょうか。字数が少ないことから、すでにこの日には体調がすぐれなかったのかもしれません。心が痛みます。
 しかし、短文ではありますが、その内容は現在の日本国がおかれた状況を危惧した、古田先生の心の奥底からの訴えであり、後生にのこされた「遺言」のような気がしてなりません。
 その前半は、義兄(井上嘉亀氏)から聞かれた、満州に取り残された日本人婦女子に対するソ連兵の組織的集団強姦事件の話であり、後半は徴兵を目前にした旧制広島高校での生徒たちの会話(何のために死ぬのか。死ねるのか。)です。いずれのお話も、わたしは何度も先生からお聞きしたことがあり、先生としては死ぬ前にどうしてもこれだけは何度でも伝えておきたかったことに違いありません。「多元」から後半部分を引用させていただきます。

 日本はすでに負けることを知っていた。戦時中だ。一晩中、旧制広島高校で議論した。
 「わたしたちはどうしたらいい?」
 「今、アメリカが、極東から沖縄まで、唯一独立国である日本国を、植民地にしようとしている。」
 「その日本国を植民地にするために、狙っているのがアメリカだ。」
 「しかし、わたしたちが“アジアのために”戦って負けたら、次は必ず〈アジアが独立する〉ときが来る。」
 「そのために“戦う”のなら、〈戦う意味がある〉のではないか。」
 夜を徹して、議論した。それが結論だった。
  〔二〇一五年一〇月十二日脱稿〕

 おそらくこのとき、古田青年は徴兵検査を終え、「赤紙」(徴収礼状)が来るのを待っていた時期と思います。というのも、わたしは古田先生から次のようなお話を聞いたことがあるからです。

 「わたしは徴兵検査を受けて、『赤紙』が来る前に敗戦を迎えた最後の世代でした。東北大学に進むので、徴兵延期の特例が認められていたのですが、それを潔しとできなかったので、徴兵延期申請をせずに徴兵検査を受けました。帝国大学生なら徴兵延期のうえ、下士官として兵役につくこともできましたが、わたしはそれを選ばずに、二等兵として兵役につく覚悟でした。」

 古田先生らしい、不正を嫌う実直なお人柄がよくうかがわれるお話でした。今回の「多元」の絶筆を読み、この先生のお話を思い出しましたので、ここに紹介させていただきます。


第1084話 2015/10/29

「邪馬壹国」説、

昭和44年「読売新聞」が紹介

 「洛中洛外日記」1078話で、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評「批判と研究」(『週間読売』昭和47年1月)が池田大作氏により発表されたことを紹介しました。『「邪馬台国」はなかった』の元となった最初の論文、すなわち古田先生の「邪馬壹国」説が最初に発表されたのは東京大学の『史学雑誌』で、昭和44年、古田先生が43歳のときです。それは「邪馬壹国」という論文で、その年の日本古代史分野では最も優れた論文と高く評価されました。
 その「邪馬壹国」説を最初に紹介した読売新聞の記事を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけて下さり、その記事を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が活字データにしていただきましたので、ご紹介します。
 今、読んでみてもかなり正確な内容の記事です。当時の新聞記者の優秀さがうかがわれます。現在のように記者クラブなどで政府や官邸から流される発表をそのまま記事にする記者とは大違いです。それと同時に、この記事はある程度の学力(北畠親房や新井白石の業績を知っている)がないと深く理解できません。当時の新聞読者(国民)の学問レベルも新聞記者と同様に高かったように思われます。
 正木さんからのメールには次のような的確な感想が付されており、こちらもご紹介します。

《正木さんからのメール》
 茂山さんから昭和44年の古田先生の史学雑誌への発表をとりあげた読売新聞の記事を頂きました。記事を添付しましたが、見にくいので記事起ししました。 東大榎、京大上田、松本清張という「巨頭」がこぞって大きく評価しており、いかに大きな衝撃だったかがわかります。
 今日の「古田無視」の状況がどのような経過でもたらされたのか、その理由・背景に何があったのか、学問的にも大きな研究課題になろうかと思います。
 正木拝

《昭和四十四年十一月十二日読売新聞》

(大見出し)邪馬臺ヤマタイ国ではなく邪馬壹ヤマイチ国
 後漢書こそ三国志を誤記

(中見出し)古代史の根源に波紋
(*魏志倭人伝と後漢書の写真、古田先生の写真を掲載)

