「 大和朝廷 」一覧

第1975話 2019/08/29

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)

 飛鳥に君臨した天武天皇の官僚として「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」と称された人々がいたことは、出土木簡から明らかですが、その官僚組織の全体像や人数・規模は不明です。通説のように「飛鳥浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたのであれば、数千人規模の官僚群が全国統治には必要ですが、当時の天武天皇らの統治領域が日本列島のどの範囲にまで及んでいたのかも、多元史観・九州王朝説の視点からはまだ不明です。
 九州王朝から大和朝廷への王朝交替後であれば、藤原宮(京)や平城宮(京)には全国統治のための官僚群約八千人がいたとされています(服部静尚説)。これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。『日本書紀』によれば朱鳥元年(686)に前期難波宮は焼失していますが、難波京全てが焼けたわけではありません。少なくとも『日本書紀』には難波京全体が焼失したとは記されていません。そのため、九州王朝官僚群の多くは無傷で残ったものと思われます。
 このように想定したとき、7世紀末頃の急速な大和朝廷の立ち上げとスムーズな王朝交替(701年での全国一斉の評から郡への変更)が可能となったことをうまく説明できるのではないでしょうか。(つづく)


第1964話 2019/08/15

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(1)

 「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判〟で紹介した小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)は、飛鳥宮についての大和朝廷一元史観(通説)による最新の論稿が収録されており、その「飛鳥宮」論がどのような根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)により成り立っているのかを勉強する上でも好適な一冊でした。市大樹さんの名著『飛鳥の木簡 -古代史の新たな解明』(中公新書)と併せ読むことにより、更に理解が深まりました。
 晩年の古田先生は七世紀の金石文に見える「飛鳥宮」などを、小郡市の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名史料に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることなどを根拠に、小郡にあった「飛鳥宮」のこととする説を発表されました。その後、古田学派内では筑前・筑後の広域「飛鳥」説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、大宰府政庁(Ⅱ期)とする太宰府「飛鳥浄御原宮」説が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表され、今日に至っています。
 今のところ、わたしはいずれも有力としながらも賛成できないでいます。その理由は、当地に「飛鳥」地名が現存しないことなどです。他方、通説の大和「飛鳥宮」は考古学的痕跡や『日本書紀』の記事との対応など、強力なエビデンスを背景に成立しています。そこで、九州王朝説との齟齬をきたさない、大和「飛鳥宮」の位置づけが可能なのかという問題意識もあり、一度、通説をしっかりと勉強する必要を感じていました。そんなときに出会ったのが小澤さんの『古代宮都と関連遺跡の研究』でした。
 同書や市さんの『飛鳥の木簡』などを参考にしながら、大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証を試みることにします。まだ、結論には至っていません。本テーマを「洛中洛外日記」で取り上げながら、認識を深め、新たな仮説提起へと至れば幸いです。しばらく、このテーマにお付き合いください。(つづく)


第1963話 2019/08/14

「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判

 「洛中洛外日記」1944話(2019/07/19)「巨大前方後円墳が天皇陵とは限らない」で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演を紹介しました。服部さんは、河内・大和の巨大前方後円墳を天皇陵とすることはできないとされ、天皇陵は同時代の古墳の中で常に最大とは限らず、古墳の規模を比較して大和朝廷の天皇陵が最大であるとした大和朝廷一元史観の根拠は学問的検証に耐えられないことを明らかにされました。
 この服部さんと同様の指摘は一元史観に立つ考古学者からもなされています。それは昨年発刊された小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)に収録された「天皇陵は同時代最大の古墳だったか」という論文です。著者の小澤さんは三重大学人文学部教授で、橿原考古学研究所や奈良文化財研究所にも在籍されていた方のようです。
 同論文は次のような「挑発的」な書き出しで始まります。

 「考古学者の間では、天皇(大王)陵は同時代で最大の古墳であったはずだ、という理解は、たぶん一般的なものではないかと思う。むしろ、あらためていうまでもない当然のこととして、これを前提とした論議がおこなわれている例もしばしば見受けられる。しかし、本当にそうなのだろうか。」(95頁)

 このように考古学界の通念に疑問を投げかけられ、一例として、奈良県下の最大の規模を持つ五条野丸山古墳の被葬者が欽明天皇ではなく、蘇我稲目とその娘堅塩媛(初葬時)であるとされ、

