東北王朝(蝦夷国)一覧

第2387話 2021/03/02

「蝦夷国」を考究する(12)

 ―蝦夷国の仏教―

 郡山遺跡廃寺や多賀城廃寺についての考察を続け、その一応の結論として、両寺が蝦夷国の「鎮護国家」のための寺院とする仮説へと至りました。まだまだ初歩的な仮説ですので、先行研究との整合性、特に考古学的事実との整合性を精査しています。
 今回は視点を変えて、廃寺と関連する蝦夷国の仏教について考察します。実は以前から気になっていたことですが、『日本書紀』持統紀に蝦夷国の僧侶に関する次の記事があります。

○『日本書紀』持統三年(689年)正月条
 丙辰(三日)に、務大肆陸奥國の優嗜曇郡の城養(きこう)の蝦夷脂利古が男(こ)、麻呂と鐵折と、鬢(ひげ)髪剔(そ)りて沙門と爲(な)らむと請(もう)す。詔して曰はく、「麻呂等、少(わか)くとも閑雅(みやび)ありて欲(ものほりす)ること寡(すくな)し。遂に此(ここ)に至りて、蔬(くさびら)食ひて戒(いむこと)を持(たも)つ。所請(もう)すままに、出家し修道すべし」とのたまふ。……
 壬戌(九日)、……越の蝦夷沙門道信に、佛像一軀(はしら)、潅頂幡・鐘・鉢各一口、五色綵(しみのきぬ)各五尺、綿五屯(もち)、布一十端、鍬(すき)一十枚、鞍一具賜う。

 このように持統紀になると、蝦夷の僧侶・出家記事が現れます。この蝦夷と持統との関係が史実なのか、九州王朝と蝦夷との関係記事の転用なのかを検討しなければなりませんが、王朝交替(701年)直前の時期ですから、近畿天皇家と蝦夷国との関係性を現した可能性が大きいように思います。
 いずれにしても、この頃から八世紀初頭に至り、観世音寺式伽藍配置の郡山廃寺や多賀城廃寺などをはじめ東北地方の寺院創建がみられ、時期的に対応しているようです。ちなみに、「陸奥の蝦夷沙門自得」が観世音菩薩像をもらっていることも、多賀城廃寺が「観音寺(観世音寺)」(注①)と呼ばれていた可能性が高いことと関係しているかもしれません。
 更に時代が百年ほど下がると、東北地方(福島県会津)に徳一(注②)が現れ、東北仏教が花開きますが、これは蝦夷国の仏教文化の伝統が底流にあったからではないでしょうか。(つづく)

(注)
①多賀城廃寺西側の山王遺跡から「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。
②徳一(749~824年、異説あり)は法相宗の僧侶で、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子と伝えられている。都(平城京)での僧侶の奢侈を嫌い、奥州(会津恵日寺等)で布教した。最澄との論争(三一権実論争)は有名。


第2396話 2021/03/01

「蝦夷国」を考究する(11)

 ―多元史観でみる多賀城―

 郡山遺跡(仙台市)を蝦夷国衙ではないかとする仮説を「洛中洛外日記」2393話(2021/02/27)〝「蝦夷国」を考究する(10) ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―〟で提起しましたが、実は多賀城も同様の可能性を持っていることに気づきました。それは次の考古学的知見と考察によります。

(1)多賀城遺構はⅠ期からⅣ期が出土している。Ⅰ期が創建期の遺構で、通説では多賀城碑に見える神亀元年(724年)の大野東人によるものとされ、Ⅱ期は同じく多賀城碑に見える天平宝字六年(762年)藤原朝獦の「修造」によるものとされている。

(2)政庁とそれを囲む内郭、政庁南門から南へのびる大路は正方位にそって建造されているが、外郭は正方位をとらず、その南辺は時計回りに7度傾いている。更に外郭南門の南500mほどの位置で交差する東西の大路も、外郭南辺と同方向に傾いている。これは設計思想が異なる別勢力による造営の可能性を示唆している。あるいは、政庁などの正方位造営物に先だって、外郭やそれに伴う建築物が造営されていた可能性をうかがわせる(多賀城に先立つ「多賀柵」の成立か)。

(3)創建時のⅠ期に使用された瓦は、多賀城から30~40km程北の大崎地区の瓦窯から供給されている。いわば蝦夷国との〝最前線〟付近とされる瓦窯から供給されていることになる。他方、多賀城の南方にあり、多賀城よりも古い郡山遺跡(仙台市)の瓦はその近隣の瓦窯から供給されている。この状況について、「それにしても重貨である瓦を、わざわざ大崎地方から多賀城に大量に運ぶということは、まったく異例のことである。」「ほかの時期には例をみない刮目すべき事実である。」(注①)と見られていた。

