「 大和朝廷 」一覧

第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)


第1864話 2019/03/28

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で書いています。早朝から京都駅新幹線ホームには警察犬を連れた京都府警のおまわりさんがものものしく警邏していました。今までにない警備体制でしたので、「何か事件でもあったのですか」とたずねると、「天皇陛下が来られるので」とのこと。そういえば昨日は拙宅近くの京都御所に来られましたので、これから東京に戻られるのでしょう。仕事がなければホームでお見送りできたのですが、残念です。これまでも京都駅や拙宅前で、何度か両陛下やこの5月に新天皇に即位される皇太子殿下を遠くから拝する機会がありましたが、それは京都ならではの光景かもしれません。

 大宝元年(701)に九州王朝(倭国)から王朝交替により列島の代表王朝となった近畿天皇家が今上天皇まで千三百年以上続いているということは世界史的に見ても稀有なことですが、その天皇家も王朝交替直後に何度か危機的状況に遭遇しています。たとえば天平年間には天災が発生し、九州(大宰府官内)から流行した伝染病(天然痘か)により大和朝廷の有力者が次々と病没しています。次のようです。

天平六年(734) 四月 大地震発生
天平七年(735) 五月 流星群出現
        八月 大宰府官内で疫病流行
        九月 新田部親王薨
       十一月 舎人親王薨
       この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行

 こうした国家的災厄に応じて、大和朝廷は天平七年五月に宮中や大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺で大般若経の転読を行ったり、八月には太宰府観世音寺等で金剛般若経を読ませたりしています。しかし、その効果なく親王たちが没したため、天平八年二月二二日に法隆寺で法会が執り行われています。このとき、法隆寺に大量の品々が献納されました。翌天平九年(737)にも、藤原房前(四月)、藤原麻呂(七月)、藤原武智麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢にあった藤原一族の有力者が次々と没しています。(つづく)


第1851話 2019/03/07

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(3)

 小笹豊さんは「九州見聞考」において、九州考古学界の重鎮、鏡山猛氏について次のような指摘をされています。

 〝(前略)鏡山氏は、軍役にも就いた経験もある、考古学・古代史学に、通説以外の見解がなかった(古田史学が登場する以前)時代、世代の考古学者で、当然のことながら氏の頭に九州王朝論はなく、通説だけが氏の頭に描かれた古代史解析の基礎となったパラダイムである。それは氏個人の責任ではないが、このことが氏にとって、観世音寺を、当否は別として、法隆寺西院伽藍の移築もととする米田氏のような自由な発想と比べて‘枷’になっていることと、そのパラダイムが戦前の皇国史観の延長線上のものであるという、学問上の本質的な問題点を抱えていること自体は否めない。〟

 小笹さんは続けて次のようにも述べられています。

 〝考古・古代史学は‘昔’を解析する学問であるが、実際に解析・解釈を担当しているのは、現代を含め、対象の年代から見れば後代の人々であって、その解析・解釈にはそれぞれの時代的・社会的背景が作用していることであろう。〟

 こうした小笹さんのご指摘は重要なもので、わたしも同様の視点で、常々、発言もしてきました。というのも、古田学派の研究者や古田ファンの少なからぬ方々が、考古学者による遺跡や出土物の説明を一元史観に基づいているとして批判・非難されることがあるのですが、わたしたち古田学派の人間が思っているほど考古学者は古田史学・九州王朝説を正しく十分に理解・認識されているわけではなく、従って遺跡・遺物に対する解析・解釈は通説(近畿天皇家一元史観)に基づかざるを得ず、またそうすることが彼らにとっての〝学界の基本ルール〟でもあるのです。
 この〝学界の基本ルール〟を墨守する考古学者を一方的に責めるのは酷というものであり、むしろ日本社会において〝学界の基本ルール〟を変えることができない、対等に渡り合えない、圧倒的な少数意見(社会的非力)という状況を未だ変えることができないわたしたち古田学派の〝責任(歴史的使命)〟でもあるのです。小笹論稿にはこうした警鐘が通奏低音の如く鳴り響いており、わたし自身にも耳鳴りのように止むことなく鳴り続けているのです。(つづく)