 「たとえば五世紀にくらべて六世紀の天皇陵の規模は概して小さくなるけれども、これが単純に権力の縮小を示すものではないように、古墳の規模をそのまま権力の大小に結びつけるのは短絡的にすぎる。そもそも、当事者にとって巨大な墳丘を築造する必要性がどれだけあったのか、という点こそが、まず問われねばならないだろう。必要があるからつくるのであって、そうでなければ、わざわざつくる理由は乏しいからである。」(96頁)

 と主張されています。この視点はもっともなものと思われます。更に、天皇陵が同時代最大規模の古墳とならないケースとして、次のような例も想定されています。要約します。

①当時の天皇陵は寿陵(被葬者が生前から造営を開始した墓)がかなり多く含まれていると思われる。
②記紀によれば、六世紀まで皇位継承順序は必ずしも安定したものではなかった。
③当然、皇位につくことが予定されていなかった人物が結果的に天皇となったこともある。
④その場合、彼らが即位前にみずからの墓を築造していたとすれば、それが同時代で最大規模となるのは極めて難しいことになってしまう。

 この小澤さんの指摘は論理的です。なお、小澤さんは天皇となる人物にだけ寿陵築造が許されたという原則があったと考えることは無理とされています。
 一元史観に立っておられるので、多元史観・九州王朝説のわたしからみると不十分・不適切な記述もあるのですが、従来の考古学界の通念に対して、果敢に論理的に批判される学問的姿勢には共感を覚えます。論文の最後を次の言葉で締めくくっておられることも、傾聴に値します。

 「考古学者の多くが無批判に受け入れている『同時代最大の古墳=天皇陵』という仮説は、証明不能ないくつかの前提のうえに構築された砂上の楼閣にすぎず、成立しがたいのである。そろそろ、この種の思い込みと呪縛から解き放たれるべき時機にきているのではないだろうか。」(97頁)

 小澤さんのような学者が一元史観の学界の中心部から登場されたことに、時代の変化を感じました。

〔追記〕同書収録論文「『魏志倭人伝』が語る邪馬台国の位置」によれば、小澤さんは考古学界には珍しい「邪馬台国」北部九州(福岡県等)説です。


第1960話 2019/08/11

飛鳥池木簡に記された天武の勢力範囲

 今日はお盆休みを利用して、久しぶりに京都府歴彩館に行き、図書を閲覧しました。隣接した京都府立大学文学部図書館にある飛鳥・藤原京出土木簡の報告書を精査したところ、天武の時代の飛鳥浄御原宮の勢力範囲を示唆する木簡が出土していたことを確認しました。次の「丁丑年」(天武六年、677年)木簡二点です。奈良文化財研究所の木簡データベースから転載します。
 「丁丑年」(天武六年、677年)といえば「壬申の乱」の五年後です。その時代既に美濃(三野)国加尓評・刀支評から「次米」の貢献を受けていたことを示す荷札木簡ですから、この時期には「天皇」を称するにふさわしい権力者に天武は上り詰めていたことがうかがえます。
 この数年後には藤原宮(京)の造営も開始しますから、律令による全国支配を飛鳥宮にいた天武ら近畿天皇家が想定していたことは明らかです。701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交替する二十年以上前の近畿天皇家の政治権力の様相の一旦を明らかにした貴重な木簡といえるでしょう。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】193
【本文】丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/○物部○古麻里∥
【寸法(mm)】縦 146 横 31 厚さ 4
【型式番号】031
【出典】飛鳥藤原京1-193(荷札集成-105・木研21-19頁-(18)・飛13-15上(58))
【文字説明】
【形状】三片接続(刃物を入れ手で割き三片に分離)、上削り、下削り、左削り、右削り。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNH34
【内容分類】荷札
【国郡郷里】美濃国可児郡〈三野国加尓評久々利五十戸〉
【人名】物部古麻里
【和暦】(丁丑年)天武6年12月
【西暦】677(年), 12(月)
【木簡説明】左右三片接続。三片の側面は、それぞれ上半部では平滑であるが、下半部では割れ面が目立つ。三片に分離する際、途中まで刃を入れた上で、手で割いたことを示そう。接続した状態では四周削り。上下の左右に切り込みをもち、上部左側は三角形、下部右側は台形。「丁丑年」は天武六年(六七七)。「次米」は諸説あるが、「次」と「米」の合成字である「粢(しとぎ)」に餅の意があること、十二月に糯(餅)米を貢進する例がある(「平城宮木簡二』二七〇四号)ことから、正月儀式用の糯米の可能性が高い(吉川真司「税の貢進」「文字と古代日本三」吉川弘文館、二〇〇五年)。「三野国加尓評久々利五十戸」は、『日本書紀』景行四年二月甲子条に美濃国行幸時の行宮としてみえる泳宮に関係する地名であろう。泳宮は『万葉集』三二四二番歌では「八十一隣之宮」とみえる。

