東北王朝(蝦夷国)一覧

第2386話 2021/02/20

「蝦夷国」を考究する(6)

 ―蝦夷国の旧名「日高見国」―

 『日本書紀』景行紀に「蝦夷」記事が多いことを紹介しましたが、その内容について少し説明します。『日本書紀』の「蝦夷」初見は次の景行二七年二月条の記事です。

○『日本書紀』景行二七年二月条
 二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還りて奏(もう)して言う、「東夷の中に、日高見國有り。其の國の人、男女並に椎結(かみをわ)け文身し、爲人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是(これ)を總べて蝦夷と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 蝦夷の国(日高見国)が広く豊饒の地であるから、「撃ちて取りつべし」というのも露骨で非道な話ですが、『日本書紀』は武内宿禰の報告として記しています。この会話の存在が事実であれば、それは九州王朝内でのことと思われますが、これだけでは隣国侵略の大義名分にはなりません。そこで、同四十年六月条に次の記事が唐突に現れます。

○『日本書紀』景行四十年六月条
 四十年の夏六月に、東夷多いに叛(そむ)きて、邊境騒動す。

 この翌月、景行は次のように群卿に問います。

○『日本書紀』景行四十年七月条
 天皇、群卿に詔して曰く、「今東國安からずして、暴(あら)ぶる神多く起こる。亦蝦夷悉く叛きて屡(しばしば)人民を略(かす)む。誰人を遣わしてか其の亂を平らけむ。」とのたまふ。

 その結果、日本武尊が蝦夷征討に向かうことになります。ここで学問的に問題となるのが、この蝦夷征討記事の実年代はいつ頃なのかということと、本来の伝承として九州王朝の誰が蝦夷征討に向かったのかということです。景行四十年は『日本書紀』紀年では西暦110年になります。九州王朝の倭王武の伝承であるとすれば五世紀後半頃になります。このことについては後で触れます。
 この一連の『日本書紀』の記事でわたしが最も注目するのが、蝦夷の国が「日高見国」と呼ばれていることです。この国名は先の景行二七年の武内宿禰の報告と景行四十年是歳条に見えます。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 この蝦夷征討からの帰還記事によれば、日高見国は常陸の東北にあることがわかります。ただし、その領域がどの範囲に及ぶかは不明です。なお、景行紀には日本武尊の関東・東北征討譚が延々と記されるのですが、この景行四十年「是歳」条には突然のように日本武尊のことを「王」と表記する例が増えます。この傾向は日本武尊が尾張に帰還するとなくなります。恐らく、ここで日本武尊の事績として記された景行四十年是歳条の記事は、東北・関東から信濃にかけてを征討した「王」と呼ばれる人物の記事が『日本書紀』に転用されたものと思われます(注②)。
 その「王」の有力候補として、景行五五年条に東山道十五國の都督に任命された彦狭嶋王がいます。この人物であれば文字通り「王」と呼ばれるにふさわしいと思います。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 もう一つの可能性として、『常陸国風土記』に登場する「倭武天皇」がいます。古田先生もこの「倭武天皇」とは九州王朝(倭国)の倭王武のことではないかともされています。もしかすると、彦狭嶋王と倭王武の両者の征討譚が転用されたという可能性もあるかもしれません。
 以上のように、『日本書紀』景行紀の史料批判により、蝦夷国の旧名「日高見国」が歴史上に現れ、その国を征討した九州王朝(倭国)側の人物として、彦狭嶋王と倭王武が有力候補として浮上しました。
 なお、蝦夷国と関係するかはわかりませんが、祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)」に見える「日高見之国」について、古田先生は対馬北部の国名とされ、天孫降臨後は筑紫内の国名「大倭日高見之国」になったとする説を発表されています(注③)。また、「日高見国」研究史については、菊池栄吾さん(古田史学の会・仙台)の著書『日高見の源流 ―その姿を探求する』(注④)を参考にさせていただきました。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②古田先生は『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刊)において、日本武尊の関東征討譚は「常陸の王者」「関東統一の王者」「その他(九州王朝の王者など)」による事績の転用とされている。
③古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』新泉社、1988年。
④菊池栄吾『日高見の源流 ―その姿を探求する』イー・ピックス出版、2011年。


第2385話 2021/02/19

「蝦夷国」を考究する(5)