第1783話 2018/11/09

九州王朝と大和朝廷の難波と太宰府

 拙稿「前期難波宮は九州王朝の副都」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)で前期難波宮九州王朝副都説を発表してから十年になりますが、今でも様々なご批判をいただくことがあります。最近でも、〝難波は九州ではない。だから難波に九州王朝の副都などあるはずがない〟という趣旨の批判があることを知りました。
 この種の批判は、わたしが副都説を発表する際に最初に想定したものでした。というよりも、わたし自身が副都説に至る思考の最中に自らに発した問いでもありました。ですから、こうした批判が出ることは当然であり、驚くには及ばないのですが、この種の批判に対してこの十年間に何回も説明・反論してきたにもかかわらず、未だに出されるということに、自らの説明の不十分さを思い知らされました。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えていますので、どのように説明したらこの種の批判に対して効果的かを考えてみました。
 ちなみに今までは次のように説明してきました。

①九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であれば自らの支配領域のどこに副都を置こうが問題はない。
②中国や朝鮮半島諸国・渤海国には副都(複都)を置く例があり、むしろ複都を持つことが当然のようでもある。従って九州王朝(倭国)が副都を置くのは当然でもある。
③新羅の例では、かつての敵地(百済)に副都を置いている。従って、九州王朝が難波に副都を置いても不思議とはいえない。
④『日本書紀』天武紀に信州に「都」を置こうとした記事があり、古田先生はこの記事を九州王朝の「信州遷都計画」とされた。従って、古田説支持者であれば、信州よりも九州に近い難波に九州王朝が副都を置くことはありえないとは言えないはずである。もちろん、学問研究である以上、古田先生と異なる説を唱えることに何も問題はない。わたしの副都説も古田先生の見解とは異なるのであるから。

 以上の説明では納得していただけない方があるため、わたしは新たに次の説明を加えることにしました。

⑤近畿天皇家は列島の代表王朝となった大宝元年に『大宝律令』を制定し、九州島支配のため「大宰府」を置き、難波には摂津職を置いた。
⑥〝福岡県太宰府市は大和(奈良県)ではない。だから大和朝廷が福岡県に大宰府を置くはずがない〟という批判は聞いたことがない。
⑦同様の理屈から、摂津難波に九州王朝が副都を置いたとする説に対して〝難波は九州ではない〟などという批判が成立しないことは当然であろう。
⑧大和朝廷が『大宝律令』に基づき、筑前に「大宰府」を置き、難波に摂津職(後の難波副都)を置いたように、九州王朝が九州王朝律令に基づき太宰府に都を置き、難波に副都(摂津職)をおいたとしても何ら不思議ではない。
⑨大和朝廷は九州諸国を監督する「大宰府」を筑前に置くことができるが、九州王朝は摂津難波に副都を置くことはできないとするのであれば、その理由の説明が必要。

 以上のような新たな説明を考えてみました。これなら理解していただけるのではないでしょうか。もし納得していただけないとすれば、どのような説明が必要なのか、わたしはあきらめることなく考えてみます。〝学問は批判を歓迎する〟のですから。


第1746話 2018/09/05

「船王後墓誌」の宮殿名(6)

 古田先生が晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていたことを説明しましたが、わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを2012年の「洛中洛外日記」444話に記していますので、抜粋転載します。

【以下、転載】
第444話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 (前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。
 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)
 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】

 7世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、7世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。
 古田史学を支持する古田学派の研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたち(「弟子」)に語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。

〈注〉「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。「論証よりも実証を重んじる」という研究方法に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため繰り返し付記します。


第1743話 2018/09/03

「船王後墓誌」の宮殿名(5)

 古田先生は晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を次々に発表されました。その一つに今回取り上げた「船王後墓誌」もありました。今から思うと、そこに記された「阿須迦天皇」の「阿須迦」を福岡県小郡市にあったとする「飛鳥」と理解されたことが〝ことの始まり〟でした。
 この新仮説を古田先生がある会合で話され、それを聞いた正木さんから疑義(正木指摘)が出され、後日、古田先生との電話でそのことについてお聞きしたのですが、先生は納得されておられませんでした。古田先生のご意見は、「天皇」とあれば九州王朝の「天皇(天子)」であり、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないと考えられていることがわかりました。そこでわたしは次のような質問と指摘をしました。