【木簡番号】721
【本文】・丁丑年十二月三野国刀支評次米・恵奈五十戸造○阿利麻\舂人服部枚布五斗俵
【寸法(mm)】縦 151 横 28 厚さ 4
【型式番号】032
【出典】飛鳥藤原京1-721(荷札集成-107・木研21-19頁-(13)・飛13-13下(44))
【文字説明】
【形状】上削り、下削り、左削り、右削り、上端裏面わずかに面取りする。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1110
【地区名】5BASNJ33
【内容分類】荷札
【国郡郷里】(美濃国恵奈郡絵上郷〈三野国刀支評恵奈五十戸〉)・(美濃国恵奈郡絵下郷〈三野国刀支評恵奈五十戸〉)
【人名】恵奈五十戸造阿利麻・服部枚布
【和暦】(丁丑年)天武6年12月
【西暦】677(年), 12(月)
【木簡説明】四周削り。上端は裏面をわずかに面取りする。上部左右に浅い切り込みをもち、左側は台形。一九三号と同じく「丁丑年十二月」(天武六年、六七七年)の年月を記す三野国からの「次米」荷札である。一九三号とは違って下部に切り込みをもたないが、形状・法量は近似する。上半部には縦方向にほぼ三等分する位置で切れ目が入るが、一九三号と異なり、完全に割かずに廃棄されている。「三野国刀支評恵奈五十戸」は「和名抄』美濃国恵奈郡絵上・絵下郷に該当する。恵奈郡の中心をなすサトが「刀支評」(後の土岐郡)に管せられていることから、恵那評は存在しなかったとみられ、その初見が天平勝宝二年(七五〇)まで降る(美濃国司解〈『大日本古文書三』三九〇頁〉)こととも関係しよう。「次米」の貢進責任者は「恵奈五十戸造阿利麻」であるが、舂米作業に従事した「服了枚布」の名前も記す。この「五十戸造」は氏姓が明瞭でないが、その職掌・地位にあることがその者の素性を証明することにつながるため、あえて記さなかった可能性がある。


第1958話 2019/08/07

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(8)

 本シリーズにおいて、「千仏多宝塔銅板」や「小野毛人墓誌」の年次表記に九州年号が使用されていないことに留意が必要と、わたしは指摘しました。「釆女氏榮域碑」にも九州年号は使用されていません。これらの金石文の史料性格と九州王朝律令における年号使用規定について少し論じておきたいと思います。
 『東京古田会ニュース』No.184(2019.01)に発表した拙論「九州王朝「儀制令」の予察 -九州年号の使用範囲-」において、わたしは九州王朝律令により定められた九州年号の使用範囲について考察しました。たとえば、大和朝廷の『養老律令』儀制令で次のように年号使用が規定されています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

 同様の条文が『大宝律令』にもあったと考えられていますが、おそらくは九州王朝律令にもあったのではないでしょうか。九州年号を公布した九州王朝がその年号の使用規定を律令で定めなかったとは考えられないからです。
 公文である戸籍や僧尼の名籍、そして冠位官職の「認定証」などの詔書類には九州年号が記されていたとわたしは考えています。特に庚午年籍のように長期保管を前提とした公文は干支だけでは60年ごとに廻ってくるので、どの時代の「庚午」なのかを特定するためにも年号使用が便利かつ必要です。同様に墓碑や墓誌銘も、没後長期にわたって遺存することを前提としますから、やはり干支だけでは不十分なため、年次特定に便利な年号が使用されたと思われます。そのことについて、先の拙論では次のように述べました。

