倭人伝一覧

第1123話 2016/01/16

倭人伝「その北岸、狗邪韓国」大激論

 新年最初の関西例会が本日開催されました。関西例会らしく、新年早々から大激論となりました。冒頭、正木事務局長から明日に迫った古田先生追悼講演会の入念な打ち合わせがあり、例会参加者の協力を要請しました。
 出野さんから『三国志』倭人伝の「その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里」の理解として、韓国の外側を水行した船から見て北側にある「北岸」とされ、古田説の韓国内陸行に反対する説が示されました。それに対して多くの批判が参加者から出され、厳しい論争が続きました。「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えていますから、実に関西例会らしい素晴らしい論争でした。
 わたしは出野さんの読解のうち、「郡から倭に到る」とある倭人伝の「倭」が、「倭国の都」ではなく朝鮮半島内の「倭」である狗邪韓国までとする理解に、有力な見解であると賛意を表明しました。出野さんは狗邪韓国を日本列島内の倭国とは別国の朝鮮半島内の「倭」とされているのですが、わたしは倭国は対馬海峡にまたがる海峡国家とする古田説が妥当であり、狗邪韓国がその倭国の「北岸」と考えています。しかし、その「郡から倭に到る」の「倭」とは、倭国との国境(狗邪韓国)までと理解する点については出野さんの読解も成立すると思いました。ちなみに、古田先生は『「邪馬台国」はなかった』では「郡から倭に到る」の「倭」を「倭国の都」(倭国の中心領域)とされています。
 今回の出野さんの発表により気がついたのですが、郡から倭の都まで至ることを示す記事は、行程記事の終わりの方に「郡より女王国に至る、万二千余里」とあります。ここでは倭国の都がある「女王国」に至るという表記となっており、狗邪韓国までの行程を示す「郡より倭に至る」とは目的地表記(「倭」と「女王国」)が異なっているのです。すなわち、到着点(通過点)が倭との国境(狗邪韓国、七千余里)と倭の都(女王国、万二千余里)と書き分けられているのです。この点、古田先生も後の著作で触れておられたように記憶しています。
 韓国内を陸行とするのか水行とするのか、狗邪韓国を倭国の北岸とするのか、朝鮮半島内の別国の「倭」とするのかで、出野さんとは意見が異なりますが、論争により倭人伝行程記事に対する認識が深まりました。まさに「学問は批判を歓迎する」を実感できた論争でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
○明日の「古田先生追悼講演会」の打ち合わせ(正木事務局長)

①狗邪韓国についての再考察(奈良市・出野正)
②代始改元と九州年号(八尾市・服部静尚)
③「名太子為利」の訓みの疑問(高松市・西村秀己)
④『日本書紀』宣化紀に盗用された磐井と「磐井の乱」記事の実際(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼文(森嶋瑤子様)・堂門冬二著『楠木正成』を読む・寄手塚味方塚訪問の想い出・室伏志畔著『薬師寺の向こう側』贈呈受・その他


第1110話 2015/12/23

教科書に古田説(韓国内陸行)採用

 先日の「古田史学の会」関西例会で『三国志』倭人伝の行程について論争が行われました。帯方郡(ソウル付近)から狗邪韓国(釜山付近)まで、陸行か水行かが争点でした。従来説では韓半島の西と南の海を水行するというものでしたが、古田説では一部水行した後、あとは韓半島内を陸行したとされています。
 ところが中学の歴史教科書(帝国書院「社会科 中学生の歴史」)に古田説の「韓国内陸行」が採用されていると、八王子市の前田嘉彦さんからその教科書が送られてきました。同書23ページにある「邪馬台国」という小さな図面ですが、確かに行程を示す赤いラインが韓国内は陸行を示しているのです。基本的に歴史教科書は「通説」「多数説」に基づいて編纂されますから、日本古代史学界は知らないうちに「韓国内陸行」という古田説を認めているようです。
 このように、気づかれないように古田説を部分的に取り込みながら、「通説」は古田説にすり寄っているのかもしれませんね。この件、引き続き調査したいと思います。
 ちなみに、同教科書巻末には次のように記されていました。
 「平成23年3月30日 文部科学省 検定済
  平成27年1月10日 印刷
  平成27年1月20日 発行」