 ―『日本書紀』の〝蝦夷記事〟―

 〝失われた蝦夷国〟研究のために、多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないと考えていますが、『日本書紀』に見える〝蝦夷記事〟の分析やその分布調査により、蝦夷国の歴史的位置づけが見えてきます。高橋崇さんの『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』(注①)によれば、『日本書紀』中の蝦夷記事の分布は次のようです。

《『日本書紀』の蝦夷・蝦蛦の使用例》(同書13頁)
    「蝦夷」 「蝦蛦」
景行紀  14
応神紀   2
仁徳紀   4
雄略紀   3
清寧紀   1
欽明紀   1
敏達紀   3
崇峻紀   1
舒明紀   5
皇極紀       3
孝徳紀   1   2
斉明紀  25   6
天智紀       1
天武紀   1   1
持統紀   6   1

 このような分布を示しているのですが、景行紀に多いのは日本武尊による蝦夷征討譚がおかれていることによります。斉明紀に更に多いのは、遣唐使に蝦夷国使が随行した記事と阿倍比羅夫らによる日本海側の蝦夷遠征記事が多いことによります。
 ちなみに九州王朝説によれば、これらの蝦夷記事は九州王朝(倭国)と蝦夷国による外交や戦闘記事が近畿天皇家の事績として『日本書紀』に転用されたものと考えなければなりません。従って、九州王朝と蝦夷国との関係は「景行紀」の時代になって本格的に始まったと考えてもよいと思います。
 そこで思い起こされるのが、景行紀にみえる次の記事についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の研究(注②)です。

○『日本書紀』景行五五年条
 彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。

 山田さんは、「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であることを明らかにされたのですが、東山道都督として彦狭嶋王は東山道軍(九州王朝陸軍)を率いて、蝦夷国へ侵攻したのではないでしょうか。
 さらに「崇峻紀」の時代には、東山道軍だけではなく、東海道軍(九州王朝水軍・陸軍)も東へ東へと進軍し、蝦夷国へ圧力をかけ続けたものと思われます。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 このように『日本書紀』によれば、東山道・東海道は蝦夷国への国交ルートであり、侵略ルートであったわけです。この蝦夷国へ向かう両官道は、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると、さらに大規模な侵略ルートと化していきます。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)


第2384話 2021/02/18

「蝦夷国」を考究する(4)

 ―『続日本紀』〝失われた蝦夷国〟―

 新野直吉さんの論稿「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」(注①)では『続日本紀』の記事などを史料根拠として、多賀城碑に見える「蝦夷國」を〝日本の中の北方の一部族〟とされ、〝北に独立国があったということではない〟とされました。
 本シリーズの(2)「『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国」で紹介したように、『日本書紀』斉明五年条(659年)には明確に唐へ朝貢する国家としての「蝦夷国」の記事が見られます。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。……」

 この斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも「蝦夷国」のこととして記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、659年、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。

 このように斉明五年条(659年)の記事だけですが、『日本書紀』には「蝦夷国」という表記があります。この他にも、崇峻二年七月条に「蝦夷の国の境」という次の記事が見えますが、これは〝蝦夷国の境〟と理解するべきです(注②)。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 この記事によれば、東山道の先に「蝦夷国」との国境があったことがわかります。他方、東海道の「東方濱海諸国境」と北陸道方面の「越等諸国境」は「諸国」(複数国)表記であり、東山道の「蝦夷国境」が「蝦夷諸国境」とされていないことは重視すべきです。この記事は、「蝦夷」を〝日本の中の北方の一部族〟の集合体とする理解を否定するのです。
 ところが『続日本紀』になると「蝦夷」表記はあるのですが、「蝦夷国」という〝国号〟表記は見えないようです(注③)。『日本書紀』が九州王朝(倭国)の存在を隠したのと同様に、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(正確には文武以後)の歴史を記した『続日本紀』では「蝦夷国」の表記を採用せず、〝蝦夷国はなかった〟ことにしたのではないでしょうか。
 ですから、蝦夷国の〝国家〟として実態を解明するためには多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないようです。〝失われた蝦夷国〟への考究は続きます。(つづく)

(注)
①新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。
②『日本書紀索引』(吉川弘文館、1969年)は、崇峻二年条の「蝦夷国境」を「蝦夷国」(地名)の項目ではなく、「蝦夷」(件名)に入れている。これは、〝蝦夷は国に非ず〟とする通説に基づいた分類ではあるまいか。
③『続日本紀索引』(吉川弘文館、1967年)によれば、『続日本紀』中に「蝦夷国」(地名)はみえない。この点、『日本書紀索引』と同様の分類がなされていないか、精査が必要と考えている。