(リード)三世紀の日本にあったのは、邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国だったーヤマタイの発音からヤマトを想定したわが国の古代史の序章を白紙に戻させるような研究論文が、この秋、突然、学術専門誌に発表され、歴史学会に大きな波紋を投じている。
 京都の市立洛陽工業高校古田武彦教諭(四三)が五年間を費やした労作。これまで三国志の魏志倭人伝(当時の日本の情勢が書かれている)に出てくる邪馬壹国の「壹」は「臺」の書き誤りというのが定説になっていたが、古田教諭は「壹が正しく、臺の誤記ではない」という結論に達したという。ヤマタイ国について独自の推理を展開してきた松本清張氏は「大きな盲点をつかれた」と”古田研究”を高く評価しており、学会でも「もう一度出発点に戻らなければ」と古代史の”再点検”をうながす声が起こっている。

(小見出し)近畿、九州論争根拠を失う

(記事)これまでヤマタイ国の根拠とされてきたのは、五世紀の中国の史書、後漢書に出てくる「邪馬臺国」で、それ以後の史書も後漢書にならって同じ表記をしており、三世紀に書かれた三国志の「邪馬壹国」の方が書き誤りとされてきた。
 古田教諭の研究は、史学会代表者榎一雄東大教授の推薦で、同会の機関紙「史学雑誌」最近号に「研究ノート」として発表された。
 そのポイントは、女王ヒミコが統治する国についての最古の文献である三国志には「邪馬壹国」とあり、北畠親房、新井白石から今日にいたるまで「これは臺の誤記」という説がうのみにされてきたが、科学的に検討すると「壹」と「臺」の書き間違いは考えられないーというもの。
 三国志の「邪馬壹国」と、後漢書の「邪馬臺国」とを比較、検討した結果、文献上、字形上、発音上、次のような点が明らかであるとしている。
 ①三国志の文中には合計八十六個の「壹」の字が使われている。しかし、一つとして混同は認められない。一方、後漢書は、三国志の文面をもとにしながら「女子の多い国」などと才気走った修飾があちこちに見られ、誤記の可能性はむしろ後漢書の方こそ強い。②三国志が書かれた三世紀当時の「臺」の字には「天子の宮殿」という意味がある。また邪、馬、奴などはいずれも蔑称(べっしょう)で邪馬という蔑称の下に「臺」の字を使うはずがない③後漢書の「邪馬臺国」には、唐時代の学者李賢(七世紀)の注として「案ずるに今の名、邪馬惟(ヤマイ)の音の訛(なまり)なり」とあり、唐代になっても邪馬惟だったと思われる④仮に一歩譲って「邪馬臺国」が存在したとしても、発音は濁った「ダイ」であって「台(タイ)」にはならず、これを「ヤマト」と類推するには飛躍がありすぎる。
 つまりヤマタイ国は、それこそ”まぼろし”だったというわけで、八世紀の古事記、日本書紀に初めて現れる大和朝廷をヤマタイ国と結びつける従来の古代史は、それ以前の糸をぷっつりと断ち切られることになるし、発音からきた福岡県山門(やまと)郡説も、根拠を失ってしまう。
 これまでの学会は、ヤマタイ国近畿説、北九州説に分かれながらも、ヤマタイ国の存在そのものは疑わなかったが、その根源にいきなりメスを当てられたかっこう。いまのところ「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、大きな波紋を投ずるものと思って推薦した」(東大榎教授)「三国志自体の信ぴょう性という問題は残る。しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京都大上田正昭助教授)など、専門学者の反応はさまざまだが、それぞれ大きなショックを受けたことは間違いなさそうだ。

(小見出し)説得力十分だ

(記事)松本清張氏の話「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」


第1082話 2015/10/25

桂米團治さんのブログに古田先生の訃報

 KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に古田先生と出演させていただいたことなどがご縁となり、桂米團治師匠には何かとお気遣いいただいています。その米團治師匠のオフィシャルブログに古田先生の訃報が掲載されています。これも有り難いことです。米團治師匠のご了解をいただきましたので、転載紹介させていただきます。