 〝後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては六十年毎に廻ってくる干支表記だけでは不十分ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠として、「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)、「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)、「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。
 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)
 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせへの聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(六六一-六八三年)から朱雀(六八四-六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。」〟
 (古賀達也「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」、『東京古田会ニュース』No.184所収)

 他方、今回紹介した近畿出土・伝来の金石文、特に墓誌(小野毛人墓誌)・墓碑(釆女氏榮域碑)には九州年号が使用されていません。そのため、「小野毛人墓誌」は冒頭に「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)と記されていることにより、末尾の年次表記「丁丑年」が天武天皇の六年(677年)であることが墓誌を読む人にも特定できるような構文となっているのです。「釆女氏榮域碑」も同様で、冒頭に「飛鳥浄原大朝廷」とあり、末尾の「己丑年」が持統三年(689年)のことと特定できます。
 もしこれらが九州王朝の臣下の墓誌・墓碑であれば、たとえば「白鳳十七年丁丑」「朱鳥四年己丑」と記すだけで、故人が九州王朝配下の人物であることを示し、それぞれの絶対年次も過不足無く特定できるのです。ところが、九州年号の時代であるにもかかわらず、あえて九州年号を使用せず、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「飛鳥浄原大朝廷」と表記することにより、九州王朝ではなく大和「飛鳥」に君臨した近畿天皇家直属の臣下であることを主張した銘文となっているのです。
 この高官の墓誌・墓碑銘に九州年号が使用されておらず、「飛鳥浄原」という大和「飛鳥」と理解できる地名表記(「飛鳥」地名の遺存や宮殿遺構出土というエビデンスを持つ)が使用されていることに九州王朝説論者は注目すべきです。(つづく)


第1954話 2019/08/01

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(4)

 飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」などの考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証により、飛鳥の地で天武が「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを指摘しました。この近畿天皇家中枢の地から出土した同時代木簡という最強のエビデンスにより、安定して成立した仮説を基礎にして、更に他の同時代金石文により、論理を展開(論証)します。
 その同時代金石文とは奈良県桜井市の長谷寺に古くから秘蔵されてきた「千仏多宝塔銅板」です。その銅板の銘文には「天皇陛下」「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」という文字が記されており、この「天皇」を天武または持統とする説が有力視されています。この銅板の成立は銘文に記された「歳次降婁漆菟月上旬」という年次表記が「戌年の七月上旬」を意味することから(伴信友説)、686年(丙戌、朱鳥元年)か698年(戊戌、文武二年)のこととする諸説が発表されています。いずれにしても、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡とほぼ同時代と見なすことができます。
 銘文には「道明」という制作者名も記されており、他の史料(『扶桑略記』『七大寺年表』『東大寺要録』)では「道明」を斉明や天武と関係が深い奈良県明日香村の弘福寺(川原寺)僧としていることから、「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」の為に造ったと記されているこの銅板は7世紀後半の大和で成立したと考えて全く問題ありません。というよりも、それ以外の理解(仮説)を支持するエビデンス(史料根拠)はありません。
 以上の論理展開(論証結果)によるなら、飛鳥に割拠した天武や持統は「天皇」号を名乗り、その宮殿は「飛鳥浄御原大宮」と呼ばれていたことになります。そしてその考古学的根拠(エビデンス)として、比較的大規模な「伝板葺宮」「エビノコ郭」遺跡が飛鳥池の近傍にあり、その遺跡を「飛鳥浄御原大宮」とする仮説が成立します。なお、この宮殿遺跡は前期難波宮よりも規模が劣りますが、大宰府政庁よりも巨大です。7世紀後半頃の大和飛鳥にこの規模の宮殿遺跡が存在することを多元史観・九州王朝説論者は軽視してはいけません。更に、「千仏多宝塔銅板」銘文に九州年号が使用されていないことにも留意が必要です。(つづく)


第1953話 2019/07/29

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(3)

 前話で紹介した7世紀以前の金石文や史料に見える「天皇」のうち、最も明確で説得力を持つのが飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」です。その出土層位から7世紀後半の天武期の木簡と編年されていますし、そこに記された皇子たちの名前が『日本書紀』に見える天武天皇の子供の名前とほぼ一致していますから、考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証力を有しています。同時代文字史料が極めて少ないという古代史研究においては極めて珍しい理想的なケースなのです。