第2383話 2021/02/17

「蝦夷国」を考究する(3)

―新野直吉さんの蝦夷論―

 この度の「蝦夷国」研究に於いて、従来説についても調査しましたが、古田先生が40年以上も前から指摘されていたように(注①)、従来説は大和朝廷一元史観に基づいていることがわかりました。その具体例を紹介します。
 新野直吉さんは多賀城碑文の「蝦夷國界」について次のような理解を示されています。

 (前略)たしかに八世紀後半(天平宝字六・七六一)の〝多賀城碑〟にはこの蝦夷国を意識したというべき「蝦夷国界」の語がある。(中略)東北の現地自体に「蝦夷国」の認識があったことを示す。
 しかし、この表記を、日本律令制度のもとで「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる。行政組織があったことを意味しないのみならず、仮に「蝦夷」の地域があったとしても、この表記は、東北全部が蝦夷の住む領域があったわけではないことを、現地行政機関も明確に認識していた事実を示している。
 実像はといえば「多賀城から一二〇里ほど北に当たるところに蝦夷の領域との境界がある」ということで、そうなれば、現在の宮城と岩手の県境の辺が境に当たる。(中略)
 とはいっても境界の北に独立国があったということではない。令の条文に「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)などと記入される存在に相当する蝦夷の地方圏であると理解すべきである。そして、「蝦夷」は和銅三年紀に「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦別に在り」とあるごとく、隼人とならぶ位置づけであり、食料獲得手段や言語文化などに差異はあったとしても、法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である。
 (新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」注②)

 新野直吉さんは日本古代史や東北地方史の専門家ですから、ここで示された認識は通説と考えてもよいと思われますが、それは典型的な大和朝廷一元史観に貫かれています。たとえば次のような問題点が見て取れます。

(1)多賀城碑の「蝦夷国」表記は、八世紀後半の多賀城現地には〝「蝦夷国」の認識があったことを示す〟としながら、〝しかし、この表記を、日本律令制度のもとで「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる〟と、同時代金石文に示された認識を〝虚像〟と否定する。

(2)その史料根拠として、『養老律令』の条文「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)と『続日本紀』和銅三年条の「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦別に在り」をあげる。

(3)そして結論として、「法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である」とされた。

 以上のように、新野さんの学問の方法は同時代金石文(多賀城碑)よりも、蝦夷を征討した大和朝廷側による史料(『養老律令』と後代史料『続日本紀』)の記事を〝歴史事実〟として優先するというものです。
 現代の古代史学界でも〝後代史料よりも同時代金石文・木簡を優先する〟という認識が一般化しているにもかかわらず、東北古代史学の重鎮に対して失礼ではありますが、新野さんの方法論は理解に苦しむとしか言いようがありません。
 しかし、〝蝦夷国はなかった〟〝日本の中の北方の一部族〟とする新野さんの「蝦夷国」認識が大和朝廷一元史観に基づいているという点においては、〝九州王朝はなかった〟〝大和朝廷支配下の北部九州の一豪族にすぎない〟とする日本古代史学界の歴史認識とまったく同じです。このことを古田先生は次のように喝破されています。

 『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。(中略)以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写の対照が鮮やかである。
 (古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版417頁)

 すなわち、日本列島内の多元的国家の共存状況と、「蝦夷」を「北方の一部族」とする『続日本紀』の一元的描写の対照が鮮やかなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。
②新野直吉「古代における『東北』象 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。


第2382話 2021/02/16

「蝦夷国」を考究する(2)

―『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国―

 古田先生は九州王朝説の提起と共に、近畿の王権(近畿天皇家)と更に東に位置した蝦夷国も日本列島に存在した国家であるとの「日本列島内の多元的国家の共存状況」を論証されました(注①)。そしてその史料根拠として『日本書紀』斉明紀の「蝦夷国」記事をあげられました。関係部分を抜粋します。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
(A)秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
(B)伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」
(C)難波吉士男人書に曰はく、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に触(つ)きて覆(くつがへ)る。副使、親(みずか)ら天子に覲(まみ)えて、蝦夷を示し奉る。是に、蝦夷、白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十を、天子に献る」と。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版414頁)

