法隆寺一覧

第1870話 2019/04/06

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(6)

 釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの正木さんからの指摘に答える前に、なぜわたしは『法隆寺縁起』に記された「丈六」を釈迦三尊像のことと理解したのかについて説明します。
 『法隆寺縁起』に記されたほとんどの献納品は、たとえば「丈六分」の他には「佛分」「薬師佛分」「弥勒佛分」「観世音菩薩分」「法分」「聖僧分」「塔分」「通分」などのように何に対しての施入かが記されています。そしてその順番を見ると、「丈六分」は先頭に記されています。たとえば次のようです(「丈六分」そのものが含まれていない施入例もあります)。

 「(前略)
  合香鑪壹拾具
   丈六分白銅単鑪壹口
  佛分参具
  彌勒佛分白銅壹具
 法分白銅弐具
   塔分赤銅壹具
   通分白銅弐具
 (中略)
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城
 宮皇后宮者」

このように天平八年二月二十二日に光明皇后らから施入された献納品の筆頭の多くは「丈六分」とされており、この「丈六」を「二月廿二日」に没したことが記された唯一の仏像である釈迦三尊像と理解する他ないのです。『法隆寺縁起』には「薬師佛分」「彌勒佛分」「観世音菩薩分」とかの仏像は見えるのですが、釈迦三尊像を示す「釈迦分」という表記がないことも、「丈六」を釈迦三尊像のこととするわたしの理解を支持しています。
 『法隆寺縁起』の最初の方には当時の法隆寺にあった仏像について「合佛像弐拾壹具」とあり、その二十一体の仏像について記されています。最初の一体は「金埿銅薬師像壹具」でこれは光背銘を持つ有名な薬師如来像です。二番目に釈迦三造像が「金埿洞(ママ)釈迦像壹具」とあり、それ以外に光明皇后が「丈六分」として「二月廿二日」に大量の施入をするような発願者名などが特筆された仏像は見当たりません。こうした理由から、わたしは「丈六」を釈迦三尊像と理解しました。この二十一体の他にも献納された諸仏像が記されていますが、やはり「丈六」に相応しい仏像の記録はありません。
 他方、これは正木さんから教えていただいたのですが、法隆寺の西円堂には文字通りの丈六(座像で像高246.3cm)の薬師如来像が安置されています。寺伝では養老二年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願により行基が建立したとされていますが、仏像史研究によればこの薬師如来像は八世紀後半頃のものとされていますから、光明皇后らが施入した天平八年(736)の頃には西円堂の薬師如来像はまだ存在していなかったと思われます。
 更に『法隆寺縁起』には、養老六年(722)にも「平城宮御宇天皇(元正天皇)」による「丈六分」とする施入記事があることから、やはりこの「丈六」を八世紀後半頃と編年されている西円堂の薬師如来像とすることは困難と思われます。もし養老二年頃に西円堂が建立され、本尊の薬師如来像が安置されたのであれば、そのこと自体が『法隆寺縁起』に記されるはずですが、そのような記事は見えません。
 なお付言すれば、同薬師如来像の編年が八世紀初頭頃まで遡るとなれば、「丈六」の有力候補となります。この点、仏像史研究を調べてみたいと思います。(つづく)


第1869話 2019/04/03

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(5)

西村秀己さんに続いて、本連載を読まれた正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)からもまたまた鋭いご指摘をいただきましたので、ちょっと寄り道をしてご紹介します。
 拙論では、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝(倭国)や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、病没した上宮法皇(多利思北孤)の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したと指摘しました。その一例として『法隆寺縁起』の次の献納記事を紹介しました。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

 施主の「平城宮皇后」とは聖武天皇の后で藤原不比等の娘、光明皇后のことで、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入していることも紹介しました。この「丈六」を法隆寺の釈迦三尊像のこととし、その光背銘に記された上宮法皇の命日「二月廿二日」に施入したと説明したのですが、正木さんよりこの釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの指摘がありました。
  確かに、銘文には「造釋像尺寸王身(尺寸の王身の釈像を造る)」とあり、文字通り上宮法皇と寸分違わず作製された釈迦像と考えざるを得ません。どんなに誤差を想定しても「丈六」(一丈六尺=約4.85m。座像の場合は半分の2.43m)ではありません。言われてみればその通りで、意表を突かれた指摘でした。(つづく)