①これまでの古田説によれば、九州王朝の天子(ナンバー1)に対して、近畿天皇家の「天皇」はナンバー2であり、「天子」と「天皇」とは格が異なるとされており、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」もナンバー2としての近畿天皇家の「天皇」と理解するべきではないか。
②法隆寺の薬師仏光背銘にある「天皇(用命)」「大王天皇(推古)」は、7世紀初頭の近畿天皇家が「天皇」を名乗っていた根拠となる同時代金石文と古田先生も主張されてきた(『古代は輝いていた Ⅲ』269〜278頁 朝日新聞社、1985年)。
③奈良県の飛鳥池遺跡から出土した天武時代の木簡に「天皇」と記されている。
④こうした史料事実から、近畿天皇家は少なくとも推古期から天武期にかけて「天皇」を名乗っていたと考えざるを得ない。
⑤従って、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」を近畿天皇家のものと理解して問題なく、遠く離れた九州の「天皇」とするよりも穏当である。

 以上のような質問と指摘をわたしは行ったのですが、先生との問答は平行線をたどり、合意形成には至りませんでした。なお付言しますと、正木さんは福岡県小郡市に「飛鳥浄御原宮」があったとする研究を発表されています。この点では古田説を支持されています。(つづく)


第1724話 2018/08/19

鬼面「鬼瓦」のONライン

 9月9日(日)の大阪市(i-siteなんば)での『発見された倭京』出版記念講演会で、新たにわたしが取り上げるテーマに〝鬼面「鬼瓦」のONライン〟があります。古代において異彩を放つ大宰府政庁出土の鬼面「鬼瓦」(大宰府式鬼瓦)の変遷と近畿天皇家(大和朝廷)の藤原宮・平城宮の「鬼瓦」の変遷に、701年(ONライン)における王朝交代の痕跡が見て取れるというテーマです。
 大宰府式鬼瓦と呼ばれている国内最古の鬼面「鬼瓦」は、その立体的で迫力のある鬼の顔が九州歴史資料館の「展示解説シート」では次のように紹介されています。

 「眉は炎のように吹き上がり、つり上がった大きな眼は飛び出さんばかりで、鼻は眉間にしわを寄せ小鼻を丸くふくらませながら、どっしりと構えていて、咆哮するように開いた口には、鋭い牙と四角い歯が並んでいます。そしてこの忿怒の相においては、骨格や筋肉の動き、皮膚の伸縮までが意識されて、各部分が有機的に連動しながら、ひとつの表情をつくり上げています。この立体感や迫真性は、平面的図案的な同時代の鬼瓦とは異質で、むしろ忿怒形の仏像の面部に通じています。原型の制作には、仏工の関与が想定されます。」

 このように紹介され、「迫力ある大宰府式鬼瓦の造形は、古今東西の鬼瓦の中にあって孤高のものです。」と指摘されています。
 この大宰府式鬼瓦はⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式と区分され、Ⅰ式が最も古く、Ⅲ式が新しいと編年されています。いずれも奈良時代のものとされていますが、Ⅰ式が最もその芸術性が高く、新しくなるに従い次第に洗練が失われていきます(編年については九州王朝説に基づく再検討が必要)。Ⅰ式は主に大宰府政庁や水城・大野城・筑前国分寺・筑前国分尼寺・怡土城などの遺跡から出土しています。大宰府式鬼瓦は北部九州を代表する鬼瓦であり、筑前以外からも出土例があります。
 他方、近畿天皇家の王宮である藤原宮の鬼瓦は鬼面ではなく、曲線の文様があるだけです。平城宮では初期の鬼瓦は鬼の身体全体が平面的に表されており、大宰府式鬼瓦とは比較にならないほど迫力のないものです。その後、時代が下がるにつれて「鬼面」となり、徐々に立体的な表現に発展するのですが、それでも大宰府式鬼瓦ほどの芸術性や迫力は見られません。
 これらの鬼瓦は王朝を代表する宮殿の屋根を飾るものであり、太宰府と大和の鬼瓦の迫力の差は従来の近畿天皇家一元史観では説明が困難です。ところが九州王朝説の視点からこの状況を考えると、次のようなことが言えるのではないでしょうか。