(4)そのため、「大崎地区で生産された瓦が、そこから三〇~四〇キロほど南に位置する多賀城へ大量に運ばれているということは、この時期には大崎地方に大規模な瓦の生産組織が構築されて、その後方に位置する多賀城すらも、大崎地方を中心とする瓦の生産――供給体制に組み込まれた」(注①)と説明(解釈)されるようになった。なお、「その後方に位置する多賀城」とは、〝最前線〟の大崎地方から見た表現である。

(5)この大崎地方や牡鹿地方の多くの城柵・郡家などの官衙や官衙付属寺院の造営と多賀城Ⅰ期の造営は同時期に一体のものとして進められてきたとされ、「そのうち、名生舘遺跡・伏見廃寺跡・色麻町一の関遺跡・菜切谷廃寺などからは、多賀城創建期の瓦よりも古い七世紀末~八世紀初頭の時期の瓦が出土している。また赤井遺跡でも、七世紀後半に遡る土器が出土している。これらの事実は、少なくとも七世紀末ごろまでに、多賀城創建期と同様に大崎地方から牡鹿地方にかけての地域が中央政府の支配下に組み込まれていたことを示すものである。」(注①)とされるようになった。

(6)「七世紀末頃まで」という九州王朝の時代に、九州王朝軍であれ、後の〝大和朝廷〟の軍であれ、宮城県北部の大崎・牡鹿地方まで侵攻・支配したことをうかがわせる記事は、『日本書紀』にはみえない。また、白村江戦敗北後の九州王朝に東北地方まで侵攻できる軍事力が残っていたとは考えにくい。近畿天皇家も同様で、〝壬申の乱〟などの国内戦を戦い、国内最大規模の藤原京造営を行っている。そうした王朝交代前の時期に、宮城県北部まで侵攻・支配できていたとは考えにくく、七世紀における〝陸奥国〟からの荷札木簡も出土していない。

(7)多賀城の付属寺院とされる多賀城廃寺は観世音寺式伽藍配置であり、その2kmほど西側からは「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。このことは多賀城・多賀城廃寺(観世音寺)と太宰府・観世音寺との関係をうかがわせる。ともに、蝦夷国と九州王朝(倭国)による「鎮護国家」のための寺院ではあるまいか(注②)。

(8)以上の所見と考察によれば、創建多賀城・多賀城廃寺と宮城県北部の柵・寺院跡の造営は蝦夷国によるものではなかったか。九州王朝の滅亡により、新たな列島の代表権力者となった大和朝廷の脅威にさらされた蝦夷国が、国衙であった郡山遺跡から、より安全な北部の丘陵地帯に多賀城を創建し、大崎・牡鹿地方にも防衛施設(柵)を造営、あるいは強化修築したのではないか。

 以上のような仮説をわたしは検討中です。同地方の遺跡調査報告書の精査途中(注③)ですので、誤解や不十分な点があることと思います。引き続き調査検討を続けますので、皆さんからのご批判とご教導をお待ちしています。(つづく)

(注)
①熊谷公男「養老四年の蝦夷の反乱と多賀城の創建」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第84集、2000年3月)。この論文を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご紹介いただいた。
②貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
③『宮城県多賀城跡調査研究所年報』を中心に精査中。


第2393話 2021/02/27

「蝦夷国」を考究する(10)

 ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―

 考古学の分野から蝦夷国を見たとき、多賀城とともに最も注目されるのが郡山遺跡(仙台市)です。旧名取郡域に相当する仙台市南部から出土した同遺跡は、七世紀中頃から八世紀初頭までの短期間存続したとみられ、古いⅠ期官衙と七世紀末に立て替えられたⅡ期官衙と寺院に分けられます。文献には見えないことから、その性格については名取柵・名取郡衙・陸奥国衙など諸説あるようです。
 Ⅰ期の遺構は官舎や倉庫とそれを囲む塀などからなっており、外郭は不明とのこと。その建物の向きは真北から30度ほど東偏しています。Ⅱ期官衙はほぼ正方形地割で南北正方位にあわせて立てられています。その南には寺院跡があり、官衙と寺院がセットになっているという、東北地方の柵の一般的傾向と同じです。しかし、外郭は直径30cmほどのクリ材の約6,000本の丸太を隙間無く一列に立て並べた塀で、地上7~8mの高さであったと推定されています(注①)。
 この郡山遺跡をわたしが注目した理由は次の点です。