第1867話 2019/03/31

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(4)

 「洛中洛外日記」1866話〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)〟を読まれた西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、高松市)から重要なご質問メールをいただきました。それは、大宝元年(701)の王朝交替の80年も前に没した「上宮法皇」が大和朝廷に祟ったなどと大和の人々が考えるだろうかという疑問です。まことにもっともな疑問です。これに対して、わたしは次のような理由から、大和朝廷は天然痘の流行を九州王朝やその天子「上宮法皇」(古田説によれば『隋書』に見える阿毎多利思北孤のこと)の祟りと考えたのではないかと思います。

① 天智9年(670)に全焼した法隆寺(若草伽藍)の跡地に、王朝交代後の和銅年間に大和朝廷は多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院(場所や名称は不明。古田学派内でも諸説ある)とその本尊(釈迦三尊像)を移築している(現・法隆寺西院伽藍)。移築の痕跡は米田良三著『法隆寺は移築された』に詳しい。その寺院・仏像を簒奪した〝後ろめたさ〟を大和朝廷は抱いていたものと思われる。
② 光背銘によれば、九州王朝(倭国)王家の人々が相次いで没している。次の通りだ。

 法興31年(621)12月   鬼前太后
法興32年(622)2月21日 干食王后
 法興32年(622)2月22日 上宮法皇

 死因は「上宮法皇、枕病してよからず。干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。」とあり、病没である。王家の人々が次々と没していることから、おそらく伝染病が倭国王家を襲ったものと思われ、この事実は一大事件として倭国内で伝承されていたことを疑えない。もちろん近畿天皇家にも伝わっていたであろうし、何よりも法隆寺に伝わった光背銘文に記されており、王朝交代後の大和朝廷の人々の目にも触れていた。
 こうした経緯から、同じく伝染病(天然痘)の脅威にさらされた大和朝廷にとって、病没した多利思北孤ら倭国王家の怨念を沈める必要を感じたのではあるまいか。
③ そして何よりも大和朝廷中枢を襲った天然痘が九州(大宰府官内)から発生したものであり、これを自らが滅ぼした「九州王朝の祟り」と考えても不思議ではない。
④ 他方、大和朝廷は未服従の九州王朝残存勢力を「隼人」討伐と称して、養老4年(720)まで南九州への軍事侵攻を続け、九州の人々の恨みをかってきた。

 以上のような理由により、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、多利思北孤の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したとする仮説をわたしは発表したのでした。(つづく)


第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)


第1865話 2019/03/29

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(2)

 天平十九年(747)に成立した『法隆寺縁起并流記資財帳』によれば、次のような法隆寺へ献納物が奉納日・奉納者と共に記されています。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

を筆頭に、「白銅鏡肆面」「香肆種」「白筥二合」「革箱肆号」が施入されています。
 『法隆寺縁起』によれば、光明皇后からの施入が際立って多いのですが、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入しています。この「丈六」とは丈六の仏像である釈迦三尊像のことと思われますから、ときの大和朝廷の光明皇后らが、九州から発生した伝染病の脅威を沈めるために、九州王朝の天子・多利思北孤の命日「二月廿二日」に、斑鳩に移築した九州王朝の多利思北孤を模した釈迦三尊像を本尊とする「法隆寺」に献納品を施入しているのです。
 この史料事実から、法隆寺を九州王朝の天子・多利思北孤鎮魂のための寺院とする仮説をわたしは発表したことがあります(「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)。このことを来月十九日開催(奈良県立情報図書館、古代大和史研究会主催・原幸子代表)の講演会で紹介しようと、『法隆寺縁起并流記資財帳』を読み直していたのですが、そこに不思議な記事があることに気づきました。(つづく)