 【『日本書紀』天武の皇子・皇女】
○斉明七年正月条 大伯皇女(大来皇女のこと)
○天武二年二月条 大来皇女 大津皇子 舎人皇子 穂積皇子

 この他にも飛鳥池からは最高権力者が用いる「詔」木簡などが出土しており、この地の権力者が7世紀後半に「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを証明しています。そしてその皇子の名前が『日本書紀』の記事に対応していることから、飛鳥の地で近畿天皇家は天武の時代には「天皇」を称していたと理解せざるを得ません。こうした史料事実をエビデンスとして、一元史観では「天皇」号を称したのは天武の時代からとする説が最有力と見なされています。
 多元史観・九州王朝説に立つわたしも、この史料事実とそれに基づく理解については否定できないのです。実は古田先生との対話でも、この飛鳥池出土「天皇」木簡について意見が対立しました。古田先生はこの「天皇」も九州王朝の天子のことと理解されていました。ただ、その根拠は「天皇とあれば九州王朝の天子のこと」と説明されただけでしたので、わたしとの対話は平行線をたどりました。
 この飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は古田旧説(ナンバーツーとしての「天皇」)であれば矛盾無く説明できますが、古田新説での説明はかなり困難ではないでしょうか。もし古田新説で説明しようとすると、九州王朝の天子が7世紀後半頃に飛鳥にいて、その皇子たちの名前が天武の子供らと偶然一致していた、あるいは天武の子供たちの名前を九州王朝の天子の子供たちの名前に書き換えて『日本書紀』を編纂し、王朝交替後も「舎人親王」などのように九州王朝の天子の子供たちの名前を天武の実子たちは〝借用〟したとでも言うほかありません。しかし、このような解釈は説得力を持たないでしょうし、何よりも「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」を九州王朝の皇子たちの名前であるとするエビデンス(史料根拠)がありません。また、九州王朝の存在を隠した『日本書紀』編者や天武の実子たちがそのような改名をわざわざ行う必要性もメリットもありません。更に言えば太宰府条坊都市や前期難波宮・難波京という大規模な都城・宮殿を持つ九州王朝の天子が、飛鳥のような狭い地域の前期難波宮よりもはるかに小規模な飛鳥宮に〝遷都・遷宮〟する必要もありません。
 以上のような理由から、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は近畿天皇家の人物を示すとするほかありません。そうしますと、王朝トップの「天皇」が豪族に与える「八色(やくさ)の姓(かばね)」の「真人」姓を自らの名前中に持つ天武(天渟中原瀛眞人天皇)は古田旧説のようにナンバーツーとしての「天皇」号を称していたことになります。史料根拠と平明な論理性に基づく限り、わたしにはこの理解しか今のところできません。
 そして、一旦この理解に立つと、近畿から出土・伝来した7世紀の史料中に見える「天皇」号を九州王朝の天子の別称とする理解は困難となります。なぜなら、もし九州王朝の天子が「天皇」号も名乗っていたのであれば、ナンバーツーの天武に自らと同じ称号「天皇」を名乗ることを許すとは考えられないからです。ただ、次の可能性もあります。それは、壬申の乱に勝利した天武の時代には近畿天皇家が実力ナンバーワンとなり、九州王朝の天子と同じ「天皇」を自称したというケースです。この場合は、天武は飛鳥の宮で「天皇」を自称し、その実力で各地の豪族への支配を開始したということになります。わたしはこの二つの可能性(①ナンバーツー「天皇」号を飛鳥の天武は許された。②ナンバーワン「天皇」を天武は飛鳥で自称した。)について検討を続けています。(つづく)


第1952話 2019/07/28

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(2)

 わたしが古田旧説の根拠と考える7世紀以前の金石文や史料に見える「天皇」を紹介します。それは次の諸史料です。

○596年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○607年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○668年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○677年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○680年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(奈良県明日香村飛鳥池出土)
○686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)