(1)七世紀中頃から八世紀初頭の遺跡であり、九州王朝の時代に遡るものである。

(2)その時代での東北地方の他の柵よりも規模が大きく、蝦夷国を代表する官衙にふさわしい。

(3)それにもかかわらず、大和朝廷側の史書『日本書紀』や『続日本紀』に記されていない遺跡である。蝦夷国の存在を『日本書紀』『続日本紀』が隠していることに対応している。

(4)九州王朝から大和朝廷への王朝交代の直前にあたる七世紀末頃に、Ⅰ期官衙は正方位のⅡ期官衙に建て替えられ、高さ7~8mの頑強な丸太塀に囲まれている。すなわち、何らかの必要が発生し、防衛力を強化したと考えられる。このことは、八世紀に入ると蝦夷国が大和朝廷の東山道軍・東海道軍の侵攻(注②)を受けていることと無関係ではないように思われる。

(5)Ⅱ期官衙の南に寺院が併設されている。多量の瓦片や「学生寺」と書かれた木簡が当遺跡から出土している。出土した寺院様式は観世音寺式(注③)とされており、九州王朝との主従関係をうかがわせる。

 以上のような理由から、わたしは郡山遺跡は蝦夷国衙ではないかと考えています。なかでも、(5)で指摘した寺院様式が観世音寺式であることは示唆的です。というのも、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(注④)によれば、古代における「鎮護国家の観世音寺式伽藍配置」の寺院が日本列島に12箇所発見されており、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっているとされています。九州王朝の都城である大宰府政庁・観世音寺と同様に、郡山遺跡も蝦夷国における「鎮護国家の伽藍配置」(注⑤)寺院を持つ国衙だったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②多賀城碑には、神龜元年(724年)に「按察使兼鎭守將軍」の大野朝臣東人が多賀城(多賀柵)を置き、天平寶字六年(762年)には「東海東山節度使」「按察使兼鎭守將軍」の藤原朝獦が修造したとある。
③回廊内に金堂(西側)と五重塔(東側)が東西に並ぶ様式。
④貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
⑤「鎮護国家の伽藍配置」について、次の拙稿があるので参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1178話(2016/05/01)〝観世音寺式寺院の意義に新説か〟
古賀達也「洛中洛外日記」1179話(2016/05/03)〝観世音寺の創建年と瓦の相対編年〟
古賀達也「洛中洛外日記」1182話(2016/05/05)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)〟
古賀達也「洛中洛外日記」1186話(2016/05/13)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)〟


第2392話 2021/02/26

「蝦夷国」を考究する(9)

 ―「評制」時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることを『日本書紀』等を史料根拠に説明し、多利思北孤の時代を含む六世紀後半から七世紀前半頃の両国は比較的安定した関係にあったとしました。今回は「評制」の時代、七世紀後半の両国関係について検討します。
 七世紀後半には木簡の出土量が飛躍的に増えますから、『日本書紀』だけではなく、木簡を主要史料として蝦夷国研究をすることが可能となります。幸いにも飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代の荷札木簡(注①)がありますので、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。すなわち、九州王朝時代の七世紀後半、〝近畿天皇家の宮殿〟(注②)に産物を献上した諸国・諸評がわかるという、同時代史料群が当地にはあるのです。これを九州王朝や蝦夷国の研究に使用しない手はありません。
 この全数調査結果は別途「洛中洛外日記」にて、主観を交えない客観的データベースとして報告し、読者の皆さんが研究に利用できるようにしたいと考えています。
 今回の蝦夷国研究に関わる所見として、飛鳥宮地域や藤原宮(京)へ諸国から持ち込まれた評制下木簡の二つの事実に注目しています。一つは以前にも指摘しましたが(注③)、九州(西海道)諸国からの荷札木簡が出土していない。二つは陸奥国・越後国からの荷札木簡も出土していないということです(注④)。すなわち、七世紀後半という時間帯において、倭国(九州王朝)の直轄領域である九州島と蝦夷国の領域と思われる陸奥国・越後国からは飛鳥宮や藤原宮へ産物が献上された痕跡がないのです。このことが何を意味しているのか、検討が必要ですが、王朝交代直前の大和の勢力と蝦夷国が〝疎遠〟だったのかもしれません。
 なお、九州島と蝦夷国とでは基本的な事情が異なると思われます。すなわち、太宰府からは九州内の「評」木簡(注⑤)が出土しており、九州で評制が施行されていたことが確実ですが、蝦夷国(陸奥国)内では評制が採用されていたのかどうか、出土木簡からは判断できません。倭国(九州王朝)と蝦夷国は別国ですから、蝦夷国が倭国の評制を採用していたとは考えにくいように思います。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②王朝交代に至る一時期、藤原宮や飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする作業仮説が西村秀己氏等から出されていることもあり、本稿では「〝近畿天皇家の宮殿〟」という〝〟付き表記を使用した。
③古賀達也「洛中洛外日記」123話〝藤原宮の「評」木簡〟(2007/02/25)
 古賀達也「藤原宮出土木簡の考察」(『古田史学会報』80号、2007年6月)
④上記①によれば、越前国・越中国からの荷札木簡は飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺構から出土している。
⑤「久須評大伴マ」木簡が大宰府跡から出土している。