 これら『日本書紀』斉明紀に記された「蝦夷国」という表記は、「蝦夷」が国家を形成していたことを現しており、中国の天子も「蝦夷国」という東夷の「国」からの朝貢(白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十)と認識していたことを示しています。
 蝦夷国の使者二名を随行させた倭国の使者も、唐の天子の質問「此等の蝦夷国は、何の方に有りや」に対して、「国は東北に有り」と答えており、蝦夷を「国」と認識していたことがわかります。更に、蝦夷国が倭国に「歳毎に、本国の朝に入貢」しているとも述べているのです。この朝貢(外交)記事は、倭国と蝦夷国が国家と国家の関係にあったことを如実に証言しているのではないでしょうか。
 これらの斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版415頁)

 この記事は斉明五年条の記事と対応しており、蝦夷国と倭国(九州王朝)が別々の国として明確に記されています。これらの史料を明示して、古田先生は次のように結論づけられました。

 『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。(中略)
 以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写の対照が鮮やかである。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版417頁)

 以上のように、古田史学初期三部作の一つ『失われた九州王朝』の時代(1973年)から、『真実の東北王朝』(注②)で多賀城碑を論じられた時代(1991年)まで、古田先生は一貫して多元的古代像の一つとして「蝦夷国」を捉えておられたわけです。その学問的意義を、わたしは今回の多賀城碑研究により、深く認識することができました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。


第2381話 2021/02/15

「蝦夷国」を考究する(1)

―多賀城碑「蝦夷國界」の論理―

 「洛中洛外日記」で〝多賀城碑「東海東山節度使」考〟シリーズを続けてきましたが、読者の皆さんから賛否両論と少なからぬご意見をいただくことができました。学問研究を進める上で、とても有り難いことです。
 同シリーズでは多賀城碑の里程記事の解釈について、古田説や田中説(注①)を紹介するため、古田先生の著作(注②)を改めて精読すると同時に、従来説についても勉強したのですが、古田説の決定的に重要な論点について深く認識することができました。というのも、古田説では「蝦夷国」(国家)として対象を認識されており、従来説(通説)は「蝦夷」という表記で対象を論じ、それを「国家」としては認識していないということが最も大きな差異であることがわかってきたからです。なぜか通説では、「蝦夷」を異民族の部族集合体と認識しているようなのです。この認識の違いが、歴史研究のスタンスの差でもあり、恐らくは大和朝廷一元史観がバックボーンにあるためではないでしょうか。
 古田説では、多賀城碑碑文に見える「蝦夷國界」を根拠に、多賀城が蝦夷「国内」にあったとされています。すなわち、「蝦夷」は「國」であり、「蝦夷國界」は日本国と蝦夷国との国境と理解したわけです。碑文にある他の「國界」(注③)がいずれも当時実在した「國」の「界」ですから、「蝦夷國」も実在したと理解するのが当然ではないでしょうか。ですから、これからの蝦夷研究では〝「蝦夷国」の実在〟という視点が不可欠と思われるのです。(つづく)

(注)
①田中巌「多賀城碑の里程等について」。古田武彦『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
③多賀城碑の碑文には次の「國界」記事が見える。
【多賀城碑文の里程記事部分】
西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里


第2379話 2021/02/13

多賀城碑「東海東山節度使」考(4)

―田中巌さんの〝東の国界〟説―

 多賀城碑文の里程距離の齟齬、すなわち多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」と「下野國界」が、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっている問題について、古田先生はそれら里程を両国の〝西の国界〟までの距離とする理解により、距離が妥当になるとする説を『真実の東北王朝』(注①)で発表されました。この古田説に対して、わたしは違和感を抱いてきたのですが、それに代わる仮説を提起できないでいました。そのようなときに田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)による新説(注②)が発表されたのです。
 わたしが理解した田中説(〝東の国界〟説)の要点と論理性は次の通りです。

(1)多賀城から「常陸國界」と「下野國界」への古代官道実距離を求めるにあたり、直線距離や新幹線・高速道路でもなく(非現実性の排除)、複数のルートがある自動車道路でもなく(ルート選択における恣意性の排除)、地方都市を経由しながら進むJR在来線の路線距離を採用した。