「五代目 桂米團治ブログ」より転載

2015.10.16 《古田武彦さん、逝去》
 10月14日(水)、歴史学者の古田武彦さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
 常に文献に偏見なく向き合い、独自の解釈で古代史学界に“喝”を入れた先生──。
 私はただただ古田武彦著書の一愛読者だったのですが、今年、ひょんなことからKBS京都ラジオの私の番組へ古田武彦さんをお招きすることが叶ったのです。
 かなりのご高齢で、もう講演活動もされておられない状況である中、無理を承知で打診してみたところ、「出ます!」というご快諾の返事をいただきました。
 8月29日(土)、ご長男の光河さんに付き添われてスタジオ入りした先生は、明瞭なお声で私のインタビューに応じて下さいました。
 お弟子さんの古賀達也さんも加わっての古代史談義は、なんと二時間以上続いたのです!
 私が少しでも論理に合わないことを言えば賺さず「いや、それは違う」と質され、どんな質問にも丁寧に答えて下さいました。
 逆に、私の話す内容に賛同された時など、スタジオに響き渡るような声で「その通り!」と絶叫されました(*^o^)/
 「これからはどんな研究をなさりたいですか」との私の問いかけに対しては、「やるだけのことはやりました。もう思い残すことはありません。あとは弟子たちが頑張ってくれるでしょう」との返答。
 9月に入り、その模様が三週にわたり紹介されましたが、それが古田武彦さんの最後の放送となりました。
 先生の遺志は必ずや「古田史学の会」の皆さんが受け継いで下さることでしょう。
 勇気と感動を与えて下さり、本当に本当にありがとうございました!    ご冥福をお祈り致します。


第1078話 2015/10/20

池田大作氏の書評「批判と研究」

 古田先生が生前に親交をもたれていた各界の人士にご連絡をとっていますが、ご返信も届きはじめました。17日には創価学会名誉会長の池田大作氏から、知人を介して次の御伝言をいただきましたのでご紹介します。

 「ご生前の御功績をしのび、仏法者として懇ろに追善させていただきました。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」(池田大作)

 古田先生と池田大作氏との交流は『「邪馬台国」はなかった』の発刊時にまで遡ります。同書は昭和46年11月に発行されています。わたしが古田先生からお聞きしたことですが、『「邪馬台国」はなかった』の書評を最初に発表されたのが池田大作氏で、それ以来、古田先生の著作が刊行されると贈呈し、そのたびに読書感想を交えた丁重なお礼状や池田氏の著作が届くという間柄になられたとのこと。先生のご自宅で池田氏のサイン入りの写真集なども見せていただいたことがあります。
 池田大作氏の書評は昭和47年1月15日の『週間読売』に掲載された「批判と研究」というものです。それは次のような文で始まります。

 「最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。」

 そして古田先生の邪馬壹国説を正確に要領よく紹介され、九州説の東大と近畿説の京大との学閥問題にも触れられます。さらには古田史学・フィロロギーの方法論と同一の考え方を示され、最後を次のように締めくくられています。

 「『批判』はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ『批判』にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも『批判の眼』が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから--。」

 この池田氏の「批判と研究」は学問的にも大変優れた内容です。この書評は『きのうきょう』(聖教文庫81、聖教新聞社、1976年)に収録されています。
 わたしがこの書評の存在を古田先生からお聞きしたのは、「古田史学の会」創立後ですから、今から15年ほど前のことと思います。そのとき先生はうれしそうなお顔で次のように言われました。

 「池田さんとお会いしたことはないのですが、是非、会ってみたいという気持ちと、このまま書簡と書籍を交換するだけの間柄を大切にしたいという気持ちの両方があります。」

 こうして、古田先生は池田大作氏とはお会いされることはないまま逝かれました。


第1077話 2015/10/17

悲しみと励ましの関西例会

本日の関西例会はいつもとは少し異なり、重苦しい雰囲気が感じられました。というよりも落ち込んでいるわたしを皆さんにおもんばかっていただいたためでした。
 お昼休みに開催した「古田史学の会」役員会では古田先生のご逝去により、「偲ぶ会」の検討や『古代に真実を求めて』追悼特集について打ち合わせを行いました。午後の部の冒頭では参加者全員で黙祷しました。
 例会後の懇親会には桂米團治さんが駆けつけていただきました。米團治さんはは住吉での落語会を終えた後、懇親会に参加していただいたものです。 有り難いことです。今日は姫路市で落語会とのことでした。これからの米朝一門を立派に牽引されていかれることでしょう。皆さんに励まされた一日でした。
 10月例会の発表は次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
①本朝皇胤紹運録の中の九州年号(八尾市・服部静尚)
②新唐書日本伝の史料批判(八尾市・服部静尚)
③「副葬」は「廃棄」である(京都市・岡下英男)
④仮説、「国伝」(姫路市・野田利郎)
⑤盗まれた九州王朝の「難波宮」と「吉野宮」の歌(川西市・正木裕)
⑥「ニギハヤヒの位置付け」及び「神武の東征はなかった」の補足(東大阪市・萩野秀公)
⑦六国史の「皇祖母」(高松市・西村秀己)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10月14日22時13分、西京区の桂病院にてご逝去)・史跡ハイキング(関大博物館・他)・「最勝会」の研究・高橋崇『藤原氏物語 栄華の謎を解く』・水野孝夫「泰澄と法蓮」会報74号・その他