第2391話 2021/02/25

「蝦夷国」を考究する(8)

 ―多利思北孤の時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることが『日本書紀』の記事から見えてきます。その初期の頃の様子が、「日本武尊」(実は九州王朝の東山道軍)による蝦夷(日高見國)征討譚として、次の景行紀に現れます。時代的には五世紀頃ではと、わたしは推定しています。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 このように倭国(九州王朝)と蝦夷国は戦争状態になったのですが、六世紀後半頃までには一定の安定した〝主従関係〟になったと思われる記事が次の敏達紀に突然のように現れます。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したというものです。二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝します。そして三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約する、というものです。
 いわば、国境紛争解決の外交記事ともいうべき内容ですが、ここで注目されるのが、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、そのことを『日本書紀』は記述したという史料事実です。すなわち、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子(天皇)」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのではないでしょうか。その根拠として、斉明紀に次の記事がみえます。

○『日本書紀』斉明元年七月条(655年) ※〈〉内は細注。
 難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」……

 斉明元年条の記事によれば、倭国の都(複都の一つ)〝前期難波宮〟で蝦夷や百済からの使者を饗応しており、同五年条では唐の天子に対して、倭国の使者が「今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す」と、蝦夷国が倭国に毎年朝貢していると述べています。
 これらの記事から六世紀頃から七世紀中頃までは、倭国(九州王朝)と蝦夷国(熟蝦夷)とは冊封体制下の主従関係にあり、比較的平和な関係が続いていたと思われます。このことを支持する国外史料に『隋書』俀国伝があります。同伝には次の記事があります。

○『隋書』俀国伝
 …其國境東西五月行南北三月行各至於海。(其の國の境、東西は五月行。南北は三月行。それぞれ海に至る。)
 …雖有兵無征戰。(兵有れども征戰無し)

 古田先生は「東西五月行」「南北三月行」という国の領域を、筑紫から本州(東北地方を含む)までと、対馬・壱岐・筑紫から琉球方面に至る範囲とされました(注)。そうであれば東北地方(蝦夷国)や南方の島国(屋久島・種子島・奄美大島・沖縄など)も自国の領域と認識していたことになり、その前提の一つとして蝦夷国との冊封体制という関係があったのではないでしょうか。
 また、「征戰無し」とあることから、これらの領域の国々と平和裏に共存していたと考えざるを得ません。
 こうした『隋書』の記事からも、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤の時代(在位:589~622年)の倭国(九州王朝)と蝦夷国との比較的平和な関係をうかがい知ることができます。(つづく)

(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。


第2388話 2021/02/22

「蝦夷国」を考究する(7)

―『日本書紀』に見える蝦夷国の三領域―

 次の『日本書紀』景行紀に記された「日高見国」が蝦夷国の旧名と思われますが、その領域についても推定できる記事があります。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 この蝦夷征討からの帰還記事によれば、日高見国は常陸(現、茨城県)の東北にあることがわかります。ただし、その領域がどの範囲にまで及ぶかはこの記事からは不明です。ところが斉明紀の次の蝦夷国から唐への〝朝貢〟記事から、その領域などをうかがうことができます。関係部分を抜粋します。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」……
 難波吉士男人書に曰はく、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に触(つ)きて覆(くつがへ)る。副使、親(みずか)ら天子に覲(まみ)えて、蝦夷を示し奉る。是に、蝦夷、白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十を、天子に献る」と。