第1098話 2015/11/28

『邪馬壹国の歴史学』のゲラ校正

 本日、「古田史学の会」編集(編集長:服部静尚さん)の『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の初校用ゲラがミネルヴァ書房から送られてきました。
 同書は古田先生が亡くなられて最初に「古田史学の会」が発行する本となりました。先生が亡くなられる前に執筆していた「はじめに」を急遽書き換えて、追悼の言葉を入れました。また、巻頭には古田先生の遺影を掲載することにしました。先生からもご寄稿いただきましたが、それは「古田史学の会」として先生からの最後の原稿となりました。
 わたしの論稿からは次のものが収録されますが、中でも「『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-」は先生からお褒めいただいた自信作です。

○はじめに --追悼の辞
○『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-
○『三国志』中華書局本の原文改訂
○纒向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず

 わたしが論文を発表するとき、いつも第一読者として古田先生を意識してきました。先生から褒められた論文はそれほど多くはありませんが、これからは先生から褒められることもお叱りをうけることもなく、亡師孤独の研究の日々が続きます。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の内容は古田先生から高い評価をいただいたもので、わたしたち「古田史学の会」の総力を結集して作り上げた一冊です。来年1月17日の「古田武彦先生追悼講演会」に発刊を間に合わせたいと願っています。そして、謹んで先生の御霊前に進呈したいと思います。


第1054話 2015/09/13

「空白の4世紀」? 読売新聞の不勉強

 出張先の長岡市のホテルで読んだ読売新聞(9月9日朝刊)に「大和王権『空白の4世紀』に光」という見出しで、奈良県御所市の中西、秋津両遺跡の橿原考古学研究所による「古墳時代前期で最大規模の建物群」の発表が紹介されていました。読売新聞社大阪本社編集委員・関口和哉さんによる署名記事ですが、「空白の4世紀」という表現に、読売新聞と言えども不勉強だな、との感想を持ちました。
 同記事冒頭のリードには次のように解説されています。

 「女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(2〜3世紀)と、中国に使者を送った「倭の五王」(5世紀)の時代の間は、大和王権が発展した重要な時期だが、中国の史書に倭国を巡る記述がなく、〈空白の4世紀〉と呼ばれている。」

 4世紀の倭国のことを記した中国の史書がないとあり、おそらくはこれは大和朝廷一元史観の学者の受け売り記事と思われますが、古田先生は「四世紀は『謎』ではない」とする論考を1978年に『邪馬一国への道標』(講談社)で発表されています(228ページ)。同書にて四世紀の倭国のことを記した同時代史書『広志』(晋の郭義恭による)の存在をあげられているのです。『広志』はその本全体は残念ながら現存していないのですが、いろいろな本に引用されています。たとえば『翰苑』の倭国の項の注に次のように引用されています。(『翰苑』は唐の張楚金により書かれたあと、雍公叡により注が付けられています。その注に『広志』や『魏略』などの散逸した史料が引用されており、貴重です。)

 「倭国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載する得可し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。革を以て衣と為す。」(古田武彦訳)