第1864話 2019/03/28

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で書いています。早朝から京都駅新幹線ホームには警察犬を連れた京都府警のおまわりさんがものものしく警邏していました。今までにない警備体制でしたので、「何か事件でもあったのですか」とたずねると、「天皇陛下が来られるので」とのこと。そういえば昨日は拙宅近くの京都御所に来られましたので、これから東京に戻られるのでしょう。仕事がなければホームでお見送りできたのですが、残念です。これまでも京都駅や拙宅前で、何度か両陛下やこの5月に新天皇に即位される皇太子殿下を遠くから拝する機会がありましたが、それは京都ならではの光景かもしれません。

 大宝元年(701)に九州王朝(倭国)から王朝交替により列島の代表王朝となった近畿天皇家が今上天皇まで千三百年以上続いているということは世界史的に見ても稀有なことですが、その天皇家も王朝交替直後に何度か危機的状況に遭遇しています。たとえば天平年間には天災が発生し、九州(大宰府官内)から流行した伝染病(天然痘か)により大和朝廷の有力者が次々と病没しています。次のようです。

天平六年(734) 四月 大地震発生
天平七年(735) 五月 流星群出現
        八月 大宰府官内で疫病流行
        九月 新田部親王薨
       十一月 舎人親王薨
       この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行

 こうした国家的災厄に応じて、大和朝廷は天平七年五月に宮中や大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺で大般若経の転読を行ったり、八月には太宰府観世音寺等で金剛般若経を読ませたりしています。しかし、その効果なく親王たちが没したため、天平八年二月二二日に法隆寺で法会が執り行われています。このとき、法隆寺に大量の品々が献納されました。翌天平九年(737)にも、藤原房前(四月)、藤原麻呂(七月)、藤原武智麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢にあった藤原一族の有力者が次々と没しています。(つづく)


第1780話 2018/11/04

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(2)

 滋賀県栗東市の蜂屋遺跡からの法隆寺式瓦大量出土について、古田史学・九州王朝説としてどのように考えられるのかについて、わたしの推論を紹介します。
 報道によれば今回の出土事実の要点は次の通りです。

①創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認された。
②現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦が50点以上確認された。
③創建法隆寺(若草伽藍)の創建時(六世紀末〜七世紀初頭)の創建瓦(素弁瓦)は出土していないようである。

 報道からは以上のことがわかります。発掘調査報告書が刊行されたら精査したいと思いますが、これらの状況から九州王朝説では次のように考えることが可能です。

④創建法隆寺(若草伽藍)を近畿天皇家による建立とすれば、蜂屋遺跡で同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」(7世紀後半)を製造した近江の勢力は近畿天皇家と関係を持っていたと考えられる。
⑤近年、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は創建法隆寺(若草伽藍)も九州王朝系寺院ではないかとする仮説を表明されている。この正木仮説が正しければ、蜂屋遺跡の近江の勢力は九州王朝と関係を持っていたこととなる。
⑥現・法隆寺(西院伽藍)は九州王朝系寺院を近畿天皇家が和銅年間頃に移築したと古田学派では捉えられており、その法隆寺式瓦が大量に出土した蜂屋遺跡の勢力は八世紀初頭段階で近畿天皇家との関係を持っていたと考えられる。
⑦この④⑤⑥の推論を考慮すれば、蜂屋遺跡の近江の勢力は斑鳩の地を支配した勢力と少なくとも七世紀初頭から八世紀初頭まで関係を継続していたと考えられる。
⑧近江の湖東地域はいわゆる「聖徳太子」伝承が色濃く残っている地域であることから、蜂屋遺跡の勢力も701年以前は九州王朝と関係を有していたのではないかという視点で、斑鳩の寺院との関係を検討すべきである。

 おおよそ以上のような論理展開(推論)が考えられます。もちろんこれ以外の展開もあると思いますので、引き続き用心深く蜂屋遺跡の位置づけについて考察を続けたいと思います。
 なお、近江の湖東地方における九州王朝の影響については「洛中洛外日記」809話「湖国の『聖徳太子』伝説」で触れたことがありますので、ご参照ください。

【以下転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第809話 2014/10/25
湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。
 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。
 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。
 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。
 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。
 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第1779話 2018/11/03

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(1)