 この記事によれば蝦夷国は九州王朝(倭国)の東北にあり、遠くから順に「都加留」「麁蝦夷」「熟蝦夷)」と「名づく」とあり、少なくとも三ヶ国、あるいはその〝連合国〟と認識されていたようです。「都加留」は本州北端の津軽半島付近と思われますが、他の二つには「麁蝦夷」「熟蝦夷」と「蝦夷」の二字が付けられており、「都加留」にはありません。この差が何を意味するのかは今のところ不明です。
 「麁蝦夷」「熟蝦夷」の領域ですが、後の律令制下では東北地方に陸奥国と出羽国が置かれますから、この両国に対応するのではないでしょうか。付されている「麁(あら)」と「熟(にき)」の語感から、比較的早く九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)に併合された出羽国(越後国付近も含むか)が「熟蝦夷」と名づけられ、九世紀以降も抵抗を続けた陸奥国が「麁蝦夷」ではないかと推定しています。あるいは福島県あたりを「熟蝦夷」、宮城県以北を「麁蝦夷」としたのかもしれません。この件については先行説を調査中です。
 なお、斉明紀元年(656年)七月条に見える次の記事には、難波朝(前期難波宮)で「北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人」「東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人」を饗応し、「津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く」とあることから、この時期、東北地方の日本海側と津軽地方の蝦夷と九州王朝(倭国)との関係は比較的良好だったようです。

○『日本書紀』斉明元年七月条(655年) ※〈〉内は細注。
 難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。

 このように、太平洋側の蝦夷国(後の陸奥国)よりも、日本海側の蝦夷国(後の出羽国)の方が九州王朝(倭国)と比較的良好な関係にあった理由として、北の大国「粛慎」との緊張関係、すなわち倭国と蝦夷国共通の脅威、粛慎国が存在したため、両国は同盟を結び、徐々に蝦夷国(越と津軽)が倭国に併合されていったのではないでしょうか。それらの蝦夷が九州王朝(倭国)に随行して唐に朝貢した熟蝦夷だったと思われます。(つづく)


第2386話 2021/02/20

「蝦夷国」を考究する(6)

 ―蝦夷国の旧名「日高見国」―

 『日本書紀』景行紀に「蝦夷」記事が多いことを紹介しましたが、その内容について少し説明します。『日本書紀』の「蝦夷」初見は次の景行二七年二月条の記事です。

○『日本書紀』景行二七年二月条
 二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還りて奏(もう)して言う、「東夷の中に、日高見國有り。其の國の人、男女並に椎結(かみをわ)け文身し、爲人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是(これ)を總べて蝦夷と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 蝦夷の国(日高見国)が広く豊饒の地であるから、「撃ちて取りつべし」というのも露骨で非道な話ですが、『日本書紀』は武内宿禰の報告として記しています。この会話の存在が事実であれば、それは九州王朝内でのことと思われますが、これだけでは隣国侵略の大義名分にはなりません。そこで、同四十年六月条に次の記事が唐突に現れます。

○『日本書紀』景行四十年六月条
 四十年の夏六月に、東夷多いに叛(そむ)きて、邊境騒動す。

 この翌月、景行は次のように群卿に問います。

○『日本書紀』景行四十年七月条
 天皇、群卿に詔して曰く、「今東國安からずして、暴(あら)ぶる神多く起こる。亦蝦夷悉く叛きて屡(しばしば)人民を略(かす)む。誰人を遣わしてか其の亂を平らけむ。」とのたまふ。