(2)それに基づいて、次の距離を算出した。※1里を550mとする(注③)。
○多賀城(国府多賀城駅)から常陸國界(常陸大子駅)までの距離223.6km(406里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→水郡線常陸大子駅〔勿来関より内陸で南へ入る〕
○多賀城(同上)から下野國界(須賀川駅)までの距離148.4km(269里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→在来線須賀川駅
○多賀城(同上)から京(奈良駅)までの距離862.6km(1568里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→東京駅→中央線塩尻駅→名古屋駅→奈良駅

(3)上記(2)の計算里数が碑文の里数と対応している。古田説(〝西の国界〟説)では、「常陸國界」「下野國界」までは1里が約1km、「京」までは約0.5kmとなり、里単位に統一性がない。

《碑文里数》     《田中説による計算里数》
「常陸國界四百十二里」   406里
「下野國界二百七十四里」  269里
「京一千五百里」     1568里

 以上のように、田中説は客観性が担保され、構成論理に矛盾がない唯一の仮説であり、現状では最有力説とわたしは考えています。従って碑文にある「西」の字は、京やこれらの国々(蝦夷國、常陸國、下野國、靺鞨國)が多賀城の「西」にあるということを示しているわけで、そうした理解が最も単純で、碑文を読む人もそのようにとらえると思われるのです。
 また、碑文後段に記された藤原朝獦の官職名が「東海東山節度使」とあることは、東海道・東山道の奥(道の奥)まで東へ東へと侵攻したことを示しているのですから、出発地の「京」を含めて途中の通過地(注④)は多賀城の西にあることを「西」の字は示しているとするのが最も平明な碑文理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
③奈良時代の一里は535mと復原されており、田中説で採用された550mに近い。このことは田中論稿「多賀城碑の里程等について」で紹介されている。
④この場合の「西」とは大方向としての「西」とする古田先生の理解が妥当と思われる。なお、通過地ではない「靺鞨國界三千里」が碑文に記されている理由については今後の研究課題であるが、藤原朝獦にとって何らかの必要性があったのではあるまいか。


第2376話 2021/02/11

多賀城碑「東海東山節度使」考(3)

―〝西の国界〟説への違和感―

 古田先生は著書『真実の東北王朝』(注①)において、多賀城「蝦夷国内」説とともに多賀城碑が偽作ではないとする緒論を発表されました。特に重要な点は次の論証でした。

(1) 碑文の刻字や文字配列が稚拙であることを根拠とした江戸期における偽作とする説(実証)に対して、偽作であればこのような不格好な碑面ではなく、本物らしく立派なものを造るはずであり、それは逆に偽作ではない根拠であると論理的な反証(論証)をされた。

(2) 碑文の藤原朝獦の官位「從四位上」が『続日本紀』の記事「從四位下」と異なっているという偽作説(実証)に対して、後代史料よりも同時代金石文が優先するという史料批判の基本原則を明示(論理的反証)された。

(3) 多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」「下野國界」の里程について、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっていることを根拠とする偽作説に対して、碑文上部に記された「西」を根拠に〝西の国界〟という視点を提示され、それぞれの〝西の国界〟からの距離であれば碑文の里程は妥当とされた。

 いずれも偽作説に対する優れた反証であり、学問的にも貴重な論点ですが、(3)についてはわたしは違和感がありました。〝西の国界〟説に対していだいた違和感の一つは、各里程記事の冒頭にある「去」の一字でした。

【多賀城碑文の里程記事部分】
西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この「去」の字により、行程方向は〝京・各国界から多賀城へ(西から東へ)〟であり、たとえば「常陸國界」が〝西の国界〟であるとすると、その行程は「常陸国の西の国界」→「常陸国内」→「常陸国の東の国界」→「蝦夷国界」→「多賀城」となり、それこそ〝冗長〟です。多賀城への距離を示すのであれば「常陸国の東の国界」からでよく、既知である東海道諸国に含まれる「常陸国の西の国界」から「去る」必要はありません。「下野國界」についても同様です。
 さらに、「去靺鞨國界三千里」も同様に〝西の国界〟と理解すると、その行程は、「靺鞨国の西の国界」→「靺鞨国内」→「靺鞨国の東の国界」を含むことになり、そうなると距離はとても「三千里」に収まらないのではないでしょうか。(注②)
 こうした疑問があり、古田説中の〝西の国界〟説には違和感があったのです。しかし、距離の齟齬について解決できる代案が思いつかず、反対するまでには至りませんでした。そのようなときに知ったのが、田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)の研究「多賀城碑の里程等について」(注③)でした。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②古田先生は『真実の東北王朝』において、多賀城から「靺鞨国の西の国界」までの距離を三千里とすることに対して、「当たらずといえども、遠からず」とされている。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2375話 2021/02/10