①670年頃に造営された大宰府政庁Ⅱ期の宮殿の鬼瓦は倭国を代表する九州王朝にふさわしい芸術性あふれるものである。当時の太宰府にはそうした王朝文化を体現できる優れた芸術家や瓦職人がいた。
②他方、7世紀末頃には事実上の日本列島ナンバーワンの実力を持つに至った近畿天皇家は、大規模な藤原宮を造営できたが、王朝文化はまだ花開いてはいなかったため、貧素な鬼瓦しか作れなかった。
③王朝交代した701年以降の近畿天皇家は九州王朝文化を徐々に吸収し、「鬼」を表現した鬼瓦を造れるようになったが、その芸術性が高まるのには数十年を要した。
④王朝交代後の太宰府や九州においては、その繁栄に陰りが見え、大宰府式鬼瓦も次第に洗練度が失われていった。

 以上のように九州王朝から大和朝廷への王朝交代という多元史観によれば、鬼面「鬼瓦」の変遷がうまく説明できるのです。このことを講演会ではパワーポイント画像を交えて説明します。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。


第1706話 2018/07/15

大宝建元の真実と建元の論理

 わたしは「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』古田史学の会編・明石書店)において、次のように所功さんの論稿を批判しました。

【以下、転載】
 「建元」と「改元」の論理
 面白い本を読みました。所功編『日本年号史大事典』(平成二六年一月刊、雄山閣)です。所さんといえばテレビにもよく出られている温厚で誠実な学者ですが(その学説への賛否とは別に、人間としては立派な方だと思っています)、残念ながら大和朝廷一元史観にたっておられ、今回の著書も一元史観に貫かれています。しかし、約八百頁にも及ぶ大作であり、年号研究の大家にふさわしい労作だと思います。
 〈中略〉
 同書中、わたしが最も注目したのが「建元」と「改元」の扱いについてでした。まず、所さんは我が国の年号について次のように概説されています。
 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)
 すなわち大和朝廷最初の年号を意味する「建元」が「大化」とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と理解されています。そして、具体的な年号の解説が「各論 日本公年号の総合解説」(執筆者は久禮旦雄氏ら)でなされるのですが、その「大宝」の項には次のような「改元の経緯及び特記事項」が記されています。
 「『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。」(一二七頁)
 この解説を見て、失礼ながら苦笑を禁じ得ませんでした。『続日本紀』の原文「建元(元を建てて)」を正しく紹介した直後に「建元(改元)」と記されたのですから。いったい「大宝」は建元なのでしょうか、それとも改元なのでしょうか。原文改訂の手段としてカッコ書きにすればよいというものではないと思うのですが。
【転載終わり】(27〜28頁)

 「建元」とはある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます(より正確に言えば、中国では前王朝からの「禅譲」を受けたとする次王朝の最初の年号制定は「改元」と表現されます)。日本国(近畿天皇家の王朝)でいえば、「建元」は『続日本紀』に記された大宝元年(701)であり、以後、現在の平成まで「改元」が繰り返されています。この単純自明の理屈「建元と改元の論理」に基づき、所さんの著書を批判したものですが、今年発行された所功さん等(久禮旦雄さん・吉野健一さん)の新著『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)では、この『日本書紀』の“大化改元”と『続日本紀』の“大宝建元”の解説が“「大宝」建元の画期的意義”の項で次のように変更されているのです。

 「そこで、文武天皇五年(七〇一)三月二十一日、『対馬嶋より金を貢』したことにして、それを祥瑞とみなし『元を建てて大宝元年と為された』(『続日本紀』)。ここに『元を建て』と記すのは、単に改元するというだけではなく、従来断続的であった年号を、新たに制度化して永続させるスタートに立ったことを意味する。」(65頁)