第1076話 2015/10/15

古田武彦先生ご逝去の報告

 古田武彦先生が昨日ご逝去されました(享年89歳。10月14日午後10時13分、搬送先の桂病院にて)。謹んで皆様にご報告申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 なお、古田先生の御遺命により、葬儀は執り行われず、ご親族によるお別れがなされます。「古田史学の会」としましては、友誼団体ともご相談の上、「お別れ会」(仮称)を執り行います。日時・会場など詳細が決まりましたら改めてご報告申し上げます。
 また、「九州年号特集」を予定していました『古代に真実を求めて』19集(来春発行)は「古田武彦先生追悼号」に変更させていただきます。
 先生の御遺志と学問、古田史学・多元史観をこれからも継承発展させることをお誓い申し上げます。

 平成27年(2015)10月15日
         古田史学の会 代表 古賀達也

古田武彦研究年譜を掲載


第1075話 2015/10/13

「東寺百合文書」の思い出

 「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)がユネスコの世界記憶遺産に登録されたとのニュースに接し、30年程前のことを思い出しました。
 古田史学を知り、「市民の古代研究会」に入会したての頃、わたしは九州年号を研究テーマの一つにしました。当時の研究状況は九州年号史料の調査発掘がメインでしたので、研究や調査の方法もどこにどんな史料があるのかも全くわからない「ど素人」のわたしは、京都や滋賀の寺社を訪問したり、京都府立総合資料館にこもって史料探索をしていました。
 ちょうどそのころ、京都では「東寺百合文書」の調査と活字化が行われており、府立総合資料館には「東寺百合文書」の活字本が閲覧可能となっていました。そこでその中に九州年号があるかもしれないと思い、それこそ読めもしない漢文や漢字だらけの膨大な「東寺百合文書」を目を皿のようにして「眺め」ていました。ちなみに、当初わたしは「東寺百合文書」を何と読むのかさえも知らず、「とうじゆりもんじょ」と思いこんでいました。今から思い出してもお恥ずかしい限りです。
 当時は古田先生に入門したばかりで、化学系のわたしは古文書など読めもしませんし、まったくの初心者でした(今も得意ではありません)。そこで、読むのではなく「○○年」という文字列を検索(眺めて見つける)するという手法を採用しました。まだ若かったこともあり府立総合資料館の朝の開館から夕方の閉館まで昼食もとらずに何時間も「東寺百合文書」を猛烈なスピードで眺め続けました。結局、九州年号を見つけることはできませんでしたが、とても良い訓練となりました。このときの経験が後に何度も役立つのですが、そのことは別の機会にご紹介したいと思います。
 「東寺百合文書」が世界記憶遺産に登録されたことで、改めてネットで調べてみますと、なんと京都府立総合資料館のサイトでWEB検索ができるようになっていました。しかも「年号」での検索も可能です。隔世の感があります。今は視力も体力も集中力も落ちていますから、こうしたWEB検索機能は大変ありがたいことですが、若い頃のあのハードな訓練はやはり研究者にとって得難い体験です。古田学派の若い研究者にもWEBにあまり依存することなく、現物の古文書や紙媒体による史料調査の経験も積んでいただきたいと思いました。