多賀城碑「東海東山節度使」考(2)

―「常陸國界」「下野國界」記載の理由―

 多賀城碑の「東海東山節度使」を〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とする茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご指摘により、同碑文に対する理解が深まりました。その一つが、碑文前半にある多賀城からの各里程距離として、「常陸國界四百十二里」「下野國界二百七十四里」が記載された理由です。碑文には次の里程記事があります。

西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この内、「常陸國界」は東海道の終着点、「下野國界」は東山道の終着点です。わたしの理解では両官道は蝦夷国へ至る九州王朝官道の終着点であり、二つの軍事行政管轄地域の総称です。それが八世紀の大和朝廷にも引き継がれ、その二つの官道の〝総司令官〟として藤原惠美朝臣朝獦(以下、「藤原朝獦」とする)が「東海東山節度使」として多賀城に軍事侵攻したことを誇ったのが同碑建碑の真の目的だったのではないでしょうか。
 すなわち、陸軍を主体とする東山道軍と水陸両軍を主体とする東海道軍を指揮した藤原朝獦は、両終着点からそれぞれ「四百十二里」「二百七十四里」の地点(多賀城)まで侵攻し、神龜元年(724年)に大野朝臣東人が建造した多賀城を修築したと誇り、その地は「蝦夷國界」から「一百廿里」〝東〟へ入った所でもあると記したわけです(注①)。おそらく、「常陸國界」と「下野國界」にあった蝦夷国との「國界」(国境線)を多賀城の西「一百廿里」のラインまで北上させたことを誇ったのがこの里程記事だったと思われるのです。
 そうすると、「常陸國界」「下野國界」とは古田説(注②)の〝西の国界〟ではなく、蝦夷国との旧国境線である〝東の国界〟ということになります。実はこのことを実証的に証明した優れた研究があります。田中巌さん(東京古田会・会長)の「多賀城碑の里程等について」(注③)です。(つづく)

(注)
①多賀城を蝦夷国内にあると論証したのは古田武彦氏である。
 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②同①。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2374話 2021/02/09

多賀城碑「東海東山節度使」考(1)

―茂山憲史さんからのメール―

 今春発行予定の会誌『卑弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の再校を行っていますが、校閲していただいている茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)より拙稿「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」の誤り(多賀城碑の誤引用)を指摘するメールが届きました。下記の内容ですが、わたしはこのご指摘に含まれる重要論点に気づき、驚きました。

【茂山さんからのメール要約】
 今回は、校正というよりご相談です。
「東山道節度使」➔ 「東海(道)東山(道)節度使」
案について、厳密に考える必要はないとも思うのですが、原碑に「道」はありませんから、考えてみました。
 東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。
いかがでしょうか?
 茂山憲史

 このメールにある「原碑」とは多賀城碑のことで、拙稿では碑文(注①)を紹介しておきながら、「東海東山節度使」を「東山道節度使」と誤引用していることをご指摘いただいたものです。もちろん再校で訂正させていただきますが、わたしが驚いたのはメール後半の〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。〟という部分でした。わたしはこの多賀城碑文の「東海東山節度使」が持つ、拙稿にとって重要な意味に気づいていなかったのです。
 そもそも拙稿の主要論点は、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の秀逸な論文「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」「東山道都督は軍事機関」(注②)や肥沼孝治さん(同、所沢市)の「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(注③)で提起された九州王朝官道の全容と、それぞれの官道が九州王朝の〝方面軍〟としての軍事行政機能を有しているという仮説に基づき、その〝方面軍〟の目的地についてでした。拙稿では各官道の目的地を最終的には次のようにしました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)

 今回の茂山さんの指摘は、この仮説に対応した表記として多賀城碑の「東海東山節度使」を理解され、〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とされたものです。茂山さんが提示されたこの視点により、多賀城碑文そのものに対する、わたしの理解が更に深まったのです。(つづく)

(注)
①多賀城碑碑文
「西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里
 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
  天平寶字六年十二月一日」
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)
③肥沼孝治「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(同上)


第2008話 2019/10/08

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(3)