 その結果、日本武尊が蝦夷征討に向かうことになります。ここで学問的に問題となるのが、この蝦夷征討記事の実年代はいつ頃なのかということと、本来の伝承として九州王朝の誰が蝦夷征討に向かったのかということです。景行四十年は『日本書紀』紀年では西暦110年になります。九州王朝の倭王武の伝承であるとすれば五世紀後半頃になります。このことについては後で触れます。
 この一連の『日本書紀』の記事でわたしが最も注目するのが、蝦夷の国が「日高見国」と呼ばれていることです。この国名は先の景行二七年の武内宿禰の報告と景行四十年是歳条に見えます。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 この蝦夷征討からの帰還記事によれば、日高見国は常陸の東北にあることがわかります。ただし、その領域がどの範囲に及ぶかは不明です。なお、景行紀には日本武尊の関東・東北征討譚が延々と記されるのですが、この景行四十年「是歳」条には突然のように日本武尊のことを「王」と表記する例が増えます。この傾向は日本武尊が尾張に帰還するとなくなります。恐らく、ここで日本武尊の事績として記された景行四十年是歳条の記事は、東北・関東から信濃にかけてを征討した「王」と呼ばれる人物の記事が『日本書紀』に転用されたものと思われます(注②)。
 その「王」の有力候補として、景行五五年条に東山道十五國の都督に任命された彦狭嶋王がいます。この人物であれば文字通り「王」と呼ばれるにふさわしいと思います。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 もう一つの可能性として、『常陸国風土記』に登場する「倭武天皇」がいます。古田先生もこの「倭武天皇」とは九州王朝(倭国)の倭王武のことではないかともされています。もしかすると、彦狭嶋王と倭王武の両者の征討譚が転用されたという可能性もあるかもしれません。
 以上のように、『日本書紀』景行紀の史料批判により、蝦夷国の旧名「日高見国」が歴史上に現れ、その国を征討した九州王朝(倭国)側の人物として、彦狭嶋王と倭王武が有力候補として浮上しました。
 なお、蝦夷国と関係するかはわかりませんが、祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)」に見える「日高見之国」について、古田先生は対馬北部の国名とされ、天孫降臨後は筑紫内の国名「大倭日高見之国」になったとする説を発表されています(注③)。また、「日高見国」研究史については、菊池栄吾さん(古田史学の会・仙台)の著書『日高見の源流 ―その姿を探求する』(注④)を参考にさせていただきました。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②古田先生は『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刊)において、日本武尊の関東征討譚は「常陸の王者」「関東統一の王者」「その他(九州王朝の王者など)」による事績の転用とされている。
③古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』新泉社、1988年。
④菊池栄吾『日高見の源流 ―その姿を探求する』イー・ピックス出版、2011年。


第2385話 2021/02/19

「蝦夷国」を考究する(5)

 ―『日本書紀』の〝蝦夷記事〟―

 〝失われた蝦夷国〟研究のために、多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないと考えていますが、『日本書紀』に見える〝蝦夷記事〟の分析やその分布調査により、蝦夷国の歴史的位置づけが見えてきます。高橋崇さんの『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』(注①)によれば、『日本書紀』中の蝦夷記事の分布は次のようです。

《『日本書紀』の蝦夷・蝦蛦の使用例》(同書13頁)
    「蝦夷」 「蝦蛦」
景行紀  14
応神紀   2
仁徳紀   4
雄略紀   3
清寧紀   1
欽明紀   1
敏達紀   3
崇峻紀   1
舒明紀   5
皇極紀       3
孝徳紀   1   2
斉明紀  25   6
天智紀       1
天武紀   1   1
持統紀   6   1

 このような分布を示しているのですが、景行紀に多いのは日本武尊による蝦夷征討譚がおかれていることによります。斉明紀に更に多いのは、遣唐使に蝦夷国使が随行した記事と阿倍比羅夫らによる日本海側の蝦夷遠征記事が多いことによります。
 ちなみに九州王朝説によれば、これらの蝦夷記事は九州王朝(倭国)と蝦夷国による外交や戦闘記事が近畿天皇家の事績として『日本書紀』に転用されたものと考えなければなりません。従って、九州王朝と蝦夷国との関係は「景行紀」の時代になって本格的に始まったと考えてもよいと思います。
 そこで思い起こされるのが、景行紀にみえる次の記事についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の研究(注②)です。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 山田さんは、「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であることを明らかにされたのですが、東山道都督として彦狭嶋王は東山道軍(九州王朝陸軍)を率いて、蝦夷国へ侵攻したのではないでしょうか。
 さらに「崇峻紀」の時代には、東山道軍だけではなく、東海道軍(九州王朝水軍・陸軍)も東へ東へと進軍し、蝦夷国へ圧力をかけ続けたものと思われます。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 このように『日本書紀』によれば、東山道・東海道は蝦夷国への国交ルートであり、侵略ルートであったわけです。この蝦夷国へ向かう両官道は、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると、さらに大規模な侵略ルートと化していきます。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)


第2384話 2021/02/18

「蝦夷国」を考究する(4)

 ―『続日本紀』〝失われた蝦夷国〟―

 新野直吉さんの論稿「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」(注①)では『続日本紀』の記事などを史料根拠として、多賀城碑に見える「蝦夷國」を〝日本の中の北方の一部族〟とされ、〝北に独立国があったということではない〟とされました。
 本シリーズの(2)「『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国」で紹介したように、『日本書紀』斉明五年条(659年)には明確に唐へ朝貢する国家としての「蝦夷国」の記事が見られます。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。……」

 この斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも「蝦夷国」のこととして記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、659年、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。