第1066話 2015/10/01

古田史学の会 facebook」のご紹介

 武蔵国分寺調査でお世話になった肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ」に、「上野(こうづけ)三碑」(山上碑・多胡碑・金井沢碑)が世界文化遺産候補になったことが紹介されていました。関東にはなぜか古代石碑が他地域よりも残っており、「上野三碑」はその代表的なものです。関東に多く残っていることは、九州王朝との関連がありそうですが、この問題は別の機会に考察したいと思います。
 世界文化遺産候補として「上野三碑」と共に「命のビザ」で有名な杉原千畝(すぎはら・ちうね)さんの遺品も候補になったとのことですが、第二次世界大戦中に外交官としてナチスドイツの迫害から大勢のユダヤ人を救った杉原さんの業績が注目されることは日本人としても誇らしいことです。
 20年ほど昔のことですが、わたしは杉原千畝さんの奥様の幸子さんの講演を聞いたことがあります。戦火の中、逃げまわっていたとき、ロシア軍の機銃掃射を受けたそうで、そのときドイツ軍青年将校が身を挺して守ってくれた思い出を語られていました。青年将校は奥様の上に覆いかぶさり、被弾して亡くなられたとのこと。とても紳士的な青年将校だったそうです。
 さて、「古田史学の会」ではfacebookを設置しました。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)が作られたものですが、関西例会や遺跡巡りハイキングの写真などが満載で、とても良い内容になっています。「古田史学の会 facebook」で検索してください。「いいね」やコメントも是非お願いします。
 9月に希望会員に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信希望される会員はこの機会に申し込んでください。

「洛中洛外日記【号外】」9月配信のタイトル
日付    タイトル
2015/09/01 百田尚樹『大放言』を読む
2015/09/07 「東京古田会」「多元の会」の皆さんと懇親会
2015/09/10 KBS京都放送「本日、米團治日和」オンエア!
2015/09/12 発刊記念東京講演会の反省会
2015/09/15 「古田史学の会 facebook」準備中
2015/09/20 青年時代の古田先生の憲法観
2015/09/23 『月刊 加工技術』連載コラム 日本列島発のコーティング技術「漆」
2015/09/26 「古田史学の会 youtuve」企画中
2015/09/27 facebookに悪戦苦闘中


第1061話 2015/09/24

九州発か「○○丸」名字(3)

 「○○丸」名字の考察と調査を進めてきましたが、その中心地(淵源)が福岡県を筆頭とする九州地方であることは、まず間違いなさそうです。そうなると、やはり古代九州王朝との関係が気になるところです。そもそも「丸(まる)」とは何を意味するのでしょうか。古田先生が提唱された元素論でもちょっと説明できません。「ま」や「る」の元素論的定義(意味)から解明できればよいのですが、今のところよくわかりません。
 しかし、まったくヒントがないかと言えば、そうでもありません。たとえばお城の「本丸」や「二の丸」の「丸」や、日本の船の名前に多用される「丸」などと関係があるのではないかと睨んでいます。古代伝承でも朝倉の「木(こ)の丸殿」に天智天皇がいたとするものがあり、「天皇」の宮殿名にも「丸」が採用されていた痕跡かもしれません。
 こうしたことから推察すると、「丸」とは周囲とは隔絶された重要(神聖)な空間・領域を意味する用語と考えてもよいのではないでしょうか。そうすると「丸」の「ま」は地名接尾語の「ま」(一定領域)と同源のように思われます。
 ラグビーの五郎丸選手のおかげで、ここまで考察を進めることができましたが、まだ作業仮説(思いつき)の域を出ていませんので、これからも勉強したいと思います。


第1060話 2015/09/23

九州発か「○○丸」名字(2)

 名字や地名の由来をネット検索で調べてみますと、「○○丸」地名の説明として、「丸」とは新たな開墾地のことで、例えば田中さんが開墾すれば「田中丸」という地名が付けられ、その地に住んでいた人が「田中丸」を名字にしたとするものがありました。しかし、これはおかしな説明で、それでは新たな開墾地は九州や広島県に多く、その他の地方では開拓しなかったのかという疑問をうまく説明できません。さらに「五郎丸」の場合は「五郎」さんが開墾したことになり、これではどこ家の五郎さんかわかりません。やはり、この解説ではこれらの批判に耐えられず、学問的な仮説とは言い難いようです。ネットの匿名でのもっともらしい説明はあまり真に受けない方がよいと思います。
 それでは「五郎丸」の「五郎」は人名に基づいたものでしょうか。わたしはこのことにも疑問をいだいています。たとえば、わたしの名字の「古賀」は福岡県に圧倒的に濃密分布しているのですが、「名字由来net」で検索したところ「古賀丸」という名字は1件もヒットしないのです。「古賀」さんたちは新たに開墾しなかったのでしょうか。自らの名字に「丸」を付けるのがいやだったのでしょうか。ちなみに、「古賀」「○○古賀」という地名は福岡県内にけっこう存在します。
 このような疑問の連鎖が続くこともあり、「五郎丸」名字と関連した「○郎丸」名字を「名字由来net」で調べてみました。次の通りです。数値は概数のようですので、「傾向」としてご理解ください。