 『広志』の成立は古田先生の研究によれば4世紀初頭とされ、『三国志』を編纂した陳寿の没後(290年)間もなくの頃です。従って、『広志』を書いた郭義恭は『三国志』を読んで、それを参考にしています。ですから、『広志』には『三国志』以後に得られた倭国の情報が記されています。たとえば『三国志』では邪馬壹国の南方向にある投馬国(薩摩地方)の存在が記されていますが、筑後地方の南の肥後地方については記されていませんでした。ところが『広志』では邪馬嘉国(山鹿)、百女国(八女)、伊邪分国(屋久島か)などが記されており、4世紀段階の倭国に関する情報が記録されているのです。従って、「空白の4世紀」などと平気で書くのは自らの不勉強を露呈するようなものです。もっとも読売新聞の記者を責めるのも酷です。日本古代史学界の不勉強であり宿痾(古田説無視・大和朝廷一元史観)が真の原因なのですから。
 このように4世紀の倭国は「謎」でも「空白」でもありません。博多湾岸にあった邪馬壹国を都として、更に九州の西南端や屋久島について記した『広志』があり、従って、これら史料を無視しない限り「邪馬台国」東遷説など「仮説」としてさえも成立しないのです。畿内説に至っては学説でさえもないことは既に「洛中洛外日記」(「邪馬台国」畿内説は学説に非ず)で繰り返し説明してきたとおりです。
 投馬国の範囲について、昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と意見交換したのですが、邪馬壹国が「七万余戸」で、投馬国は「五万余戸」とあることから、投馬国は薩摩地方だけでは収まりきれず、大隅や日向も含んでいるのではないかとの考えを正木さんは示されました。なるほど、そうかもしれないと思いました。
 『広志』に記された「邪馬嘉国(山鹿)」ですが、わざわざ記されたことを考えると倭国内の重要な国であると考えられますから、山鹿市にある鞠智城との関係に興味をひかれます。鞠智城の成立が4世紀まで遡るとは考えにくいのですが、もともと重要な拠点都市であったことから、その地に鞠智城が造営されたのではないでしょうか。この点も、これからの楽しみな研究課題です。


第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。


第997話 2015/07/09

老松堂の韓国内陸行

 先日、名古屋で「古田史学の会・東海」の竹内会長らと懇談したとき、倭人伝の行程記事における「韓国内陸行」が話題に上りました。そのおり、後代史料ですが朝鮮通信使の記録『老松堂日本行録』を紹介し、その通信使節が韓国内を陸行していることを説明しました。
 わたしが岩波文庫から出されている『老松堂日本行録 朝鮮通信使が見た中世日本』を読んだのは25年ほど昔のことですが、同書は李氏朝鮮の文官「宋希環(老松堂)」が通信使として来日したときの記録で、1420年、朝鮮の首都漢城(今のソウル)を出発した通信使節団が日本に来るとき、朝鮮半島内は内陸部を斜めに縦断(陸行)していたことが、その記録(地名)からわかります。古代も中世も国家使節団は半島内を斜めに陸行しているのです。現在の地図で確認してもその行程が韓国内の幹線道路とほぼ重なっていますし、わたしも韓国出張のとき、同様のルートを高速道路で移動した経験がありますので、よく納得できます。
 逆に、朝鮮半島の西岸を「水行」するのは、大勢の犠牲者を出したフェリーの沈没事故などを見てもわかるように、古代も現代もリスクが大きいルートではないでしょうか。
 このようなことを竹内会長や林さん、石田さんと夕食をご一緒しながら懇談させていただきました。各地に「古田史学の会」の組織や会員がおられますから、これからも機会があれば懇談を続けたいと願っています。


第954話 2015/05/17

倭人伝「周旋可五千余里」の新理解

昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

1,対海国の陸行           800里
2,一大国の陸行           600里
3,末廬国から女王国         600里
4,女王国(九州)から侏儒国(四国)3000余里
合計              5000余里

「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思われない里数値です。なお、4の3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数値です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識(「周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。
この野田説は例会後の懇親会でも取り上げられ、もしかすると有力な仮説かもしれないと思うようになりました。この野田説は何年か前に野田さんから例会発表されていたことを西村さんから指摘されたのですが、わたしは失念していたようです。『三国志』での「参問」や「周旋」の使用例を調べると、野田説の当否を確認できるかもしれません。
従来は、倭人伝の記事から次のように「周旋五千余里」を理解していました。

1.帯方郡から倭の北岸の狗邪韓国まで「七千余里」
2.帯方郡から女王国まで「万二千余里」
3.倭地参問が「周旋五千余里」

このように、「七千余里」と「周旋五千余里」の合計が帯方郡から女王国までの総里程「万二千余里」に一致し、「周旋五千余里」には狗邪韓国から女王国までの海を渡る水行距離も含まれていると理解されてきました。
この従来説と野田新説のどちらが妥当(陳寿の認識)なのか、今後の研究の進展が期待されます。