 先日、滋賀県栗東市の蜂屋遺跡から法隆寺式瓦が大量に出土したとの報道がありました。法隆寺(西院伽藍。和銅年間に当地に移築)の瓦に混じって、創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕に焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」2点(7世紀後半)も確認されたとのことです。
 この出土事実から古田史学・九州王朝説ではどのような問題が抽出できるのか、報道以来考え続けてきました。一元史観の通説による解説は単純なもので、蜂屋遺跡には法隆寺と関係が深い勢力があり、法隆寺の瓦、あるいはその笵型を得て当地に寺院を造営したという理解で済ませているようです。
 仮に当地に法隆寺と関係が深い勢力があったとしても、報道されている出土事実からは、その同笵瓦がどちらからどちらへもたらされたのかは不明だと思うのですが、専門家の解説では矢印は法隆寺から蜂屋遺跡へとされており、一元史観という「岩盤規制」により、文化は畿内から他地方へというベクトルが無条件に採用されているかのようです。こうした理解で済ませるのは「思考停止」状態だと、わたしは思うのです。
 それでは古田史学・九州王朝説の立場からはどのような推論や論理展開が可能でしょうか。(つづく)

【京都新聞EWEB版より転載】
法隆寺と同じ軒瓦出土、関連寺院造営か
滋賀、飛鳥時代の遺跡

 滋賀県文化財保護協会は1日、縄文時代から中世にかけての集落遺跡「蜂屋遺跡」(栗東市蜂屋)で新たに建物の溝跡が見つかり、法隆寺とその周辺以外では見られない軒瓦が出土した、と発表した。飛鳥時代後半(7世紀後半)の軒瓦で、「法隆寺と強い関連があった寺院がこの土地で造営された有力な手掛かり」といい、専門家は当時では有数の文化拠点があった可能性を指摘している。
 河川改修に伴い約6千平方メートルを調査。発見された溝跡は4カ所で、幅約1メートル〜約3.5メートル、深さ約20センチ〜約40センチ。飛鳥時代の築地塀跡とみられる。南北の長さは約10メートル〜約24メートルにわたり、中から大量の瓦が出土。法隆寺や同寺に隣接する中宮寺でしか確認されていない「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」が2点確認された。
 軒瓦は「笵(はん)」と呼ばれる木型で作られ、繰り返し使われると笵に傷ができる。そのため、同じ笵で瓦を作ると、文様とともに傷も写し出される。2点の軒瓦はハスの花の文様で、花托(かたく)に小さく膨らんだ傷があった。この傷や文様の細かな配置が、法隆寺創建当時の遺構とされる「若草伽藍(がらん)」の軒瓦と一致するという。
 奈良時代の資料によると、蜂屋遺跡がある栗東市北部は当時、法隆寺の水田や倉があったとされる。今回の軒瓦の発見で、同寺との関係が飛鳥時代にさかのぼれるという。
 出土した瓦からはほかにも県内では数点しか見つかっていない法隆寺式軒瓦が50点以上確認された。
 同協会は「法隆寺から軒瓦が持ち込まれたか、この土地で同じ笵を用いて軒瓦を作ったと考えられる。法隆寺と強いパイプを持った有力者がいた」と説明。滋賀県立大の林博通名誉教授(考古学)は「第一級の仏教文化が培われ、当時では国内有数の文化拠点があった可能性がある」と話す。


第1769話 2018/10/07

土器と瓦による遺構編年の難しさ(6)