 このように斉明五年条(659年)の記事だけですが、『日本書紀』には「蝦夷国」という表記があります。この他にも、崇峻二年七月条に「蝦夷の国の境」という次の記事が見えますが、これは〝蝦夷国の境〟と理解するべきです(注②)。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 この記事によれば、東山道の先に「蝦夷国」との国境があったことがわかります。他方、東海道の「東方濱海諸国境」と北陸道方面の「越等諸国境」は「諸国」(複数国)表記であり、東山道の「蝦夷国境」が「蝦夷諸国境」とされていないことは重視すべきです。この記事は、「蝦夷」を〝日本の中の北方の一部族〟の集合体とする理解を否定するのです。
 ところが『続日本紀』になると「蝦夷」表記はあるのですが、「蝦夷国」という〝国号〟表記は見えないようです(注③)。『日本書紀』が九州王朝(倭国)の存在を隠したのと同様に、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(正確には文武以後)の歴史を記した『続日本紀』では「蝦夷国」の表記を採用せず、〝蝦夷国はなかった〟ことにしたのではないでしょうか。
 ですから、蝦夷国の〝国家〟として実態を解明するためには多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないようです。〝失われた蝦夷国〟への考究は続きます。(つづく)

(注)
①新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。
②『日本書紀索引』(吉川弘文館、1969年)は、崇峻二年条の「蝦夷国境」を「蝦夷国」(地名)の項目ではなく、「蝦夷」(件名)に入れている。これは、〝蝦夷は国に非ず〟とする通説に基づいた分類ではあるまいか。
③『続日本紀索引』(吉川弘文館、1967年)によれば、『続日本紀』中に「蝦夷国」(地名)はみえない。この点、『日本書紀索引』と同様の分類がなされていないか、精査が必要と考えている。


第2383話 2021/02/17

「蝦夷国」を考究する(3)

―新野直吉さんの蝦夷論―

 この度の「蝦夷国」研究に於いて、従来説についても調査しましたが、古田先生が40年以上も前から指摘されていたように(注①)、従来説は大和朝廷一元史観に基づいていることがわかりました。その具体例を紹介します。
 新野直吉さんは多賀城碑文の「蝦夷國界」について次のような理解を示されています。

 (前略)たしかに八世紀後半(天平宝字六・七六一)の〝多賀城碑〟にはこの蝦夷国を意識したというべき「蝦夷国界」の語がある。(中略)東北の現地自体に「蝦夷国」の認識があったことを示す。
 しかし、この表記を、日本律令制度のもとで「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる。行政組織があったことを意味しないのみならず、仮に「蝦夷」の地域があったとしても、この表記は、東北全部が蝦夷の住む領域があったわけではないことを、現地行政機関も明確に認識していた事実を示している。
 実像はといえば「多賀城から一二〇里ほど北に当たるところに蝦夷の領域との境界がある」ということで、そうなれば、現在の宮城と岩手の県境の辺が境に当たる。(中略)
 とはいっても境界の北に独立国があったということではない。令の条文に「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)などと記入される存在に相当する蝦夷の地方圏であると理解すべきである。そして、「蝦夷」は和銅三年紀に「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦別に在り」とあるごとく、隼人とならぶ位置づけであり、食料獲得手段や言語文化などに差異はあったとしても、法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である。
 (新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」注②)

 新野直吉さんは日本古代史や東北地方史の専門家ですから、ここで示された認識は通説と考えてもよいと思われますが、それは典型的な大和朝廷一元史観に貫かれています。たとえば次のような問題点が見て取れます。

(1)多賀城碑の「蝦夷国」表記は、八世紀後半の多賀城現地には〝「蝦夷国」の認識があったことを示す〟としながら、〝しかし、この表記を、日本律令制度のもとで「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる〟と、同時代金石文に示された認識を〝虚像〟と否定する。

(2)その史料根拠として、『養老律令』の条文「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)と『続日本紀』和銅三年条の「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦別に在り」をあげる。

(3)そして結論として、「法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である」とされた。

 以上のように、新野さんの学問の方法は同時代金石文(多賀城碑)よりも、蝦夷を征討した大和朝廷側による史料(『養老律令』と後代史料『続日本紀』)の記事を〝歴史事実〟として優先するというものです。
 現代の古代史学界でも〝後代史料よりも同時代金石文・木簡を優先する〟という認識が一般化しているにもかかわらず、東北古代史学の重鎮に対して失礼ではありますが、新野さんの方法論は理解に苦しむとしか言いようがありません。
 しかし、〝蝦夷国はなかった〟〝日本の中の北方の一部族〟とする新野さんの「蝦夷国」認識が大和朝廷一元史観に基づいているという点においては、〝九州王朝はなかった〟〝大和朝廷支配下の北部九州の一豪族にすぎない〟とする日本古代史学界の歴史認識とまったく同じです。このことを古田先生は次のように喝破されています。