第929話 2015/04/21

6月21日(日)、米田敏幸さんを迎え、

記念講演会開催済み

 今日は仕事で宝塚市仁川に行きました。途中、阪急梅田駅で乗り換え待ち時間がありましたので、紀伊国屋書店で時間つぶししました。もちろん古代史書籍コーナーに直行したのですが、『盗まれた「聖徳太子」伝承』も聖徳太子コーナーの書棚に並んでいました。『古代に真実を求めて』の他の号は置かれてなかったので、「聖徳太子」特集を前面に押し出したリニューアルの効果が、こうしたところにも出てきているようです。
 一昨日の「古田史学の会」の編集会議で、6月21日(日)開催予定の定期会員総会での記念講演講師を検討しました。今回は庄内式土器研究のスペシャリストである米田敏幸さんと正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)のお二方に講演していただくこととなりました。米田さんからは庄内式土器の胎土研究の成果から、「邪馬台国」畿内説の考古学的根拠の一つとされてきた庄内式土器産地(中心地)が大和ではなかったことや、河内での考古学的出土状況などをお話しいただけることと思います。正木さんからは倭人伝の文献史学研究と「呉の年号鏡」研究の成果など、邪馬壹国と争った狗奴国について発表していただけます。
 いずれも、関西(銅鐸文明圏)にあった狗奴国研究において、今後の起点(問題提起)になるものと期待されます。多くの皆さんのご来場をお待ちしています。非会員の方も聴講できます。
 なお、お二人の講演録は、今秋発刊予定の『「邪馬台国」論争を超えて ・・邪馬壹国の歴史学』(仮称、古田史学の会編・明石書店刊)に収録を計画中です。こちらもご期待下さい。
記念講演会の詳細は後日改めてお知らせしますが、会場は「i-siteなんば」で、6月21日(日)午後1時に開演です。


第926話 2015/04/18

アポローンは太陽神か?

 本日の関西例会も盛りたくさんの発表で、楽しく有意義な一日となりました。
 冒頭、西村さんからは、ギリシア神話のアポローンは太陽神ではないと史料をあげて説明されました。アポロドーロス著『ギリシア神話』(高津春繁訳、岩波文庫)によれば、アポローンは予言者・神託にかかわる神とされており、古代ギリシアにおける太陽神はヘーリオスとされています。ちなみにヘーリオスはオリンポス山には住んでいないとのこと。アポローンがいつ頃から太陽神とされたのかと質問したところ、5〜6世紀頃ではないかとのことでした。
 原さんは、『住吉神代記』に記された住吉の神領が難波京を取り囲むように位置していることから、これら全体で「一国」を形成していたのではないかとされました。そして『二中歴』「年代歴」細注にある「新羅人来たりて筑紫より播磨を焼く」という記事は、新羅が住吉神社の勢力圏を攻撃したのではないかとされました。
 出野さんからは前回に引き続いて、『漢書』『三国志』倭人伝に見える「倭」と「倭人」が別国(朝鮮半島の「倭」国と日本列島の「倭人」国)であるとする持論を展開されました。先月、茂山憲史さん・正木さん・西村さんから出された批判について、改めて反論されました。特に興味深く思ったのが、西村さんへの反論で示された「在」と「有」の違いについての説明です。『漢書』の「楽浪海中有倭人」にある「有」は倭人の「初見」を表す際に用いられ、既知の場合は「倭人在帯方東南海中」(『三国志』倭人伝)のように「在」の字が使われるとのことで、面白い指摘と思われました。
 岡下さんは、『万葉集』で宇治川を「是川」と表記する例(2427・2429・2430)があるが、これは「この川」と訓むのではないかとされました。そして、古墳時代の銅鏡の銘文で倭人は漢字を習得したとする森浩一説を批判され、交易により記録が必要なため、渡来人から倭人は交易業務と共に文字を習ったとされました。倭国の文字受容の時期や仕方について論議が交わされ、認識が深まりました。
 この間続けられてきた「大化改新詔」論争が今回もなされました。服部さんは、前回の正木さんからの批判は決定的なものではないと反論され、「大化改新詔」は九州王朝により7世紀中頃に前期難波宮で出されたと考えても問題ないとされました。
 正木さんからは「大化改新」論争の研究史と諸説を概説され、自説の「常色の改革」説を再論されました。そして、なぜ九州年号「大化」(695〜703年)を『日本書紀』では645〜649年にずらして盗用したのかが根本の問題とされ、その理由が説明できない服部説を批判されました。
 次に、「短里」の起源が殷まで遡ることを『礼記』などから論証され、「短尺(16cm強)・短寸(2cm強)」と「短歩(25cm強)・短里(75m強)」(周制三百歩を一里とす。『孔子家語』)が別系統の長さの単位であることを漢字の語義などから明らかにされました。
 最後に、服部さんから「長者」の意味について発表があり、「長者」は仏教用語(ギルドの頭領・指導者・組合長を意味するシュリイシュティンの漢訳)として6世紀後半から7世紀にかけて日本に伝来したとされました。そして「長者」は九州王朝の天子の呼称としてふさわしいと締めくくられました。時間が少し余りましたので、ギリシア旅行の報告が服部さんからなされました。
 以上、4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①アポローンは太陽神に非ず(高松市・西村秀己)
②住吉神代記と九州王朝(奈良市・原幸子)
③松本清張氏の見解を再び(奈良市・出野正)
④鏡は文字習得に役立ったか(京都市・岡下英男)
⑤「大化年号は何故移設されたか」論考に問う(八尾市・服部静尚)
⑥大化の改新問題について(川西市・正木裕)
⑦「短里」の成立と漢字の起源(川西市・正木裕)
⑧長者考(八尾市・服部静尚)
⑨ギリシア旅行報告(八尾市・服部静尚)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(お元気で好調、津軽の金光上人新史料入手、太田覚眠新史料入手)・新年度の会役員人事・橿原市博物館ハイキング・テレビ視聴(北摂の窯業生産、平安遷都と瓦生産)・大塚初重氏「三角縁神獣鏡国産説に転向」・その他