 創建法隆寺(若草伽藍)出土瓦には異なる年代のものが併存しているにもかかわらず、『昭和資財帳』によればそれら多種類の軒瓦は「前期(592-622年)」「中期(622-643年)」「後期(643-670年)」と分類されています。この分類の当否は別として、これほど暦年にリンクできたのは『日本書紀』という文献史料の存在があったからです。『日本書紀』に記された法隆寺関連記事を根拠に、相対編年した瓦を暦年にリンクできたのですが、その場合は『日本書紀』の法隆寺関連記事が正しいという前提が必要です。特に古田学派にとっては、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠し、近畿天皇家に不都合な記事は書き換えられている可能性があるという立場に立っていますから、なおさら慎重な史料批判が必要です。
 この点に関しては、天智19年条の記事「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」の通り、火災の痕跡を示す若草伽藍が発見されたことにより、『日本書紀』の法隆寺関連記事は信頼できるとされました。少なくとも創建年代や焼亡年代について積極的に疑わなければならない理由はありませんから、出土瓦は606年(推古14年)の創建頃から670年(天智19年)の焼失までの期間に編年されたわけです。このように瓦の編年が暦年にリンクできたのはとても恵まれたケースといえます。
 付け加えておきますと、法隆寺西院伽藍から出土した一群の瓦は「法隆寺式瓦」と呼ばれますが、これは創建法隆寺(若草伽藍)が焼亡した後、和銅年間に移築された現法隆寺(西院伽藍)の移築時に使用された瓦と思われます。その文様は複弁蓮華文などで7世紀後半から8世紀に編年されています。西院伽藍そのものは五重塔芯柱の年輪年代測定などから6世紀末頃から7世紀初頭に建立された寺院と見られており、古田学派では九州王朝の寺院を移築したものと理解されています。しかし、移築時に重く割れやすい瓦は持ち込まれず、斑鳩の近くで造られた瓦が使用されたのではないでしょうか。少なくとも「法隆寺式瓦」の編年を7世紀初頭とすることは無理ですから、このように考えざるを得ません。(つづく)


第1768話 2018/10/06

土器と瓦による遺構編年の難しさ(5)

 瓦の編年も土器と同様に軒丸瓦や軒平瓦の文様などにより行うのですが、製法の違いも編年に利用されます。たとえば「紐造り」「板造り」などの製造技術によっても相対編年が可能とされています。ただ土器編年と異なり、瓦が古代建築に使用された歴史は新しく、国内では6世紀末頃からですので編年に利用できるのはそれ以後と限定されます。しかし、6世紀末頃からですと『日本書紀』など文献史料による記事と対応できるケースが増えますので、場合によってはピンポイントで創建年(暦年)と瓦の編年がリンクできるという長所になります。
 国内における瓦の使用は主に寺院とされていますから、文献史料にその創建年の記録が残されていれば、創建瓦の暦年とのリンクが可能となる長所があるのですが、瓦の葺き替えというケースもあって、異なる年代と編年された瓦が同じ場所(層位)から出土するという現象が発生します。このことが瓦による遺構の編年(創建年判定)を難しくする要因となるのです。
 有名な例で説明しますと、法隆寺若草伽藍(7世紀初頭の創建法隆寺)出土瓦の事例が顕著にこの問題を現しています。この「創建法隆寺」は考古学的には若草伽藍と呼ばれており、『日本書紀』によれば606年(推古14年)の創建、670年(天智19年)に焼失したとされています。その若草伽藍跡から異なる時代と編年された瓦が出土しているのですが、その理由として考えられるのが瓦の葺き替え、あるいは部分的取り替えというケースです。
 若草伽藍は創建から焼失まで約60年間存続しており、仮に10年に一度のペースで葺き替えや部分修理が行われた場合では、最大で約50年ほどの時代が異なる瓦が併存することとなります。その結果、大きく編年の異なる瓦が焼失時に同じ場所の同じ層位に埋まるという遺構状況が発生するのです。こうした現象が瓦による遺構編年の難しさの一因としてあげられます。(つづく)