 このように7世紀以前の「天皇」号史料は全て近畿で出土、あるいは伝来したもので、これら全てを北部九州(太宰府など)の九州王朝の天子のこととするのは困難ではないでしょうか。わたしの見るところ、野中寺の弥勒菩薩像台座銘の「中宮天皇」だけは九州王朝系の「天皇」(皇后か)の可能性を有していますが、他は近畿天皇家の天皇のことと理解する方が穏当です。
 これら近畿出土・伝来史料中の「天皇」を九州王朝の天子のことと判断できる他の史料根拠もないことから、古田新説はエビデンスに基づく論証というよりも当該史料そのものの〝解釈〟の積み重ねになりかねません。そうした方法で「天皇」を九州王朝の天子とするのは無理筋というものです。もちろんその方法を全否定はしませんが、その結果出された仮説は学問の方法としてはかなり不安定で危険なものと言わざるを得ません。(つづく)


第1951話 2019/07/27

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(1)

 九州王朝と近畿天皇家との関係について、古田先生は701年の王朝交替より前は、倭国の代表者としての九州王朝の天子に対して、筆頭臣下の近畿天皇家はナンバーツーとしての「天皇」を称していたとされました。ところが晩年に、7世紀の金石文などに残る「天皇」を九州王朝の天子の別称とする新説を発表されました。わたしは古田旧説を支持していましたので、この新旧の古田説の当否について古田先生との対話を続けてきました。
 わたしが古田旧説を支持している理由は、7世紀の金石文や史料、あるいは実物は現存していないが写本や拓本に残された「天皇」号史料などが近畿地方で出土あるいは伝来しており、その内容が『日本書紀』に記された近畿天皇家の事績とも大きく矛盾しないことなどによります。
 本シリーズでは古田先生との対話で取り上げた史料などを紹介し、わたしが古田旧説を支持している理由を説明します。もちろん私見への批判を歓迎します。学問は批判や真摯な論争・応答により深化発展するという性質を持っているからです。(つづく)


第1947話 2019/07/24

天皇陵編年と天皇即位順の不整合

 前方後円墳の数では大和朝廷一元史観の根拠とはできないことから、一元史観論者は河内・大和に存在する巨大前方後円墳を自説の根拠としました。この根拠が一元史観の最後の拠り所(エビデンス)となっているわけですが、この巨大前方後円墳を天皇陵とすることそのものが学問的論証の上に成立しているのかという根源的疑問を提起されたのが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」でした。そしてその結論として、『延喜式』に記された天皇陵の比定は疑わしいとされたのです。
 その理由の一つとして、天皇の即位順と当該天皇陵の編年が逆転している例をあげ、『延喜式』編纂時の近畿天皇家は自らの祖先の陵墓についての伝承を失っていたと考えざるを得ないとされました。
 服部さんが天皇陵の逆転の事例として、次の天皇陵をあげられました。

○11代垂仁天皇陵(4世紀末〜5世紀初頭)・12代景行天皇陵(4世紀中頃)
○14代仲哀天皇陵(5世紀後半)・仲哀の妻、神功皇后陵(4世紀後半〜5世紀初頭)
○16代仁徳天皇陵(5世紀半)・17代履中天皇陵(5世紀初頭)
○24代仁賢天皇陵(6世紀前半)・26代継体天皇陵(5世紀中頭)

 こうした事例から、服部さんは天皇陵に比定された河内や大和の前方後円墳などは天皇家とは別の在地勢力者の墓ではないかと考えられたのでした。
 この論理性(理屈)は穏当なものと思われますが、更に深く考察しますと、比定された天皇陵の年代は全体としては考古学的編年と大きくは外れていないという事実もあります。「古田史学の会」関西例会でわたしはそのことを指摘し、天皇陵の研究をされていた谷本茂さんも同見解でした。ということは、『延喜式』を編纂した天皇家の官僚たちは、古墳時代の天皇家の陵墓に関する伝承や情報をあまり持っていなかったが、河内や大和の巨大古墳を造営した勢力の伝承についてはある程度知っており、その伝承の年代に合うように各古墳を歴代天皇の陵墓に推定(置き換え)したという可能性を導入しなければならないと思います。
 このように細部にわたる検証は残されていますが、服部さんが指摘された論点は一元史観が最後の拠り所とする巨大前方後円墳に対する根源的批判として成立しており、有力な仮説と思います。(つづく)