〔「○郎丸」名字 県別ランク人数〕(人)
名字  1位   2位   3位       全国計
太郎丸 福岡80    佐賀10  長崎10          130
次郎丸 福岡230  大分50  神奈川,東京30   440
一郎丸 福岡50                              50
二郎丸 福岡60   東京10                    70
三郎丸 広島50   福岡40  大分・長崎20    150
四郎丸 福岡70   広島50  東京30          180
五郎丸 福岡500  山口120  広島60         990
六郎丸 大分・広島10                        10
七郎丸 大分・福井10                        20
八郎丸 無し                                 0
九郎丸 熊本50   福岡30  埼玉・兵庫10     90
十郎丸 無し                                 0

 以上の結果から、やはり「○郎丸」名字は福岡県に多いことがわかり、中でも「五郎丸」さんが他と比べて断トツで多いことが注目されます。人名がその名字の由来であれば、長男や次男の「太郎丸」「次郎丸」の方が多いのが普通と思うのですが、五男の「五郎丸」が多いのでは辻褄があいません。やはり、これらの名字は単純な人名由来ではないと考えたほうがよいように思われますが、いかがでしょうか。
 余談ですが、「○郎丸」名字検索で、超有名な「○郎」さんとして、「金太郎丸」「桃太郎丸」を調べたところ0件でした。そんな名字の人がおられたら、テレビなどで取り上げられるはずですから、やはりおられないのでしょう。(つづく)


第1059話 2015/09/22

九州発か「○○丸」名字(1)

 ラグビーワールドカップでの南アフリカ戦での劇的な逆転勝利で一躍有名になった五郎丸選手ですが、キックの時の印象的なルーチンと呼ばれる動作とともに、その珍しいお名前に、わたしの好奇心がフツフツと沸いてきました。というのも、「五郎丸」のように名字が「○○丸」という人が何故か九州に多いと感じていたので、もしやと思い、五郎丸さんのご出身地を調べてみると、やはり福岡市ということでした。わたしの母校(久留米高専)の後輩にも小金丸さんがいましたし、知人には田中丸さん市丸さんもおり、いずれも福岡県や佐賀県の出身です。また、筑後地方には田主丸という地名もあり、この「丸」地名や「丸」名字は古代九州王朝に淵源するのではないかと考えていたのです。
 そこで、インターネットの「名字由来net」というサイトを利用して、「丸」名字の分布を調べてみました。五郎丸さんをはじめ、著名人や知人の「丸」名字の県別分布ランキングは次のようでした。数字は概数であることから、あくまでも大まかな傾向と理解した方がよさそうですが、やはり推定通りの結果となりました。次の通りです。なお、これは漢字表記の分類で、複数の訓みがある場合はその合計です。

〔著名人・知人の県別「丸」名字人数〕(人)
名字  1位   2位  3位    全国計
五郎丸 福岡500  山口120 広島60     990
小金丸 福岡1400 長崎170 東京130   2200
薬師丸 福岡10  神奈川10        20
田中丸 佐賀130  福岡90   神奈川30   380
薬丸  福岡190  鹿児島120 宮崎70    740
金丸  宮崎5200 東京2400 福岡2300 25600
市丸  佐賀1200 福岡820  東京290   3800
力丸  福岡1200 福島550  神奈川190 2800
井丸  広島50   福岡40   大阪30     240
田丸  千葉1700 神奈川1400 広島1400 11700

 以上のように、田丸さんを除けばほぼ九州、特に福岡県に「丸」名字が集中していることがわかります。九州以外では何故か広島にも多く、これが何を意味するのか興味深いところです。田丸さんだけは傾向が異なり、関東に多く分布していますが、ここでも2位に広島県が食い込んでいることが注目されます。なお、「丸」一字の名字もあり、1位が千葉2400、2位東京830、3位神奈川470で、全国合計5300でした。千葉県に「丸」さん「田丸」さんが多いことが注目されます(千葉県南房総市に「丸」という地名もあるようです)。(つづく)