第1540話 2017/11/16

天寿国繍帳のグリーン色の謎

 今日は終日大阪での学会発表(繊維応用技術研究会)を聴講しました。信州大学でエレクトロスピニングによるナノファイバー量産化技術を開発し、自らベンチャーを起業された渡邊圭さん(株式会社ナフィアス社長、30歳)の発表の座長を務めさせていただきました。また、天然染料を研究されている武庫川女子大学の古濱裕樹先生とは懇親会で古代の天然染料について意見交換しました。
 古濱先生によれば、天然色素は緑色で良いものがないとのことなので、クロロフィル(葉緑素。テトラピロール環の中心にマグネシウムを配位した分子骨格)は利用できないかと質問したところ、葉っぱをすりつぶしてそのまま着色するという技術はあるが、すぐに退色するとのこと。そこで、奈良の中宮寺にある国宝「天寿国繍帳」は飛鳥時代の作品だが、緑色の亀の部分の色素は現代まで退色しておらず、どのような色素が使用されたのかを懇親会で論議しました。
 古濱先生の見解では、藍の青色と黄色の染料の重ね染めと思うが、黄色の染料は退色が早いので、飛鳥時代の黄色が現在まで残るとは考えられないとのことでした。わたしは鎌倉時代に補修した部分は緑色の部分が黄色に変色しており、むしろ青色の染料の退色が早いことを示しているのではないかと思いました。結論は出ませんでしたが、久しぶりの古代染色論議で楽しい時間を持てました。現代化学の技術や知見でも古代染色技法を解明できないことに、古代人の英知を感じました。
 渡邊社長のご講演では、ナノファイバーでのプルシアンブルー(青色顔料)担持により、ゼオライトよりも効果的なセシウムの吸収が可能との報告がありました。福島原発から放出した放射性セシウムの防護・回収フィルターへの利用を想定されているのですかと質問したところ、その通りですとのこと。渡邊さんは福島市ご出身で、同技術が故郷の除染に貢献できればよいなと思いました。
 若い研究者との対話はいつも新鮮でエキサイティングです。わたしは定年まで残すところ3年を切りましたが、この夏に開発に成功した、太陽光発熱色素と同染色技術を世に送り出すことが勤務先や業界への最後のご奉公になりそうです。


第1399話 2017/05/17

塔心柱による古代寺院編年方法

 今日、出張先の書店で別冊宝島『古代日本の伝統技術』を購入しました。わたし自身も業界誌『月刊加工技術』に「古代のジャパンクオリティー」という古代日本の各種技術を紹介するコラムを連載したこともあって、同書の内容に興味をそそられました。
 中でも「古代からの建築技術に隠された制振システム」に記された古代寺院の塔の制振構造の図に注目しました。ご存じのように寺院建築において五重塔などの優れた制振構造により、日本のような地震国にあっても寺院の塔が地震で倒れたという例はほとんどありません。その基本技術は中心の心柱とそれを囲む四天柱(してんばしら)と外側の側柱(がわばしら)の組み合わせにあるとされています。とりわけ、心柱の構造は制振技術のキーテクノロジーと見なされています。
 わたしは古代寺院の編年基準として瓦の様式編年の他に、この心柱の構造も編年基準の参考になると考えています。それは、7世紀頃(飛鳥時代)の心柱は基壇の地中に埋め込まれている「堀立型」であり、8世紀頃(白鳳時代〜奈良時代)になると基壇上の礎石の上に心柱が乗る形式(心礎上型)が主流となります。このことを大阪歴博の考古学者で古代建築の専門家、李陽浩さんから教えていただきました。
 わたしがこのことに興味を持った理由は、多元的「国分寺」研究において、7世紀に九州王朝の命により建立された寺院(国府寺)と、8世紀中頃に聖武天皇の命により建立された国分寺の遺構を区別する判断基準として、瓦の編年以外にも何かないものかと考えていたからでした。
 たとえば法隆寺は心柱の下に礎石はなく、地下空洞があり、今では地下部分の心柱は朽ち果てていますが、元々は心柱が地中に埋まっていたと見られています。他方、太宰府の観世音寺は心柱や側柱の礎石が残っており、基壇上の礎石に心柱などが乗せられていたことがわかっています。しかも、観世音寺の場合、心柱の礎石上面が他の側柱礎石上面よりもやや高い位置にあったようです。ちなみに、鎌倉時代以降になりますと、心柱の位置は更に上昇することが知られています。それは「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。
 わたしの研究では観世音寺の創建年は白鳳十年(670)ですから、九州王朝でも7世紀後半の白鳳時代には、塔の心柱は「堀立柱」方式から「礎石」方式に変わっていたと思われます。こうした塔の心柱の時代変遷が『古代日本の伝統技術』には描かれており、改めて多元的「国分寺」の編年研究に役立つことを確認できました。
 なお、現・法隆寺の移築元を創建・観世音寺とする説がありましたが、塔心柱の様式(礎石の有無)や柱間の距離が両者では全く異なっており、時代も規模も別物であることは一目瞭然です。学問研究の自由、学説発表の自由は尊重されなければなりません。ですから、このように「実証」とは大きくくい違う説が出てくることもあるものです。