 このように『続日本紀』の「大宝建元」記事の新「定義」として、「単に改元するというだけではなく、従来断続的であった年号を、新たに制度化して永続させるスタートに立ったことを意味する。」を提示されています。これはかなり苦しい強引な解釈と言わざるを得ません。もしこのような「定義」が正しいとされるのであれば、たとえば中国史書における「建元」に同様の使用例があることを史料根拠として提示することが学問研究としては不可欠でしょう。
 今回の所さんの「大宝建元」の「定義」は、近畿天皇家一元史観を「是」と先に決めてから、それにあうように近畿天皇家が編纂した史書の史料事実を解釈するという手法です。所さんは皇室を敬愛されるがあまり、学問として古代史料を見る目が曇られたと言っては、高名な碩学に対して失礼でしょうか。(つづく)


第1631話 2018/03/24

『発見された倭京 太宰府都城と官道』発刊

 「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』が明石書店から発刊されました。「古田史学の会」2017年度賛助会員へは明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員は書店やアマゾンでお取り寄せください。「古田史学の会」でも会員特価販売しますので、注文方法等については『古田史学会報』4月号をご参照ください。
 ご参考までに、同書「巻頭言」を転載します。

〔巻頭言〕
真実は頑固である
      古田史学の会・代表 古賀達也

 「真実は頑固である」。恩師、古田武彦先生が生前に語っておられた言葉だ。その意味するところは明確である。いかなる権力者であっても、あるいは学界の権威とされる学者であろうとも、歴史の真実を隠し通すことはできない。失われたかに見える歴史の真実は、姿や場所を変えながらも、時を得て、人々の眼前に復活する。古田先生はかたくそう信じておられた。わたしも信じている。
 たとえば、『日本書紀』。養老四年(七二〇)に近畿天皇家が自らの歴史的正統性を宣言した「史書」だ。いわく、わが王朝は天孫降臨に淵源を持ち、初代の神武天皇は奈良の橿原宮で天下に君臨した、とする。しかし、その内実は先在した九州王朝(倭国)の存在を隠し、自らが神代の時代から日本列島内唯一無二の王朝であるという歴史造作の「史書」であった。この歴史の真実を隠蔽した「史書」の目的は達成されたかに見えた。その歴史観が千数百年の永きにわたり日本古代史の「真実」とされてきたからだ。
 それでも、真実は頑固である。古田武彦という希代の歴史学者の登場により、『日本書紀』が隠し通そうとした九州王朝(倭国)の真実の姿が明らかにされたのである。そして、古田先生が没した翌年の二〇一六年、九州王朝の都(太宰府)を防衛する巨大羅城(筑紫土塁)がその片鱗を現した。当地では平野部を横断する水城、国内最大の山城である大野城を始め基肄城や阿志岐山城の存在が知られていた。いずれも太宰府防衛のための軍事施設である。これだけの巨大防衛施設群に囲まれた都城は、日本列島内では太宰府だけだ。もちろん、近畿天皇家が居した大和からは、このような巨大防衛施設は発見されていない。太宰府が九州王朝(倭国)の首都であることを、これら巨大遺跡は示し続けていたのだ。そして今回の筑紫土塁の出現は、歴史の真実を隠し通すことは不可能であることを改めて示したものといえよう。
 他方、人間はときに愚かである。九州王朝実在の歴史的証言者たる筑紫土塁は、こともあろうに九州王朝の末裔ともいえる当地の行政(筑紫野市)により破壊される運命となった。わたしたちは歴史の証言者(筑紫土塁)を護ることができなかった。真実を愛する後世の人々に対して、このことをわたしたちの世代は恥じねばならず、土塁を築いた古代の筑紫の人々に対して詫びなければならない。無念である。
 しかし、それでもいう。真実は頑固である。破壊された筑紫土塁になり代わって、その存在と土塁が護ろうとした九州王朝(倭国)の都、太宰府都城の真実を解明し、後世に語り継ぐべく、一冊の書籍をわたしたちは世に残した。それが本書『発見された倭京 太宰府都城と官道』である。本書には「古田史学の会」の研究者により著された「太宰府新論」とも言うべき論稿を収録した。それは従来の大和朝廷支配下の一地方都市としての「大宰府」論ではない。日本列島の代表者として紀元前から七世紀末まで中国の歴代王朝と交流した九州王朝(倭国)の首都としての太宰府の真実を明らかにするべく著された研究論文群である。
 更に、その太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道に関する先駆的かつ秀逸の論稿も収録し得た。これら多元的古代官道研究の進展により、九州王朝研究の裾野は広がりを持ち、その権力範囲や統治機構についても立体的に把握することが可能となるであろう。
 この真実の歴史の証言である一冊を、現代と後世の古代史ファンと研究者に贈りたい。そして、「真実は頑固である」との古田武彦先生の言葉が“嘘”ではなかったことを読者は知るであろう。わたしたち多元史観・古田学派の研究者は、これからも真実に頑固であり続けたいと願っている。(平成三十年一月二八日、筆了)