第885話 2015/02/28

巨大古墳vs神籠石山城・水城

 関西の考古学者と積極的に意見交換を続けられている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)によると、「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者の根本的な理由は、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿にあることから、古墳時代における列島内の中心権力者が畿内にいた証拠であり、弥生時代もそうであったはずということのようです。そのため、巨大前方後円墳の始原を畿内の古墳時代前期の纒向型前方後円墳であるとみなし、その編年を弥生時代(卑弥呼の時代、3世紀前半)に編年操作しようとしていると思われます。
 何度も指摘してきましたが、「邪馬台国」畿内説なるものは、『三国志』倭人伝に記された倭国中心国名を改竄し(邪馬壹国→邪馬台国)、その方角も改竄し(南→東)、その距離(12000余里)も無視し、倭国の文物(鉄・絹・銅鏡)も無視・軽視するなどの研究不正のオンパレードで、およそ学説(学問的仮説)と呼べる代物ではありません。
 普通の人間の理性からすれば、これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的とわたしは思うのですが、彼らはそうした思考が「苦手」なようです。その「苦手」な理由については別に考察したいと思います。
 とは言え、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿(大和ではなく河内が中心)にあり、北部九州よりも「優勢」という指摘は古墳時代の考古学事実に基づいており、その点は検討に値する指摘です。古田先生はこの問題についていくつかの反論をされていますが、当時の倭国は朝鮮半島で軍事的衝突を繰り返しており、巨大古墳を作る余裕はなく、逆にあればおかしいとされています。従って、巨大古墳を造った勢力は朝鮮半島で戦っていた倭国の中心勢力ではないとされました。
 巨大古墳を古代における土木事業という視点からすれば、同様に北部九州にある神籠石山城(複数)や水城(複数)の大規模土木事業の存在に注目しなければなりません。たとえば太宰府を防衛している大水城(全長1.2km、高さ13m、基底部幅80m。博多湾側の堀は幅60m)は土量は384000立法メートル、10tonダンプで64000台分に相当するとされています。動員された作業員は延べ110万人は下らないと見られています。この太宰府の北西の大水城の他に小水城や、久留米市には有明海側からの侵入を防ぐために上津荒木(こうだらき)の水城も造られています。
 神籠石山城群も太宰府や筑後「国府」を防衛するように要衝の地に点々と築城されています(雷山・高良山・阿志岐山・杷木・女山・帯隈山・おつぼ山・鹿毛馬・御所ケ谷・唐原など)。直方体の大石を石切場から山頂や中腹に運搬し、山を取り囲むように巡らせ、その列石上には土塁を盛り、前には木柵を設け、列石の内側には倉庫や水源、そして水門まで造営されています。これだけでもいかに巨大な土木事業であるかをご想像いただけると思います。大量の大石を石切場から山頂に運搬するだけでも、専用道路が必要ですから現代でもかなり大変な巨大土木事業といえるでしよう。おそらく水城や神籠石山城の造営は近畿の巨大前方後円墳以上の規模ではなかったでしょうか。
 この他に太宰府の北側には大野城、南側には基肄城が造営されていますから、北部九州には列島内最大規模の古代土木事業の痕跡があるのです。お墓と防衛施設とでは、どちらが「都」に相応しいか言うまでもないでしょう。近畿の巨大古墳群を自説の根拠にしたいのであれば、北部九州の巨大防衛施設にも言及すべきです。両者を比較した上で、列島内の中心権力者の都の所在を学問的論理的に提起すべきです。それが学問というものです。