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録。2018年)を執筆されたきっかけは、大和を起点とする古代官道「七道」の中になぜ「北海道」がないのかという疑問でした。その「解」を求めるために、太宰府を起点とした九州王朝(倭国)の官道という視点で検討した結果、太宰府→壱岐→対馬→朝鮮半島南岸という海北の道「北海道」を〝発見〟されたのでした(「五畿七道の謎」、『古田史学会報』131号、2015年12月)。
 この太宰府起点という仮説に基づいて、一元史観の通説では不明とされてきた『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五國」の謎を解明されたのが山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による秀逸の論文「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)であることは、何度も紹介してきたところです。
 「東海道」と「東山道」の最終目的地は共に「東」の蝦夷國とした仮説と同様に、「北海道」と「北陸道」が目指した終着点も同じ「北」国としたとき、太宰府から北西(朝鮮半島)に向かう「北海道」と東北へ向かう「北陸道」とは別方向に向かっているようで不自然と思ってきました。西村さんも「北海道」の到着点を朝鮮半島南岸の金海付近と捉えておられましたので、わたしもそのように理解していました。しかし、同じ「北」国へ向かう「道」とする視点を徹底しますと、その「北」国とは北方の大国「粛慎(しゅくしん・みしはせ)」(ロシア沿海州方面)ではないかと気づいたのです。
 『日本書紀』には斉明紀などに粛慎との交戦記事が見え、七世紀には九州王朝と粛慎は敵対関係にあったことがうかがえます。その粛慎は日本海を渡って越国(佐渡島)に侵入しており(欽明五年十二月条、544年)、九州王朝も水軍(阿部臣)で応戦しています(斉明六年三月条、660年)。従って、粛慎との戦闘地域(事実上の「国境」か)である越国(新潟県・秋田県)方面への進軍(陸軍)ルートとしての「北陸道」と、海上からの進軍(水軍)ルートとしての「北海道」が必要となります。そうしますと、「北海道」の終着点は朝鮮半島南岸ではなく、朝鮮半島東岸沿いに新羅・高句麗へと進み、更に終着点としての粛慎に至る「道」として「北海道」が設定されたと考えなければなりませんし、海流を考慮してもこのルートは可能なものです。
 以上のような論理展開(論証)により、「東」の大国「蝦夷国」と「北」の大国「粛慎国」へ向かう官道として「東海道」「東山道」と「北海道」「北陸道」が設定され、それぞれの方面軍と将軍(都督)たちが任命されたと考えることが可能となり、特に説明困難だった「北陸道」の名称と位置づけについてもリーズナブルな理解が可能となりました。そうしますと、論理は更に展開(論証の連鎖)し、残された「西海道」と「南海道」についても、それぞれが向かう終着点はどこなのかという問いが、避けがたく発生するのです。(つづく)


第2007話 2019/10/07

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(2)

 古代の東北地方を代表する石碑として、多賀城碑(宮城県多賀城市)と日本中央碑(青森県東北町)は有名です。中でも多賀城碑には「天平寶字六年十二月一日」(762年)と造碑年が記されており、大和朝廷による蝦夷國征討に関わる石碑であることが推定されます。その碑文中に「東山道節度使」「按察使鎮守将軍」という官職名が見え、大和朝廷が東山道を北上して蝦夷征討将軍(大野朝臣東人、藤原恵美朝獦)を派遣したと思われます。

【多賀城碑碑文】
西

多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

 このことから、大和朝廷の時代ではありますが、「東山道」の最終目的地は蝦夷國だったのではないかと推定できます。なぜなら、蝦夷国内の官道は蝦夷国により造成され、命名されていたはずですから、大和朝廷あるいは九州王朝が自らの官道を「東山道」と命名できるのは蝦夷國の地までと考えざるを得ないからです。
 この理解からすれば「東海道」も同様で、海岸沿いや海上に造営・設定された「東海道」も、「東山道」と同方向の「東」を冠していることから、最終目的地は共に蝦夷國となります。すなわち、倭国(九州王朝)や日本国(大和朝廷)にとって、「東」に位置する大国(隣国)である蝦夷國へ向かう官道として「東山道」「東海道」が造営され、それぞれの方面軍司令官として「都督」「節度使」「按察使鎮守将軍」が任命されたのではないでしょうか。
 以上の理解を更に敷衍すると、本シリーズのテーマである「北海道」や「北陸道」も同様に「北」に位置する大国への「道」と考えなければなりません。その「北」の大国とはいずれの国でしょうか。(つづく)