〔追補〕「太宰府」の表記については、現地地名の「太宰府」と『日本書紀』の「大宰府」があるが、本書においては、どちらの表記を使用するかは各執筆者の判断に委ねた。古田学派としては、古田武彦氏の使用例に倣い、九州王朝(倭国)の都を意味する場合は「太宰府」を用いることが慣例である。


第1626話 2018/03/12

九州王朝の高安城(6)

 『日本書紀』天智6年(667)条の記事を初見とする高安城ですが、次の記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見えます。

①「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」天智六年(667)
②「天皇、高安嶺に登りて、議(はか)りて城を修めんとす。仍(なお)、民の疲れたるを恤(めぐ)みたまいて、止(や)めて作らず。」『日本書紀』天智八年(669)八月条
③「高安城を修(つく)りて、穀と塩とを積む。」『日本書紀』天智九年(670)二月条
④「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条
⑤「天皇、高安城に幸(いでま)す。」『日本書紀』天武四年(676)二月条
⑥「天皇、高安城に幸す。」『日本書紀』持統三年(689)十月条
⑦「高安城を修理す。」『続日本紀』文武二年(698)八月条
⑧「高安城を修理す。」『続日本紀』文武三年(699)九月条
⑨「高安城を廃(や)めて、その舎屋、雑の儲物を大倭国と河内国の二国に移し貯える。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
⑩「河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大倭国の春日烽とを置き、もって平城に通せしむ。」『続日本紀』和銅五年(712)正月条
⑪「天皇、高安城へ行幸す。」『続日本紀』和銅五年(712)八月条

 以上の高安城関係記事によれば、白村江戦(663)の敗北を受けて、近江朝にいた天智により築城され、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代が起こった大宝元年(701)に廃城になったことがわかります。こうした築城と廃城記事の年次が正しければ、次のことが推測できます。

①九州王朝が難波に前期難波宮(副都)を造営したとき、海上監視のための施設を高安山に造営しなかった。
②このことから、三方が海や湖で囲まれている前期難波宮の地勢のみで副都防衛は可能と九州王朝は判断していたと考えられる。
③すなわち、前期難波宮では瀬戸内海側からの敵勢力(唐・新羅)侵入を現実的脅威とは感じていなかった。あるいは前期難波宮造営当時(白雉年間、伊勢王の時代)は唐や新羅との対決政策は採っていなかった。
④白村江戦の敗北後に金田城・屋嶋城・高安城を築造したとあることから、その時期(白鳳年間、薩夜麻の時代)は唐・新羅との対決姿勢へと九州王朝は方針転換していたと考えられる。この白雉年間から白鳳年間にわたる九州王朝(倭国)の外交方針(対唐政策)の転換については正木裕さんが既に指摘されている(注)。
⑤文武天皇の時代になっても高安城は修理されていたが、王朝交代直後の大宝元年に廃城とされていることから、近畿天皇家は高安城による海上監視の必要性がないと判断したと考えられる。しかも、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼失しており、守るべき「副都」もこのとき難波には無かった。
⑥廃城後の高安山には「烽」が置かれていたが、それも廃止され、他の「烽」に置き換わった。このことから、海上監視よりも連絡網としての「烽」で藤原京防衛は事足りると大和朝廷は判断したことがわかる。

 以上のような推論が可能ですが、そうであれば高安城は九州王朝系近江朝により築城され、701年に王朝交代した大和朝廷により廃城されたとする理解が成立します。これ以外の理解も可能かもしれませんが、現時点ではこのような結論に至りました。(了)

(注)正木裕「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」『多元』一四四号(二〇一八年三月)