第881話 2015/02/24

長里から短里への換算の痕跡

 今朝は5時過ぎに自宅を発ち、阪急電車で大阪空港に向かっています。今日から九州出張で、鹿児島・宮崎・熊本・長崎・福岡と5県を廻ります。国内出張としてはハードな行程ですが、海外出張に比べれば楽なものです。

 さて、先日の関西例会で報告された『三国志』の短里に関するもうひとつの研究、西村秀己さんの「短里と景初」について、その概要をご紹介します。
 西村さんは魏朝における、長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』魏書の文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、明帝の景初元年に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
 さらに西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。
2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。
3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、正確には約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。
(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た「端数」は数学の有効桁数としては意味がありませんから、「数千里」「数百里」という概算値表記に陳寿はしたものと思われます。)
4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。
5.作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有為の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有為の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1,『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
  漢(長里使用) 21.3%
  魏 景初元年より前(長里の時代)37.5%
    景初元年以後(短里の時代)5.3%
  呉(長里使用) 33.3%
  蜀(長里使用) 40.0%
2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。
3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要もなかったと考えるのが妥当である。
4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。
5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

 以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この報告に限らず、西村さんの研究手法(学問の方法)は統計的手法を手堅く用い、かつ、仮説とその証明方法が厳格に対応していることが特長です。ですから西村さんは、関西例会などでの発表を安心して聞ける研究者の一人なのです。


第858話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー「短里説無視の理由」

 本テーマから少し外れますが、なぜ古代史学界は『三国志』短里説を認めようとしないのかという質問が、1月の関西例会で姫路市から熱心に参加されている野田利郎さん(古田史学の会・会員)から出されました。学問の本質にもかかわる鋭く基本的な質問と思い、わたしは次のように説明しました。
 短里説を認めると「邪馬台国」畿内説が全く成立しないから、「古代中国人の里数や記録などいいかげんであり信用しなくてもよい。だから倭人伝の原文を好きなように改訂してよい」という非学問的な立場に立たざるを得ないのです、と。
 「洛中洛外日記」の「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」で説明しましたように、『三国志』倭人伝には帯方郡(今のソウル付近)から邪馬壹国までの距離を一万二千餘里と記されており、長里(約435m)では太平洋の彼方までいってしまうので、畿内説論者は倭人伝の里数は6倍ほど誇張されていると解して、里数に意味はないと無視してきたのです。このように長里では一万二千餘里は非常識な距離となり、無視するしかないのですが、短里(約78m)だと博多湾岸付近となり、邪馬壹国の位置が明確となるのです。ですから、畿内説論者は絶対に短里説(の存在)を認めるわけにはいかないのです。
 他方、北部九州説の論者の場合、短里を認めることに問題はないのですが、古田先生のように『三国志』短里説に立つ論者とは別に、倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。後者は『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難な立場なのです。(つづく)