 『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。(中略)以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写の対照が鮮やかである。
 (古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版417頁)

 すなわち、日本列島内の多元的国家の共存状況と、「蝦夷」を「北方の一部族」とする『続日本紀』の一元的描写の対照が鮮やかなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。
②新野直吉「古代における『東北』象 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。


第2382話 2021/02/16

「蝦夷国」を考究する(2)

―『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国―

 古田先生は九州王朝説の提起と共に、近畿の王権(近畿天皇家)と更に東に位置した蝦夷国も日本列島に存在した国家であるとの「日本列島内の多元的国家の共存状況」を論証されました(注①)。そしてその史料根拠として『日本書紀』斉明紀の「蝦夷国」記事をあげられました。関係部分を抜粋します。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
(A)秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
(B)伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」
(C)難波吉士男人書に曰はく、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に触(つ)きて覆(くつがへ)る。副使、親(みずか)ら天子に覲(まみ)えて、蝦夷を示し奉る。是に、蝦夷、白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十を、天子に献る」と。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版414頁)

 これら『日本書紀』斉明紀に記された「蝦夷国」という表記は、「蝦夷」が国家を形成していたことを現しており、中国の天子も「蝦夷国」という東夷の「国」からの朝貢(白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十)と認識していたことを示しています。
 蝦夷国の使者二名を随行させた倭国の使者も、唐の天子の質問「此等の蝦夷国は、何の方に有りや」に対して、「国は東北に有り」と答えており、蝦夷を「国」と認識していたことがわかります。更に、蝦夷国が倭国に「歳毎に、本国の朝に入貢」しているとも述べているのです。この朝貢(外交)記事は、倭国と蝦夷国が国家と国家の関係にあったことを如実に証言しているのではないでしょうか。
 これらの斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版415頁)

 この記事は斉明五年条の記事と対応しており、蝦夷国と倭国(九州王朝)が別々の国として明確に記されています。これらの史料を明示して、古田先生は次のように結論づけられました。

 『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。(中略)
 以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写の対照が鮮やかである。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版417頁)

 以上のように、古田史学初期三部作の一つ『失われた九州王朝』の時代(1973年)から、『真実の東北王朝』(注②)で多賀城碑を論じられた時代(1991年)まで、古田先生は一貫して多元的古代像の一つとして「蝦夷国」を捉えておられたわけです。その学問的意義を、わたしは今回の多賀城碑研究により、深く認識することができました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。


第2381話 2021/02/15

「蝦夷国」を考究する(1)

―多賀城碑「蝦夷國界」の論理―

 「洛中洛外日記」で〝多賀城碑「東海東山節度使」考〟シリーズを続けてきましたが、読者の皆さんから賛否両論と少なからぬご意見をいただくことができました。学問研究を進める上で、とても有り難いことです。
 同シリーズでは多賀城碑の里程記事の解釈について、古田説や田中説(注①)を紹介するため、古田先生の著作(注②)を改めて精読すると同時に、従来説についても勉強したのですが、古田説の決定的に重要な論点について深く認識することができました。というのも、古田説では「蝦夷国」(国家)として対象を認識されており、従来説(通説)は「蝦夷」という表記で対象を論じ、それを「国家」としては認識していないということが最も大きな差異であることがわかってきたからです。なぜか通説では、「蝦夷」を異民族の部族集合体と認識しているようなのです。この認識の違いが、歴史研究のスタンスの差でもあり、恐らくは大和朝廷一元史観がバックボーンにあるためではないでしょうか。
 古田説では、多賀城碑碑文に見える「蝦夷國界」を根拠に、多賀城が蝦夷「国内」にあったとされています。すなわち、「蝦夷」は「國」であり、「蝦夷國界」は日本国と蝦夷国との国境と理解したわけです。碑文にある他の「國界」(注③)がいずれも当時実在した「國」の「界」ですから、「蝦夷國」も実在したと理解するのが当然ではないでしょうか。ですから、これからの蝦夷研究では〝「蝦夷国」の実在〟という視点が不可欠と思われるのです。(つづく)

(注)
①田中巌「多賀城碑の里程等について」。古田武彦『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
③多賀城碑の碑文には次の「國界」記事が見える。
【多賀城碑文の里程記事部分】
西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里